第四章 魔王の子と魔女の子
第34話 解約できません
大きいばかりで飾り気のないベッドに、目が痛くなりそうなほど真っ白いシーツ。
天蓋から垂れ下がるカーテンも、白。
この真っ白い世界で眠るのは、神とは対なす存在──魔王である。
しかし、恐れ多くもその頬を、ペチペチと叩く手があった。
白くたおやかな少女の手だ。
「ギュスターヴ……ギュスターヴ、お願いです。起きてください」
珍しく焦りを帯びたその声に、銀色の長いまつ毛の下から鮮やかな赤が顔を覗かせる。
ベッドに仰向けに寝転がった魔王ギュスターヴは、自分の腰を跨いで馬乗りになっている相手を見上げて緩慢に口を開いた。
「……おはよう、アヴィス」
「おはようございます……って、のんきに挨拶をしている場合ではないのです、ギュスターヴ。たいへんです一大事です緊急事態です」
「分かった分かった……いや、まだ五時ではないか」
「だから、緊急事態だと言っているではありませんか」
普段より五時間も早く起こされたことに、ギュスターヴはやれやれとため息をつくが、だからといってアヴィスを責めるつもりはないようだ。
アヴィスの方もそれを分かっているため、少しも悪怯れる様子はない。
「ギュスターヴ、たいへんなんです」
「うむ、どうした」
彼女は寝転がったままのギュスターヴの胸に両手を突くと、ぐっと身を乗り出して続けた。
「三十日間無料体験終了まで残り十分にもかかわらず解約ができません」
「……なんて?」
アヴィスが地界で毒入りワインを煽って絶命後、この魔界において新しい体で第二の人生を開始して、一月と少し。
初日に与えられた携帯端末は、すっかり使いこなせるようになった。
ただし、好奇心の赴くままにアプリをダウンロードしまくって、度々容量不足に陥ってはいるが。
「お前は……また勝手に妙なものを登録をしたのか。お父さんに相談してからにしなさいと言っただろう」
「別に、妙なものではございません。それに、ギュスターヴは私のお父さんではありませんもの」
ツンと澄まして答えるアヴィスにやれやれとため息をつきつつも、やはりギュスターヴが腹を立てる様子はない。
というのも、この自称〝アヴィスのお父さん〟。なんだかんだ言いつつも自分を頼ってくる彼女が可愛くて仕方がないのだ。
アヴィスはそんなギュスターヴの上に寝そべると、彼の両頬を手のひらで挟んで鼻先を突き合わせた。
「無料体験が今日までだということは、ちゃんと覚えていたんですよ。えらくないですか?」
「そうだな、えらいな。ノエルなど、毎回解約を忘れて一月分払わされているからな」
「そんな無様を晒したくないので、さっさと解約してください」
「そのセリフ、あとで本人にも言ってやれ」
ギュスターヴはくくと喉の奥で笑うと、ようやくベッドから起き上がった。
アヴィスを膝の上に抱え、背中から覆い被さるようにして端末を操作し始める。
アヴィスも、大人しく彼の顎の下に収まった。
「しかし、解約などさほど難しいことではないだろう。こう、マイページから〝解約する〟を選んでだな……」
「すると、〝本当に解約しますか〟と出てきますでしょう? これが、この後二十回繰り返されます」
「……二十回。それはさすがに鬱陶しいな?」
「はい、鬱陶しいです。ですが、問題はその後なんです」
アヴィスの言う通り、二十回にも及ぶ解約引き止め画面を乗り越え、ようやく二十一回目の〝解約する〟ボタンをタップしたとたんである。
パッ、と画面いっぱいに表示された画像に、端末を操作していたギュスターヴの指が一瞬固まった。
彼の腕の中にいたアヴィスの体も強張る。
というのも、この時画面に現れたのは一匹の猫──うるうるおめめの可愛い可愛い猫ちゃんが、じっと何かを訴えかけるようにこちらを見つめている画像だったからだ。
さらには、こんな一文が添えられている。
『あなたが解約してしまいますと、この猫は明日からエサを半分しかもらえなくなりますが、それでも解約しますか?』
「……ここから先には、どうしても進めないのです」
アヴィスがしょんぼりとしてそう呟いた。
ギュスターヴは慰めるように彼女の髪を撫でる。
「なるほどな。これはなかなかに悪質だ」
と言いつつも、次の瞬間には迷わず解約を完了してしまった。
そんな彼の顎の下でアヴィスが悲鳴を上げる。
「──ひ、ひどい、ギュスターヴ! あなたは鬼ですか! 悪魔ですか!!」
「魔王だが」
「どうするんですか! あの猫ちゃんは、明日から半分しかご飯をもらえなくなってしまいましたよっ!?」
「安心しろ。あれはユーザーの良心に付け入って解約を阻止するためのはったりだ。あの猫の写真もよく見るフリー素材だしな」
そんなこんなで解約に成功したものの、ギュスターヴはアヴィスの目に触れさせないようさりげなく画面を閉じた。
最後に表示されたのが、中指をおっ立てた猫ちゃんだったからだ。
重ね重ね、悪質である。
何も知らないアヴィスは、ギュスターヴを縋るように見上げて言った。
「本当ですか? あの猫ちゃんは、明日からご飯を半分に減らされてしまわない……?」
「ない」
「私が解約したせいで、ひもじい思いをする猫ちゃんは……?」
「いない」
さっきのはったり画像の猫に負けないくらい、アヴィスの両目はうるうるしている。
ギュスターヴはそんな彼女を見下ろしながら、しみじみと思った。
アヴィスの姿を解約阻止画面に貼り付けられてしまったら、きっと自分は永遠に解約できないだろうな、と。
そんな自分自身に苦笑いを浮かべつつ、ところで、とギュスターヴは話題を変えた。
「結局のところ、これは何の無料体験だったんだ?」
「オンラインヨガですけど」
「……いや、体験したのか?」
「一度たりともしておりません」
胸を張って言い切るアヴィスに呆れそうになるギュスターヴだったが、彼女が可愛らしく口を尖らせて続けた言葉に、再び苦笑いを浮かべることになった。
「だって、ヒヨコと一緒にしようと思って登録したんです。それなのにあの子ったら、私が止めるのも聞かないで行ってしまうんですもの」
「ああ、そうか。アレが修行に出て今日で一月になるか」
ギュスターヴはアヴィスの携帯端末をヘッドボードに置くと、彼女を抱えたまま再びベッドに寝転んだ。
時刻は午前五時を少し回ったところ。魔王はまだ、五時間は眠る気満々である。
彼の腕の中でもぞもぞし、肩口を枕にして落ち着いたアヴィスは、拗ねたような声のまま続けた。
「結局のところ、ヒヨコは誰に教えを請うているのですか?」
「勇者だな──いや、元勇者、というべきか」
「……勇者?」
「生前、そう呼ばれていたやつだ」
アヴィスが生まれ育ったグリュン王国の初代国王も、かつて勇者であったと伝わっている。
しかし、彼女は胡乱げな顔をして、前から思っていたのですけれど、と口を開いた。
「剣士は、剣術に精通した即戦力となる方を言いますよね?」
「そうだな」
「賢者は、知識が豊富で思慮深く、人々を助け敬われるような方」
「いかにも」
「では、勇者は?」
「……ん?」
ベッドに横たわったことで閉じかけていたギュスターヴの瞼を指で無理やり開きつつ、アヴィスは続ける。
この光景を見た者は、きっとアヴィスこそが勇者だと叫ぶだろう。
何しろ、普段は存外理性的で温厚な魔王も、眠りを妨げる相手だけは問答無用で殺しにかかる超特級危険生物に変身するのだから。
彼のベッドに無断で立ち入って生きているのは、長い魔界の歴史の中でもアヴィスただ一人だ。
「勇者とは、結局何なのですか? 剣士も賢者もスキルが明確ですけれど、勇者だけ急にふわっとしています」
「うむ……」
「勇ましい以外に形容のしようがない方なんですか? 他に特筆すべきことがないと?」
「……うむ」
うむ、しか言わなくなったギュスターヴの肩口に頭を乗せたまま、勇者アヴィスが続ける。
「そもそも、勇者のくせに死後魔界に来るなんて、いったい何をやらかしたんです?」
「まあ、勇者がいつまでも英雄でいられるとは限らないということだ。そんなヤツも勇者としてのアイデンティティを保とうとしてか、魔界に来てすぐの頃は魔王たる私を倒そうと度々挑んできたが……」
「が?」
「一回サシで呑んだら、どうでもよくなったんだろうな。以後は、魔界の外れに小洒落たログハウスを建てて悠々自適の隠居生活を満喫している」
勇者は、強いのは強いらしい。
魔王には敵わなくとも、現役時代はジゼルクラスの魔物を倒すくらいの力量はあった。
ゆえに、ギュスターヴはヒヨコを彼に弟子入りさせたのだ。
ギュスターヴはアヴィスの頭をゆったりとした手つきで撫でながら続ける。
「勇者というのは単純な生き物でな。頼られれば応えずにはおられん性分なのだ。コレを立派な魔物討伐人に仕立てられるのは貴様しかいない、と散々持ち上げてあの死人を託したからな。死力を尽くして育てていることだろう」
ところが、アヴィスからは何の反応も返らない。
不思議に思ったギュスターヴが視線を下げれば……
「……眠ったのか」
彼の肩口に頭を預けて、アヴィスはすやすやと寝息を立てていた。
地界のローゼオ侯爵邸から戻って以来、彼女は時たま眠るようになった。
非常に不規則である上、ギュスターヴの側にいる時だけという限定的ではあるが。
「……愛い」
自称〝アヴィスのお父さん〟は、そんな彼女がまた可愛くて仕方がなかった。
自分と同じ色のアヴィスの髪を撫で、そのこめかみに口付けを落とす。
さらには髪に鼻先を埋めて、その香りを肺いっぱいに吸い込んだ。
アヴィスが起きていたら嫌な顔をしそうだが、起きてはいないのだからどうということはない。
そうして、自らが血肉を与えた体をすっぽりと腕に収めて、ギュスターヴはようやく瞼を下ろした。
魔王の寝室が、再び不可侵の領域となる。
静寂が破られたのは、それからずっと時間が経ってのことだった。
「……ス……アヴィス。お願いだよ、起きて」
それは、突然だった。
ふいに、自分がギュスターヴを起こした時のようなセリフが降ってきて、アヴィスの意識は覚醒する。
のろのろと開いた彼女の赤い瞳に映ったのは、金色の髪と晴れた空色の瞳だ。
ところがそれは、この一月余りで見慣れた元天使のものではなく……
「……エミール?」
アヴィスがずっと天使みたいな男の子だと思い込んでいた相手──エミール・グリュンのものだったのだ。
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