第3話 巣の中


 今のミツバチになったサチコと、コップの大きさを例えてみよう。


 もしもアナタが、両手にバケツを持って、小学校のプールに水を満たす事が出来るなら、一体何回? いえ何万回バケツを運ばなければならないかを?


 サチコの気が遠くなっていく——。


 しかし、ここで諦めてはいけない。せっかく神官がくれたチャンスなのだ。

 やるしかない。希望と勇気を奮いたたせ、サチコはエリーの待つ庭へと出た。


 一方庭では、エリーは満足そうに蜜を吸っていた。花は植え替えられていた為か他のミツバチは来ておらず、蜜の取り放題な状態だった。


「サチ様、お体は大丈夫ですか? 今日は羽化したばかりの初日なので、あまり無理をされない方がよろしいのでは?」


 エリーはサチコの事を、気遣っている。


「そうね、なんか疲れちゃった。一度帰りたいな」


 ここで休もうかと思っていたが、外にいると周りを注意しなければならないので結構疲れる。巣の方が楽で安心出来る。サチコとエリーは一旦巣に帰る事にした。


 巣に帰る時の風は逆風だ。高く飛ぶと結構辛い。低く飛びながら、時々花を見つけては休む事にした。花から花へ何回目か渡っていった時、何処からか悲鳴の様な声が聞こえた。


「ギャ——」

「なに? 今の?——」


 サチコとエリーは声がした方向を見た。辺りを見ても誰も居ない。


 いや、緑色の葉が揺れている。さらによく見ると、葉の上に一匹のアマガエルが居た。擬態を使って、葉と同系色の色に自分の体の色を変えている。


「逃げましょう——」

「ひっ——」


 エリーは立ち尽くすサチコの背中を持ち、上空へと逃げた。サチコはエリーに連れられながらも、先程のアマガエルを見ている。カエルの口元から、バッタの足が出て暴れていた。

 ゴクン! カエルは、二度三度口を動かし、獲物を飲み込むと再び動かなくなった。どうやら次の獲物を待っているみたいだ。


「うわっ——」


 サチコは恐怖を覚えた。目の前で誰かがアマガエルに捕食されてしまった。実際にはカエルだけでは無い。人間だった時には、カマキリも大きな鎌で獲物を捕まえていたのを思い出す。クモもそうだ。自分がそうなった時の事を思えば、震えがくる。早く、早く、一刻も早く、この場から逃げ出したい……。


 サチコとエリーは無言のまま逃げる様に、やっと自分達の巣の近くまで帰って来た。初日から多くの事を学び、体験する事によって心身共に疲れている様だ。


「エリー、つかれちゃった……」

「そうですね、今日は初日ですからあまり無理をされない方が良いかと思います。まだ日は高いですが、休みましょう」


 エリーとサチコは先程の事を忘れるかの様に急ぎ、自分達の巣を目指した。





 エリーとサチコは飛びながら、自分達の巣の入り口まで帰って来た。巣の入り口の周りでは、多くの仲間達が忙しそうに出入りしている。その横では、なにやら楽しそうにダンスを踊っている者が目に付いた。


「ねぇエリー、あの彼女達楽しそうに踊っている様に見えるけど、なんであんな事しているの?」


 花の蜜を集める事がどれだけ危険な事か体験したサチコは、巣の入り口を忙しそうに出入りしている者に対して、楽しげに踊っている者に苛立ちを感じた。しかしサチコの問いに、エリーは突然笑い出した。


「えっ、あれは、アハハ……」


 笑われる様な事は言って無いつもりだが、何がそんなに可笑しいのか解らない。


「ちょっとエリー、何がそんなに可笑しいの?」

「申し訳有りません、お許しを。そう言えば、まだあのダンスの事はお話していませんでした。飛ぶ事と蜜を集める事をせがまれていたので、つい忘れていた様でした。

 サチ様、彼女達は遊んでいる訳では有りません。実は彼女達は、ああやってダンスで仲間達にどこに行けば、より蜜の取れる花があるか。を教えているのです。

 いちいち同じ事を何回も喋るよりは、ダンスを踊る方が楽だし、解りやすいんです」


 エリーはサチコに八の字ダンスの意味、内容を事細かに教えた。


 巣の入り口の空中で踊っている者と、巣の入り口の木に張付いて踊っている者。どうやら二種類のダンスがある様だ。お尻フリフリダンス。八の字ダンス。


 繊細はおおむねこうだ。


 空中で大きく円を描いている者については、周りからよく見える為、広く広範囲な場所を説明しているらしい。


 一方、木に張付いて円を描いている者は、時々お尻を振って蜜の量を説明しているらしい。しかし、この二つに共通している点は、円を描く時、円の中心を通り、斜めに上がる所だ。


 エリーに言わせると、円を描きながら、斜めに横切ると云うのは、花から太陽の角度を示しているそうだ。


 下から上に斜め六十度の角度を作っていけば、花は太陽と巣を結ぶ線から六十度の方向にあると云う。

 ミツバチは、人間の様にナビも地図も時計も持っていない。日時計といえば可笑しいが、太陽の角度で花の方向を測っている様だ。

 距離は、円を描くスピードやお尻を振る回数で決まり、早く動けば近場であり、ゆっくり動けば遠くにあると云う事を伝えているみたいだ。


 ミツバチの世界ではあたりまえの事だが、知らないで観ていると、本当にダンスを踊っている様に見えるから不思議だ。八の字を描いてお尻を振ってみえる。


「ふ~ん、そんな意味があったの。全然知らなかった。だからさっき、エリーは笑ったのね」

「はい、そうなのです。あのダンスの意味を知らないでいると、無駄な働きをしてしまいますよね。しかし、あのダンスの意味を知っていると、距離と方向が解りますから楽ですね。私達の遠い祖先が考えてくれた大切な知恵なのです」

「ほんと、すご――い――」


 サチコは感心していた。生前人間だった頃、母親に色々な事を教えてもらっていた為、人間が一番知恵があって偉いと思っていたからだ。こんな小さな虫達も、考え、知恵を持っているなんて本当に不思議で凄いと思った。


「本当は、これらの事を学ぶのには多くのスッテプを踏まなければならないのです。しかしサチ様は何か特別の事情がお有りの様なので、順序は逆になりますが色々覚えていきましょうか?」 


 エリーの優しい言葉がサチコの胸に響いた。


 エリーとサチコは、空中でダンスを踊っているハチの横を通り抜け、巣の入り口へとたどり着いた。


 外から見ると一本の朽ちた大きな楠だが、樹の上部の巣へと続く穴に入ると、中は空洞の様な大きな穴が空いていた。恐らく以前は鳥か、リスでも住んでいたのだろう。しかし、今はミツバチの巣になっている。彼女達にとっては雨風がしのげる最高の住みかだ。


 エリーとサチコは樹の穴へと入っていった。数時間前まで、此処にいたのだが、外に出て色々な体験をする事でこのミツバチの巣がなにやら愛着のある物へと変わってきた気がした。


「サチ様、外に出ないのなら、この巣の中の様子を案内しましょうか?」

「うん」


 エリーに導かれ巣の中を見て回る事にした。樹の穴(巣の入り口)には沢山のハチが待ちかまえている。


「なんで、あんなに沢山いるの?」

「彼女達は、蜜の受け取り係り兼、番兵の役目をしています。外で取った蜜を口で受け取り、貯蔵庫に運ぶ役をしています。又、待ち時間の時、外に敵がいないか見張っています。それに、私達の仲間に紛れ込んで奥のハチミツを狙って来る輩もいます。  

 さあ、此処は狭いので彼女達の邪魔になるといけないので奥に行きましょう」


 エリーに促されてサチコは共に奥へと入っていった。


 数歩、歩く内に目の前に巨大な建造物が見えた。数時間前までサチコが眠っていた巣だ。


 正確に六角形の形をした物が、秩序よく規則的な配列で並んでいる。俗にいうハニカム構造だ。その巨大な建物の周りにも、やはり多くのハチ達が忙しそうに働いているのが見える。サチコは唖然として眺めていた。


「此処では、本当に多くの仕事が有ります。巣を造る者、巣穴の掃除をする者、幼虫へエサを与える者、自らの羽を動かして風を起こし乾燥させる者がいます。これらの仕事は誰も命令する事もなく、順番に進んで行っています。助け合う心を元にみんな協力しています」


 エリーの説明を聞きながら、ふとサチコは思った。


「ねえエリー、巣ってなにからどうやって造るの?」


 生前、サチコは粘土遊びが好きだった頃を思い出した。巣を造っている者の仕草が楽しそうに見えたからだ。


「巣を造る材料はミツロウと云います。ミツロウはどうやって造るかと云いますと、朝起きた時、お腹いっぱいに蜜を食べます。その後、暖かい所でじっとしていると、お腹の両脇の所にある八つの穴からミツロウが出てきます。それを唾液と混ぜ合わせながら、巣を造っていくのです。先程、樹の穴へ入る時、樹にしがみついて動かない者がいましたが、彼女達はミツロウを出していたのですョ。又、巣を造る時、なぜ六角形の形になるのか、私達には解りませんが非常に安定しているし、効率良く出来る為、誰も気にしていません。本能と云うか、これも遠い祖先の残してくれた偉大な知恵でしょう」

「エリー、すご~い——」


 エリーの説明はサチコの心を躍らした。こんな小さな虫達には、驚くべき知恵が詰まっている。人間では味わえない未知の体験が詰まっているのだ。

 興奮しているサチコを横目に、エリーが声を掛けてきた。


「そうですか? 私達はそんなに凄いと思った事は、無かったのですが……。やはりサチ様は、特別なお方なのですね。お考えが違うのでしょうね? さあ、次は蜜の貯蔵庫に行きましょう」


 今度は一体、何が待っているのだろうか? 


 サチコはミツバチの世界がいたく気に入ったとみえ、エリーの後をワクワクしながら着いて行った。







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補足:ミツバチダンスと移動距離。


・ミツバチダンスを発見したのは、ノーベル医学賞受賞・生物学者「カール・フォン・フリッシュ(1886~1982)」凄い観察眼ですね。よく見つけましたね。

・ミツバチの行動は、巣の場所から半径2~3km。一生分の移動距離は、延べ約1万kmの距離を飛ぶそうです。東京~フランシスコ間。メチャクチャ移動しています。まさに働きバチ!Σ(゚Д゚)スゴイナァ~!

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