第41話 子煩悩たち
雨は、唐突に止んだ。
まるで夢か幻だったのかと錯覚するほどに、紛い物の空はたちまち晴れ渡った。
とはいえ、地面には大きな水溜りがいくつも残され、その青を映している。
「……」
屍剣士ヒヨコは、ドラゴンの血がすっかり洗い流された双剣を鞘にしまい、ぐっしょりと濡れたマントの裾を絞った。
その横で、真っ黒い髪、真っ黒い服、真っ黒いとんがり帽子の幼子が、犬みたいにブルブルと頭を振って水滴を飛ばしている。
それから彼らは無言のまま、示し合わせたみたいに同じ方向を見た。
その視線の先では、大きな木が無惨な姿を晒している。
さっきの豪雨で火は消えたものの、葉はことごとく焼け落ち、幹も炭のように真っ黒になってしまった。
あのような短時間で大木を焼き尽くしたことから、ドラゴンの火力の強さが窺える。
ヒヨコと幼子は次に、その大木の袂に視線を移した。
そこにある存在を、魔王城の庭に集まった面々も固唾を呑んで見守っている。
雨と同時に現れた魔王の胸で、その血肉から生まれた器に魂を押し込められた人間の娘が、泣きじゃくっているのを。
「──アヴィス」
彼女を雨から守っていたマントを背中に払い、魔王ギュスターヴが穏やかな声でその名を呼んだ。
あれほどの雨に打たれながら、どういうわけか彼は少しも濡れていない。
その理由を、居合わせた魔物達は知っていた。
雨を降らせたのはギュスターヴ自身であり、水滴さえも主たる彼を煩わせることはないのだ、と。
そんな魔王の胸を、人間の娘の涙がしとどに濡らしている。
「おばあさまが……おばあさまが、もえて……」
「ああ」
「わたしの、わたしのせい……」
「それは違う」
雨はすっかり上がったというのに、アヴィスの涙はいまだ止まる気配がない。
ギュスターヴはそんな彼女を見下ろしてきっぱりと言った。
「あの古木を燃やしたのは炎であり、それを吐き出したのは後ろで事切れているドラゴンだ。お前のせいなどではない」
「でも……」
「でもも何もない。私がそうだと言ったらそうなのだ」
「……」
尊大な言い草だが、大言壮語ではない。
なにしろ、ギュスターヴは魔界の王だ。
ここに、彼以上に強い存在も、彼のそれ以上に正しい言葉もない。
ギュスターヴの胸から顔を上げ、その美貌をじっと見つめたアヴィスは、ひとまず己を責めるのはやめたようだ。
しかし、黒焦げになった古木を目にすると、またしくしくと泣き始める。
「おばあさまが……おばあさまが焼けてしまいました。おばあさまの優しい声も、博識でいらっしゃるところも、大好きでしたのに……」
「うむ、そのことだがな」
するとここで、魔王城の会議室にいた他の面々も庭へとやってくきた。
そのうちの一人に向かって顎をしゃくり、ギュスターヴが続ける。
「そもそも、古木は魔物でも何でもない。お前が老婆だと思ってしゃべっていたやつの正体はな、このケンタウロスだ」
「──うそです! あの方は上品なおばあさまでしたもの! こんなくたびれたおじさんじゃないですものっ!!」
「ぐはっ……」
「キロン、ダメージを食らってないで、ちゃんと説明しろ」
魔王に急かされておずおずと進み出たのは、下半身が馬で白衣をまとった痩身の中年男、ケンタウロスのキロンだった。
涙でぐちゃぐちゃになったアヴィスの顔を目の当たりにし、彼まで泣き出しそうな表情になる。なにしろこのケンタウロス、生粋の〝いいひと〟なのだ。
キロンは罪悪感に押し潰されそうになりながらも、どうにかこうにか語り出す。
この一月、アヴィスと交流を深めていたのは古木の魔物ではなく、その地下研究所にいた自分である。
アヴィスが興味津々で話を聞いてくれるのが嬉しくて、毎日会うのを楽しみにしていたこと。
その一方で、実は老婆ではなくくたびれたおっさんだとばれて幻滅されるのを恐れ、正体を明かせなかった、と。
「お嬢を騙すつもりも、からかう意図もなかったんだ……ええっと〝すまなかったのう〟」
「おばあさまの声、です……」
古木の老婆の声色を使ったことで、アヴィスもキロンの話を信じる気になったようだ。
彼女はくすんくすんと鼻を鳴らしながら、気まずそうに背中を丸めた半人半馬と黒焦げの古木を見比べる。
それから、この場で誰よりも強く誰よりも正しい相手に尋ねた。
「ギュスターヴ……おばあさまは、亡くなってはいない?」
「いない」
「……私のせいで死んでしまったのでは、ない?」
「ない」
反論の余地もないほど、ギュスターヴがきっぱりと答える。
その顔をまじまじと眺めたアヴィスは、やがて大きく大きく息をついた。
「おばあさまがぶじで、よかった……わたしのせいで、はめつしなくて、よかった……」
「……破滅?」
ギュスターヴが片眉を上げる。
彼はそのまま胡乱な目を頭上に向けた。
魔界の紛い物の空でも、その上にある地界でもなく、もっともっと遠く高くにある存在に。
しかし、安心して気が緩んだのかアヴィスがまたポロポロと涙を零し始めると、あっさりと視線を戻す。
彼女を抱き上げて涙を拭ってやり、幼子をあやすみたいにゆらゆらと揺らし始めた。
「よしよし、もう好きなだけ泣くといい。この、お父さんの胸でな」
「……ぐすっ、ギュスターヴはお父さんじゃありませんってば……」
居合わせた魔物達は言葉を失う。
魔王の子煩悩っぷりはすでの魔界中で噂にはなっていたものの、実際目にするのはこの時が初めてという者も多かったのだろう。
「いやはや、本当におもしろくなってきたね」
一方、声を弾ませてそう呟くのは、真っ黒い髪、真っ黒い服、真っ黒いとんがり帽子の魔女ウルスラだ。
ウルスラを見つけたとたん、彼女とまったく同じ格好をした幼子と魔王城の門番を務めるガーゴイル飛んでいって、左右の手をそれぞれ握り締めた。
「おや、私の可愛い甘えん坊達」
ガーゴイルは父親もガーゴイル、幼子は──ドラゴン族の長との間に生まれた、末っ子だ。
どちらも、ウルスラが産んだ子供である。
ここで初めてそれを認識した父親違いの兄弟は、すこぶる機嫌のよさそうな母を挟んで、改めてお互いをまじまじと見つめた。
「ふふふ、可愛いね。子供というのは、本当に愛おしいものだ」
ウルスラは、慈愛に満ちた笑みを浮かべて子供達それぞれの頬にキスしてから、眼差しを注目の的へと戻す。
当の魔王は周囲の視線などどこ吹く風だ。
泣き疲れて大人しくなったアヴィスの頭を自分の肩に預けさせ、まるで壊れ物を扱うみたいに優しく髪を撫でていた。
その表情は、今まさに我が子達の頬にキスをしたウルスラのそれと変わらない。
アヴィスが元はただの人間の魂でしかなかったことも知れ渡っており、それに惜しみなく愛情を注ぐ魔王の姿を、ある者はおもしろそうに、ある者は呆然と見つめている。
前者であった千年を生きる魔女は、笑みを深めてつぶやいた。
「魔王の子をこの手で取り上げるのも、夢ではないかもしれないね」
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