第25話 魔王の唯一無二



 アヴィスの魂を天界に連れ帰ろうと、無謀にも単身魔界に忍び込んできた天使カリガ。

 ギュスターヴに左翼を切り裂かれた後、彼の処遇は元同僚であるノエルに一任されていたが……


「それで? こいつはアヴィスに執着する理由を吐いたのか?」

「いいえ。残念ながら、まだです」

「なんだ、ノエル。貴様にしては手こずっているな。元同僚が相手だとやりにくいか?」

「いえ、それがですね……」


 その時、足下を這いずって近づいてきた満身創痍のカリガが、ギュスターヴのブーツをガッと掴む。

 それを振り払うでもなく静かに見下ろしてきた魔王を、天使は果敢にもぐっと睨み上げて言った。


「拷問ごときで神の使徒を屈服させられるとは思わないでください。痛みも苦しみも屈辱も、神が与えたもうた試練だと思えば、我々に耐えられぬものなどないのですから!」

「この通り、神を疑うことを知らない天使に、身体を痛めつけるような拷問は無意味です。そもそも……」

「もっと――もっと、ひどいことをしてごらんなさいよ! たとえば、この足で踏みつけるとか! さあ!」

「カリガはドMなので、拷問しても逆に喜ばせるばかりでして……」


 とたん、心底嫌そうな顔をしたギュスターヴが、足にへばりついていたカリガを振り払う。

 すると、満身創痍の天使は足下に叩きつけられてイタッと小さく悲鳴を上げたが、その後ろにハートマークが付いていたような気がして、ギュスターヴはさらに鬱陶しそうな顔をした。

 彼はカツンとブーツの底を鳴らして一歩前へ出ると、這いつくばったままの相手に問う。


「貴様は、アヴィスを殺したのは己の独断だと言ったが……それでは、神はあれの存在をどう考えている?」

「地界で生まれたものは皆、人間も動物も何もかもが神の子です。アヴィスのことも、我が子の一人として大切に思っておられるに決まっているでしょう」


 それを聞いたギュスターヴは、心底ムッとした。


「あれは――アヴィスはもう、私の子だ。私の血肉で生きているのだからな」


 カリガも負けじと言い返す。


「いいえ、もとよりあの子の魂は神のもの。あなたはただ徒らに器を与えただけのこと」


 現在の主君と元同僚のやりとりを面白そうに眺めていたノエルも口を挟んだ。


「私も天使をやっていたことがあるから分かります。肉体など、天使にとって所詮は魂の器という認識でしかありませんものね。だから、アヴィスに毒を盛るのに罪悪感も何もなかったのでしょう。ただ、天界に連れ帰るのに邪魔なものを捨てさせた。あなたにとってはそれだけのこと」


 ふいに、ぼっと音を立てて炎が上がった。


「……っ、ぐっ!」


 カリガが悲鳴を噛み殺す。

 燃えているのは、ズタズタになった彼の左翼だ。

 青白い炎に包まれる天使を、魔王は氷のような目で見下ろした。


「今のアヴィスには痛覚がない。しかし、ただの人間であった頃のあれが、地界で貴様に毒を飲まされて絶命する際、いったいどれほどの苦痛を味わったのだろうかと思うと……」


 静かに語り出したギュスターヴは、ここで一度言葉を切った。

 炎で青白く照らされたその美貌を仰ぎを見て、カリガは言葉を失う。



「私は――怒りで頭の中が焼き切れそうになる」



 ギュスターヴは静かな声のまま、けれども何もかもを圧倒するような、鮮烈な憤怒を滲ませてそう告げた。

 それに、うんうんと頷いて同意したノエルも、呆然としている元同僚に向かって言う。


「たとえば、魔王様とあなたがアヴィスを取り合って、あの子の左右の腕をそれぞれ引っ張るとします」

「は……?」

「あの子が痛いと言ったら――いいえ、眉をちょっと顰めただけでも、魔王様はすぐさま手を離すでしょう。けれども、カリガ。あなたは、あの子が泣き叫ぼうと腕の骨が外れようと離さない。そして、それが何よりも正しいことだと思っている――愚かですね」

「何を……」


 ここで初めて動揺を覚えたように、神の使徒の瞳がゆらゆらと揺れ始めた。

 ギュスターヴの激情が収まるのに比例して炎も勢いを緩めたが、いまだチリチリと天使の翼の先を焦がしている。

 それには構わず、カリガは震える声でブツブツと言い出した。


「あ、あの子は……アヴィスは、天界に置いておかないといけないのです。だって、だってだって、そうでないと……」


 しかし、ここではっと我に返ったらしい彼は、慌てて口を噤む。

 とたん、ちっと舌打ちが降ってきた。

 カリガを驚かせたのは、舌打ちの主が魔王ではなく元同僚だったことだ。


「おしかったですねぇ。もうちょっとで喋りそうだったのに」

「それはともかく、ノエル。舌打ちのような行儀の悪いこと、アヴィスの前では絶対にするなよ」

「おや、これは失礼しました。ふふ……アヴィスが見たら真似しちゃいますかね?」

「あれは生前、品行方正であることを求められすぎたせいか、今世では若干やんちゃな生き方に憧れているきらいがあるからな。いや、お転婆なのは可愛らしいが……アヴィスに舌打ちなんかされてみろ。私は泣くぞ」


 魔王、そんな理由で泣くんかい。

 思わずそう、心の中でツッコミを入れたカリガに、当の魔王が向き直る。

 彼がカリガに求めるものは、最初に相見えた時から一貫していた。


「さっさと、アヴィスに執着する理由を吐いたらどうだ」

「……あなたは知る必要のないことです」

「私の子のことで、私が知る必要のないことなどあるものか。少なくとも、貴様が決めることではない」

「あなたは……あなたはどうあっても、アヴィスを我が子と言い張るのですか……?」


 とたん、何を当たり前のことをと言わんばかりにギュスターヴが答える。


「私が与えた私の血肉で、アヴィスは今生きている。誰が何と言おうと――天使が、神が、アヴィス本人が否定しようとも、あれは私の唯一無二の子だ」


 あまりにもまっすぐなその想いに、カリガはこの時、不覚にも胸を打たれた。

 天使が魔王の言葉に感動するなんて、あってはならないことだ。

 すぐに我に返った彼は、ブンブンと頭を振ってそんな自分自身を否定した。

 ギュスターヴも、これ以上何も得られないと思ったのだろう。

 小さくため息を吐いて踵を返した。

 

「まあ、いい。貴様がここにいる限り、アヴィスに接触することは叶うまい。あれに危害が及ばないのならば、天使や神が何を企んでいようと構わん」


 そう言って、カツカツと靴を鳴らして戻っていく主君に、ノエルも続こうとする。

 けれども、元同僚のよしみか、彼は一瞬立ち止まってカリガを振り返った。


「カリガ、あなたもきっと分かっているとは思いますが――神は、見ているだけですよ?」

 

 堕ちた天使に言われるまでもない。

 神は、今この瞬間も、きっと天上からカリガのことを見守っているだろうが、その手を差し伸べて彼をここから救い出すことはないだろう。

 カリガがこのまま闇の中で朽ち果てようとも、きっと見ているだけだろう。

 今、彼をかろうじて生かしている、どこかから降り注ぐ髪一筋の光は、天上の光ではなく魔界の紛い物の光だ。

 光が完全になくなれば、カリガはすぐさま闇に呑まれ、消滅するか、あるいは堕ちるだろう――ノエルのように。

 

「私は、間違ったのでしょうか……」


 カリガの問いに、答えは返らない。

 確かなのは、今この瞬間もカリガに慈悲を与えているのは、神ではなく魔王であるということだけだった。



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