第五章 魔王の子とドラゴン族の姫

第47話 最低最悪のファフロツキーズ

 開け放した窓から吹き込んだ風が、上質の絹糸を思わせる銀髪を揺らす。

 同質のまつ毛の下より現れた赤い瞳がすいと動き、側に控えた金髪碧眼の男を映した。

 形のよい唇が、緩慢に開かれる。


「妻の妊娠中に不貞を働いた男は、問答無用で去勢させようと思う」

「第一声がそれでいいんですか、魔王様」

「麻酔なしで」

「わあ」


 本日も十時を回るまでベッドから動かなかった魔王ギュスターヴだが、我が子と公言する元人間の少女アヴィスが遊びにでかけていくのを見送ると、ようやく執務机の前に座った。

 なお、執務机の前に座ったからといって、仕事をするとは限らない。

 彼は、側近である堕天使ノエルが差し出す書類に見向きもせぬまま、長い足を組んで続けた。


「最近、育児板でアヴィスのことを相談していたのだが」

「えっ? ちょっとちょっと……半年はロムりなさいと言ったでしょう? 独身男とバレたら、袋叩きにされますよ!」

「すでに独身男とバレているし、袋叩きにもされた後だ」

「ほらー!」


 天使に毒を盛られて絶命し、魔界で新たな体を与えられたアヴィスは、睡眠も食事もとらずにギュスターヴをやきもきさせた。

 最近になってようやく、彼の側でだけ気まぐれに、という限定的ながら眠るようにはなったものの、食事に対しては相変わらず無関心なままだ。

 子供が眠らない、食べない、というのは、古今東西の母親達共通の悩みである。

 ギュスターヴが育児板に参加していたのも、けして冷やかしや荒らしのためではなかった。


「スレ主のボスママが、私が真剣に子育てに悩んでいることを察して取りなしてくれたのだ。おかげで、初めての子育てに奮闘するワンオペシングルファーザーと認知され、スレでの自由な発言を許されている」

「おやまあ……ママさん達も、まさかそのシングルファーザーが魔王様だなんて思いもしないでしょう」

「アヴィスが初めて眠ったと報告した時など、スレは私への賛辞と祝福の言葉で溢れかえっていたな」

「優しい世界ですね」


 同じ悩みを抱えながら懸命に子供を育てているスレ民達の間には、年代も人種も、時には性別も越え、強い連帯感が生まれているのである。


「スレでの私は〝888くん〟と呼ばれ、愛されキャラをやっている」

「あっ、意外と長い間、発言するの我慢していたんですね。その数字は狙って取ったんです?」


 育児板では現実の肩書きなど意味をなさず、魔王さえも名もなきスレ民でしかない。

 最も権力を持っているのは、彼を擁護してくれたボスママことスレ主だった。

 なお、最初のスレはとっくの昔に千を超え、現在は四つ目のスレが展開されている。


「ボスママは現在第二子妊娠中なのだが、夫が出会い系で浮気しまくっているのが発覚してな。スレは目下、夫をどう料理しようかという話で持ちきりだ」

「育児板ですよね? 思いきりスレ違いでしょうに」

「スレ民全員、多かれ少なかれ夫に不満があるのだろう。嬉々として、ボスママの夫を地獄に突き落とす算段を立てている」

「くわばら、くわばら……」


 当然のように、ギュスターヴも不貞夫にお仕置きする気満々である。

 何なら育児よりも得意な分野なので、ノリノリである。

 ボスママは最強の味方を、夫は最悪の敵を作ってしまったというわけだ。

 ノエルが思わず後者に同情しかけたところで、ギュスターヴは大真面目な顔をして続ける。


「不貞男を去勢させるシステムの話に戻るが」

「システム化させる気なんです? 本当に問答無用ですね。しかし、不貞を働くのは何も男ばかりではないでしょう。不公平ではありませんか?」

「逆に聞くが、長く生きている貴様の目から見て、この世が不公平でなかったことなどあったか?」

「ないですねぇ」


 即答した元神の御使いを鼻で笑い、魔王は執務机に頬杖を突いた。


「強制去勢システムを導入するのはいいとして」

「……いえ、一瞬相槌打ちそうになりましたけど、やっぱりよくないですってば」

「ところ構わず千切れたアレが転がっていては、公衆衛生上問題がある。アヴィスの教育にもよくないしな」

「それはごもっとも」


 あちこちにアレが転がっている光景を想像したノエルはぞっとし、それが何かわかっていないアヴィスが棒でツンツンしている場面を思い浮かべたギュスターヴは眉間に皺を寄せた。


「というわけで、不貞を働いた瞬間、そいつのアレだけ異世界に転移する仕様にしようと思うんだが」

「最低最悪のファフロツキーズですね。アレが続々とやってくる異世界の方々が気の毒すぎて、同意いたしかねます」

「それがだな、魚類の精巣をありがたがって食う世界線もあるらしいのだ。そこなら喜ばれるに違いないぞ」

「いや……いやいやいや! 絶対に違う、と私の中の何か激しく訴えてきますよ!」


 堕天使であるにもかかわらず、ノエルは思わず天を仰ぎたくなった。

 たちの悪い冗談にしか聞こえないが、魔王が大真面目に話を進めようとしていることを、それこそ気が遠くなるほど長い付き合いの彼は確信しているからだ。

 魔界において、魔王の決定は絶対である。

 誰かにとって不公平でも理不尽でも、世界単位で多大な迷惑をかける可能性があろうとも、関係ない。

 それを心得ているノエルは、アレを送り付けられる異世界とやらの住人に同情することしかできなかった。

 ところがここで、不貞夫絶対去勢させるマンの気勢を削ぐ出来事が起こる。

 執務机に放り出していた、彼の携帯端末が鳴ったのだ。


「アヴィスからだ」


 ギュスターヴは一瞬にして、魔王の顔からお父さんの顔になった。

 無許可のため本人に知られてはならないが、着信画像にはアヴィスの寝顔を設定している。

 今の今まで、不貞夫のアレを問答無用で異世界に送りつけると息巻いていた口からは、一転して我が子への愛情が溢れ出した。


「見てみろ、ノエル。私の子がこんなにもかわいい」

「ええ、ええ、可愛いですね。早く出てあげてください」


 なお、最近ママ友になったばかりの魔女からもラインが来ていたが、魔王は既読無視をした。

 電話は鳴り続けている。

 通話ボタンをタップしようとしたギュスターヴは、はっとした顔をした。


「よくよく考えてみたら、アヴィスからかけてきたのはこれが初めてではないか?」

「おや、そうでしたっけ?」

「何だか緊張してきた」

「いや、早く出てあげなさいってば」


 呆れ顔の側近に急かされ、魔王はようやく通話ボタンをタップした。




『遅い。どうしてワンコールで出ないんです』




 拗ねたようなアヴィスの声が聞こえてきて、魔王は堕天使と顔を見合わせる。

 携帯端末の向こうは、ワンワンキャンキャンと何やら騒がしかった。


「ふむ、怒られてしまったな」

「だから、早く出なさいと言ったでしょう……って、どうしてちょっと嬉しそうなんです?」

「それほど私との会話を切望していたのかと思うと、かわいいが過ぎるだろうが」

「魔王様がポジティブで何よりです」


 ワンワンキャンキャンはまだ続いている。

 何かあったのか、とギュスターヴは携帯端末の向こうへと問い掛けた。

 その声は、魔王という肩書きからは想像できないほど柔らかである。

 実際のアヴィスはご機嫌斜めでも、ギュスターヴが見ているのは画面に映る可愛い寝顔だからだ。


『ワンワン大乱闘の収集がつかなくなってきたので、なんとかしてください』

「ワンワン? お前、今どこに……」


 ワンワンなんて幼児語を口にするアヴィスにギュスターヴが表情を蕩けさせ、ワンワンなんて幼児語を口にした魔王にその側近が生温かい笑みを浮かべる。

 そんな中……


『あらあら、あなた。大丈夫……』


 慌てたようなアヴィスの声に重なり、キャンッ! と子犬っぽい鳴き声が端末の向こうから響いた。

 その刹那──ここまで上機嫌だったはずの魔王の顔が一転、剣呑な様相を帯びる。


「アヴィス、お前──血を流したな?」


 そう言い終わるか終わらないかのうちに、魔王の姿は執務室から消えていた。

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