第4話 屍剣士ヒヨコ
頭上には、雲一つ浮かんではいませんでした。
けれども、どこを探しても太陽を見つけることができません。
それもそのはず。
「魔界は地下深くに位置しておるからのぅ。地界の地面に遮られて日の光は届かぬのじゃ。おぬしがここに来た時のように、魂だけの状態ならばそれをすり抜けることもできようが、生身ではいかに高位の魔物でさえ不可能じゃよ」
「それでは、太陽がないにもかかわらず昼間のように明るいのはなぜでしょう?」
「地界との境界に、太陽の代わりとなる光源が設置されているからじゃな」
「まあ、そんなすごい技術が……」
私が生まれ育った地界ではようやく蒸気機関が実用化され始め、産業の中心が手工業から機械工業へとゆるやかに移行しているところですが、魔界のエネルギー事情はとっくの昔にその工程を通り越していました。
現在では、燃焼によって発生した熱を運動エネルギーに変換し、さらに電磁誘導とかいう現象を利用して得た電気エネルギーでもってあらゆるものを動かしているのだといいます。
あいにく科学に精通していない私にはちんぷんかんぷんですが、要するに魔界は地界よりも科学技術が進んでいる、ということのようです。
それを懇切丁寧に教えてくれたのが、魔王だというギュスターヴでも、その側近らしいノエルでも、あの大広間に居合わせた魔物達でもメイドでもなく……
「おばあさま、たいへん興味深いお話をありがとうございました。私、少し外を歩いて参りますね」
「そうかい。一緒に行ってやりたいが、わしはここから動けんからねぇ」
庭に立っていた老婆の声でしゃべる古木なのですから、いかにも魔界、といった感じです。
私は彼女と別れると、魔王の居城――魔王城の大きな門を潜りました。
門には厳つい面構えのガーゴイルが控えていましたが、私をチラチラ見るばかりで声もかけてきません。
門の外には青々と草が茂り、魔界なんておどろおどろしい呼び名とは不釣り合いな、長閑な光景が広がっていました。
地界ならば、そろそろ太陽が空の天辺を通り越す頃合いでしょうか。
古木が言うには、時刻は魔界も地界も、それに天界も共通なのだとか。
地界で死んだ私がこの新しい身体で目覚めたのは朝方だったのに、あっという間に時間が経ってしまっていました。
素肌に羽織っていたマントは持ち主に返し、今の髪と似た繭色のワンピースを着せられています。
ふかふかスリッパも、こちらは新しい瞳と同じ赤いパンプスに変わりました。
メイドが丁寧に梳ってから高い位置で一つに結び、赤い宝石をあしらった飾りを付けた髪が、歩くたびに馬の尻尾みたいゆらゆらと揺れます。
魔王城の門から離れ、ガーゴイルの視線がようやく煩わしくなくなった辺りで、私はふかふかの絨毯みたいな草の上に腰を下ろしました。
そうして、自分の右の拳を見下ろしてしみじみと呟きます。
「……あごって、あんなに固いものなのですね」
生まれて初めて――死んでからも初めて繰り出した、私の渾身の一撃。
それは確かに、頭上にあった顎に命中しました。
しかしながら、傷を負ったのは結局、こちらの拳の方だったのです。
皮膚が破れ、血が噴き出し、肉がえぐれ、骨まで見えていました。
幸いというべきか、今の器には痛覚が備わっていなかったため私は平然としていましたが、対照的にギュスターヴとノエルの取り乱しようはそれはもうたいへんなものでした。
魔王だとかその側近だとか、そんなたいそうな肩書きを持つ者達が、人間の小娘を挟んであばばばと慌てふためく様はあまりにも滑稽。
沽券も何もあったものではありません。
最終的には、この器の九割を担当したらしいギュスターヴが指先を切って垂らした血により、傷は瞬く間に完治したのですが。
「あんなに簡単に治るのでしたら、もう二、三発殴っておくのでした」
今はもう傷ひとつない右の拳を矯めつ眇めつ眺めながらそう呟いていると、さっと右隣から伸びてきた手が庇うようにそれを包み込みました。
黒い革の手袋をはめた、一回りは大きい手です。
私は両目を瞬いて、小さく首を傾げました。
「殴ってはいけませんか?」
手の主が、こくこくと何度も大きく頷きます。
その切実な様子からは、殴られるギュスターヴの顎ではなく、こちらの拳を心配してくれているのがひしひしと伝わってきたため、私は素直にこくりと頷き返しました。
「わかりました。やめておきます」
手の主が、ほっとした様子で肩の力を抜きます。
けれども、私が左手の人差し指で革の手袋をツンツン突っつくと、それは弾かれたみたいに跳ね上がりました。
そうして、断りもなく触れてしまったと謝るみたいにペコペコし始めた相手に、私はたまらずにっこりと微笑んでしまいます。
何だか、うっかり女の子の手に触れてしまった思春期の男の子のようで、初々しくて可愛らしかったのです。
とはいえ、実際の相手の様相はというと、初々しいとも可愛いらしいとも恐ろしくかけ離れたものでした。
「あなたは、どうしてこうなってしまったんでしょうね?」
なにしろ、相手は魔物というよりも死人――しかも、私のように魂だけの状態ではなく、屍ごと魔界に来てしまった者のようです。
衣服から覗く肌は青白いを通り越して、もはや青灰色。
体格から見て男性で、腰に二振り剣を下げているからには生前は剣士だったのでしょうか。右腕が肘の先から無くなっているところを見ると、戦いの最中に亡くなったのかもしません。
彼がどういう理由で魔界に落ちてしまったのかは分かりませんが、身なりの良さからそれなりの身分であったことが窺えます。
ちなみに、マントと一体になったフードを深く被っているのですが、あいにくその下の顔は判別できないくらいにえらいこっちゃな有様だったので、私は安易にフードを捲ってしまったことを後悔しました。
あれでは、言葉を話せないのも当然でしょう。
そんな彼とは、魔王城の庭で古木の講釈を聞いている時に出会いました。
私を見つけるなり、たたたーっと走り寄ってきたかと思ったら、どういうわけかずっと後を付いてくるのです。
それはもう、雛鳥のごとくピヨピヨと。以後、彼のことはヒヨコと呼ぶことにします。
ちなみに、私の拳を元通りにしたギュスターヴはどっと疲れた顔をして、一つ二つ言い付けてから私をメイドに預けました。
酔いが覚めたから宴はお開きにして寝る、とか何とか言っていましたが、今どうしているのかは知りません。
そもそも私には、他にもっと気にかけなければいけない相手がいるのですから。
「エミール……」
私を毒殺したという冤罪で、グリュン城の外れの塔に幽閉されることになったエミール。
彼は今、どうしているのでしょうか。
「エミールを助けにいかないと……」
私がそう言って立ち上がると、隣にいたヒヨコも当たり前のようにそれに倣いました。
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