第12話 独り善がりの恐ろしい人



 ポタリ、ポタリ……

 インクが次々に滴っては、私が身につけた繭色のワンピースを汚していきました。


「うん、これでよし! これで、僕のアヴィスに戻った! よかったね、アヴィス!!」


 あまりの事態に呆然とする私をよそに、エミールは少しも悪びれることなく、無邪気なまでの笑みを浮かべて声を弾ませます。

 ところが、それも一瞬のことでした。


「――いや、まだだ」


 再び真顔に戻ったエミールが、額がぶつかり合うくらいにぐっと顔を近づけてきました。

 後退ろうとする私を、背中に回った腕が阻みます。

 そうして、瞳孔の開いた目でエミールが問うのです。


「アヴィス――その目の色は何?」

「……」


 私はこの時、生まれて初めて、エミールを恐ろしいと感じました。

 大人しくて引っ込み思案で泣き虫で、けれども優しくて純粋で虫一匹殺すこともできない、まさしく天使のような男の子だと思っていました。

 私が守ってあげなければ――ずっと、そう思ってきたのです。


「アヴィスの目は、緑色でしょう? そんな、血の色みたいな赤じゃなかった。だめだよ――それは、僕のアヴィスの色じゃない」

「エミール……」

「仕方がないね……うん、とっちゃおうか? 大丈夫。目玉が無くなったって、僕がずっと側にいるから平気さ」

「い、いや……!」


 今、私の目の前にいるのは、一体誰なのでしょうか。

 ギラギラとした目で睨み据え、私を否定するのは。

 私の目玉を抉ろうと、嬉々として手を伸ばしてくる、この恐ろしい人は――!

 

「やめ……やめて! やめて、エミール……っ!!」


 今更ながら、得物を投げ捨ててしまったことを後悔しました。

 いえ、たとえあの大腿骨があったとしても、はたして私にエミールをぶつことができたかどうかは分かりませんが。


「エ、エミール……」


 エミールの指先が、焦らすように眼窩をなぞります。

 私はもう恐ろしくて恐ろしくて、ただブルブルと震えることしかできません。

 痛覚がないなんてことは、今は何の慰めにもなりませんでした。

 そんな私を嘲笑うみたいに、エミールの薄い唇が弧を描きます。

 そうしてついに、彼の指先に力が入りかけた刹那のことでした。



 ――ドンッ……!!



 突如大きな音がして、国王執務室の扉が内側に向けて吹っ飛んだのです。

 と同時に、二つの人影が部屋の中に転がり込んできました。

 まだ勝負がついていなかったのでしょう。抜き身の剣を握ったヒヨコと兄です。

 ただ、なぜか二人は剣を交えていたはずのお互いではなく、扉の方を注視しています。

 さしものエミールも驚いたようで、私の目玉を抉ろうとしていた指を引っ込めました。

 これ幸いと、私は両手を突っ張って距離をとります。

 それが、彼の逆鱗に触れたのでしょう。

 

「アヴィス! 僕を拒絶することは許さないよ!!」


 その声は、まるで獣の咆哮のようでした。

 こんなエミールの荒々しい声は聞いたことがありませんでした。

 こんなに、憎々しげな目で見られたこともありませんでした。

 私の知らないエミールが、私を再び支配下に収めようと手を伸ばしてきます。

 それに腕を掴まれるかと思った――まさにその時でした。




「独り善がりも大概にしろ」




 ふいに、冷ややかな声がその場に響き渡ったのです。

 続いて、固いブーツの踵でカツカツと旋律を刻んで、戸板の外れた扉を悠然と潜ってくる者がありました。

 見覚えのある、真っ白い毛皮の襟付きマントの裾がはためきます。

 私はその場にへたり込みながら、いきなり現れた思いも寄らぬ相手の名を茫然と呟きました。




「……ギュスターヴ」




 死んで肉体を離れた私の魂に、この新しい身体を与えてしまった張本人。

 今の私と同じ、銀色の髪と赤い瞳をした、やたらと尊大で馴れ馴れしく、そしてとても美しい――魔界の王。

 誰もが言葉を失い、瞬きすら忘れて、この瞬間、彼に見入っていました。

 いいえ、もしかしたら魅入られていたのかもしれません。

 しんと静まり返る国王執務室の中程で足を止めたギュスターヴは、ヒヨコを、兄を、そしてエミールを、それぞれ鋭い目で一瞥しました。

 ところが私に視線を移したとたん、彼はやはり目元を綻ばせたのです。


「アヴィス」

「……はい」


 ギュスターヴに名前を呼ばれたのは、これが初めてでした。

 まだ聞き慣れない声のはずなのに、こんなにほっとした気持ちになるのはなぜでしょう。

 そんな私に、魔王はいやに優しい声で、小さい子に言うみたいに続けます。


「五時になる。帰るぞ」

「……はい?」


 その時でした。

 カチッと音を立てて、国王執務室の柱時計が五時を指し示したのは。


 そういえば……五時になったら迎えに行くとか何とか、言われたような気がしないでもありません。



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