修羅

 どら息子……福井照彦ふくいてるひこと朔夜が一緒に歩いていると、女中たちがちらちらと見守る。

 みずほはそれをなんだかなあと思いながら、杏奈と一緒に掃除をする。今日は階段をモップで拭き掃除をし、ときおりバケツにかけている雑巾で部分部分を拭いていく。

 杏奈は「坊ちゃまが昔に戻られたみたいで」と少しだけ嬉しそうにしているので、少なくとも朔夜が現れたことはこの屋敷の人間からしてみれば僥倖なのだろうと思うことにした。

 それにしても。夜に大獄丸の首を呼び出すことにしたと言っていたが、戦う場をどうするのだろうか。

 そもそも大獄丸は、朔夜にご執心の様子だったが。

 みずほは自身の胸元をぎゅっと掴んだ。

 照彦の体を使って胸元を引き裂かれたときは、翌日杏奈に見つかったときは、「また坊ちゃまに!?」と悲鳴を上げられてしまったが、「洋服やぼたんに慣れてないせいで、間違って裂いてしまっただけです!」と必死で誤解を解いたのだ。

 ……大獄丸がみずほを通して、誰かに執着していた。朔夜のような憎悪とは違う、もっと糸を引くほどに粘ついた感情。

 あのときの怖気を思い出して、みずほはモップの柄を握り直して打ち消した。

 あれが自分のなにに執着しているかは、関係ない。どのみち、鬼の首にどうにか対処しない限り、誰かが鬼の首に刷り込みを受けて被害を及ぼす可能性は消えないのだから。

 ──こんなもの、万が一武器として使うなんて言い出したら、とんでもない。こんなもの、人間が御しきれる訳がないだろう。


「みずほさん、ここの掃除が終わったら、あとは二階の掃除をするのだけど……みずほさん、大丈夫?」


 杏奈に気遣われて、みずほは我に返る。彼女はなにも知らないのだから、彼女に気を遣わせてはいけない。

 みずほはにこりと笑みをつくる。


「……いえ、まだ仕事に慣れてないだけで……」

「そう? ……昨日のこと、本当になにもなかったのよね?」


 杏奈は未だに照彦を疑っているみたいだが、彼女の幼馴染は本当になにも悪くないのだから、気にしないで欲しい。みずほは大きく頷いた。


「本当に、昨日はなにもありませんでしたから」

「そう……」


 まだなにか杏奈は言い募ろうとしたものの、それを「みずほちゃーん」と間延びした声をかけられ、みずほはこんなときに話しかけてこなくてもと、声をかけてきた照彦のほうに振り返った。


「はい、坊ちゃま。どうなさいましたか?」

「ちょーっと出かけるんだけどさあ。付き合ってくれない? うちの用心棒と一緒にさあ」


 朔夜のほうをくいっと指を差すので、瞬間的に理解した。

 ……大獄丸との戦いのために、屋敷から離れるつもりなのだろう。なにも知らない杏奈は、少しだけむっとした顔で、みずほの前にモップと手を広げる。


「坊ちゃま、来たばかりのみずほさんと外出なんて、どういう風の吹き回しですか」

「えー……杏奈ちゃんが考えてるようなことなんて、なにもないんだけどぉ? それに用心棒連れてくって言ってるでしょ」

「ほんっとうになにもございませんね? 女中頭に外出の報告をしてもよろしいですね?」


 照彦の最も苦手としている女中頭のことを上げるのだから、よっぽど杏奈の腹に据えかねたのだろうが、照彦は頼りないなりに、きちんと義理は果たすつもりらしい。


「ほんっとうになにもないんだってば! 女中頭に言いたきゃ言えよ! あ、親父様に言うのはなしな」

「なんででございますか!?」

「うーんとぉ、まあ。いろいろ?」


 杏奈は本当に胡散臭い目で見ていたが、最終的には女中頭にみずほの外出を取り計らってくれた上に、みずほの手を握って心配してくれた。


「本当に、危ないと思ったら逃げてね?」

「大丈夫ですよ。杏奈さん、本当になにからなにまでありがとうございます」


 みずほはぺこりと頭を下げると、女中室で着替えた。

 エプロンを解き、ワンピースを脱ぐと、いつもの地味な着物を着て、袴を合わせた。ひとつにまとめた髪を解くと、いつものようにリボンを飾り結びにして留める。

 もし退魔師として生きるならば、ずっと胴着姿でもよかっただろう。女学生の真似事をしても、みずほは決して本物の女学生にはなれないのだから。

 これは彼女の中での戦闘服であった。自分の守りたいものを体現した。唯一の不安は、今は彼女の得物がないということだった。

 顕明連けんめいれんどころか、霊剣を仕込んだ日傘すらないのだから、簪だけで対処しなければならないのだが。

 屋敷の玄関には、既に馬車が着けられていた。

 中にはガタガタ震えている照彦と、悠然としている朔夜がいる中、みずほは一緒に乗った。

 馬車はガタリガタリと走りはじめた。


「これから、どちらに向かいますか?」

「坊ちゃんの家の私有地だと。まだなにも建ててないから、そちらだったらどれだけ壊れても問題ないからと。そうだったな?」


 朔夜が照彦に尋ねると、がくがく震えたまま、照彦は首振り人形のように頷く。

 あまりにもの脅えように、なにかあったんだろうかと眉を下げてみずほは朔夜を見ると、朔夜は平然と言う。


「坊ちゃんの首を狙いに来るだろうから、迎え撃つと言っただけなんだがなあ。なんせ、あちらも首だけだから、首より下が欲しいだろうからな。祓ったとは言えど、長いこと思念を刷り込まれていた坊ちゃんは大獄丸と相性がいいだろうからなあ」

「そんな、怖がらせてどうするんですか……! だ、大丈夫ですよ、私たちが守りますから。ねっ?」

「大獄丸は首だけでも厄介だからなあ。もし胴体を見つけてきたら、俺も少々骨が折れるんだがなあ」


 そうのんびりと言う朔夜を、みずほは怪訝な顔をしてみせた。彼の力は本当にでたらめなのだから、彼が駄目だったら、自分だともっと手に負えないんだが。

 そこまで考えて、みずほはかぶりを振った。

 退魔師は自分のほうであり、いつの間に朔夜を頭数に入れているのか。たしかに自分だと四鬼の一体を相手取るのが精一杯であり、四体同時に相手をするのは無理だ。朔夜は平然と四鬼のうちの三体と戦えるほどの剛の者だが。それでも。

 彼だけに頼ることは、できない。


****


 馬車で走ること、一時間。

 そこは人気のない、だだっ広い茂みであった。

 馬車には「ちょっとここで友達と遊ぶから、先に戻っておいて」と金を握らせて帰らせた。


「ここは……?」

「親父様がこの辺りに古美術好きの集まる別荘をつくりたかったらしいけど、もろもろで頓挫して、土地が浮いてるんだよ。この土地を欲しいとか借りたいとか言う輩もばんばん出てきたけど、用途が工場だったり愛人囲う家だったりして、親父様の趣味じゃねえからずっと断り続けている」

「なるほど……?」


 小福屋の社長に悪評が立ちまくっているのは、どうも土地を売ってもらえなかった人間に嫌がらせで悪評をばら撒かれ、土地の価値を下げようとされているらしかった。金儲けが一番の趣味の社長からしてみればたまったものではない。

 朔夜はいつの間にやらスーツ姿から衣冠姿に切り替えると、空を仰いだ。


「……厄介なもんだなあ」


 いつものようにのんびりと言う。

 みずほは髪に仕込んでいる簪を一本引き抜くと、掌に握り込む。そのときだった。

 茂みが風もないのにざわついた。


「ひ、ひぃ……っ!」

「坊ちゃま、私の後ろに下がってください!」

「う、うん……」


 照彦は膝が笑ってまともに立つこともできず、そのまま四つん這いになってみずほの後ろへと回った。

 そのときだった。

 朔夜は背中の直刀を引き抜く。

 火花が、散った。


「……貴様、俺を呼び出すとは、いったいどういう了見だ?」


 唸るような声は、聞き覚えがある低音。

 それは昨晩、照彦から出た、出るはずもない声だった。

 朔夜は「ふん」と鼻息を立てた。


「寝てればいいのに、貴様が勝手に起き上がっただけだろう。もうお前さんみたいな奴を、何体も相手してるんだよ」


 そう朔夜が吐き捨てた先にいたのは。

 伸びっぱなしの髪は白く、癖がついてうねっていた。肌は赤銅色で、目は鋭い金色。失った胴体は、おそらくは仏像のような隆々とした筋肉を誇っていたのだろう。首は太く、下からは白骨が見えるような気がする。

 彼を見た途端に、再び照彦が歯をガチガチと鳴らしはじめたのを見て、みずほは袖を広げた。


「目を合わせないでください。坊ちゃまは一度目を合わせて思念を刷り込まれてしまっていますので、再び刷り込まれるおそれがあります」

「う……わかってるよ……というより、みずほちゃんは刷り込まれない訳?」

「わかりません」


 みずほは大獄丸を見たときに感じたのは、今までどんな魑魅魍魎と対峙したときにも覚えなかったものだ。

 さんざん嘲られたこともあるし、凶悪過ぎるものと対峙して、筋肉が凝り固まったときもあったが。

 大獄丸と対峙した途端に、みずほはわずかに歯が鳴ったのだ。これは畏怖ではない。


──気持ち悪い。不愉快だ。ああ、不愉快だ、不愉快だ


 昨晩、みずほの脳裏に浮かんだ言葉と全く同じものだった。

 生理的嫌悪。

 今まで、虫のような形の魑魅魍魎とも、醜悪な姿の魑魅魍魎とも、得体の知れない化け物の姿の魑魅魍魎とも対峙してきたが、こんな感情が生まれたのは、初めてだった。

 彼女の表情が強張っているのに気付いたのか、大獄丸はせせら笑う。


「……久々に会ったなあ……またまやかしを使っておるが」

「なに、訳のわからないことをおっしゃってるんですか……」


 気持ち悪い。話しかけられたくない。あの糸を引くような粘りを帯びた声に、みずほは返事をすることすら自己嫌悪に陥る。

 みずほの前に、朔夜が立つ。


「我が妻よ、あれが苦手ならば、わざわざ見る必要はない。あれの用は俺のはずだからなあ」


 朔夜の声に、みずほは心底ほっとする。

 まるで蜘蛛の巣にでもかかったような気持ち悪さは、わずかながらも薄らいだような気がする。

 大獄丸はそれに喉を鳴らして笑う。


「愛いのう、そちは。その小童を屠ったら、今度こそ俺のものにしよう。なに、今代は脆弱よ。すぐに均せるさ」

「……あまり、今代を好き勝手にするな。お前さんはもう一度箱詰めにされて宝蔵にでも入っているのがお似合いだろうさ」

「ほざけ……貴様は今度こそ滅してくれようぞ。体なぞ残さぬ。あくたに還るがよいわ」


 途端に、大気が打ち震えた。

 腰を抜かしている照彦だけでなく、照彦の盾になっているみずほすら、座り込みそうになるほどの、激しい重圧。

 その中、平然と立っている朔夜と、朔夜と対峙している首だけにもかかわらず、存在感を露わにしている大獄丸。


 戦いが、はじまった。

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