第31話 プンスコお父さん
まだ午後三時を回ったばかりのはずなのに、辺りは黄昏時のように薄暗くなっていました。
さっきまでさんさんと差し込んでいた太陽の光は、突如現れた魔界の闇に呑まれてしまったように鳴りを潜めています。
グチャグチャと生々しい音を立て、傭兵達の成れの果てはまだ物陰で前大臣を貪っていました。
そんな暗然たる世界の中でただ一人、辺りを照らしているのはギュスターヴ。
その上質のシルクのごとく銀髪の一本一本が発光し、魔王のくせに相変わらずやたらと神々しい様子です。
彼は私を片腕で抱き上げると、触れれば切れんばかりの鋭い目でぐるりと辺りを見回して、再度同じ問いを口にしました。
「誰が、私の子をぶった」
しかし、ドリーもジゼルも義姉も、魔王の怒りに呑まれて固まってしまい、答えることも叶いません。
グライスとパルスだけは、物陰に隠れたまま興味津々な様子で彼を見つめていました。
そんな中で私はといいますと、九割がギュスターヴの血肉でできているせいでしょうか。
あるいは、万が一にも彼が自分に害を及ぼすことなどないと本能的に確信しているからかもしれません。
魔王が怒り狂っていようと、別段恐ろしいとは感じませんでした。
「ギュスターヴ、どうしてそんなに怒っているのです?」
「我が子を殴られて怒らない親がいるならば、まずはそいつから叩きのめしてやろう」
深々と刻まれた眉間の皺は、とんでもなく綺麗な顔には不釣り合いな気がしたものですから、指の腹で擦って伸ばしてあげます。
ギュスターヴはそれに少しだけ毒気を抜かれたようでしたが、私の顔を見るとまたすぐに眉を寄せてしまいました。
理由は、庭に面した廊下の窓に目を向けたことで判明します。
窓の向こうも闇に沈み、ガラスが鏡みたいになっていたのですが、そこに映った私の顔がそれはもうひどい有様だったのです。
「あら、びっくり。こんなになってたんですねぇ」
「痛覚がないというのも考えものだな」
男にぶたれた左の頬は大きく腫れ上がり、唇の端など切れてしまっていました。
左耳が聞こえにくいので鼓膜も傷ついているかもしれません。
相変わらず痛くも痒くもありませんが、確かにこの有様では自称〝アヴィスのお父さん〟が腹を立てるのも無理はありませんね。
「これはひどい。記念に写真を撮っておきましょう。はい、ギュスターヴ。笑ってください?」
「笑えるものか」
せっかくなので、いそいそと携帯端末を取り出して自撮りをしますが、頬を寄せ合って仲良く写したギュスターヴの顔はたいそう不満げなものでした。
それと、少し困ったことに……
「あらら……」
油断をしていると、すぐにまた垂れてきてしまうのです。
鼻血が。
慌てて手で押さえようとしましたところ、ギュスターヴの指が先にそれを拭ってしまいました。
すると、ああっ! と足下から残念そうな声が上がります。
鼻を押さえながら下を向きますと、いつの間にやってきたのか、どピンクのコウモリが床に這いつくばっておりました。
どうやらジゼルは、先ほど床に垂らしてしまった私のハナタレ……ではなく、ハナヂタレ第一号を舐めとった上に、新たに落ちてくるのを待ち侘びていたようです。
鼻血を舐めるとか、ドン引きですね。どうかしてます。
それにしても、自分の手で滅したはずのジゼルがここにいることに、ギュスターヴが驚いている様子はありません。
ただ、無感動な目で足下を一瞥したかと思ったら、彼女をガスッと踏みつけてしまいました。
当然、血に飢えた獣は抗議の声を上げますが……
「黙れ」
再び魔王の凄まじい怒りがその場を支配します。
ジゼルは声もなく口をパクパクさせ、ドリーは自分が黙れと言われたわけではないのに両手で口を塞ぎ、義姉は真っ青な顔をして客間の扉に縋り付きました。
双子は、瞬きもせずにギュスターヴを見つめています。
私はそんな一同を見回してから、ギュスターヴに向き直って口を開きました。
「そんなに怒らないでくださいな。相手を庇うつもりはありませんが、先に殴ったのは私なんですよ? まあ、全然効かなかったのですけれど」
「またか、アヴィス。勇ましいのは結構だが、怪我はするなと言いつけたはずだぞ」
「でも、極力って言われました。絶対に、と言われてはいませんし、元より私はあなたの言葉に頷いてはおりませんもの」
「お前は……ああ言えばこう言う」
ますます眉を顰めたギュスターヴが盛大なため息を吐きます。
私は、またその眉間を指先でこちょこちょとしてから、ツンと澄まして言ってやりました。
「そもそも、今回はギュスターヴの出番なんてございません。私を殴った方はドリーがさっさとミンチにしてしまいましたもの」
「なん……だと……?」
「ひいいっ、魔王様! 仕事が早くてごめんなさいっ!!」
ギュスターヴにギロリと睨まれたドリーが怯えて壁にへばり付きます。
そんな中、ついに前大臣を喰らい尽くしたのか、成れの果て達が顔を上げました。
知性も理性も失った彼らは、ふらふらと私達の視界を横切ろうとして……
「ならば、私はこの憤りをどこにぶつければいい? ――ここにいる、お前以外のものを全て消してしまおうか」
唸るようにそう呟いた魔王の怒気に当てられて、燃え上がります。
彼らだけではありません。
床に残っていた前大臣の残骸も血糊も、私を殴った男のミンチも、その他もろもろ汚らわしいもの達は全て、一瞬にして炎をに呑まれてしまったのです。
ひっ、と義姉が小さく悲鳴を上げたのが聞こえました。
対してグライスとパルスは、燃え上がる成れの果て達の断末魔に怯える様子もありません。
やがて、思いがけずすっきりさっぱり一掃された廊下には、もう何度目かも分からない沈黙が落ちました。
まあ、そんなものは私が平然と破るのですけれど。
「ギュスターヴは怒りんぼうさんですね。済んだことなのですから、もういいではありませんか」
「いいわけがあるものか。我が子が殴られ、いまだこうして痛々しく頬を腫らしているんだぞ。お前が許そうとも、私が許さん」
ギュスターヴはそう言って、いまだプンスコしております。
プンスコ、とか全力で可愛い表現にしてみましたが、そのお綺麗な顔はここにきてもまだ凄まじい形相を呈しておりました。
確かに、私の頬は依然痛々しい有様なのですから、それを目の前にして自称〝アヴィスのお父さん〟がプンスコするのも仕方のないことなのかもしれません。
うんうんと頷いた私は、それならば、続けます。
「この頬を治せば怒りも収まるのではありませんか? ギュスターヴなら簡単でしょう?」
ギュスターヴの精気はくどくて、まったくもって好みの味ではありませんが、私にとっては万能薬で特効薬なのです。
ジゼルから逃れようとしてすっ転んで両膝がわんぱく少年みたいになった時も、クモ之介さんの爪で左腕をサクッと突き刺した時も、ギュスターヴに精気を飲まされれば立ち所に治ってしまったのですから。
ところが、ん、唇を突き出して精気を要求しますと、ギュスターヴはとたんに赤い瞳をぱちくりさせました。
「どうして、びっくりするんです?」
「いや……よくよく考えたら、アヴィスからキスを強請られたのは、これが初めてではないか?」
「キスを強請っているつもりなんて微塵もありませんけど」
「うむ、待ちなさい……お父さんはいささか緊張してきた」
なんでやねん、と私の全細胞が口を揃えて突っ込みました。
ギュスターヴの足の下からはジゼルが呆れた顔をして見上げきます。
ドリーは血塗れの両手で口元を押さえて、はわわと顔を赤らめました。なんでやねん。
義姉は完全について来れていない様子ですが、グライスとパルスが凝視してくるものですから、私までそわそわとした心地になってしまいます。
キスを強請っているつもりなんて微塵もないのです。
けれど、貞節を重んじるグリュン王国に生まれ育ち、許嫁であるエミールとも手を繋いだことしかなかったのを考えれば、人の目も気にせず唇を突き出すなんてとんでもなくはしたない真似だったのかもしれません。
とはいえ……
「私はもう、グリュン王国のアヴィスではなく、魔界のアヴィスですもの。どうってことないです」
開き直るって、悪いことではないですよね。
エミールの許嫁、未来のグリュン王妃という、生まれながらに嵌められていた型から抜け出した今は、もう怖いものなんてありません。
私はギュスターヴのクラバットを掴んで引っ張り、彼の形のよい唇に齧り付きます。
とたん、きゃああっと黄色い悲鳴が上がりました。
「ア、アヴィスったら大胆んんん!! えっ? えっ!? 魔王様って受けなの!? アヴィス限定で!? ――やだっ、推せる!!」
ドリーはとにかくうるさいです。
あと、やっぱりギュスターヴの精気はくどいです。
どっと流し込まれるそれに、うんざりとしておりますと、ふいに目の端に義姉が映りました。
とたん、さっき知ってしまった彼女の本心を思い出して、痛覚はないはずなのに胸の奥がチクリと痛んだ気がしましたが……
「お前に掻き乱される日々は、実に面白いものだな」
触れ合う唇の隙間で、笑いを含んだギュスターヴの声がそう呟きます。
私の身体の傷も、心の傷も、何もかも――魔王は簡単に癒してしまいました。
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