第3話 重なる不運


「ママ、あのワンちゃん、可愛かったね? サチコ、犬がほしくなっちゃった~」 

   

 サチコが欲しがるのも無理は無い。まるでぬいぐるみのようだったからだ。この辺りで犬を飼っているといえば、柴犬か雑種の犬しか見たことが無かった。しかも、サチコは幼稚園児だ。なんでもすぐに欲しがる年頃だ。


「だめよ、サッちゃん。もうすぐお姉ちゃんになるんでしょ?」


 母親に促されて仕方なくうなずくサチコ。しかし、よく考えれば犬より姉妹の方が良いに決まっている。友達の美世ちゃんや良太くんには、それぞれ弟か妹がいて、お互いの中の良さを見せつけられて羨ましく思っていたからだ。


「そうだね、ママ。サチコ、犬もほしいけど、やっぱり弟か妹のほうがいい」

「そうそう。やっぱりサッちゃんはお姉ちゃんネ。もう日も落ちて真っ暗になっちゃったから、自転車に乗るの止めて押して歩こうか? 気をつけて帰ろうネ」


 春先とはいえ、午後の六時を過ぎたら結構辺りは暗くなる。自転車に乗るのは危険だ。所々の電柱に小さな外灯が灯り地面を照らしてくれるが、間隔が広い為薄暗い。

 それと幸いな事に今日は満月だ。満月は季節に関係なく、意外と夜道を照らしてくれる。薄らはかない光だが無いよりはありがたい。月夜が無い夜空はなんだか不気味におぼえてしまう。


「ねぇ、サッチャン。あのお月さまに、ウサギさんっていると思う?」

「いるョ。だって幼稚園の悦子先生が、いっていたもん。満月になるとウサギさんが出てきて、みんなでオモチをつくんだって」


 祐子は声に出して笑いそうになった。しかしここで笑ってはいけない。子供の夢を壊してはいけない。そう思うと余計に笑いをおさえる事が出来なくなるから不思議だ。


「ふふふ、じゃあ今晩もウサギさんが、お餅をついているかしら?」

「まだ、起きたばっかりだから、まだじゃない?」

「あははっ、寝てたのか……」


 子供ってホントに面白い。祐子は微笑みながらそう思った。自分も幼い頃、そう思っていたのだろうか。 

 しかし満月ってなにか神秘的だ。満月に赤ちゃんが生まれやすいし、満月に生まれた人は、又満月に亡くなってしまう。という話を聞いた事がある。ホントかどうかは知らんけど……。


 そうこうしている内に、道の曲がり角にさしかかった。先程の信子の車が見える。この角を曲がって、坂を下れば家はもうすぐ。


「あっ、さっきのおばちゃんの車だ~」


 車を見つけると、サチコは自転車を押しながら走っていった。又あの犬が見えるかも知れないと思い車の窓越しに中をのぞいて見る。暗くてよく見えない。犬の反応も無い。


 いないのかなぁ~? と思いながら、車の窓をコンコンと軽くたたいてみた。


 すると、サチコに気がついたのか車の中からワンワンと声が聞こえる。


 やった~居た。又あの犬が見える。そう思ったサチコはうれしくなった。

 しかし、この暗闇の中いくら外灯とお月さまが照らしてくれても、車の中までは灯りが届かない。車の中の犬が見えない事に苛立ちを感じ始めたサチコは自転車を置き、車の周りを回りはじめた。


 しかし、外から中は見えなくても中から外はよく見えていた。車の中に置き去りにされていた犬は、サチコの存在に気がつくと、気配のする方へと体を移動しワンワンと鳴いていた。


 一方サチコは、声はすれども姿は見えぬ相手に苛立ちと諦めを覚えていた。


「どぉ、サッちゃん。ワンちゃん見えた?」


 祐子の問いに首を振るサチコ。


「だめだょ、ママ。この犬って、まるでオナラみたい」

「えっ、オナラってどんな意味?」

「だってパパが前に言ってたょ。声はすれども、姿は見えぬ。ホンにお前はのような! って。だからこの犬はオナラ」

「あははっ……。サッちゃんそれ、最高。ふふふっ……」


 祐子は思わず大笑いした。本当に子供って親の言葉をよく覚えている。しかも例えがうまい。


「じゃぁ、帰ろうね?」


 先程のサチコの言葉に、まだ笑いの余韻が残っている。

 パパが帰ったら今日の事、教えてあげなくっちゃ。そう思いながら、サチコを促した。


「うん。帰ろう。バイバイ、ワンちゃん」


 車に向かってさよならを告げると、自転車にまたがって坂を下っていった。


「だめよサッちゃん。暗いから自転車を降りて。危ないから」


 慌ててサチコの後を追いかける祐子だったが、子供とはいえ自転車には中々追いつけない。しかもこれから緩やかな下り坂だ。

 




 一方、車に取り残された犬は、寂しさの為か狭い車の中をワンワンと鳴きながら走り回っている。軽いパニック症である。その時何かにぶつかった。


 


 機械的な音がする。サチコや祐子の声がしだいに遠のいていく。車の中では相変わらず犬が走り回っている。





 この穏やかな坂を下れば、我が家はもうすぐだ。田園地帯の中、道路の左端に見える小さな我家。もう後百メートルぐらいの所で、やっとサチコを捕まえた。


「もう、サッちゃん。本当に危ないから、自転車から降りてちょうだい」


 母親に促されて、仕方なく自転車を降りるサチコ。本当はまだ乗っていたい。しかし、大好きな母親に怒られるので仕方なく自転車を押して歩く事にした。


「ねぇママ~今日のおかず、なあに~?」

「サッちゃん、何が食べたい~?」

「サチコはねぇ、ハンバーグか、カレーが食べたいなぁ~」

「じゃあ、今晩はハンバ————」


 祐子の言葉が終わらない内に、祐子は自分のふとももに痛みを感じた。


 痛い! そう感じた瞬間、黒くて堅くて四角い何かに、体をフワリとすくわれ地面に投げ出された。肩を強打し、頭を打った。横になったまま、サチコを懸命に探す。

 しかし、サチコの姿は見つからない。薄れゆく意識の中で、サチコの名前を呼んだ。


「サッちゃんーどこ?————」


 サチコの返事が返らぬまま、祐子の意識が遠のいて行く。遠くでかすかに、犬の鳴き声がしたようだった。運命の歯車が音を立てて大きく外れ、違う方向性へと進んで行く。


 暗闇の中で満月が浮かび、悲しげに辺りを照らしていた。





 ◇ ◆ ◇ ◆




 夢野翔太ゆめのしょうたは営業から会社へ帰ってきた。


 彼は芝松電器の営業部に所属している。芝松電器といえば、家電を製造している大手の電器会社だ。全国に各事業部を持ち、社員は全国合わせて約三万人いる。いわばブランド会社だ。とは言っても、ここはO県。都心と違って地方だから会社の規模は小さい。


 今日も取引先からの受注を取る事が出来なかった。外周りから会社へ着くまで足取りは重かったが、会社へ着くと急に軽やかになった。

      

 しかし、今は午後4時。後もう一時間程で退社出来る。バブルの時代だったなら、自分の思う様に受注を取る事ができた。仕事って、こんなに簡単か。と翔太のみならず、みんな思っていた。造れば売れる。そんな消費の時代はもろくも崩れさってしまった。

                

 今は造っても売れない不況の時代。いくら良いものでも売れないのである。売れないだけならまだしも、そのあおりを受けて給料がカットされてしまった。給料が減っては、たまったものでは無い。当初はみんな頑張った。しかし、頑張り=給料アップという方程式は成り立たないのが悲しい現実なのだ。

 

 特に営業の世界では、主にコネ、センス、能力等が揚げられる。翔太も例外の一人ではなかった。特に目立った成績は上げられなかったが、月末になると不思議とノルマぎりぎりの受注を取ってくる。

 俺にはこの世界は合ってないのかなぁ? とそんな疑問も自ら湧いてくる。しかし、翔太ももう三十五才だ。転職の機会はギリギリかもしれない。


 しかし、そんな翔太にも希望がある。三ヶ月後の全社員対象のコンペ。夢の電化製品企画提案プレゼンテーションが待っているからだ。実現すれば、給料アップはもちろん昇進は決まっている。誰もが入賞を夢見て希望の火を灯している。通常の業務も手に付かない者までいる始末だ。


 翔太も色々と考慮したあげく、おおむねのコンセプトをまとめ、発表資料の制作段階までこぎ着けた。だから外回りをしている時は足取りが重くても、会社に帰るとプレゼンの事を考える為、浮き浮きしてくるのだ。


 会社の自分の机の前に座ると、今月切りの受注の報告書を書かなくてはいけない。今月はノルマの半分しか取れてない。まあいいや、ノルマどころでは無い。しかし、報告書は出さねばならない。矛盾した考えを覚えながら資料を机の上に広げる。


「あれ、大谷デパートの家電コーナーの見積書が無い。確かにカバンの中に入れたつもりだったのに……。おかしいなぁ?」


 退社まで後一時間しか無い。早く帰ってプレゼンの下準備をしたいのに。時間が無いと諦め、今日回った大谷デパートに電話を入れてみた。


「もしもし、大谷デパート様ですか? お世話になっております。私、芝松電器の夢野と申しますが……」


 電話でのやり取りで、書類を忘れて帰ってきた事に気がついた。

 何やってんだ。しょうがない、取りにいくか?


 そう思いながら電話の対応をして受話器を置いた。


「今日の退社は、七時過ぎか?」


 そう呟きながら会社を後にして、得意先の大谷デパートに向かった。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る