第13話 自称アヴィスのお父さん



「アヴィス以外は平伏せ」


 いきなり地界に現れた魔界の王は、尊大にそう告げました。

 そのとたんです。

 ヒヨコも兄も、エミールまでも、彼が命じた通りにその場に平伏したのです。

 それが、彼らの意思によるものではないのは明白でした。

 ヒヨコは左手で床を掻き毟って足掻き、兄は歯を食いしばって必死に身体を起こそうと試みます。

 そして、エミールはというと……


「ちっ」


 まるで呪い殺さんばかりの目でギュスターヴを睨み上げ、舌打ちをしたのでした。


「エミール……?」


 大人しくて引っ込み思案で泣き虫で――いえ、もう分かっているのです。

 私のこの認識が彼の全てではないのは、いい加減認めます。

 それでも、エミールが粗野な真似をするのが想定外すぎて、思わず二度見してしまいました。

 そんなことをしていたせいで、床に這いつくばりながらも手を伸ばしてきた彼にぐっと腕を掴まれます。加減も忘れた、ひどく強い力で。

 痛覚はなくても、骨が軋む感触は無力な女を慄かせるのには十分でした。

 私が再び、エミールに対する恐怖に支配されそうになった、その時です。


「子供の喧嘩に、大人は口を出すべきではないと思うのだが……」


 カツカツとブーツの踵を鳴らしてギュスターヴが歩いてきたかと思ったら、エミールの手を引き剥がしてくれました。

 そうして……


「可愛い我が子が一方的に泣かされて、黙ってなどいられるはずがない」


 きっぱりとそう告げて、私を片手で軽々と抱き上げたのです。

 たちまち間近になった美貌に、私は驚くよりも先にほっとしました。

 きゅっ、と縋るみたいに彼のマントを握ったのは無意識です。

 頬を濡らす涙は、無言のまま大きな掌が拭ってくれました。

 その手はさらに、インクに塗れた私の髪を、繭色のワンピースを、労るように優しく撫でます。

 するとどうでしょう。

 まるで油紙が水を弾くみたいに、髪やワンピースからインクが離れ始めたのです。

 インクは魔王の優美な指先に導かれて寄り集まり、やがて彼の手のひらの上で一つの黒い球に変わりました。

 ギュスターヴはそれを無感動な目で一瞥してから、空になっていた瓶へと押し込めます。

 そうして器用に片手で蓋を閉めると、まるで何事もなかったかのように国王の執務机に戻したのでした。

 私のギュスターヴ譲りの銀色の髪も、繭色のワンピースも、インクの瓶も元通り。

 決して元に戻らないのは、エミールの凄まじい形相と、彼に対する私の認識。


「子供って……我が子って何だよ。お前はアヴィスの何だって言うのさ」


 地を這うエミールの声に、私はびくりとして身を竦めます。

 ギュスターヴはそんな私の背中を宥めるように撫でながら、顎を反らせて実に偉そうに、そのくせ律儀に答えました。

 

「私か? 私はアヴィスの――お父さん、だ」

「「「――は!?」」」


 私とエミールと兄の声が見事に重なりました。

 ヒヨコも口をきけたならば、四重奏になっていたかもしれません。

 ギュスターヴを見るエミールの目が、たちまち胡乱なものに変わりました。


「……アヴィス、そのイカれた男は一体何者なの?」

「いかれているのは貴様の方だと思うがな。はるばる魔界から訪ねてきた健気な女子をいじめて、一体何が面白い? 理解に苦しむな」

「……っ、うるさいな! っていうか、魔界? 魔界だって!? アヴィス、君……天界じゃなくて魔界に行ったの!?」

「……行きました。不本意ながら。そして、この方は魔王だそうです」


 は!? と、今度はエミールと兄の声が重なりました。

 無理もありません。私ももう一度、彼らと一緒に三重奏を奏でられていたなら、どれほどよかったことか。

 しかし、死んだ私が天界ではなく魔界に行った事実も、ギュスターヴが魔王である事実も変わりません。

 急にどっと疲れを覚えた私は、幼子をあやすみたいに背中をトントンしてくるギュスターヴに説明を丸投げします。

 

「魂だけだったアヴィスに、私と愉快な仲間達の血肉が新たな身体を与えたのだ。今のアヴィスは我が子と言っても過言ではない。よって、私はコレの〝お父さん〟を名乗ることにしたというわけだ」

「ちょっ、ちょーっと待ったぁ!!」


 ここで、一際声を張り上げたのは兄でした。

 兄は這いつくばった格好のまま、両手で床をドンと叩いて叫びます。

 

「聞き捨てならんぞっ! 魔王だか何だか知らないが、いきなり現れて何を言うかと思えば! アヴィスの父といったら、この私のことだろう!!」

「兄様は兄様でしょう? 父は、亡くなった父だけです」

「この十年、私が親代わりだったんだ! そもそも父上がアヴィスの父をやっていたのは八年! 私の方が二年も多い!! 私の方が断然父と名乗るにふさわしいっ!!」

「はあ……」


 無駄に声の大きい兄の主張に反論するのが面倒くさくなった私は、生返事に交ぜてため息を吐きます。

 代わりに鋭く突っ込んだのはギュスターヴでした。

 彼は冷ややかな目で兄を見下ろし、ぬかせ、と一刀両断。


「貴様、おこがましいにもほどがあるぞ」

「な、なんだと!?」

「新生児期から始まり殊更手のかかる八年間と、言語能力も認識力も高まり善悪の判断もつくようになってからの十年間を同列に数えていいわけがなかろう。乳幼児を死なせずにいるのがどれほど難儀なことか、知らぬのか」

「うっ……ぐうの音……」


 兄が魔王にド正論で言い負かされてしまいました。

 ちなみに、おそらくですが、亡き父は子煩悩な人ではありましたが、殊更子育てに熱心だったわけではなく、私の世話なんていうのは母や乳母に丸投げだったように記憶しています。

 ついでに兄も兄で、騎士団の後進を育てるのにかかりきりで、双子の我が子の面倒さえろくに見ていなかったと思うのですが。

 しかし、今ここでそれを口にしたところで、余計に面倒くさいことになりそうなだと察した私は、賢明にも口を噤みます。

 正しく場の空気を読むのは、社交界で生き延びるための鉄則なのです。

 それに、兄の家庭問題を浮き彫りにしている場合ではありませんでした。

 

「いいとこ取りをしてふんぞり返っている貴様と違い、私にはこの生まれたてほやほやのアヴィスを立派に育てていく心積もりがある」

「な、なな、なにぃ!?」


 ギュスターヴがますますおかしなことを言い出したからです。


「よって、アヴィスは心置きなく、私をお父さんと呼びなさい」

「いやですけど」

「さて、帰るぞ。ああ、そうだ。城に戻る前に先日バズっていた羊羹を買いにいこう。黙って魔界を空けてきたからな。ノエルの機嫌をとらねばならん。こう見えて、お父さんもなかなか大変なのだよ」

「絶対、呼ばないですからね?」


 言いたいことだけ言って、ギュスターヴは私を抱えたまま踵を返します。

 ヨウカンって何でしょう。

 バズって、とはどういう意味なのかしら。

 魔王のくせに、側近の機嫌をとらないといけないのですか。

 聞きたいことはいろいろとありますが、不思議と私は、ギュスターヴの腕から降りたいとは微塵も思いませんでした。

 魔界に〝帰る〟という彼の言葉にも、少しも抵抗を覚えません。

 私の帰るべき場所は、もう地界でも、グリュン王国でも、ローゼオ侯爵家でも――そして、エミールの隣でもないのでしょうか。

 そんな私を、十八年間馴染んだ声が追いかけてきます。

 

「待って――待てよ!! 僕のアヴィスをどうする気だっ!!」


 ああ、そうでした。

 私は生まれた時からずっと、エミールの許嫁アヴィスでした。

 彼の側で、彼だけを見て、彼のために生きて……そんな当たり前だと思っていた日々が、何だか今はもう遠い過去のことのように思えます。

 郷愁にも似た思いが胸に込み上げてきて、私はギュスターヴの肩越しにエミールを見ようとしました。

 ところが、そんな私の頭をギュスターヴの手がやんわりと押さえます。

 涙も、インクも、そしてエミールに対する恐怖までも拭ってくれた大きな手。

 ギュスターヴは二度三度優しく髪を撫でてから、私の顔をそっと自身の肩口に伏せさせます。必然的に、私の視界はマントの襟のふかふかで埋め尽くされてしまいました。

 頭上で、ギュスターヴが口を開きます。


「間違えるな、少年」


 けして大きくはない、けれど魔王の肩書きにふさわしい厳かな声が言い放ちました。


「これはもう、貴様のアヴィスではない――私の、アヴィスだ」



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