第14話 焦燥


 そして数日が過ぎた——。


 サチコがミツバチとして覚醒してから、はや四十五日が経った。


 毎日、蜜のしずくを少しずつコップへと運んでいたが、まだコップの六割程度しか満たしていない。晴れの日ばかりでは無い。曇りの日もあれば、強風の日もある。毎日のハチミツの採集量も一定ではない。花も咲いた後は萎れてしまう。自然の摂理にはとうてい叶わない。



 あと十五日しかないのに、間に合うだろうか?……。自分には無理なのか……。

 間に合うのだろうか? 焦る心が折れようとしている。


 しかし、やらないといけない。折角、神官がくれた再生へのチャンス。いや、母親の命がかかっている。折れそうな心を奮い立たせてはみるがコップに蜜が溜らない。




 あと十五日でサチコの寿命も燃え尽きるのだ。サチコは焦っていた。


 いつも通り、朝目覚めたサチコは驚いた。いつもなら仲間の誰かが起こしてくれていたのに、今朝に限って誰も起こしてくれない。それにまだ誰も起きてこないのだ。


 あれっ? 今日は、やけに羽根が重たい。と思い、巣穴の入り口の所へ行って外を見てみた。


「雨だ、雨が降っている——」


 これでは外に出る事は出来ない。自分の体の半分ぐらいの大きさの水の雫が、空から降っているのだ。当然雨に当たれば、地面へとたたき落とされるのは確実だ。


 仕方が無い、雨が止むまで待とう……。いや、待つしかないのか……。


 サチコはそう思いながら、外が見える巣穴の入り口の所へ座り込んだ。反対方向の仲間達を見ると、誰一人起きて来る者がいない。恐らく本能で、気温と湿度を感じ取って、今日は仕事にならないと解っているのだろう。


 しかし、サチコは焦っていた。 雨よ、早く止んで……。と願っている。


 やがてこの雨の中、巣では起き上がってくる者達がいた。よく考えれば、外に雨が降っていようが巣の中では関係ないのだ。お腹を空かせた幼虫達が、食事のおねだりをし始めた。又、卵を入れる部屋も作らなければならない。


 こんな時、貯蔵庫が有るのでかなり助かる。太陽が出てないのでミツロウは作れないが、幼虫達の食事の世話はなんとかまかなえる。枯れた楠の木の空洞にある巣は、雨が降っても平気でしのげれる。仲間達の約半分は起きてそれぞれの仕事をこなしている。


 サチコは壁にもたれて、外と中の様子を交互に見ていた。


 暫くすると、サチコは自然と眠っていた。無理もない、一般のハチ達より重労働をしているのだ。他のハチは、多くのステップを得て蜜の採取を行っているが、サチコはいきなり蜜の採取をしている。ミツバチは自分の体重の五分の一の重さの蜜を運んでいるのだ。


 仮に人間の大人の体重が、六十㎏あるとしたら、十数㎏の物を休み無く運べと言われたら、あなたは一日もつだろうか? これは、かなりの重労働なのだ。人間で云えば過労死するかも知れない。


 サチコの疲労も、もはやピークに達している。この雨は、サチコにとって幸となるか、不幸となるかは解らない。ただ、疲れた体を癒すには、十分な休息日となっただろう。






                           サチコ 四十五日目終了



 ◇ ◆ ◇ ◆





 一方、人間界では権蔵はテレビの天気予報を見ていた。田畑の事で、長雨を気にしていたからだ。テレビでは、【異例の事態です。張り出した強い梅雨前線の影響で、台風五号が日本列島に接近しています。梅雨の前に台風が上陸するのは、異例の事態です。この三日間は暴風雨が降るでしょう。家の戸締りと河川に注意して下さい】と、無表情でキャスターが言っている。


「おい、八重子。梅雨の前に台風が来て、長雨になるんだとよ~。まいったな~ちくしょ~。田植えができねぇじゃねぇか~」


 権蔵は八重子と話をしていた。もうすぐ田植えが始まってしまう。田植えの準備もしなくてはならない。田植え前の田んぼの多くは代搔しろかきを済ませている。田植え前に、水が多く入り込むと田植えも出来なくなってしまう。田んぼの水の番もしておかないとならないのだ。





 ◇ ◆ ◇ ◆





 やがて夜となり朝が静かに訪れた。


 やはり、昨日の天気の事で気になっていたのか、サチコは誰よりも早く目覚めた。外が見える場所まで行ってみた。


「雨だ、今日も雨が降っているなんて——」


 サチコは肩を落として、昨日と同じ場所で、外と中を交互に見ていた。では、疲れが取れなかったのだろう、知らない間にサチコは又眠ってしまった。




 台風が来ている事を、果たしてサチコは知っているのだろうか? 後もう、十三日しかないのに……。


 外では無情の雨が降り続いている。止む様子は全く無いようだ。むしろ風雨の勢いは増しているようだ。夜中になっても風雨の勢いは変わらない。その勢いは一晩中続いた。




 次の日の朝もサチコは一番に目覚めた。外の見える場所へ行って見たが、今日も雨が降っている。仕方なく又、今日も外が見える場所で外と中の様子を見る事にした。


 サチコは苛立っていた。


 これじゃ、絶対に間に合わない。と……。台風の接近により、午前中は風雨の勢いは更に増した。この巣がある枯れた楠が、ギシギシと悲鳴のような音を立て揺れている。


 午後になり、風雨は一旦止んだ。


 サチコは、今しか無いと思い、羽ばたきをして外に飛び出そうとしていた。それを見ていたミルはサチコを止めた。


「アッ、サチ様、まだ外は——」


 ミルの制止を聞かず外に飛び出したサチコは、又急に降りだした雨に打ち落とされた。


「キャアッ—————」


 自分の体ぐらいの水の雫が空より加速度を増して落ちてくるのだから、飛び続けることは決して出来ないのだ。無惨にもサチコは地面に落ちていった。


「サチ様————」 


 仲間達は心配そうに、楠の穴から地面のサチコを見ている。しかし、どうにも出来ない。サチコを助けたいのは山々だが、今、外に出たら自分も地面へたたき落とされてしまう。誰もがそう思っている。今外に出るのは、勇気では無い。無謀なのだ。


 しかし、その無謀を誰かがやった。楠の向かいに有る野生のフキから何者かが、サチコ目がけて飛んでいった。その者はサチコを抱えると、又居たフキの下へと飛んで行った。

 フキという植物は、大きな葉が茎一本に対して一枚しかない。その代わり葉はかなり大きい。風には弱いが雨はかなり、しのげれる。


「おい、なにやってんだ。大丈夫か? しっかりしろ」


 サチコを助けたその者は、サチコに語り掛けてくる。しかし高い所から落ちたので気を失っているのか返事が無い。

 しかし、サチコはすぐに気が付いた。元々、虫なので骨が無い。内蔵も簡単に作られているので外因性の打撲、ショックには強いのだろう。


「あなた、だれ?」


 サチコは飛べなかったショックで、茫然として聞いた。


「おいおい、もう忘れちまったのかい? 俺だよ、俺。この前、アリから助けてもらったじゃないか。それにしてもアンタ無茶するねえ。こんな雨の中、外に出るんだから、死ぬ気か? 俺達カミキリムシでさえ、こんな日はじっとしているもんだぜ」


 だれ? そう言えば何となく覚えがある。そうだ、以前エリーと一緒にカミキリ虫をアリから助けた覚えがある。あのカミキリムシだ。


「あっー思い出した。助けてくれて有り難う。私、やっぱり飛べなかったんだ?」

「当たり前だろ、こんな日に飛べるヤツなんて居るわけないさ。まあ、雨が止むまで俺とここに居るしかないな。ところで、なんでこんな無茶したんだ?」


 名も無きカミキリ虫はサチコに心配そうに話しかけた。一方、サチコは長雨で蜜を集められない苛立ちが、諦めモードになっているのか、カミキリムシに寄りかかり泣き出してしまった。


「この雨で、蜜を集められない——。ママが、ママが、助からない——」


 サチコは泣きながら、カミキリムシに話しをした。生前は人間だった事。母親を助ける為にミツバチとなり、コップへ蜜を集めなければならない事を——。


 カミキリムシは初め信じられない顔をしていたが、サチコの真剣な表情から真実だと悟ると静かに聞いていた。


「ふーん、俺には良く解んないけど大変そうだな? おっ、そうだ。確か、アンタ達の巣には、なんでも偉い女王蜂が居るんじゃないか。その女王様に相談したらどうかな?俺より良い知恵が有るかも知れないぜ」


 そうだ女王様だ。相談してみよう。サチコはそう思った。同じ巣に住んでいながら、まだ会った事は無い。しかし、以前エリーも女王様の事を 『指導力のある優しい方だ』と言っていたのを思い出した。


「ありがとう。私、巣へ戻ったら女王様に相談してみる」

「ああ、そうした方が良い。おっ、雨が止んだみたいだな。アンタの仲間達が心配して迎えに来たみたいだぜ」


 カミキリムシがそう言うので、サチコは振り返って巣の方を見た。


 今、風雨が止んでいる。どうやら、この地域は台風の目に入ったのだろう。巣の方からは、サチコを心配した仲間達が大勢サチコを探しにやって来ている。


「サチ様——」

「じゃあな、俺にも何か出来る事があったら何でも言ってくれ。まだアンタに助けてもらった恩を返してないからな」


 そう言うと、カミキリムシは大きな羽根を広げ何処かに飛んで行った。


 ありがとう。サチコはカミキリムシの飛んで行った方向を暫く見ていた。




 自分も仲間の元へ帰ろう。と思いサチコは羽ばたきをして勢いよく飛び上がった。仲間達はサチコに気付き、サチコの元へ集まってきた。


 ウッ、痛い。羽根の付け根が、痛い。サチコは失速し再び地面へと落ちていった。近くにいた仲間が寸前の所でサチコを支えた。どうやらサチコは巣から地面へ落ちた時、背中を強打したようだ。いくら虫でも高い所から何度も落ちれば飛べなくなってしまう。


「大丈夫ですか、サチ様。みんな心配していますから、早く巣へ戻りましょう」

「ありがとう——」

 サチコは背中を仲間に抱きかかえられたまま巣へ戻った。


 巣では、仲間達が心配していた。しかし、サチコの顔を見るなりみんな、ほっとしているようだ。


「ごめんなさい、みんなに心配をかけちゃって——」


 サチコは心配してくれたみんなに謝った。雨の中、外に出るのは自殺行為だと言うことは、これでハッキリしただろう。地面に落ちた時、カミキリムシにフキの下まで連れて貰わなかったら、水に流されて溺れて死んでいたかも知れない。サチコは自分が情けなく思えてきた。


 しかし、もう日にちが無い。タイムリミットまで十二日しか無い。サチコとユリの二匹であのコップへ蜜を満たす事はハッキリ言って不可能なのだ。




 そうだ、女王様に——?。サチコは先程カミキリムシに言われた事を思い出した。


 心配する仲間達の間をかき分けて、女王バチの部屋へと歩いて行った——。










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補足:雨の日


・虫は雨が降る前に気温の変化を感じて、軒下など雨を凌げる場所に移動する習性があります。巣を持たない大抵の虫は、木のくぼみや、葉っぱの裏にしがみ付いています。雨の粒が直撃すると命に関わってしまいますから、彼等は必死ですね。

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