第5話 別れ


 どれくらいの時間がたっただろうか。今は午前0時。祐子が気を失ってから五時間と三十分の時が経っている。


 祐子は横たわったままの姿勢で目を覚ました。目を開けると、自分が真っ白な空間に居ることが解った。ベッドに横たわっている。


 ここは、何処……。病院? どうして? そう思いながら体を起こそうとした。


「痛い————」


 特に肩と頭が痛い。頭と肩を触ってみる。頭に包帯、肩に湿布が貼られている。

 ここは病院? でもなんで?……。


 よく解らないがここは病院のようだ。考えても仕方がない。思い出せないのだ。

 とりあえず看護師を呼んで訳を聞こう。しかし、自分一人だけっていうのは、なぜか気になる。サチコは? 夫の翔太は? 色々な疑問が沸いてくる。祐子は枕元にあるナースコールを押した。一拍置いて、天井から声がする。


「はい、どうされました?――」

「あのぅ、どう言えばいいのか解らないんですけど。ちょっと来てください——」


 祐子はありのままの気持ちを伝えた。一体どうして、こうなってしまったのか? 看護師に聞かないと気持ちの整理もつかない。嫌な胸騒ぎが収まらない。



「――はい。すぐ行きます————」


 天井のスピーカーからの返事は、一瞬ためらった様な間があいていた。


 しばらく間を於いてから看護師がやって来た。


 コンコン——。


 ドアをノックして年配者の、いかにも師長らしき人物が入って来た。上手に年と色々な経験を積んで来たのだろう、顔のシワと彼女の雰囲気がいたわりのオーラを発している。


「どうされました、夢野さん?」


 お約束の言葉であるが故に、祐子にとって逆に腹立たしい。

 えっ何故、私の名前を? とっさに、祐子はそう思った。


「どうして、私はここに居るんですか? なぜ、私の名前を? 娘のサチコや、主人はどうしているんですか? 居たら早く会わせて下さい。」


 祐子は思いつく疑問を看護師にぶつけた。看護師は一瞬躊躇ちゅうちょしたが、穏やかに祐子に語りかけた。


「夢野さん、あなたは事故に遭ったんです。夕方、お買い物に行かれたでしょう? あの帰り道、事故に遭ったんです」


 体の痛みと共に記憶が蘇ってきた。 

 

 事故……? そうだ、私はあの時、買い物帰りに何か体に衝撃を受けたんだった。そして意識が無くなった……。


 看護師の言葉にあの時の記憶が頭を過る。そして今、記憶が戻って来た時、娘が同じ病室に居ないと云う現実に、どうしようもない不安が祐子の胸をよぎった。


「サチコ……。娘は——? 娘に会わせて下さい。どこに居るんですか?」


 不安がいっぱいになって、胸が押しつぶされるように苦しい。体の痛みと共に不安が倍増してくるようだ。


 取り乱す祐子に看護師は躊躇ちゅうちょしたが、彼女の全身全霊のいたわりと、彼女自身子供を持つ一人の親として厳しく言い放った。


「夢野さん、落ち着いて下さい。親であるあなたが取り乱して、どうするんですか? 娘さんは今、懸命に生きようとしています。どうか、落ち着いて下さい」


 看護師の言葉が祐子の胸に響く。どうやら、娘は大変な状況になっているみたいだ。


「えっ? 生きようとしているって……。なにが、なにが一体あったんですか? お願いします——。サチコに、サチコに早く、会わせて下さい。お願いします」


 必死に看護師にすがりつく祐子であった。


「分りました。私について来て下さい。しかし、奥さん、あなたは頭を打っていますので、気分が悪くなったり吐き気がする様であれば、すぐに言って下さいね」


 誰でも我が子を思う親の気持ちと云うのは変わらない。看護師も祐子の気持ちが痛い程よく解る。頭を打っているが、どうやら大丈夫のようだ。看護婦は祐子を促し、今の病室を後にした。


 サチコは大丈夫だろうか? そんな思いで胸が苦しくなる。一歩一歩歩くのがもどかしい。病院の廊下がやけに長く重苦しく感じてしまう。


 やがて、ある病室の前で看護婦が立ち止まった。ドアの上にはICUと書かれている。そのドアの反対側にある長椅子に、どこか見覚えのある人たちが四人座っている。


 祐子に気がつくと、その四人は祐子に駆け寄った。四人の内、三人は涙で顔がグシャグシャだ。二人には見覚えがある。後の二人は……分からない。だれ、……?


「奥さん、体は大丈夫でぇじょうぶかぇ? ワシがもっと早くあそこを歩いちょったら、サッちゃんは、サッちゃんは————」


 祐子に掛ける言葉が見つからない。権蔵は言葉に詰まり下を向いた。傍にいた八重子が、そっと祐子の手を黙って握りしめた。 


「おじいちゃん、おばあちゃん、サチコは? ねえ、サチコは?————」


 祐子はそれ以上言葉が出なかった。いや、出なかったと言うよりは、最悪の事態を考えたくは無かったのだ。茫然ぼうぜんとして、もう一組の男女に視線を移す。泣いている女がふいに土下座をした。


 誰だろうこの人? 何処かで見た様な、しかし今は思い出せない……。


「奥さん、ごめんなさい、ごめんなさい……。私の所為で、私が、全部悪いんです。ううっ——」


 隣の男は泣いていないが、苦悶の表情を浮かべて女に付き添っている。


「すみません、話は後でお願いします。今は急ぎますので……」


 看護師の毅然きぜんとした態度にうながされて、祐子はICUと書かれたドアを開ける。


 二重のドアを開け部屋の中に入ると、色々な機械に囲まれているベッドが見える。


 そのベッドの脇に一人の男が立っている。見覚えのある背中だ。夫の将太だ。


 看護師は病室に入るとドアを閉め、室内で待機している医師に近寄った。


「先生、夢野さんの奥さんが意識を取り戻されたので、お連れしました」


 医師は軽くうなずくと、祐子に近づいた。


「奥さん――。娘さんは今、大変危険な状態です————」


 祐子にはサチコの事を心配し過ぎるにあまり、医師の言葉が届かない。医師を残しベッドの側に行く。ベッドを見ると痛々しい状態でサチコが寝かされていた。口元には酸素マスク。腕には点滴が……。胸元からバイタルチェックに繋がる配線が痛々しい。頭に包帯が巻かれている。顔にも、痣と切り傷が見える。


 きっと、痛かったんだろう。痛くて、痛くて、泣きそうなぐらい辛かったんだろうな。サッちゃん……。


 裕子は途方に暮れてしまった。


 側に立っている男が祐子に話し掛けてくる。夫の翔太だ。翔太も泣いている。


「祐子……。お前、体は大丈夫か?――——。おれが、俺が、忘れ物を取りに取引先に行かなければ……定時の五時で早く家に帰ってさえいれば、こんな事にはならなかったかも知れないのに……。

 くそっ……。なんで、こんなことに…………」

「私は大丈夫……。ねぇサチコは————」


 祐子の問いに翔太は答えられない。ただ首を横に振り、じっとサチコを見ているだけである。祐子はそっと中腰になり、片手でサチコの手を握りしめる。そして、もう片手でサチコのおでこを撫でている。手はまだ温かい。


「サッちゃん――。目をあけて? ママと一緒にお家帰ろうよぉ————」


 祐子はサチコに優しく語っている。その時一瞬、祐子の手を握り返してきた。かすかだが、祐子にはそれが解った。


「サッちゃん……。ママが付いてるから、頑張ろうねぇ――」


 神様、もし居るのなら、この子をお助け下さい。もし助けて下さるなら、私の寿命の半分を差し上げます。お願いします、おねがいします、オネガイシマス…………。


 祐子はサチコに語りながら祈っている。


 又、握っている手から反応があった。祐子はサチコに語り続けている。


 その時、サチコに取り付けられている計器が異常を示した。バイタルサインセンサーの全ての波形が一旦大きく跳ね上がると、ゼロになった。


 ゼロになるほんの一瞬サチコの口が動いた様に見えた。


――――! 祐子にはそう聞こえた。


「サツちゃん――――」


 待機していた医師は、この子は助からないと云う事が解っていたのか、事務的に直に手首を触って脈拍を取り、ペンライトで瞳孔を調べた。そして腕時計を見ながら言った。


「四月×日。午前零時五十五分————」


 最後の言葉をかき消す様に、祐子がサチコに向かって叫んだ。


「サッちゃん————。ねえ、お願いだから、起きて、ねえサッちゃんてば――」

「奥さん、大変残念ですが、お子さんは、もう――」

「違う——。この子は死んで無い。ただ、目を閉じているだけなの――。だからお願い助けて、助けてサチコを……。お願いします。お願いします——」


 医師の言葉を否定し、サチコの体を揺する祐子。看護師が祐子の肩に手をあてる。


「…………」

「あなた達が何もしないなら、わたしが、わたしが、サチコを助ける————」


 そう言い放つと、祐子はサチコに人工呼吸と心臓マッサージを始め出した。


 お願い。サッちゃん、目を開けて……。一心に祈り人工蘇生を施している。


 こんな事でサチコは蘇ったりしないのは祐子自身、解っているつもりだ。だが、何もしないよりはましだ。


 そんな祐子を見かねて、夫である翔太は後ろから祐子を抱き締めた。祐子が意識を取り戻す前に、医師からもう助からないと聞いていた為、無駄な行為だと思ったからだ。


「祐子————。サチコはもう死んだんだ。サチコを静かにかせてやろう」


 医師の言葉より夫である翔太から、愛娘サチコの死の宣告を告げられる事はショックで、現実の死を受け入れるしか無かった。


「いやぁ————」


 祐子は泣き叫んだ。病室はおろか、外の廊下にまで聞こえる様に。






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