現世へ再転生の章
第1話 停滞
サチコの居た下界では、サチコの亡くなった日から四十九日が過ぎ様としていた。
あの日から、ずっと翔太と祐子は悲しみに暮れていた。朝起きても愛娘を失った喪失感で、なにもやる気はしない。カーテンも開ける事もなく只、茫然としている。
翔太の会社の人事課も、いや上司も本来なら慶弔休暇は五日しか無いのに、愛娘を失った事を考慮し何も言わないでいた。それは翔太の人徳であろう。
祐子はなぜか朝はサチコの生前どおり早く起き、洗濯と朝の食事の準備を行い、サチコと翔太の二人のお弁当の準備を毎日していた。
その後、サチコを起こしにサチコの部屋に入ると、祐子の時間がそこで止まってしまった。
あの子はもういないのに――——。
頭では解っているつもりなのに、心が納得出来ないでいた。
その後、翔太と祐子はサチコの遺影の前で一日を過ごすのであった。
そんな二人を見かねてか、権蔵と八重子は毎日の様に夢野家に来ていた。
「翔ちゃん、祐子さん、今日は息子から、活きのえぇ~魚が届いたぞ。この魚で一杯、やるべぇ~」
権蔵と八重子は気遣って祐子の家に行っていた。しかし彼等の心遣いは、果たしてこの二人に届いているのだろうか? そんな疑問が沸いて来る様な、まるで心を抜かれている感じがしていた。
しかし、ある日そんな翔太と祐子に来客があった。翔太の会社の課長である柴田が訪ねて来た。
「翔太君、愛娘を失って、本当に君に掛ける言葉が見つからない——。何と言って、良いか……。しかし、君も私も、一塊のサラリーマンだ。私もこんな事は言いたく無い。しかし、私の立場を分かってくれ。我々は、会社の使われ人なんだよ。君の休暇も底を尽きた。もうそろそろ、会社へ来てくれないか? すまない……。こんな事しか言えなくて、私は自分が恥ずかしい」
柴田課長は自らを恥じ、苦悶の表情を浮かべている。
「いえ、課長、私も会社の人間ですから解っています……。どうもご心配掛けましてスミマセン。ただ家内の事が——」
「うん、分ってる。私も分っている。実は私も、十年前、妻が事故に遭って半身不随になったんだ。だから、仕事が手に就かない君の気持ちは痛いほどよく分る。
先程、人事の部長とも話をして来たんだ。だから、君の好きな時間に会社に来て、好きな時間に帰宅してもいい。しかし、この期間は一月しか与えられない。私個人の力はそこまでしか無いんだよ。どうか、今回の事で、会社を辞めないでくれ。私は個人的に、君の力を買っているから……」
「ありがとうございます、課長。こんな、私の為に……」
柴田課長の言葉には、同じ心の痛みを分かち合える響きがあった。課長は霊前に手を合わせ、線香を上げると帰っていった。
裕子は依然として、サチコの遺影の前に黙って座っている。サチコを病院で看取ってから、初七日が済むまで泣き続けていた。
病気で亡くなれば、事前に覚悟が出来る。しかし、不慮の事故ならそんな事は微塵にも思わないだろう。
どうして、あの子が——。私が代わりになれば良かったのに——。と毎日の様に自分を責めて泣き続けていた。
しかし、もう四十九日だ。今日の午前中に、お寺へ行ってサチコの為に、お経をあげてもらい、お墓に納骨も済ませてしまった。
泣くのは止めた様だが、依然として心のキズは癒えていないのである。翔太の心のキズも同様だが、それ以上に裕子の事を気にしていた。裕子の顔が、見た目以上にやつれているからだ。翔太は裕子にそっと声を掛けてみた。
「裕子、たまには庭に出て見ないか? 外はいい天気だぞ」
翔太は部屋のカーテンを開けた。部屋が暗いと心まで暗くなる。お日様の光は落ち込んだ心を癒してくれる。庭に続く窓を開けると、新緑を包んだ柔らかな香りが部屋の中に入ってくる。
無言のままの裕子の手を取り二人は外に出た。
外は五月日和で、
しかし、庭に出て見ると裕子は驚いた。今まで精魂溜めて世話をしてきた自慢の庭が酷い荒れ様になっていたからだ。花は枯れ、雑草は伸び放題。まさに荒地状態だ。
「大変——! 私が放っておいたから、こんなに荒れちゃった。ごめんなさい」
裕子はそうポツリと呟くとその場に座り、雑草を抜き始めた。翔太もつられて草を抜き始めた。
何だっていい、悲しみの事を忘れるぐらい集中出来る物が有れば……。
翔太と裕子は、何かに取り付かれた様に約二時間草取りに励んだ。お陰で、花壇は見違えるほど綺麗になった。穏やかな天気が二人の体中を照らしていた為、体温も上がってくる。草取りといえど、綺麗になると充実感がやってくる。
「ふう、大分綺麗になったわ。ねぇアナタ植え替え用の新しい花買ってもいい?」
「ああ、いいけど……。無理すんなよ。どうせなら、明日にしたら?」
「そうね、明日朝一番の方が、ホームセンターに良い花が有るかも知れないわね。
じゃあ、明日にするわ。それとアナタ、さっき課長さんが来られたんだから、仕事行ってみたら……。その方が気も紛れるわよ。私の方は大丈夫……。明日も良い天気みたいだから、庭のお手入れしてるから」
庭の手入れをする事で、傷ついた心を幾分か癒す事が出来た様だった。
「じゃあ、明日から仕事に行くよ。何か、あったら会社へ電話をくれ。それと、八重子さんにも時々
明日から心機一転せねば。と言う想いが、お互いの心に通じていった。
翌日から翔太は会社へ、裕子は庭の手入れをしている。
今まで休んでいただけに翔太は会社の仕事が溜まっていた。営業という立場を利用し、時々家に裕子の様子を見に帰っていた。
祐子は相変わらず庭に出て花の手入れをしていた。庭も以前の様に花が咲き乱れ祐子の自慢の庭に戻っていった。
これなら祐子も大丈夫かな? アイツは両親と早く死に別れた分サチコを溺愛してたからなぁ。俺もサチコの事は、忘れる事は出来ないけど、思い出さない様にしよう——。全ては時間が解決してくれるだろう。
翔太は祐子の様子を見ながらそう勝手に思っていた。しかし、そんなはずなど無かった。祐子は、在りし日のサチコと一緒に庭の手入れをしていた頃を思い出していたのだ。
もう人前では泣かない——。そう心に決めていた祐子。しかし、独りぼっちになると、やはり人恋しさの為か自然と涙が出てくる。涙が出てくると家の中で泣き、落ち着くと再び外に出てくる。そんな事の繰り返しだった。
一方、翔太に祐子の様子を時々見るように頼まれた八重子も、田植えの準備に明け暮れていた為、すっかり忘れていた。初めの内は時々祐子の様子を見に来ていた。庭に出て花の世話をする姿を見て、 ああこれで、もう大丈夫だろう。と勝手に思っていた。いや、そう思わずには要られないのだ。なぜなら、権蔵、八重子夫婦はこの地区一帯の地主で、今は田植えの事で、猫の手も借りたいほど忙しい日々が続いているからだ。そう勝手に解釈する事で自分自身に言い訳を作っていたのだ。
忙しさの中、夢野家とは距離があいていった。
そんなある日の事、翔太も久々の残業となった。今まで溜めていた仕事に加え、決算の日が近づいていたからだ。
家に電話を掛けてみる。長い呼び出し音の後、留守電サービスの音声が流れた。
あれっ、買い物でも行ったのかな? 翔太は残業の旨を留守電に入れ仕事に集中した。
午後二十一時を過ぎ、ようやく仕事のメドが着き、帰宅出来る様になった。
さあもう帰るか……? そう呟くと、書類をまとめ、会社を後にした。
空には久々に満月が浮かんでいた。
翔太は自宅へと帰って来た。いつもなら部屋の灯りが付いているのに、今晩は真っ暗だ。
おや、寝ているのかな? そう思いながら玄関のドアを開けて中に入る。暗闇の中、手探りで部屋の灯りのスイッチを探している。その最中、翔太は何かにつまずき転びそうになった。
「うわっ――! なんだ一体——?」
慌てて部屋の灯りを点けると、足下を見て驚いた。祐子が倒れていたからだ。
「祐子、どうした? 大丈夫か——?」
とっさに翔太は祐子を抱き起こし脈を取ってみた。脈はある。よかった、大丈夫の様だ。しかし、話しかけても意識が無い。
翔太は不安に陥った。愛娘サチコだけでなく、妻祐子まで失いそうに感じたからだ。
「祐子、待っていろよ。今救急車を呼んでやるからな――——」
翔太は祐子をそっと降ろすと、救急車を呼んだ。
翔太の電話から数分後悲しくも、騒がしいサイレンと共に救急車がやって来た。
家の外では、救急車のサイレンの騒ぎを聞きつけ、権蔵と八重子の姿もあった。
「翔ちゃん、どうしたんじゃ? なにがあったんじゃ?
心配する二人であった。しかし翔太は、そんな二人にかまっていられない。
「じいちゃん、ばあちゃん、後で電話をするから——。早く、祐子を病院へ、お願いします」
祐子はタンカで搬送され、翔太は付き添って病院を目指した。
病院に着くと、待ち受けていた医師達によって、検査が始まった。長い検査の後、医師は翔太を医務室に呼んだ。
「先生、妻の具合は?」
翔太の問いかけに、医師は振り向きながら不機嫌そうに答えた。
「ご主人、大変な事になる所でしたよ」
「えっ——!どういう事ですか?」
「極度の栄養失調です。検査の結果、お腹に赤ちゃんがいる事が解りました。もう少しで、流産する所でした。ご主人、一緒に暮らしていて、気が付かなかったですか?」
サチコが亡くなる午前中、祐子は病院で妊娠の事実を知らされていたが、突然の不孝で翔太に妊娠を告げられないままでいた。
「えっ! 祐子が妊娠? お腹に赤ちゃんがいる? 裕子が栄養失調——?」
翔太は驚き、医師に静かに語り出した。一ヶ月前突然の事故により、愛娘サチコが亡くなり、妻祐子が深い悲しみに包まれた事を――——。
「そうでしたか——。それは、大変お気の毒でした。恐らく奥さんは、悲しみのショックで、食事が満足にとれていなかったのだしょうね。もしかしたら、拒食症になられたかも知れません。このまま入院して下さい。様子をみましょう」
「先生、妻を、祐子をお願いします」
「大丈夫です。お任せください」
医師はそう言うと、翔太の肩をやさしく軽く叩いた。
その後、翔太は祐子の病室に訪れた。祐子の側に行き、手を握り顔を眺めている。
「祐子、がんばれよ。早く良くなってくれ——。サチコばかりでなく、お前まで失ってしまうと俺は、俺は……」
夜の闇が少しずつ変わろうとしていた。少しずつ、黒から青へ、そして赤へ。やがて、重苦しい夜が明けようとしていた。
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