現世の章
第1話 どこにでもある日常
「サッちゃん——。早く用意しないと~! 幼稚園遅れちゃうわよ~」
「まってよ~ママ。もう少しだけ待って~!」
いつものように繰り返される毎朝の出来事。TVを観ながら朝食を採っていると、幼稚園に行く時間に間に合わなくなってしまう。四~五歳向けの民放にTVのチャンネルを変えた途端、既に目が離せなくなってしまう。箸を伸ばす手も、咀嚼する口も動かない。
バタバタな朝が伺えるのはどこの家庭でも見かける情景だ。この親子にも例外では無かった。
間もなく静かに忍び寄る闇が、この二人を襲おうとしているのを誰も知らない。
ここはO県――。市街地から少し離れた所に住んでいる親子がいた。
両親の愛情を一身に受け、すくすくと育っている女の子がいた。
夢野サチコ五才。夏になれば六才になる。父かたの母譲りの天然パーマを持ち、優しい性格と男の子顔負けな活発な行動力を持ち、誰からも愛されていた。
母親の名は
その為、精一杯の愛情を娘に与えていた。夫である
―─ある春の日。
娘のサチコをいつもどおりに幼稚園へと送り出すと、
やがて、昼過ぎに帰宅すると簡単に昼食を取り終えた。
そして、又普段着に着替えて庭の花の世話をするため庭に向かって歩き出した。
春先のさまざまな花が咲きそろった庭は観る人を魅了し、又祐子の自慢でもあった。その空間に身を置く事で、祐子の心は落ち着き心癒されるのだった。
しかし、今日はいつもと何か様子が違っているようだった。 帰宅後、とても上機嫌で鼻歌を口ずさみ足取りも軽やかだ。よほど何か良い事でもあったのだろうか。 娘の幼稚園のお迎えをすっかり忘れていた。
やがて祐子は、一度家の中に入り休息を取ることにした。
時は四月。春先とはいえ日差しは強く、喉がカラカラに乾いていたからだ。
「ふぅ、こう暑いとお茶もそろそろ冷やしたほうがいいみたいだわ」
氷を入れたお茶を飲みながら、TVの電源を入れると時報が三時を告げる。
「あっ、しまった―─。サッちゃんのお迎え忘れてた」
祐子は慌てて冷たいお茶を一気に飲み干すと、サンダル履きで外に出た。
幼稚園のお迎えといっても家から園が見渡せる所に在り、大人の足でも七、八分くらいで行ける距離だった。
ここは田舎なので物騒な事件も無い為、他の親は送りをしても迎えはしていなかった。しかし祐子は毎日送り迎えをしていた。祐子の寂しい過去がそうさせるのだろう。
道に出て、園の方を見渡すと先生の後についてなにやら、ちいさな軍団が固まって歩いているのが見えた。
良かった……。あ~間に合った。
「お帰りー」
そう叫ぶと、祐子は両手を振りながら満面の笑みを浮かべ、園児達に向かって駆け出していった。
やがて、先生とその一団は祐子に気が付くといっせいに騒がしくなり、手をふりかえしてきた。春の風が心地よく、どこの場所でもよく見かけるそんな場面だ。
「サッちゃん、ごめんね〜。先生、遅れてすみません」
「ママ、今日はどうしたの? サチコ、心配しちゃった」
「ごめんね、ちょっと用事があってバタバタしてたら、お迎えのことすっかり忘れちゃってた」
祐子は少し照れ笑いをしながらその場を取り繕った。
「もぉーママったらー。でもたまにはみんなと一緒に帰るのも楽しかったから、許してあげる」
「夢野さん、無理なさらなくてもいいんですよ。私がちゃんとお家まで送りますから。用事があれば、いつでも構わないので言ってくださいね」
「先生、ありがとうございます」
そう言うと、祐子は子供達の列のサチコの隣に並び、手をつなぎ一緒に歩き出した。元来二人は手をつなぐ事が好きだった。歩く時や、サチコが祐子のひざで絵本を読んでもらっている時、夜寝る時、手をつないでいると不思議と心が落ち着いた。肌と肌、体が触れるというだけでなく、なぜか懐かしく、心落ち着く感じがした。恋人間の愛情でもなく、単なる親子間の愛情でもない。なぜか心の奥深くにある、魂の絆を感じる事が出来るような、そんな気がしていた。
「サッちゃんのおばちゃ~ん。何か歌、歌って?」
「いいよ~。じゃぁ、なにがいい?」
「「こいのぼり~がいいな~」」
「じゃぁ、みんなで歌おう~」
「「「やねより、た~かい~こいのぼ~り~♬」」」
子供達に歌をせがまれ、みんなで歌を歌いながら帰る一団はとても楽しそうだった。
元来、祐子は子供好きな性格だ。幼い子供達と一緒に歌を歌いながら帰ると童心に返った気がした。そんな浮かれた状態の中で、祐子は幼い頃の幼稚園に行っていた頃の記憶をたどった。
そういえば、あの頃はまだお母さんがいて毎日迎えに来てくれていたっけ?
しかし、小学校に入ると交通事故で両親二人同時に亡くしてしまった。その先はあまり思い出さないようにしている。というよりは、あまり覚えがないのだ。
やがて、それぞれの子供達を送り祐子とサチコはやっと家にたどり着いた。
「ふぅー。やっと家に着いた」
二人はいったん家の中に入り、サチコと一緒にオヤツを食べながらくつろいでいた。
「ママ、今日本当はなにしていたの? まさか、庭の花の手入れしていたんじゃあないの?」
我が子なのに、しかも幼いのに鋭い指摘だ。サチコの鋭いツッコミに一瞬祐子はギョっとした。
「へへへ、ばれたか~。実はね、サッちゃん今日とってもいい事があったんで、ついつい又、花を買い込んじゃって……」
「もお~だからママは、ママちゃんって パパに言われるのヨ。なんか、いい事があるとすぐ他の事を忘れちゃうんだから。それで、ママちゃん、お花全部植えたの?」
「ううん。大丈夫まだ全然植えて無いよ」
「ヤッター早く、お外いこう。あっそうだ。ねえ、ママ。お家の周りにいつも咲く、白いあの花はまだ咲かないのかなぁ?」
「ああ、アベリアね。サッちゃんもあの花好きみたいね? でも、まだ早いかな? もうちょっとしたら咲くんだけどな」
「そっか、まだなんだ?」
祐子の花好きの影響が娘サチコに大きく及んでいるようだった。サチコも又、母親同様に花が好きだった。
二人は仲良く買ってきた花を分け合い、それぞれ花壇に花を植え始めた。
花を植え始めて数分立つと、一旦サチコは家の中に入り、何かを探しているようだった。
やがて両手に何かを持って外に出てきた。片手には殺虫剤、もう片手にはハエたたきを。
そんな事には気が付かず、祐子は楽しげに花を植えていた。
しばらくすると、サチコが騒がしくなったので、裕子はサチコの方を振り返ると、サチコが殺虫剤をまきながらハエたたきを振り回しているのが目に付いた。
「ちょっとサチコ。何してるの?」
祐子の強い口調に驚いたのか、サチコは驚いておとなしくなった。
「だって、虫って気持ち悪いんだもん。特に、ハチは刺されそうでキライ」
「何言ってるのサチコ。ハチがいつアナタを刺したの? 何もして無いじゃい?」
祐子の剣幕にサチコは驚いて泣き出しそうになった。ふくれっ面で両目に涙が溜まっている。そんなサチコを見ると、祐子はフッと我に返った。やがて祐子は優しい口調に替えて、
「あのね、サッちゃん。ミツバチはあまり人を刺さないんだよ。それにミツバチは、ただ花の花粉や蜜を集めているだけなの。もしミツバチがいなくなると、みんな困ちゃうんだよ」
「ミツバチがいなくなると、どうして困るの?」
「あのね、ミツバチがいなくなると、花や果物が出来なくなってしまうの」
「どうして?」
サチコをやさしく膝の上に抱く様に座らせて、祐子は話を続けた。
「あのね、難しく言っても解らないから簡単に言うね。お花の上で花粉を混ぜると、種が出来たり、実がなったりするの。サッちゃんもイチゴ好きでしょ? あれはハチさんが、花粉を混ぜてくれたからイチゴが出来たのよ。ハチさんが居ないとイチゴ食べられないの。サッちゃん解る?」
「ふーん。ハチさんって偉いんだ」
「だから、悪い事して無いのに、殺虫剤を掛けたりしたらかわいそうでしょ? サッちゃんも、悪い事して無いのに、たたかれたり、蹴られたりしたらいやでしょ? それと同じ。だから、仲良くしなくっちゃね」
「解った、ママ。ごめんなさい……」
「サッちゃんって、本当に素直でおりこうネ。ママうれしいわ。ちょっと一緒に、ハチさんのお仕事、観てみようか?」
「うん」
やがて、サチコは母親の膝に座ったまま、ハチの動きを観察した。ハチは忙しく、花から花へと飛び回っていた。
「ほら、見てママ。あのハチさんの足に付いてるの、なぁに?」
「ああ、一番後ろの足に黄色っぽい物が、付いてるのが花粉ダンゴで、あれはハチさんのごはんみたいな物よ。前足に付いてる茶色っぽい物が、花粉って言うのよ。お花の中で、花粉が混ざり合うと受粉するのよ。それでね、イチゴの実が出来たり色々な果物が出来るのよ。」
「ふーん。やっぱりハチさんって、偉いんだ。ごめんねハチさん。もう意地悪しないからネ」
サチコは反省しているようだった。自分の気分や好みだけで虫を忌み嫌っている事を。
その時、一匹のミツバチが祐子の手の上に静かに止まった。
「あっ、ママ。手にハチが……」
「しっ……」
驚いたサチコとはうらはらに、祐子は落ち着いて手を静かに高く上げた。
すると、ミツバチは舞い上がり、花の方へ飛んでいった。
「ママ、刺されなかった?」
「大丈夫、ほら全然平気だよ。ミツバチはめったな事では刺さないから。でもね、大きいハチには気を付けてね。特にスズメバチは痛くて何回も刺すから……。もしスズメバチがいたら、すぐに逃げるんだよ」
「うん。解った」
親子で花を植える事によって、小さな勉強と大きな母親の愛情をサチコは学んでいった。どんな事でも、サチコに解る様に話しをしてくれる祐子は、サチコにとってただの親子という枠を越えている様に感じていた。
「あっ、いけない。もう、こんな時間だ。早く、お買い物行かないと、パパが帰って来ちゃう。サッちゃん、早く着替えてお買い物いこうか?」
「うん」
やがて、ふたりは家の中に入り、慌ただしく着替えを済ますと買い物に出かけた。
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