第6話 永遠の別れ



 祐子が事故の詳細を聞かされたのは、サチコが亡くなって日が昇ってからのことだ。

 サチコの遺体と共に夢野夫婦は自宅へ帰ってきた。やがて警察が来て、事情聴取と現場検証を始めたからだ。




 主な詳細はこうだった——。


 あの日、買い物帰りに信子と云う女性に道を聞かれ、道を教えた夢野親子。そして帰り道の途中、信子の乗っていた車を見かけ車中の犬を探すサチコ。

 車はオートマテックでなくミッション仕様だった。車を乗る人なら解ると思うが、オートマなら車を駐車する時、パーキングにギヤを入れないとキーが抜けない。

 もし、仮に坂道でサイドブレーキを引き忘れても車は動かない。


 しかし、ミッション車ならどうだろう?


 今回の信子のケースはミッション車であり、彼女は駐車する時ギヤは必ずバックに入れ、車を駐車する癖があった。今回は約束の時間を過ぎて慌てていた為、うっかりサイドブレーキを引き忘れていた。ミッション車であるがゆえに、ギヤが何処に入っていてもクラッチさえ踏んでいればキーは抜ける。更に極めつけは運転席と助手席の間にあるサイドブレーキ。そのサイドブレーキを引き忘れていたのだ。


 なんと不幸な偶然であろうか。車の中からサチコを気にして走り回る犬。その犬がミッションのギヤに当たり、ギヤが外れニュートラになってしまった。


 更に偶然は続く。車の中を走る犬によって、車の重心は前へ前へと移動する。


 残念な事に車の止めた位置は穏やかな下り坂だった。坂の上に車を止めた位置があともう数十センチ後ろであれば、車は動かなかっただろう。


 まだ更に偶然は続く。動き出した車は、見渡す限りの真っ直ぐな直線道路の下り坂であった。曲道であれば、車は突き当りに進み、やがて脱輪してしまうだろう。


 どこまでも真っ直ぐな道に進む無人の車は、夢野親子を襲ったと云う訳だ。無人であるが故にブレーキも掛からず、止まらない。更にエンジン音がしない無音だから、後ろからの接近に気がつかない。無人だからライトの明かりも灯っていない。


 サチコの乗った自転車は小さくて車高が低い為、車の下に巻き込まれサチコ自身車の下に自転車ごと引きずられ負傷した。と云うのが警察の見解だ。


 しかし理由はどうあれ、亡くなったサチコは二度と帰ってこない。サチコが病院で息を引き取ってから、夜が明けて自宅に帰って来るまで祐子は泣き続けた。体中の水分が涙に変わっているのか。と思うぐらい泣き続けた。





 動かなくなったサチコと共に借家に帰った。暫くすると村田夫婦が訪ねてくれた。


 祐子同様、昨日は眠れなかったのだろう。権蔵と八重子の目は赤く充血し落ち込んでいる。それでも権蔵は葬儀の手配をしてくれて、八重子は食事の準備(ショックで食欲が出ないだろうが、おにぎりとみそ汁)を用意してくれていた。


 こんなに悲しいのに、体は正直だ。食欲は無くても、お腹は減っている。昨日の昼からなにも食べていない。八重子の用意してくれたおにぎりを手にして、一口食べる。人の情けがこんなに温かいものか。と思いながら、もう一口食べる。とたんに涙が溢れ出す。涙はもう枯れてしまったはずなのに。涙が止まらない……。


 おにぎりがしょっぱい。涙の味がする。祐子はたまらず、八重子に抱き付いた。


「おばぁーちゃん――。わたし、私……。うっ、う————」

「うん…うん……」


 八重子は言葉が無く、ただただ祐子を抱きしめ背中をさすった。




 権蔵の手配によって葬儀の準備が始まった。地区の講組こうぐみ(なにかあった時、協力する地区の仲間。田舎の地区で決められている身近な住民集団)の方々が葬儀の準備を始めだした。部屋の中が片づけられ祭壇が祭られる。


 翔太と祐子は喪服に着替え、サチコの側に茫然と座っている。


 やがて、子供用のひつぎが運び込まれた。

 

「祐子さん、サッちゃんにしてやれる最後の仕事だょ。あんたがサッちゃんの着替えをしてやんねぇと――」


 祐子の側で八重子がそう促した。祐子の体がかすかに震えている。夫の翔太と一緒にサチコの着替えをする事となった。


「サッちゃん、お着替えしょう――」


 生前はよくお着替えの手伝いをさせられたものだ。しかし、四月になって年長組になると、急にお姉さんぶって一人で頑張ってお着替えをしていた。ふとそんな事が脳裏をかすめる。サチコを裸にしてタオルで拭いてやる。体中アザで黒くなっている。 


「サチコ――。痛かったろうなぁ————」


 翔太は泣きながらサチコの着替えを祐子と一緒にしている。タンスの奥に有った買ったばかりの新品の下着を着せてやる。葬儀用の白装束に着替えが済むと、小さい体はひつぎに入れられ祭壇に置かれた。棺には生前サチコの好きだった服や、小物を入れている。


 翔太と祐子は、二人そろって祭壇の前に座っている。トイレ以外は微動だにしない。まるで、魂を抜かれているのか。と疑う程茫然ぼうぜんとサチコの遺影を見て動かない。




 夜になりサチコの通夜が始まった——。


 寺の住職が来てお経が始まると、通夜の弔問者が入れ替わり立ち替わり訪れ、夢野夫婦にお悔やみの言葉を述べている。翔太と祐子はただ、機械的に弔問者に向かって頭を下げている。 

                

 やがて時は流れ、一人減り、二人減り、最後は翔太と祐子。権蔵と八重子、翔太の両親のみ六人だけとなった。


 依然として、翔太と祐子はサチコの柩の前にいる。線香を絶やさない様に番をしている。権蔵は風邪を引かない様に、ストーブを二人の後ろに出してくれた。

 二人は座ったままの姿勢で権蔵に会釈をした。夜明けまでまだほど遠い。何本目かの線香を替えた時、どちらともなく、喋っていた。


「あの子は、夜泣きをしなかったなぁ――」

「ええ、オムツ離れも早かったわ――」

「でも、幼稚園に入ったばかりの時は、本当によく、転けていたなぁ――」

「でも、食事のお手伝いはよくしてくれて助かったわ――」


 翔太と祐子は、在りし日の思い出を振り返り話していた。しかし、会話は噛み合っていない事に二人は気づかない。そうだろう……二人とも悲しみの淵にいるのだから……。


 やがて、重苦しい夜が明けて朝となった——。



 やがて、寺の住職がきて葬儀が始まった。


 今日は祭日ということで、サチコの幼稚園の仲間達、その父兄達、園の先生達、祐子の知人、友人達、翔太の会社関係の人達。この地区の夢野家族を知る人達。本当に多くの人々がサチコの別れをしのびにやって来てくれた。


 やがて住職のお経が終わりサチコの出棺が始まった。御棺を霊柩車に運び、悲しくもいたたましい霊柩車のクラクションに包まれながら火葬場へと向かう。


 火葬場で待機していた職員は事務的にサチコの棺を焼却炉の中へと運ぶ。焼却炉の前で再び住職のお経が始まった。お経の中ほどで職員が翔太の側にそっと来た。


「ご主人。焼却炉の点火スイッチを、お願いします――」


 翔太はためらった。

 このスイッチを押すことで、サチコと永遠の別れとなってしまう。サチコはもう亡くなってしまっている。しかし、このスイッチを押せば、あの愛らしい顔はもう二度と見えない。俺には押せない――。押せっこない。無理だ……。

 どうしても受け入れられない自分が居る。

 

 翔太はうずくまった。膝が震える。息をするのも辛くなる。目頭が熱くなる。


 翔太を気にして、翔太の両親と権蔵は翔太の側に近寄った。


「翔太、大丈夫か?」

「父さん、俺には、俺には、このスイッチは押せない――。このスイッチを押せば、サチコの全てを否定してしまう。そんな気がしてならないんだ――。父さん、俺の替わりに、このスイッチを押してくれよ————」


 ワシにだって、そりゃ出来ん——。

 翔太の父源太はそう思ったが黙ったままだ。源太も孫のサチコの死は信じられないからだ。


 そんな二人を見かねてか、権蔵が翔太に申し訳なさそうに言った。


「翔ちゃん、逃げちゃいけん——。これは、アンタの仕事じゃけぇ……。ワシより、親より早くサッちゃんはってしもうた。何と不孝じゃろう————。

 しかし、最後に親として、見送ってやろうじゃないか。そう思わねぇか?」

「じいちゃん————」


 権蔵の言葉は翔太の心を深く貫いた。翔太は権蔵の顔を見上げ、立ち上がった。


「ありがとう――。じいちゃん」


 翔太は権蔵に頭を下げ、祐子の側へと歩いていった。祐子はこの火葬場に着いてからずっと下を向いたままだ。裕子も未だにサチコの死を受け入れていない。


「祐子、いいか?——」


 翔太の言葉が届かないのか、返事をしないままでいる。職員に促され、翔太はスイッチの前にいる。赤いスイッチが鈍く光っている。このスイッチを押せば、決別の儀式が始まってしまう。翔太は静かに目を閉じた。


 スイッチを押す瞬間、翔太は叫んだ。


「サチコ――――」


 ゴオッ――。


 モーターがうねりをあげて、ファンが回転する機械的な音が吠えた——。

 焼却炉の中を数千度の紅蓮ぐれんの炎が渦巻いてゆく。


「いやぁ――――――」


 こらえきれない祐子の叫びが、火葬場の室内に木霊こだました——。



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