11:隣を見れば

 学校での一日が過ぎ去っていた。


 聖斗にとって人生で最も居心地の悪い一日だった。クラスメイト達の冷たい視線、周囲から聞こえる敵意の籠った言葉の数々。それらは全て聖斗の心に深く突き刺さり、その傷口を更に広げるようなものだった。


 けれど聖斗が逃げ出す事はなかった。

 ずきりと心が傷んだ時、隣を見れば真紅が笑いかける。


「大丈夫です、緋根くん。わたしがついています」


 その言葉と笑顔で聖斗の痛みは和らぐ。真紅が傍にいるだけで朝の騒動のように聖斗に詰め寄ってくる生徒は現れない。聖斗にとって真紅の隣は、どんな場所よりも安心出来る居場所であり心強い支えでもあった。


 聖斗は学校が終わるとすぐに真紅と共に帰路につく。

 帰り道は一緒だ、二人であのアパートに向けて歩き出す。


「皆さん、思ったよりも何もしてきませんでしたね。予想よりも酷い状況にならなくて良かったです」

「……黒曜さんが居てくれたおかげだよ。もし俺だけだったら……下手したら人目のつかない場所に連れ込まれて、甘楽に乱暴しようとした強姦魔だってリンチにあってもおかしくなかった」


「そうならないようお守りしますよ。今は辛いでしょうけど、わたし達が復讐を果たすまでの辛抱です」

「ああ……分かってる。というかその、聞きたい事があるんだ。黒曜さんが言っている……えっと『徹底的で破滅的な復讐』って、その内容についてなんだけど。具体的にはどんな事をするつもりなんだ?」


「昨日の緋根くんはあまり冷静な心境とは言えなかった。ですので詳細をお伝えするのは省いていたのですが、今日の緋根くんは自身の置かれた状況を理解して落ち着き始めています。甘楽さんへの復讐の内容を共有するには良いタイミングなのかもしれませんね」

「ああ、ぜひとも聞きたいよ。何をしたら良いのかとか本当にさっぱりで漠然としてて……」


「そ、それでですね……あの、もしよろしければわたしが引っ越してきたあの日のように……緋根くんのお家に上げてもらう事って出来ますか?」

「もちろんだよ。今日はバイトも休みだし、二人で話すならこっちからお願いしたいくらいだ」

「わあ、良かった。嬉しいです。わたし緋根くんのお部屋がとても好きなのです。とても落ち着くというか、良い匂いがして――だからまたお邪魔出来て嬉しく思います」


 無表情だった真紅の顔が綻ぶ、花が咲いたかのような可憐な笑みで、嬉しさを隠しきれないように頬が緩み、その紅い瞳はきらりと輝いているように見えた。


 そんな真紅の様子を見て聖斗は思う。


(こんな純粋な笑顔が出来る黒曜さんを……どうして学校のみんなは悪魔なんて呼ぶんだ)


 今日何度も何度も耳にした。朝の騒動の時も、教室にいる時も、放課後になって廊下ですれ違った時も。皆一様に真紅の事を悪魔だと言っていた。


 彼女が傍に居るだけで周囲の人間は怯えたように恐れていた。けれど聖斗の知る真紅は悪魔などではない。むしろその逆で――真紅は絶望の底から自身を救い出すために、眩い輝きと共に手を差し伸べる天使のような存在にしか思えなかった。


 それとも、いずれ自分も真紅の事が悪魔のように見える日が来てしまうのか。それは分からない。そして本当に彼女が悪魔だったとしても、聖斗はそれでも構わないと思っていた。


 彼女が傍に居てくれたおかげで、今日一日を生き抜く事が出来た。もし自分一人なら周囲の冷たい視線も罵倒の数々も耐えられなかっただろう。聖斗の傷ついた心はそのまま壊れてしまっていたかもしれない。真紅が居てくれるなら、明日も明後日もその先もきっと大丈夫だろうと、そんな希望が溢れていくのを感じていた。


 そう考え込んでいた時、彼女の紅い瞳が聖斗の顔を覗き込んでいた。星々のように煌めく美しい双眼に見つめられて、彼女の綺麗で整った顔がすぐ目の前にある事に驚いていると真紅が優しく声をかける。


「緋根くん。立ち止まって……大丈夫ですか?」

「んあ? あ、ごめん。ちょっと考え事を」


「考え事ですか。これからの事を不安に思う気持ちはとても分かります。けれどわたしがついています、安心して下さい。共に前へと進んでいきましょう」

「共に前へ……か。ありがとう、黒曜さん」

「ふふ。では行きましょう、緋根くん」


 真紅はそう言って手を差し伸べる。それは細くて白い、華奢な女の子の手。


 その手を見つめていると不思議な感覚がこみ上げてくる。そっと手を引かれ、彼女のぬくもりに触れると聖斗の荒んだ心までもが温かく包まれるような気がした。


 そして真紅は聖斗と肩を並べてゆっくりと、歩幅を合わせ歩き出す。


 付き合っていた――いや、聖斗を騙していた甘楽との関係は、共に歩むようなものではなく、ただひたすら彼女から振り回されるような日々だった。甘楽を笑わせようと奔走していた毎日を聖斗は思い出す。


 けれど真紅は違う。彼女は聖斗との歩幅を合わせてくれる。そして進むべき道を指し示してくれる。顔を合わせるだけでふわりと柔らかな笑みを返してくれる。


(この子と一緒にいると……どうして、こんなに――)


 ふつふつと湧き上がっていく不思議な感情。恋人であった甘楽と一緒に居た時ですら感じた事のない、言葉にし難い何かが胸の中で溢れてくる。


 真紅に感じる感情の正体が何なのか、この時の聖斗はまだ理解していなかった。

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