天界の章
第1話 狭間の場所
どれくらいの時間が経っただろうか? いや人間の時間にして、数秒ぐらいしか経っていない。しかしサチコにとっては、重く辛い別れは無限の時間と感じただろう。
やがて、サチコを連れた天使の一団は上昇するのを止め、ある空間で止まった。
なにも無い空間。そう天界人は狭間の場所。言い換えれば『休息と決別の場所』と呼んでいる。天使達はサチコをその場所に静かに降ろすと、一人の天使を残し何処かへと去ってしまった。
そこに降ろされたサチコは、どうしていいか解らず茫然としている。
「ここは、天国?…………」
あたりを不安げに見回しているサチコに、一人残った天使が近寄った。
「いえ、違います。ここは死者の休息と決別の場所。あなたには、此処がどんな風に見えますか? 心の目で見て下さい」
天使の言葉が、やけに暖かく心に響く。サチコはあたりを見回した。
「何にもないよ。だって、見えるもの全部真っ白なんだもん——」
「真っ白ですか? アナタは本当に、ピュアな魂の持ち主ですね。そう、この天界ではその人の心が、現実として投影されるのです。ある人は、お花畑だとか大きな川が流れているとかいう人がいます。それら全てが、その人の心を大きく投影しているのです。想念の世界。いわゆるイマジネーションの世界だと思って下さい」
五歳の女の子にこんな話をしても、地上の現代に生きる人間では無理だが、魂だけの存在となったサチコには不思議と容易に理解する事が出来た。
「じゃぁ、此処を自分の思う世界に出来るの? おもちゃをいっぱい出したり、お菓子やジュースをいっぱい出したり出来るの?」
サチコの屈託の無い質問に天使は笑顔で受け止めてくれる。
「出来ますよ。では、やってみましょう。何が希望ですか?」
「うーん……。ジュースが飲みたい」
「では、あなたの欲しいジュースを思い浮かべて見て下さい」
天使に云われるとサチコは、大好きなアップルジュースを思い浮かべた。するとどうだろう。サチコの目の前にコップに入ったアップルジュースが出てきた。
「うぁ~これ本物?」
「飲んで見て下さい」
天使に言われるまま、サチコはそのコップを手にして飲んでみた。
「うぁ~美味しい! これ本物だー」
「次は、このあたりを、お花畑にしてみませんか?」
天使の提案にサチコはうなずいた。元々、母親の影響で花は大好きだからだ。目を閉じて無限に広がるお花畑を心に描いた。次に、ゆっくりと目を開けた時、目に見える範囲全てお花畑となっていた。
「うぁ~すごいー! 本当になんでも出来ちゃうんだー」
「全ての事がなんでも、と言う訳にはいきませんが、大体の事は出来ます。この場所での滞在時間は、人間界の一日しか有りませんが、ゆっくりと楽しんで下さい。もし、何か困って私の助けがいるようでしたら、心の中で念じて下さい。すぐ駆けつけますから。では――――」
そう言うと天使の体は霧の様に消えてしまった。一人取り残されて不安は有るものの、想像が現実化するこの想念の世界はたまらなく魅力だ。サチコは次に何を出そうか考えた。
そうだ、あの可愛いワンちゃんをいっぱい出そう。
そう思いサチコは又、目を閉じた。サチコが亡くなるほんの数時間前、祐子とサチコに道を尋ねた女が車の中に連れていた犬だ。
再び目を開けると、あの犬が数匹現れ、サチコの周りをうれしそうに走り回っている。初めは犬たちと遊んだりしていたが、次第に飽きてしまう。オモチャを出したりケーキを出したりと、一通りの事をするとやがて飽きてきた。
そうなのだ、此処にはサチコ一人しか居ないからだ。どんなに自分の欲しい物を手に入れても、一人ぼっちでは辛い。寂しいのだ。試しに幼稚園の誰かを思い浮かべてみた。しかし、サチコの前には現れなかった。今度は大好きな母親を思い浮かべてみた。やっぱり現れない……。
なぜ、人が現れないのか解らないが、孤独と云う現実からは逃れられないようだ。
サチコはどうしていいか解らず、たまらなくなり泣き出してしまった。
「ママに会いたいよ——。ママ――――」
忘れていた自分の死の事実と、人恋しい寂しさで胸が苦しくなる。足下に座り込み泣き続けた。涙が止まらない。後から後からあふれ出す涙は、頬をつたわり地面へと流れ落ちた。孤独感が胸を押しつぶす。
一粒の涙が地面へと落ちた瞬間、先程まであたり一面お花畑だったのが、一瞬にして最初の真っ白な世界に戻ってしまった。当然の事ながら犬たちや、オモチャ、ジュース、ケーキなども消えて無くなってしまった。
しかし、そんな事はサチコにとってもうどうでもいい事だった。色々な物が現れたが、サチコにとってなんの慰めにもならない事はサチコ自身よく解ったからだ。
天使達が言った『休息と決別の場所』と云う意味が何となく解る気がする。物に執着している魂なら、想像が物質化するこの世界では満足するだろう。しかし、愛情に執着する魂なら、決別の意を持って諦めるしか無いのである。まさに『死者の休息と決別の場所』なのである。
どれくらい泣いたのだろうか、足下には涙が落ちて溜まっている。人間界の様に、地面に水分が吸収されない。いわば、ガラスの上で水をこぼした様に水分が広がっている。やがて泣き疲れてサチコは横になり眠ってしまった。魂だけの存在でもやはり眠ってしまうようだ。この世界に来て少し疲れた為か、眠るとサチコは夢を見た。
大好きな母親と一緒にいる夢だ。夢の中でサチコは母親と遊園地にいた。サチコは大好きなメリーゴーランドに一人で乗っている。
母親の祐子は、柵の外でサチコに手を振っている。段々と木馬の回転が速くなって来た。
怖い。そう思ったが、木馬は益々回転速度を上げた。柵の外に目を移して見たが、先程まで居た母親の姿が無い。
怖い、ママ——。助けて——。
そう叫んだ瞬間、サチコの身体は一度ビクンと痙攣した後、夢から覚めた。
ひとりぼっちの真っ白な空間で、夢から覚めたサチコはゆっくりと体を起こした。
足下には、先程自分が流した涙が溜まっていた。まるで水鏡の様になっている。サチコはそっと覗いてみた。涙でグシャグシャな、自分の顔が見える。とたんに寂しさが襲ってきた。
ママに会いたい——。と叫んでいた。すると、サチコの涙で溜まった水鏡の様な水溜まりが揺らぎ始めて、下界の様子を映し出した。
サチコの葬儀が終わり、家の中に居る母祐子と父翔太を、TVを見ているかの様に見える。
ママ、パパ——。たまらず、話かけるサチコ。しかし、声は届かない。食い入る様にサチコは水鏡から両親を見つめている。
そうなのだ。この世界は思いが現実化する世界なのだ。なぜか、人を呼び寄せる事は出来ないが、思いが強ければ下界の様子を見る事は出来るのだ。
サチコは両親の姿を、かい間見る事が出来てほんの少し落ち着いた様だ。
自分はもう死んでしまっている。声も届かない。抱きしめてもくれない。そう頭で解ってはいるものの、納得出来ない。考えるだけで胸は苦しくなってくる。
そんな時、サチコの横に誰かが立った。そちらを見ると、あの天使が微笑みながら居るのが解った。
「大変残念ですがもう時間です。心の準備は出来ましたか?」
天使の言葉が妙に優しく心に響く。
しかし、心の準備と云ったって、サチコには諦めきれないでいた。首を横に振ったまま、まだ水鏡で両親を見ている。
天使はそっとサチコの手を取ると、フワリと宙に浮いた。サチコは両親の姿が見られなくなった為、天使の手を振り解こうと暴れた。
「いやだ――――」
しかし、天使はそれを許さなかった。光の渦目がけて、一気に上昇を始めた——。
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