第7話 絶望の淵
夜が明けると翔太は簡単に自炊をしてみた。これからは自分で全てやらなくてはならない。炊事、洗濯、掃除、買い物。今までにした事がなかったが、何となく裕子の様子を見ていたので感覚はつかめているようだ。
初めて炊いたご飯は、おかゆになってしまった……。味噌汁は薄い味だった……。ほんのりとしか味がしない。いくら精進料理でもここまで薄味ではないだろう。
裕子の作ってくれた味噌汁は、具は何を入れても美味しかった。思い出すと胸が苦しくなってしまう。思わず涙が出た……。
どうして、こんな事に……? 裕子、早く良くなってくれ。と思いながら食事を済ませると、裕子と赤ちゃんの待つ病院へと向かった。
コンコン……。ガラガラ——。
裕子の病室のドアを開けて翔太は中に入った。裕子は相変わらず横たわったままだ。
翔太は妻祐子の傍に座り手を取って話し掛けた。昨日の会社での事を……。
しかし、祐子からの返事は無い。しかし、翔太は分かっている。もし祐子が健在ならば、‟馬鹿ねぇ何もそこまでしなくてもいいのに……”。と受け答えしてくれる事を。
暫く祐子に話をすると、翔太は病室を後にした。行き先は三階の新生児室だ。これから育児を始めなくてはならない。看護師に育児の事を聞いて置かなければならない。
ノートとペンを持参して今後に備えた。事あるごとに、翔太は看護師を捕まえては育児について聞いてメモを取っていた。
そうこうしている内に、赤ちゃんの退院の時期となってしまった。大体、母親の体と新生児の事を考慮して七日と決めている。やはり病院側としても新生児の事は気になるとみえ、母親不在でも七日間は病院へ赤ちゃんを置いて、注意深く見ているようだった。
翔太は新生児の我が子を抱いて祐子の病室を訪れていた。
「祐子、この子は今日からこの病院を出て、俺と一緒に暮らしていく。この子の名前は『
分るだろう、祐子…………」
翔太に抱かれている赤ちゃんは、だぁだぁと呟いている。翔太は裕子の指を赤ちゃんに握らせた。握られた裕子の指先は一瞬だけピクンと動いたような気がしたのを翔太は感じ取ることが出来なかった。
やがて、翔太は我が子を抱いて一旦家に帰った。
家事をしながら育児と祐子の見舞いをする。職場の仲間達や、権蔵と八重子も時折手伝いをしにきてくれるから助かる。しかし、生きていく為には食べなければならない。今働いていない翔太には収入が入って来ないのだ。
サチコの件で、竹田信子が弁護士を通して小切手を置いていったのが不幸中の幸いだ。裕子の入院費用も馬鹿には出来ない。高額な慰謝料は悔しいが助かるのも事実。
翔太は家事を切り詰めながら、手の空いた時は裕子の病院へと通っていった。
そうこうしている内に、早や一ヶ月が過ぎた。翔太は娘の
コンコン……。ガラガラ——。
翔太は娘を抱いて裕子の病室に入る。ベッドの脇の椅子に座り、裕子に話掛ける。
「裕子、又今日も来たよ。未来も少しだけど首が据わってきたんだ。他の子よりも首の据わりが早いなぁ、って思うんだけど。これって、親バカかなぁ?」
いつものように、娘の未来を祐子の隣に置いて裕子に話し掛ける翔太だった。
未来は祐子の手をいつもの様に触って遊んでいる。
「だぁ~だぁ、あぅ、あぅ~うぅ、うぅ————」
「おい未来、お前は本当にママの手を触るのが好きなんだなぁ。俺の手なんか全然触らないくせに……。そんなにママの手って触りやすくて良いか? 何か、本当に嬉しそうだなぁ。おい、祐子、それに未来は本当に夜泣きはしないんだ。よく夜は寝てくれるから助かるよ。サチコの時は辛かったからなぁ~」
とその時、翔太は裕子につけられている計器の異常に気が付いた。アラームが急に鳴り響く。慌てて、翔太はナースコールを押した。
「看護師さん、すぐ来て下さい。裕子の具合が——」
「分かりました、先生を連れてすぐに——」
翔太の連絡を受けてすぐに看護師がやって来た。
数分後、担当医も遅れて病室へ入ってきた。
なにやら、裕子の体を調べていたが、ストレッチャーに裕子を乗せ換えて、慌てて病室から出ていった。
「な、なんだ……。どうしたっていうんだ?」
何の説明も無しに、裕子を連れていかれて翔太は焦った。一抹の不安が翔太の胸をよぎる。翔太は娘の未来を抱きかかえ、裕子の後を追いかけて処置室の前で待った。
約一時間ぐらい待っただろうか。やがて、処置室から担当医が顔を曇らせたまま出てきた。
「……ご主人……。大変残念ですが……奥さんは、敗血症になってしまいました。もうこれでは、多臓器不全に…………」
医師の言葉に思わず耳を疑ってしまう。
「はぁ~。な、なんだって——。先生、アンタ今まで祐子の症状が解らない、って言ってたじゃないか? それを今更、敗血症だって? ふざけるな。何で、急にそんな事が解るんだ。おかしいじゃないか。それとも知っていて隠していたのか、どっちなんだ?」
「ご主人、落ち着いて下さい。奥さんの件は、今、先程解った事なんです。以前でも、色んな検査をしたけれど、敗血症だなんて発覚しなかったんです。隠すだなんて、そんな事は……。信じて下さい……」
「それで、どうなんだ——」
今にも殴りかかりそうに興奮している翔太に、申し訳なさそうに医師は言った。
「もはや手の施し様が……。時間の問題です——」
「そ、そんな……。ゆ、う、こ…………」
医師から、聞きたくない最後の言葉を宣告された。どんな状況下の中でも【希望】という二文字だけは、まだ翔太は捨てていなかったのに……。
翔太は脳天を大きなハンマーで叩かれたような衝撃を受け、未来を抱いたまま廊下に力無く崩れるように座り込んでしまった。
“時間の問題です”。この言葉が翔太の頭の中をグルグル回っている。希望という二文字が無惨にもうち砕かれて、悲しみ、いや、絶望の淵へと叩き落とされたようだった。
やがて祐子は元いた病室へと帰ってきた。
手の施しようが無い時間の問題。と死の宣告を受けたのだから——。以前と同じ体の状態を教えてくれる計器が体中にまとわりついている。
翔太の気持ちは “今夜は徹夜だ”。と言う気持ちが感じられるようだ。時間の問題なのだから帰る気持ちにならない。
翔太は娘の未来を、おんぶ紐で胸に抱いたまま祐子の付き添いにいた。
やがて悲しみの最後の別れがやって来た。
明け方の午前五時。かすかな睡魔に襲われた翔太がふと気が付くと、祐子に取り付けている計器の異常が目に着いた。大きく針が振れている。そしてアラームが激しく鳴り始めた。
「祐子、しっかりしろ。俺と
翔太は祐子を励ましながらナースコールを押して、非常事態を看護師へ訴えた。
翔太と娘の未来は母親祐子の手を握りしめている。
やがて、祐子の目からひとすじの涙が流れた。ベッドに横たわったまま起き上がる事すら出来ない。意識が無いがゆえに、二人に最後の別れを告げたのかも知れない。
そして、祐子に取り付けられていた計器が反応しなくなった。計器の波線が一旦大きな波を作った後、穏やかな一本線となってしまった。
祐子は帰らぬ人となってしまった。
すぐ担当医が来て、祐子の脈拍と瞳孔を調べ、翔太に最後の宣告を告げた。
「午前五時十二分——」
「ゆ、ゆうこ———――――」
病室に翔太の悲しい叫び声が響いていた。
外はまだ暗く、真冬の外は空気がピーンと張り詰めたような感覚となっている。
月が久しぶりに出て、辺りを照らしていた。
翔太の悲しみを包むかの様に、静かに照らしていた。
◇ ◆ ◇
遙か天上では、その様子を見ていた天使達が呟いた。
「なんで、こんな事に——。折角の私達の苦労が……どうして?……」
しかし、その場に神官の姿は無かった———。
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