第6話 覚悟の向こう


 権蔵と八重子の帰った後、翔太は一人祐子の病室へ残っていた。祐子の手を握りしめて、祐子の顔を見て話し掛けている。


「祐子、何年掛かろうと俺は絶対にお前を元に戻してやるぞ。戻してやるって言っても、俺は医者じゃないから出来ないけど……一緒に頑張って生きて行こうな、祐子」


 翔太の呼びかけにも答える事もなく、祐子は静かに横たわっている。


 翔太は権蔵にもたれ掛かって泣いた時に、何かを決意した様だった。暫く祐子の手を握っていたが、翔太は静かに立ち上がると祐子の病室を後にした。






 翔太はその足で、自分の勤める芝松電器の事業所へと自分の車を走らせた。


 今日はクリスマスだが平日だ。一度に色々な事が起こり、会社に休日届けの連絡をしていなかった。いや、する余裕など無かったのだ。


 昨夜裕子の急な陣痛から始まり、病院へ向かっている時に対向車に車をぶつけられた。出産が迫っている状態に、会社の事など考える余裕はなかった。


 翔太の勤める営業所は、今の時間帯はもう退社時刻だが、翔太の持ち前の責任感で会社に来たのだった。


 会社の駐車場に車を停めると、車の中で翔太は何かを書いているようだった。


 暫くすると翔太は、意を決した様に会社へと歩いて行った。




 会社のドアがやけに重く感じてしまう。思い切ってドアを開けた。


 ドン——。


 折角のクリスマスだと云うのに、営業部の仲間達は残業をしていた。ドアの音に気が付き仲間達の視線は一斉に翔太に向かう。


「あれ、夢野さん——。どうしたの?」


 ドアの一番手前にいた事務の女性が、翔太に声をかけた。


「島田部長はいるか?」

「はい、奥にいますけど……。あっ、夢野さん、柴田課長が無断欠勤だと言って、怒っていましたよ。どうかしたんですか?」

「ふん、怒りたいヤツは勝手に怒らしておけばいいさ……」


 翔太の傍若無人な態度に、事務の女性は一瞬ムッとしたが、普段ならこんな態度を翔太が取らない事を思い出し心配になった。

 夢野さん、どうしたのかしら……大丈夫かしら……。


 一方翔太は奥の部屋へと歩んで行った。奥の部屋は一応会議室となっている。会議室で課長と部長は二人で仕事をしている事が多い。


 翔太は勢いよくそのドアを開けた。


 ドン……。ガラガラ——。


 突然の事に中にいた人は驚いた。ドアを開けて中に入って来た翔太を見るなり罵声をあげた。


「なんだ、君。失礼じゃないか。ん、夢野君か? 君は今日無断欠勤したが、一体何を考えているんだ? このクソ忙しい時に」


 声の主を見てみると柴田課長だった。


「なんだ、課長か? 丁度いいや。お二人に話があって来ました。今日の無断欠勤は失礼しました。色々と有りまして…………。

 その色々に着いて、電話では何ですので、こうやって来た次第です。お怒りでしょうがまずは、私の話を聞いて下さい——」


 翔太はそう言うと、空いている椅子にどっかりと座わり胸のポケットから封筒を一枚取り出し机の上にドンっと置いた。


 部長と課長はその置かれた物を見つめた。封筒に大きな文字が書いてある。


「ん、辞表? どうして辞表なんだ?」

「実は昨夜、子供が生まれました……」

「そりゃ、おめでたいじゃないか。でもなんで子供が生まれたのと会社を辞めるのが一緒なんだ?」


 部長と課長は訳が解らない? と言った具合に首を傾げている。


「実は、妻が出産後——。意識が戻らなくなりました。植物人間になってしまいました…………」


「「なんだって——」」


「私は生まれたばかりの子供を育てなければなりません……。保育所を何件か当たってみましたが、生後三か月以上でないと見てくれない所ばかりです。私の両親がみてくれればいいのですが、あいにく母親のほうが体調が悪くて……。だから、長い間、会社を休む事になるんで……みんなに迷惑が掛かると思って、辞表を持って来ました……」


 翔太の話を聞いていた島田部長が、翔太の持って来た辞表を手に取って見た。

 しかし、一拍をおいた後にいきなり破り始めてしまった。


「なにするんですか、部長」

「夢野君、こりゃ駄目だ。この書き方じゃ受理出来ない。書き直してくれ。『長期休職届け』として」

「——えっ、なんですか?」


 驚く翔太を横目で、島田部長が言った。


「夢野君、解らないかね。君はこの会社を辞めなくても良いと言っているんだ。柴田君、話しても良いかね?」

「はい」

「実は十数年前、この柴田君も、君同様に奥さんが事故に遭われた。その後遺症として半身不随となり、今回の君と同じ辞表を持って私の所へやってきたんだ。あの時と、夢野君が重なって見えるよ……。

 いいよ、休みなさい……。何も辞める事は無い。この事は私が責任を持って、処理しておこう。前回の娘さんの不幸の時は、慶弔関係だったんで、処理出来なかったが今回は介護と育児が関わっている。だから、受理出来ないと言ったんだ。

 だから、介護について長期休暇届けとして出せば、十分に処理出来るんだ。しかし、君も何だな……。大変だろうが頑張って乗り切ってくれ。困った事があったら、内の家内を行かせるから何でも使ってやってくれ」

「部長、課長、有り難うございます……」

「夢野君、会社は一体、誰の為に有ると思うかね? 勿論、会社を創設した人の物でもあるんだが、働く全従業員の物でも有ると思うんだ。仲間が困っている時、知らない顔をする事は出来ないんだよ。それは、この会社の創設者の教え、でも有るんだよ」

「そうだよ、夢野君。困った時は助け合わなくちゃ。私も好きで小言を言っている訳じゃないんだよ。相談と仕事は別だ。言いにくいかも知れないが、同じ釜の飯を食った同胞なんだから……何でもって言うわけじゃないけれど、力不足かも知れないが、力になれると思うよ……」

「ありがとうございます、ありがとうございます……」


 翔太は部課長の暖かい心に触れ、胸がいっぱいになった。サチコが亡くなってから葬儀の手配をしてくれた権蔵と八重子にも感謝はしている。あの時にも感じた人の情けがありがたかった。改めて思う……。本当に人の情けがこんなにも温かいと思った事はなかった。家庭の為に会社を去る覚悟で来たが、人の情けに触れ、心を満たす事が出来た。


 その後、三人で暫く話をしていたが翔太は二人に一礼すると会議室から出ていった。


「なんで、夢野君の家庭は不幸ばかり続くんだろうな……。優秀な人材なのに……。私は個人的には、彼を気に入っているんだが、……。彼の持つ人徳かな。君さえ良ければ、わしらは影で見守ってやろうじゃないか……。

 それに、この世の中には神様は居ないのかね——」

「部長……」


 会議室に残った二人は寂しそうに呟いていた。








 会社を辞めなくて良かった——。翔太は内心ホッとしていた。


 健康保険の事も有るし、新たに仕事を探す事もない。まだ色々難題は山積みだが、一つ一つ片付けて行こう……。


 翔太はそう思いながら一旦は自宅へ戻る事にした。


 車を走らせていると、人々はクリスマス気分で浮かれているように見える。


 プレゼントを買って貰って、嬉しそうな笑顔の子供。子供を見守る母親の笑顔。幸せそうな家族達が道を歩いている。


 男性の腕を、自分の腕で絡め取るように腕を組むカップルも多く目につく。幸せそうな横顔や後ろ姿を見ていると、胸の奥底から湧いてくる溜息が漏れてしまう。


 幸せな人達を横目で見ながら車を走らせた。車のラジオからはクリスマスの音楽が流れ始めた。


「くそ——」


 翔太はラジオから流れる軽やかな音楽を迷惑そうにスイッチを切り、無言で車を走らせた。





 ガラガラ——。


「ただいま……」


 翔太は自宅に着いて玄関を開けた。ただいま。と言っても今は誰も居ない。改めて裕子の存在感に気が付く。一人寂しく部屋に入って、これからの事を考える。


 赤ちゃんの退院までもう六日しかない。


 肌着、オシメ、哺乳瓶等用意してあったのだが、全部裕子に任せていたので何処に置いたか分からない。裕子に聞こうにも、意識が無いので話も出来ない。仕方なく押し入れや、部屋中をひっくり返すように探した。


「あ、あった、良かった——」


 後は子供の名前を決めなくてはならない。


 翔太は紙とペンを用意して、その夜遅くまで翔太は考えていた——。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る