第2話 悪夢再び……。
「ちくしょう。なんで、俺の家ばっかり不幸が続くんだ……」
愛娘サチコを失い、そして今祐子の入院で会社と家と病院の往復で、翔太の心と体はボロボロになるほど疲れていた。
たまには、酒でも飲もう……。
悲しみを忘れるかの様に自宅で一人酒を飲んだ。元来、酒は強い方では無い。会社の飲み会でも、ビール一本で酔ってしまう。しかし、翔太は酒を飲まないではいられないのだ。サチコの事、祐子の事、そしてあんなに期待していていた会社のプレゼン企画書さえも、出す暇が無かったのだ。
その夜、翔太は遅くまで酒を飲んでいた——。
次の日、翔太は頭痛で目覚めた。
「うーん、頭が……痛い。夕べは飲み過ぎたかな?~」
無理もない。翔太は酒に強くは無いのだ。確か、二十二時から午前一時まで酒を飲んでいたのだ。
ふらつきながら台所へ来て、頭痛薬と水を一気に飲み干した。
「プハァ~。ん——水が旨い。んっ? 何だ、この香りは?」
水を飲んで少し冷静になったのか、翔太は香りの元が気になった。周りを見て、香りの元を手に取って眺めた。匂いの元に鼻を近づけると甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「なんだこりゃ? 確か昨日までは無かったはずだが?」
翔太は恐る恐る指ですくって舐めてみる事にした。二日酔いで頭が回らないから大丈夫だと勝手に判断してしまった。
しかし、舐めてみると口の中いっぱいに甘く芳醇な香りと甘さが広がった。
「うまい。もしかして、これは蜂蜜か? でも何で、こんな所に? しかもこのコップはサチコがままごと遊びに使っていた人形のコップじゃないか。でもなんで、こんな所にあるんだ?」
翔太は二日酔いの頭で考えた。しかし、いくら考えても思い付かなかった。
もしかして、向かいの家の八重子さんが置いていったのだろうか? ぐらいしか思い付かなかった。それならば電話連絡か、メモぐらいは残していくだろう。
やがて翔太は、ある考えが閃いた——。
そうだ、祐子は食事ができない。もしかして、この蜂蜜ぐらいは食べる事が出来るかも? 祐子、待っていろよ。今すぐ持っていってやるからな。
そう思うと翔太は蜂蜜の入った人形のコップにラップを巻き、零れないように容器に入れて大急ぎで着替え、祐子のいる病院を目指した。
やがて翔太は妻祐子の入院している病室へ、息を切らせながらやって来た。
「祐子、具合はどうだ?」
「何言っているの、昨日も来たじゃない」
「ああ、そうだったな。でも祐子、今日はお前に、とっておきの薬を持ってきたぞ。これを飲めば、すぐに良くなるぞ」
そう言って翔太は、コップに入った蜂蜜を祐子へ差し出した。
「なぁに、これ?」
「蜂蜜だよ。だってお前は何も食べられないじゃないか。これぐらいは食べないと、本当にお前は死んじゃうぞ」
「でも、どうして?」
祐子の問いに翔太はためらった。なんで、急に蜂蜜なんだ? しかも蜂蜜の入った容器は、生前サチコがままごと遊びで使っていた人形のコップだ。その問いにはハッキリ言って答えられない。朝起きたとき、何故そこに蜂蜜があったのかも分らないし、頭の奥底に蜂蜜が体に良い、とそれぐらいしか思わないでいたからだ。
しかし、翔太の中で何かが後押しをする。これは裕子に絶対に勧めるべき食材だという事が、なぜか翔太の頭を駆け巡る。
ここで
「祐子……。実は、昨晩サチコが夢に出て来たんだ。お前が心配だからこれを、俺から飲ませてほしい。って言うんだ……。
『これを飲めば、拒食症も治るかも知れない。ママを助けて……。私の姉妹を助けて』って俺に言うんだ。だから俺はこれを持って来たんだ」
翔太は喋りながら驚いた。
なんでこんな嘘が次から次へ出てくるんだ? しかも今、祐子へサチコの事を言うのはまずいのに……。
しかし、このコップに入った蜂蜜は妙な安堵感がある。これは絶対に、裕子に飲まさないと……。という思いが不思議と湧いてくる。
翔太は、しまった。と思いながら祐子の顔をみた。祐子の表情が変わったからだ。
「分った——。私飲んでみる。このコップって、サッちゃんが遊んでいた人形のコップよね……。サッちゃんありがとう……」
翔太の嘘だというのは分かっている。でも毎日毎日、見舞いに通ってくれる翔太に気の毒だとも思っている。自分もがんばらねば。と最近はそう思うようになったのだ。
そう言って祐子は、翔太から蜜に入ったコップを受け取ると、スプーンですくって一口舐めた。色々な花から採れた、ブレンドされた蜜が祐子の口の中で広がっていく。芳醇な甘さと香り、サチコの魂を削って集めた蜜だ。まずい訳が無い。
「美味しい——」
祐子の言葉に翔太は、胸の詰まる思いだった。
「祐子、早く良くなって家に帰ろう——」
一口の蜂蜜で祐子の心と体は癒された。それは夫翔太の思いと、亡くなったサチコの思いが伝わったのだろうか……。
「ありがとう、アナタ。ありがとう……。サッチャン……」
やがて祐子が蜂蜜を飲んだ日から、日増しに症状が良くなっていった。一月後、祐子は無事退院する事が出来た。
久しぶりに我が家へ二人そろって帰ると、今まで何も無かったかの様な生活が始まった。愛娘サチコの死は夫婦にとって忘れる事は出来ない。しかし、二人目の子供を出産するにあたり、思い出さない様に、お互い、いたわり合って暮らす事にした。
◇ ◆ ◇ ◆
サチコが亡くなって、数ヶ月が過ぎた。今は十二月下旬。寒い夜空の中、今年には少し早い雪がちらついている。深々と静かに降り注ぐ
そんなある日の夜——。
「あっ痛い、アナタ——。お腹が痛い——」
「どうした祐子?——。大丈夫か?」
「陣痛みたい? 痛い——。アナタ、お願い病院へ連れていって——」
祐子の表情が苦しそうだ。女の出産の辛さは男には決して解らない。翔太はオロオロするしかなかった。
「よし、分った! この日の為に、早くからスノータイヤに替えていて良かった。祐子、病院へ連れていってやるからな」
翔太はかねてから用意していた祐子の出産の着替えを持って、車に乗り込むと祐子と一緒に病院を目指した。
「祐子、もうすぐだからな。がんばれよ。あれ? 雪だ。雪が降ってる。ああそうか忘れていたけど今日はクリスマスか。まさにホワイトクリスマスだな。本当に早くタイヤを替えていて良かった。祐子、もうすぐだから、がんばってくれよ」
翔太の言葉に祐子は後部座席から窓越しに外を見た。
「ああ——。ホントに雪が、あなた、車の運転に気を付けてね」
「ああ、大丈夫だよ」
病院に近づいてくると益々雪は激しく降りだした。降り続ける雪は、やがて積もりはじめる。
病院まであと五分ぐらいの距離となった時、すれ違う車が横滑りしながらこちらへ突っ込んできた。
「うわぁ~危ない——!」
此方に向かって滑ってくる車は、翔太が運転する車に激しく衝突した。相手の車は、スノータイヤをおそらく装備していなかったのだろう。翔太の車と衝突しながらも、尚もガードレールに擦れながら、やがて電柱に衝突してやっと車は止まった。
「祐子、大丈夫か?」
「あぁ——。痛い、お腹が——痛い……」
翔太は自分の車を動かそうとした。しかし車とぶつかった衝撃で翔太の車は、溝に脱輪してしまっている。これでは動かない。
「ちっ、ちくしょう——。病院は目の前だっていうのに……。あの野郎——」
翔太は自分の車が動かないので、相手の車の所へ走っていった。相手の車の運転席のドアを勢いよく開けると運転者に向かって怒鳴りあげた。
「この野郎——! 何処見て運転してんだ。こっちは、出産だっていうのに、お前の所為で、もし流産でもしたら、俺はお前を絶対許さないからな——」
翔太の形相に相手の男はビビっている。初めての事故に気が動転しているのかも知れない。
「ごめんなさい——。ごめんなさい——」
「おい、免許証出せ。これは俺が預かっておく。どうやらこの車も使えないみたいだが、逃げられてもかなわないからな。おいお前、病院と警察に連絡しろ」
「はい——。でも車は動かないんです」
「馬鹿野郎——! お前には二本の足が付いてるじゃあねえか? 走って行け。走って。近くの民家の電話を借りればいいだろ。分ったか? 分ったら早く行け!」
「は、はい」
翔太は心底怒っていた。いや焦っていたのかも知れない。祐子の拒食症も治り、やっと出産までたどり着いた。しかし又、それを邪魔するかの様に、事故になってしまった。早くなんとかしないと——。
早く祐子を病院へ——。その思いだけでいっぱいなのだ。だからついつい暴言を吐いてしまったのだ。
『この時代は、携帯電話の無い1980年代。数十年後にポケットに入る電話など誰が想像しただろうか。この時代に携帯電話があれば、もっと早く、もっと違う意味で多くの難を最低限で回避出来たのかもしれない……』
相手の男が雪の降っている中、近くの民家へ入って行くのを確認した翔太は、自分の車へ戻った。
「祐子、今救急車を呼びに行かせたからな……。もう少し、頑張ってくれ……」
翔太は車の暖房温度を上げ、祐子の手を握りしめた。車がぶつかった時、翔太の運転席側のドアの窓は割れ、そこから雪と冷たい風が吹き込んでいる。割れたガラスで翔太の額から血が流れている。後部座席の祐子の方は外傷は無いみたいだが安心は出来ない。
もう二度と、
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