第45話 気分は最悪
大陸の北に位置し、一年の半分以上が雪に覆われるグリュン王国。
南の大国出身の勇者が起源といわれるグリュン王家の住まいは、いまだ春を迎えぬ白亜の城である。
その最上階にある最も豪奢な一室のベッドで、新国王エミール・グリュンは目を覚ました。
「──っ、がはっ!?」
ただし、最低最悪の目覚めである。
「うえっ……げほっ! げほげほげほげほっ!!」
喉の奥に、生臭くねっとりとしたものがまとわりついていたのだ。
エミールは、激しく咳き込みながらベッドから飛び起きる。
たまらず口の中に残っていたものを吐き出せば、真っ白いベッドシーツがたちまち朱に染まった。
鉄錆を思わせる味に凄まじい不快感を催し、これでもかと顔を顰める。
エミールは喉を掻きむしりつつ、ベッドの傍らにいた相手に向かって叫んだ。
「げほっ……ちょっとグラウ! 何を飲ませっ──」
しかし、抗議の声は最後まで続かなかった。
相手が──婚約者アヴィスの兄で、忠実な騎士団長でもあるグラウ・ローゼオ侯爵が、手首から盛大に血を流していたからだ。
自分の喉の奥に絡みついているものの正体を悟ったエミールは、真っ青な顔になってグラウに掴みかかった。
「──ばかっ、グラウ! 何やってるんだっ!!」
「でん、か……」
「おえっ……もう、ふざけないでっ! 吸血鬼じゃないんだから、血なんか飲ませてどうするんだよっ!!」
「殿下……エミール……」
激しく罵倒しながらも、エミールは自分の寝巻きでグラウの手首を縛って止血する。
彼とて目覚めたばかり──あまつさえ、幽体離脱から復活したばかりでまったくもって本調子ではないのだが、グラウの方がずっと生気が乏しく見えた。
そう──まるで、さきほど魔界で相見えた双剣使いの死人のように。
「……っ、くそ! あいつ、なんでアヴィスと……」
「ア、アヴィス……アヴィス……」
アヴィスの名を耳にしたとたん、されるがままだったグラウがのろのろと顔を上げる。
緑色の瞳は虚空を見つめ、うわ言のように妹の名を繰り返し始めた。
「アヴィス……アヴィスアヴィスアヴィス……わたしの、妹……あの子は、どこに……」
「グラウ……」
「そう……そうだ、土の下だ……私が棺に収めて、私が土の下に埋めたんだ……」
「ちょっと、グラウ」
「あ、ああ……あああ、あの子の体は! 腐って! 虫に食われて! もうっ……」
「──グラウ!」
輝きを失ったグラウの両目からぼろぼろと涙が溢れ出す。
そうして、糸が切れた操り人形みたいに膝から崩れ落ちた。
エミールはちっと舌打ちをすると、病み上がりの体を叱咤してベッドから飛び降り、グラウの胸ぐらを掴む。
そうして、その頬を渾身の力で殴りつけた。
「ぐっ……!」
本来なら、歳のわりには華奢で少年っぽさを残すエミールに殴られたくらいでは、騎士団長として鍛え抜いたグラウはびくともしなかっただろう。
けれどもこの時はあっけなく床にひっくり返り、そのまま起き上がることもままならなかった。
エミールはそんな年上の忠臣に馬乗りになり、再び胸ぐらを掴んで叫ぶ。
「しっかり……しっかりしてよ、グラウ! 戻ってこいっ!」
「う……」
「お前の王の命令だぞ! ──正気に戻れ! 騎士団長グラウ・ローゼオ!!」
「──はっ」
その瞬間、グラウの瞳に光が戻った。
馬乗りになったエミールを吹っ飛ばさんばかりの勢いで起き上がり、ガッと彼の両肩を掴む。
そうして、またぼろぼろと涙を零し始めた。
「エ、エミールでんか……いや、陛下? 生きて、る……?」
「生きてる! 生きてるよ! 見ればわかるでしょ! 気分は最悪だけどねっ!!」
「よ……よか……よかった……って、陛下ぁ! 口から血があああっ!?」
「いや、お前のっ! 飲ませたのも、グラウでしょっ!!」
ひとしきり騒ぎ立てたグラウは、ベッドサイドに置かれていた水差しからコップに水を注ぐ。
それを引ったくって口を濯いだエミールは、ベッ、と血を含んだ水をグラウに吐き掛けてやった。
血を飲まされたことへの意趣返しだ。
ところが、当のグラウは嫌がる素振りも見せない。
それどころか、血で汚れたエミールの口元を、甲斐甲斐しく手で拭い始めた。
「……ぼくは、どれだけ寝込んでいたの?」
「まる一週間です。今朝からは呼吸もか細くなり、栄養が足りずに衰弱していらっしゃるのかと思いまして、私の血を」
「いや、最悪。血の経口摂取で生きながらえるわけないじゃない。僕が吸血鬼にでもなったらどうするつもりだよ」
「問題ありません」
窓の外を見れば、太陽が西へと傾き始めているようだ。
グラウが人払いをしたのだろう。
部屋の中には、侍医どころか侍女の姿も見えなかった。
そもそもグリュン王家の侍医は第二王妃の腰巾着であったため、すでにこの世にはいないのだが。
現在グリュン王国を実質支配しているのは騎士団だ。
その長であるグラウに逆らえる者はおらず、主君に血を飲ませるなんて彼の暴挙を止められる者もいなかったのだろう。
グラウが耳を傾けるのは、もはやエミールの言葉だけとなった。
「吸血鬼でもなんでも、いいのです。生きてさえ、いてくださるなら……」
この発言に嘘はない。
毒殺されながらも新たな器に魂を押し込められ、色違いになって戻ってきた妹アヴィスを受け入れたように、グラウはどんなエミールも肯定するだろう。
吸血鬼になろうと、化け物になろうと──あるいは、さきほど魔界で相見えた双剣使いのような、屍になろうとも。
「陛下……エミール、お願いです。どうか、生きて……」
「──生きるよ。心配しなくても、そう簡単に死んでやるものか」
エミールはきっぱりと言い放ち、執拗に口元を拭ってくる手を振り払う。
ところが今度はその手を捕まえられ、強い力で握り締められてしまった。
エミールが痛みで顔を顰めるのも気にせず、グラウはそれを胸にかき抱く。
そうして、よかった、よかった、と呟きながらまた涙を溢れさせるのだった。
「はあ……」
深い深いため息が、エミールの口からこぼれ出す。
血の味やにおいが喉の奥と鼻腔にこびりついたままで、気分は最悪だった。
声もなく泣き続ける十も年上の男を昏い目で眺め、絞り出すように言う。
「僕は、死なない。死なないよ。だから……まだもう少しだけ、正気のふりをしていてよ」
エミールは、知っている。
グラウはもう、ずっと昔から狂い始めていた。
十年前──彼やアヴィスの両親と、エミールの母親が亡くなった、あの日から。
そして、最愛の妹アヴィスの死によって、絶望的になった。
それでも──
「狂っていてもいいよ。一緒に、アヴィスを取り返そう──ねえ、にいさん?」
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