昆虫世界の章

第1話 目覚め


 一方、天上界から下界へとサチコの魂は送られた——。


 サチコの魂はやがて覚醒し、大いなる試練が始まろうとしていた。

 




 ある朝、サチコはもの凄い喧騒けんさいの中で目覚めた。ブーンと言う大きな音。激しい騒音。体中に響く重低音。まるで飛行機が近くを飛んでいるかの様だった。


 うるさいなあー。一体此処は何処? サチコは目を覚まして辺りを見た。


 思いっきり狭い穴に入っているようだ。やっとの思いで、その穴から出て見ると、騒ぎの原因が分り気絶しそうになった。

 

 虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫、虫ハチ、ハチ、ハチ、ハチ、ハチ、ハチ、ハチ、ハチ。辺り一面、虫だらけなのである。試しに自分の手足を見てみた。自分も他同様、同じ格好をしている。ハチだー。堪らず声が出た。


「ぎやぁ——。いやだぁーこんなのいや――——」


 サチコはたまらず叫んでいた。生前から虫は嫌いであったからだ。その自分が虫になっている。正確に言えばミツバチだ。ショックで泣き叫び、気を失いそうになる。


 やがて茫然とするサチコの脳裏へ、何者かが語りかけてきた。


『サチコよ——』

「だれ、だれなの?——」

『私です。解りますか?』

「あっ、神官様。私、こんなのいやだぁ——!」

我が儘わがままを言うものでは有りません。それより、私の話をしっかり聞くのです。アナタの母親は倒れてしまいました。アナタを失ったショックで拒食症になったのです。つまり、何も食べる事が出来なくなったのです。何も食べられないと、どうなりますか?』

「なにも食べられないと、お腹が空いて死んじゃう……」 

『そうです。だからアナタの助けが必要なのです』

「どうすればいいの?」

『ミツバチとなったアナタは、母親の為に蜂蜜を集めて下さい。アナタの住んでいた家の台所を、毎日少しだけ開けておきます。そして、生前アナタが良く遊んでいた人形のコップに蜜を集めて下さい。その人形のコップが蜜で満たされたら、私の力でアナタの母親の病気を治してさし上げましょう。猶予は六十日です。解りましたか? 

 では、頑張って下さい。神様の御加護が有ります様に——』


 そう言い終えると、神官の声は消えてしまった——。




 又、ブーンと云う羽を擦り合うもの凄い音が、この空間に木霊こだまする。


「ママ、まっててね——」


 しかし、どうすれば良いのか分からずサチコは困っていた。何処に行けば良いのか?

 又、どうやって花の蜜を集めるのか? 分からない。分るはずもない。ここは人間の世界じゃない、虫の世界だ……。


 思い切って近くのハチに尋ねた。


「ねぇ、みつを集めるのは、どうしたらいいの?」


 するとそのハチはサチコをジロジロ見ていた。やがて、サチコに向かって言った。


「はんー、なによ。さっきから騒がしいわよ。アナタ一体誰よ? ははん、さては新成虫ね?」


 誰と言われても、どう説明すれば良いのか解らない。サチコは答えようとした。

 

「わたしはサ、チ————」


 サチコの言葉が終わらない内に、そのハチはひれ伏した。


「申し訳有りません。名の有るお方だとは思いませんでした。どうかお許しを……」


 どうやらこのハチの世界では、名前をみんなが持っていないらしい。名前を持っているのは、限られた者しかいないのだ。なぜならハチの家族は、何百~何万と居て、いちいち名前があっては、とても覚え切れないのだ。


 当然働きバチには名前が無く、女王バチか、側近の者しか名前が与えられない。先程のハチも、サチコが自分の名前を言った為、勘違いをした様だ。


「ゆるすもなにも、いろいろおしえてちょうだい」

「はは——。何なりと……」


 どうやらこのハチは、畏縮いしゅくしている様だ。サチコはこのハチから、色々な事を学んだ。


 この巣には、約一万匹のハチがいる中堅クラスの巣でこれから栄ようとしているという事。そのほとんどが雌のハチで、雄ハチは数十匹しか居らず、その雄ハチは働きもせずに遊んでいる事など。

 本来、卵からかえった新成虫には色々な事を覚える為、色々な係りを順番に担当して、この巣の繁栄に貢献する事などを——。


 色々な係りとは、おおむねこうだ。


 羽化した新成虫→巣穴の掃除係り→幼虫へのエサ係り→蜜や花粉の受け取り貯蔵係り→巣作り係り→乾燥係り→番兵→蜜花粉の収穫係り。という訳だ。多少前後する。


 順番としては、サチコはまだ羽化した新成虫でしかない。蜜を集めるまでは、まだ多くのステップを踏まなければならない。しかし、そんな余裕などサチコには無い。一刻も早く、生前の自分が遊んでいた人形のコップに蜜を満たさなければならないのだ。説明を聞いてサチコは焦っていた。


「ねぇ、おねがい。わたしには時間がないの。はやくとぶ事と、みつをとる事をおしえて?」


 すがるサチコに、一匹のハチは困惑していた。しばらく考えると大きくうなずいた。


「解りました、サチ様。私で良ければ、アナタ様のお世話係りとして働きますので…。

 ですから、どうか私に名前を授けて下さい」


 名前を付けろ。と言われても、どう付けたら良いのか、サチコは困惑していた。


 生前、幼稚園で友達の良太がサチコの仲間にあだ名を付けていたのを思い出した。

 確か、良太はあだ名を付けるのが上手かったと思う。その人の特徴を見定め、嫌がおうでも、あだ名を刷り込むのだった。しかし、その由来を聞けば、皆は納得するぐらいのセンスと言うべきものがあった。


 サチコはそれを思い出した。側にいる側近になったハチを見定める。よく見ると、そのハチの襟元の白い毛が他のハチよりフワフワなのを見つけた。


「えりもとがフワフワできれいなんで、 エリーっていうのはどうかな?」

「エリー。なんと、——。有り難うございます。大変気に入りました。ささ、私になんなりなと、ご指示を……」

「じゃぁ、エリー。わたしに早くとぶ事とみつを集めることを、おしえて?」


 とても五歳の人間の子供が考え、言える様な言葉では無かった。何か、次元の違う力が大きく働いているようだ。




 エリーと名付けられたそのハチは、サチコに言われるままに共に巣の出入り口に向かった。


 巣の出入り口に来るともう太陽が昇り、辺りを照らしている。そこから外を見るとどうやらこの巣は、高い場所にある様だ。辺り一面見渡せる。下を見ると目眩めまいがして、恐ろしくなる様だ。


 エリーに聞くと、この巣は朽ちたくすのきの中が空洞になっていて、その中にあるらしい。楠の入り口では、沢山のハチ達が忙しそうに動き廻っていた。


「ねぇ、エリーみんな忙しそうだけど、なにやっているの?」

「はい、後で又詳しく説明しますので、此処から離れましょう。彼女達の邪魔になるといけませんので」


 そう言うとエリーは軽く舞い上がりサチコの上にきた。


「失礼します。しばしのご辛抱を——」


 やがて、エリーはサチコを抱え込み一旦は舞い上がり、静かに下降していった。降りた先は巣からあまり離れていない大きな石の上だった。


 エリーは辺りをキョロキョロし、何かを確認している様だった。


「此処なら大丈夫でしょう。さあ、羽根を動かしてみましょうか」


 エリーの指示の元にサチコの飛行訓練が始まった。中々思う様にならない。それでも練習は続く。まず自分自身飛べないと、そこから先へは進めないからだ。


 本来、羽化したばかりの新成虫の体はまだ固まっていない。特に羽根の部分は時間を掛けピンと伸ばしておかないと、飛ぶことすら出来なくなってしまう。サチコは焦っている為、判らないでいるようだ。エリーはそんなサチコを見かねて話かけた。


「どうやら、まだ羽根が伸びきってないようですネ。しばらく休みましょう」


 石の上で羽根を伸ばし、太陽の光を受けて体を休める事にした。


「いいですか、サチ様。私たち虫の世界はとても厳しいのです。色々な敵がいて、隙あれば私達を狙っていますので注意して下さい」

「サチ様って言うより、サチでいいょ。それより敵ってどんなの?」

「まず鳥、次にクモ、カマキリ、カエル、トンボ、アリ、スムシなどは私達を襲いますから、かなり注意して下さい。スズメバチも恐ろしいです。私達と同じハチなのに、私達の巣を襲います。もしも外でヤツラの姿を見かけたら、すぐに見つから無い様に隠れて下さい。でないと、後をつけられ巣は襲われてしまいます。

 後、ごく一部ですが人間にも気を付けて下さい。意味も無く私達を殺そうとする奴もいます」


 サチコに語っているエリーはどこか悲しそうだった。今まで目の前で、多くの同朋どうほうが命を落として来たのを見てきたのだろう。


 どんな生き物にも命がある。ゲームで死ぬとリセットすれば復活出来る。そんな甘い世界では無いのだ。


 エリーの話を聞きながら、サチコは反省している様だった。かつてサチコが人間だった頃、ただ見た目が気持ち悪いと云うだけで多くの虫達を殺して来たからだ。亡くなる日も、庭で母親に怒られた記憶が蘇ってくる。


「ゴメンナサイ……。わたし、エリーの仲間を前に、沢山殺したかも……」


 エリーにサチコの声は届いていない。もし、仮に聞こえていたとしても、そんな話は誰が信用するだろうか。エリーはゆっくり起き上がると振り返りサチコに言った。


「さぁ、もう羽根も十分伸びたでしょう。又、練習しましょうか」

「ハイ、おねがいします」


 すっかり謙虚になったサチコは、エリーの前で羽根を動かした。


 太陽の光を浴びて羽根もすっかり乾き伸びきった様だ。羽根を動かすと、少しずつではあるが体が浮いているのが判る。サチコは嬉しくなった。


「エリー、見て——。わたし、浮いてる——」

「そう、その調子です」


 エリーはサチコの前足を掴むと、一緒に空中へ舞上がった。


「どうです、自分で飛んでみた感想は? 気持ちいいでしょう?」


 エリーに言われなくても最高の瞬間だった。以前自転車のコマ付に初めて乗った時より心が躍っている。


 自分は風になった。そう感じながら飛んでいる。


「エリー、最高……」

「じゃあ、あそこの花まで、一人で頑張ってみましょうか?」


 そう云うと、エリーはサチコの掴んでいた前足を離した。一旦、飛ぶ事を覚えたら後は楽な事だった。


 サチコとエリーは花を目指して飛んで行った。



     

 


                          

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補足:ミツバチの種類。


・ミツバチの種類は二ホンミツバチとセイヨウミツバチです。大きさは12㎜ぐらい。寿命は30~60日と言われています。今回は物語の都合上寿命60日とさせていただきます。養蜂場で蜂蜜を採取するのはセイヨウミツバチがほとんどらしいです。二ホンミツバチは年々減少傾向にあるそうです。農薬やダニによる病害虫が原因とか?

・ミツバチは組織社会。多くの役割分担が分業制となって生活しています。

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