第4話 奈落……。


「うぇ、くしゅおん——。ううっ、寒い——さむ」


 次の朝翔太は自分のクシャミで目覚めた。昨夜雪が降ったので、気温はかなり下がっている。いくら病室に暖房が効いていても、毛布だけで布団が無いのでは風邪を引いてしまう。

 頭に手をやると、昨日の事故で巻かれた包帯がずれて落ちてしまった。


「あっ、そうか? 昨日事故をしたんだったな。車の移動と、警察に連絡しなきゃ……」


 ゆっくり起き上がると、翔太は裕子を起さないようにそっと病室を後にした。


 ナース・ステーションに寄って裕子の事を頼むと、翔太は警察に電話を入れた。

 警察には昨夜相手側から連絡があったので、『免許証を持ってもよりの警察署に出頭するように』と言われた。翔太は一瞬むっとしたが、相手の免許証を人質として持っているので仕方が無い。


 タクシーを呼んで警察署に行く事にした。警察署までの道中に昨夜の事故現場がある。二台の乗用車は放置されたままだ。


 レッカー車も呼ばないと……。そう思いながら警察署へ向かった。


 警察署で事故処理の話を行い、そこから知人へ電話を入れた。勿論、保険会社とレッカー車の手配だ。すぐに手配する。という連絡を受けると、ようやく翔太も安堵の表情になった。


 自分の車の所為で道が渋滞になったら大変だ。責任感が強いのが翔太の良い所だ。


 再びタクシーを呼んで、道路に放置されている自分の車の所へ戻った。相手の車はもうすでに無かった。数分待つと、車の板金を営んでいる知人が、レッカー車に乗ってやってきた。レッカーに吊り上げられてすぐに翔太の車は道へ復帰した。翔太は運転席の窓が割れた自分の車に乗り、知人のレッカー車の後に付いて板金屋へとゆっくりと向かった。


 知人と修理の話をして代車を借り、再び裕子のいる病院へと向かった。

 



 病院へ着いたのは昼前ぐらいだった。病院へ着くと、翔太は再び公衆電話から電話を掛けた。実家の親と権蔵夫婦に裕子の出産の報告を忘れていたからだ。


「もしもし、俺翔太。実はさっき無事子供が生まれたんだ。こっちへ来る用があればのぞいてやってくれないか? 祐子も淋しがってるしさ。えっ、何? どっちだって? 女の子だよ。俺に似ず、祐子に似てるから、可愛いぜ。えっ、昼飯食べたら来るって? ありがとう、待ってるから……。じゃぁ——」


 電話越しの声は、やけに明るかった。突然の不幸によってサチコを失い、裕子は悲しみの淵へと追いやられてしまった。その悲しみを乗り越えての新しい命の誕生は、悲しみを吹き飛ばすには十分過ぎる程の朗報だ。


 喜びに浮かれている翔太は、自分が空腹である事に気が付いた。


 そうか、朝からまだ何も食ってない。じいちゃん達が来るまでに、何か食っとこうか? そう思いながら、翔太は病院の奥へと向かって歩いて行った。


 この病院は、この県下最大規模を誇る大きな総合病院だ。設備も最新の物を用意してあるし、多くの専門医がいる。更に病院内に多くの施設まで揃っている。理髪店や、花屋。大きな売店。カフェや食堂まである。


 翔太は食堂へ行き、少し早めの昼食を一人でとった。食事が終わると花屋へ行き、祐子の為に花を買った。


 祐子は花が大好きだからこれで喜ぶかなぁ? 花を片手に、祐子の待つ病室へと歩いていった。




 コンコン——。


 寝ている者を起こさない様に少し遠慮がちにドアをノックした。病室からは反応が無い。あれ、まだ寝てるのかな? そう思いながら翔太は病室のドアを開け中に入った。中に入りながらベッドに目をやると祐子はベッドに横たわったままだ。


 ベッドの脇のテーブルには朝食と薬が置いてある。恐らく朝看護師が置いていった物だろう。まだ手を付けていない。


 仕方ない、祐子も疲れているんだろう。昼食が来たら起こしてやろう。そう思い、翔太は買ってきた花を花瓶へ生けるとTVを点け、祐子を起こさない様にイヤホンでTvを観ていた。


 暫くすると病室の外の廊下がにぎやかになった。廊下では、昼食の配膳が始まった様だ。やがて、祐子の病室のドアがノックされた。


 コンコン——。ガラガラ——。


「失礼しますー。夢野さん、お昼ですよー」


 TVを見ている翔太がドアの方に振り返ると、若い看護師がお昼のお膳を持って立っていた。


「ああ、ご苦労さまです——」


 翔太が声を掛けると、膳を運んでいる若い看護師は翔太に気が付き、微笑みながら話かけた。


「ああ、旦那さんですか? おめでとうございます。無事、赤ちゃんがお生まれになったそうで、本当におめでとうございます。これ、昼食です。奥さんが、起きられたら食べてください。って、朝ごはん、まだ食べてなかったんですね。でもどうしましょう? この朝ごはんご主人食べますか?」

「いや、さっき食べましたから、申し訳ないですけど下げてもらえますか」

「はい、分かりました。じゃぁ、また後で来ますね」


 昼食の乗った膳をベッドの横のテーブルに置くと、若い看護師は会釈をして朝ごはんの膳を持って、病室から出ていった。


 そろそろ祐子を起こそうか? そう思いながら翔太は祐子に声をかけた。


「おい祐子、そろそろ起きないと……」


 祐子に声を掛けるが、反応は無い。

 あれ? いつもなら物音がしただけで起きるのに……。と翔太は思った。試しに体を揺すってみる。


「祐子? もう昼だよ——」


 翔太が声を掛けながら、体を揺すっても祐子の反応が無かった。不安が翔太の心をよぎる。尚も、祐子の体を激しく揺すってみるが、やはり反応が無い。

 軽いパニックになりながらも、ナース・コールを押し天上に向かって叫んだ。


「看護師さん、早く来て下さい——。祐子が、裕子が起きないんです——」

「分かりました、すぐ行きます——」


 翔太の知らせを聞き、看護師がすぐにやって来た。看護師は翔太同様、祐子に声を掛けながら祐子の体を揺すってみた。


「夢野さん、夢野さん——。祐子さん、起きて下さい」


 やはり反応は無い。やがて看護師は祐子の脈を測り、ペンライトで瞳孔を調べた。瞳孔はかすかに反応は有るが、意識が戻らないようだ。


「すぐ先生を呼んできます——」


 その言葉を残し、看護師は慌てて病室から出ていった。


 すぐに医師と数人の看護師が、裕子の病室へストレッチャーを押しながら入って来た。医師は裕子の脈と瞳孔を調べ、翔太に言った。


「ご主人、これからすぐに奥さんの精密検査を始めます——。どうかご心配なさらないで下さい。さあ、君達、奥さんをストレッチャーに乗せるんだ」


 医師は看護師に指示を出し、裕子を乗せたストレッチャーと共に病室を後にした。


 なんだ? 裕子は一体、どうなるんだ? 翔太は不安にかられながら、医師達の後を追いかけた。


 診察室の中で、裕子は色々な機械を体中に付けられ、又色々な検査室へ移動させられている。数時間が過ぎようとしていた。







 その後、誰も居ない裕子の病室を訪れる者がいた。


 コンコン——。ガラガラ——。


「ありゃ、誰もりゃせん。部屋を間違えたんかのぅ?」


 そう言って権蔵はドアの番号と名前を確認した。「305号 夢野裕子」と書いてある。


「やっぱりここじゃ。はて、二人とも何処へ行ったんじゃろうか?」

「まあまぁ、おじいさん。少し待ちましょうよ。すぐ二人共戻って来ますから……」

「そうじゃのぅ」


 権蔵と八重子はTVの電源を入れ、TVを観ながら待つ事にした。


 権蔵と八重子がこの病室を訪れてから、約一時間が過ぎようとしていた。TVの画面では、三時の時報と共に番組が替わったようだ。




 ガラガラガラ——。


 部屋のノックをしないまま、翔太が病室へ帰ってきた。


「おお、翔ちゃん。おめでとう。裕子さんと、あか——」


 翔太に気づいた八重子は声を掛けた。しかし、翔太の顔を見ると、とても喜んではいられない気配を感じた。言葉を詰まらせてしまった。よく見ると翔太の目は赤く充血し顔色が悪い。なにかあったのだろうか? 権蔵がそっと声を掛ける。


「翔ちゃん、一体どうしたんじゃ?  何かあったんか?」


 翔太は目を真っ赤にし、今にも泣きそうな表情でふらふらと権蔵の前に来た。そして、権蔵に覆い被さる様に抱き付いた。


「じいちゃん——。俺、どうしていいか、分からない——。何で祐子が? どうして俺の家族には不幸がつきまとうんだ?」


 権蔵に抱き付いたまま翔太は泣いた。こらえきれない思いが一気に解き放たれる。後から後から涙が湧いて出てくる。


 暫くの間祐子の居た病室では、翔太のすすり泣きの声が、寂しそうに響いていた。





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