第10話 兄様は外飼いの番犬



 白目を剥いた国王陛下と、両目をかっぴらいた第二王妃の首が二つ、真っ白い雪化粧を施された庭園の真ん中に並んでいます。

 粉雪はいつの間にか大きな綿雪に変わっていました。

 国王陛下を殴りつけて黙らせたヒヨコは、そのまま二つの生首の前にしゃがみこんで肩を震わせています。

 

「……あなた、泣いているの?」


 そっと労るように肩を撫でると、彼は一本しかない腕でしがみついてきました。

 私よりもずっと固くて大きくて、そして冷たい身体。

 もう生きてはいない、身体。

 どんなに耳を澄ましても、彼の胸の奥からは鼓動が聞こえてきません。


「人の命は、儚いものですね……」


 私は死に、彼もまた死にました。

 ジョーヌ王子も、第二王妃も死んでしまいました。

 ひどく切ない心地になった私は、自分の作り物の身体の体温を分け与えるように、ヒヨコをぎゅっと抱き締めます。

 雪がますます降ってきました。

 私も、ヒヨコも、国王夫妻の生首をも地面の白に塗り込めてしまおうとするみたいに。

 やがて、私達の上に薄らと雪が積もった頃、ヒヨコはようやく私を解放しました。

 そうして私に抜き身の剣を持たせたかと思ったら、目の前に跪いたのです。

 それはまるで、忠誠を誓う騎士のようでした。


「私はもう、王太子妃にも王妃にもなれないでしょう。この身体はもはや人間ですらありません」


 こくり、と跪いたままヒヨコが頷きます。


「私は、騎士に祝福を与えるにふさわしくありません」


 彼は、今度は首を横に振りました。

 その拍子にフードからちらりと覗いた髪は、赤。

 私はしばしの逡巡の後、ヒヨコのフードの天辺に小さく口付けを落としました。

 ただ、親愛を示すためだけに。

 そうして、今一度白亜の城を見つめて独り言のように呟きます。


「国王陛下には申し訳ないですけれど……私、やはりエミールに会いにいきます。きっと、兄様に担ぎ上げられて困っているでしょうから」


 立ち上がったヒヨコが剣を受け取って鞘に戻しました。

 そんな彼を見上げて、私は右手を差し出します。


「一緒に、来てくれますか?」


 ヒヨコはこくりと力強く頷いて私の手を握りました。





 第二王妃の後ろ盾となり、グリュン王国で大きな権力を保持していた公爵家は、代々優れた文官を輩出してきました。

 現在宰相の地位にあるその当主は知識人を気取り、騎士団は剣を振り回すしか脳のない野蛮な輩の集まりだと見下しています。

 剣の腕が立つジョーヌ王子が騎士団入りを望んでも実現しなかったのはそのせいです。

 諸外国との関係が安定し、国内の治安も保たれている現在、騎士団が活躍する場が少ないのは確かであり、それは国家を支えているのは自分たちばかりという公爵を筆頭とした文官の驕りを助長することになりました。

 そんな風潮からか、いつしか騎士団が王宮の建物内に配備されることが少なくなり、文官達は影でこう呼んでますます彼らを下に見るようになります。


 外飼いの番犬、と。


「犬が本気で牙を剥いたら人間などとても敵わないと、知らなかったのかしら」


 王宮の中は、私の生前とは一変していました。

 大勢の騎士達が、大手を振って歩いていたのです。

 対して、それまで幅を利かせていた文官達はすっかり萎縮してしまっています。

 その光景はさながら、肉食アリに巣を占拠された草食アリのようでした。

 肉食アリこと騎士達は、堂々と王宮の玄関から入ってきた私とヒヨコに目を丸くしています。

 騎士団長の妹である私の顔も、もちろんそれが死んだことも知っているのですから当然でしょう。

 加えて、ヒヨコの人ならぬ姿に警戒し、彼らは戸惑いつつも剣の柄に手をかけました。


「兄の部下なので、できれば殺さないでいただけますか?」


 そんな私の無茶振りにもかかわらず、ヒヨコの強さは圧倒的でした。

 片腕でこれなのですから、両手に剣を持ったらどれほどになるのか、私には想像もつきません。

 立ち塞がる者全てを床に転がして、彼はあっと言う間に四階にある国王執務室の前まで私を連れていってくれました。

 そうして、その扉の前にいたのは騎士達の頂点――


「――アヴィス!?」

「兄様、ごきげんよう」


 黒い髪と緑の瞳――生前の私と同じ色を持つ兄、グラウ・ローゼオ侯爵でした。

 しかし、死んで墓の下の棺に納めたはずの妹が戻ってきたのです。

 普通に考えれば、気味が悪いのでしょうが……


「アヴィス、蘇ったのか!? どうやって!?」

「ええっと、話せば長くなりますし……この通り、髪も瞳も色違いになってしまいましたけれど……」

「いい! 色なんてどうでもいいんだ! どんな形でも! どんな姿でも! お前が生きていてくれるのなら、私は……」

「兄様……」


 兄は私を抱き締めて、それはもうおいおいと声を上げて泣き出しました。

 騎士団長の沽券も何もあったものではありませんが、彼の部下達は全員ヒヨコが伸したので見られることはないでしょう。

 そんな兄の目の下には、濃い隈ができていました。

 自分が死んだせいなのかと思うと、私はひどく申し訳ない心地になります。

 しかしながら、私のそもそもの目的は兄との再会ではなく、彼の背後の国王執務室。

 兄にクーデターの象徴として担ぎ上げられたであろう、エミールです。


「兄様といえど、エミールに無理強いをするのは許しません」

「な、何のことだ?」


 私が腕の中から睨みあげると、兄はとたんに訝しい顔をしました。

 その頭を、国王陛下にしたみたいにポクポクと叩いてやります。

 門番の大腿骨はここでも大活躍です。

 当然のことながら兄は、何だそれは! と目を剥きました。


「ご覧の通り、大腿骨です。まるで誂えたみたいに私の手にぴったり」

「おおお、お前は! またそんなわけの分からんものを拾ってきて! 昔からそうだ! 確か、父上達が亡くなる前日だって……」


 両親が亡くなる前日に拾ったのはただの可愛い猫ちゃんであって、わけの分からんものなどではありません。

 そういえば……あの猫は、その後どうなったのでしたかしら?

 ともあれ、兄の長いお説教に付き合うのは真っ平ご免です。

 私がちらりと目配せすると、心得たというように頷いたヒヨコが剣を振りかざしました。

 反射的に剣を抜いた兄の腕から抜け出し、私は扉の取手を掴んで振り返ります。


「二人とも、怪我なんてしないでちょうだいね」

「お、おいっ!? アヴィス!?」


 私が国王執務室の扉を押し開くのと、ヒヨコが兄に向かって剣を振り下ろすのは同時でした。

 だから、私には聞こえなかったのです。

 ヒヨコの剣を受け止めた兄が、信じられないような顔をしてこう呟いたのが。


「この剣……君は、まさか……」




 代々のグリュン国王が執務室としてきたのは、王宮の四階にある一際広い部屋でした。

 南向きの大きな掃き出し窓からは庭園が見えますが、先ほどよりも雪の勢いが増したようで、景色はすっかり霞んでしまっています。

 そんな窓に背を向ける形で、国王の執務机は置かれていました。

 とはいえ、今代の主は現在庭園の雪に首だけ出して埋まっている状態。

 代わりに、この時執務机に向かっていたのは……


「エミール……」


 その姿を、私は殊更意外に感じました。

 私の兄によって無理矢理旗印にされてしまって、エミールはさぞ困っているだろう。

 きっと、広い国王執務室の隅っこで途方に暮れているか、あるいは所在無げに窓辺にでも佇んでいるだろうと思っていたのです。

 ところがいざ駆けつけてみると、彼は堂々と執務机の前に座って、淡々と仕事をこなしているように見えました。

 少なくとも、無理矢理役目を押し付けられている風ではありません。

 さらに、私の十八年に及ぶ人生でもう何度も何度も耳にした声が、初めて聞くような冷ややかさで言葉を紡ぎます。


「グラウ、何か用? さっきから外が騒がしいようだけど、何をし……」


 けれど、エミールはふいに顔を上げ、言葉を途切れさせました。

 入ってきたのが兄ではないと気づいたのでしょう。

 逆光になっていて表情は見えませんが、彼が息を呑んだのは分かりました。


「エミール……」


 彼を呼ぶ私の声は震えていました。


「……アヴィス?」


 私を呼ぶ彼の声も震えていました。


 大人しくて引っ込み思案で泣き虫で、けれども優しくて純粋で虫一匹殺すこともできない、まさしく天使のような男の子。

 私が、きっとどんな悪意や困難からも守っていこうと固く心に決めていた、エミール。

 彼の無事な姿を目にして、私は安堵しました――いえ、するはずでした。


 なのに、なぜでしょう。


 私はこの時、えも言われぬ不安が足下から這い上がってくるような感覚を覚えたのです。



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