05:異常の匂い

 聖斗が作った夕飯を真紅は満足してくれたようで「緋根くんは料理もお上手なのですね。わたしも見習わなければなりません」と、テーブルに並べられた料理の数々を前にして舌鼓を打っていた。


 以前に甘楽が聖斗の家に来た時の事を思い出す。


 彼女を驚かせようと聖斗は腕によりをかけてご馳走を用意したのだが、甘楽はテーブルに並べられた料理を見つめながら『私、食べるならピザが良いなー。ねえねえ聖斗、今からピザ頼んでよ!』と聖斗が作った料理を口につける事は無かった。


 そんな光景を目の前で見せつけられて、やはり聖斗の胸中は穏やかではなかった。


 あの時、聖斗は自分の料理の腕がまだまだだったんだなと、一人暮らしを始めたばかりで甘楽を喜ばせるにはもっと努力が必要だと、料理の腕前を上げる為に必死に努力した。けれど付き合って時間が経過した今も、恋人である甘楽が食べたいと思えるような料理は作れていない。


 真紅はその聖斗が作った料理を美味しいと繰り返しながら、ぱくぱくと口の中へと運んでいく。その姿を見ていると今まで感じた事のないような何かが胸の中で広がっていっていくようだった。


「黒曜さん……そんなに美味しいか?」

「ええ。それはもう。いつもシェフに作らせている料理と比べても遜色ないレベルに感じます」


「シェフに作らせている……ってなんだそれ」

「ともかく緋根くんの作る料理が美味しいという事です。一般家庭の水準はとうに超えていると思います。特にお味噌汁の出汁は市販のうま味調味料などで出せるものではありませんね。このご飯も単なる白米に見えますが口に含めば舌触りの良さには驚きます。お米を研ぐ際に工夫をしているようですね」


「そんなふうに言われたのは初めてだから嬉しいよ。それにしても良く分かったな、味噌汁の出汁もかなりこだわってるし、お米の研ぎ方もかなり丁寧にやってるんだ」

「食に関しましては普段から両親に良い食事をとらせて頂いていますので」

「まあ黒曜さんが喜んでくれて良かったよ。頑張って作ったかいがあった」


 単なるお世辞ではなく本当に美味しいと思ってくれている。事実、テーブルに並べられた食事は真紅によってあっという間に空になっていた。


 彼女は満足げな表情を浮かべながら最後に手を合わせた。


「ごちそうさまでした。素敵な夕食をありがとうございます、緋根くん」

「お粗末様でした。食器は俺が片付けておくから、黒曜さんはゆっくりしててくれよ。お風呂はもう沸いてるし入りたいなら先に入っても大丈夫だし」


「ではもう少ししたらお借りしたいと思います」

「着替えとかは大丈夫なのか? 空っぽの部屋で寝泊まりするつもりだったんだろ?」


「着替えはトートバッグに入れてあります。歯ブラシやシャンプーなども一緒に」

「そっか。じゃあ大丈夫そうだな。まあのんびりしてってくれ、ここには何にもないけどさ」


 聖斗の言う『何もない』というのは遠慮がちに出た言葉ではなかった。本当に彼の部屋には何もないのだ。


 テレビもない。パソコンもなく、漫画やゲームといった娯楽品に至るまで、一般的な高校生が持つであろう物が一切置かれていない。部屋にあるのはベッド、机、後は古いソファーくらいしか見当たらない。


 全ては甘楽との付き合いを始めてから無くなっていった。


 聖斗は甘楽から誕生日プレゼントをねだられた。スマホのメッセージで送られてきた画像を見て、可愛いバッグだなと思っていたのも束の間。


 それが高級ブランドの限定品で、高校生にとってはとんでもない金額だと知った時、驚きで開いた目が閉じなくなった。


 けれど聖斗は甘楽にねだられるまま『前の彼氏は買ってくれた』とか『本当に私の事が好きなら言葉じゃなく行動で示して欲しい』と言われ、聖斗は彼女の為ならばとバイトを始める。しかし、誕生日が迫っていくも甘楽の求めるブランド品のバッグには僅かに手が届かない。


 だからその足りないお金を補う為に聖斗は家にあったテレビもゲーム機もマンガも、趣味として持っていた全てを売り払って甘楽への誕生日プレゼントを買う為の足しにした。ブランド品のバッグを手渡したあの時、今まで見た事がないような満面の笑みを浮かべる甘楽に、聖斗はほっと胸を撫で下ろす。


 それからも彼女が物をねだる度に、その想いに応えてあげようとバイトを続け、今も必死にお金を稼ぎ続けている。親からの仕送りも彼女の為に使い、プレゼントを買う為に貯金も切り崩していった。その結果がこれだ。聖斗にとって娯楽と言えるものは何一つこの空間には存在していない。


 真紅はそうして物が無くなったこの部屋を見回した後、テーブルから離れてゆっくりとソファーへともたれかかった。


 足を組みながら聖斗を見つめ小さく笑みを浮かべる。


「何もなくても良いじゃないですか。むしろわたしは物が溢れていない分、心地良いようにも感じます」

「はは……どうも。スマホの充電器くらいなら普通にあるから。スマホのゲームとかやってバッテリー無くなりそうだったら言って。持ってくるから」


「ゲームだなんてもったいない。緋根くんと二人きりですし、一緒にお話などどうでしょう?」

「お話? ええと、そうだな……黒曜さんに出来そうな面白い話は――」


「――大丈夫です。わたしからいくつかお話をさせてもらえれば、と思っています」

「え? 黒曜さんから?」


 転校してきてからの真紅は常に退屈そうで、聖斗はそんな彼女が誰かと喋っている姿を見たことがない。


 時折、聖斗にだけ話しかけてくる事はあったが「教科書は忘れていませんか?」「授業で分からない事は?」などそんな質問ばかりでそこから会話に発展するという事もなかった。


 そんな真紅が聖斗に聞かせたい事があると言っているのだ。一体どんな話が聞けるのかと聖斗は耳を傾けてみる。


「わたしが転校初日に言った事、覚えていますか?」

「え……ああ、覚えている。この教室が臭いだとか、そんなの」


「はい、その通りです。わたしとても鼻がきくのですが、あの教室に入った直後、それはもう驚きました」

「そんな臭かったか? 全然他の教室と変わらないと思うけど……」


 お風呂に入らないだとか体臭がキツい生徒がいるとかそんなわけはない。学園のアイドルである甘楽に粗相があってはならないと、聖斗のクラスの生徒達は人一倍そういう所には気を遣っているはずだ。実際、聖斗もかなり気にかけている。


 シャンプーからボディーソープ、制汗剤、服などの洗剤に至るまで甘楽の好みに合わせていた。甘楽から「聖斗、臭い!」なんて言われてしまえば幻滅される。クラスメイトからも「聖斗が甘楽ちゃんを嫌な気持ちにさせた」とかそんな風に言われれば、彼氏としてだけでなくクラスでの居場所も無くなりそうで聖斗は怖かったのだ。


「緋根くんは優しくて良い子だから気付けなかったんですね。異様な臭いでしたよ。男子からは煙草とほんの少しアルコールの臭い……女子からは男子の汗の臭いと……それと――ああ、これ以上は緋根くんには刺激が強すぎますね」

「刺激が強すぎるって……何のこと? ていうか煙草とアルコール? 女子から男子の汗の臭い? 黒曜さんどういうことだよ……?」


「緋根くん。あなたの居るクラスは少し――いえ、かなり変ですよ。どの生徒も勉強に意欲的ではない。それなのに一学期に行われたテストの平均点は他のクラスよりも遥かに高く、授業態度も悪いのに教師達は皆黙ったまま。他のクラスと対応の仕方も全く違うだなんて。ふふ……おかしいですね、これじゃあまるで……」

「こ、黒曜さん……? なんで転校してきたばかりの黒曜さんが、テストの平均点だったり……まだ授業もそんなに受けてないのに、他のクラスとの違いがどうとか……そんな事を言えるわけ?」


「どうしてでしょうね? ああ、緋根くんだけは違いますよ。授業態度はとても真面目です、真剣に授業を受けている姿を隣で見ています。テストの成績の良さにも納得していますから。それに……あなただけは、とても優しくて心地良い香りがします」

「……っ。ほんとに黒曜さんはめちゃくちゃだって……」


「訳が分からないとは思いますが実際そうなのです。ふふ、お父様から人の上に立つ為にはまず底を知れ、と言われましたが……ただの底ではなく、ヘドロが溜まった底に放り込んでくれたようですね。実に面白い」

「……」


 真紅の浮かべる笑みを聖斗は無言で見つめていた。


 それも聖斗にとっては初めて見るもの。さっきアパートの入り口で見せたものとは全く違う――黒く光るような笑みだった。


「いずれ分かりますよ、緋根くん。あなたはきっといつか気付く。その時までわたしは待っていようと思います。そしてその時に、あなたが望むならいくらでも力を貸すつもりです。あなたをヘドロの溜まった底から救い出してあげましょう」


 怪しげな笑みを浮かべる彼女を前にして、言葉は出てこなかった。どうしてこの子を助けようと部屋に上げてしまったのか、聖斗は自分の善意を悔いている。


 甘楽という学園のアイドルが居てクラスは輝いている。授業を真面目に受けなくともテストで優秀な成績を残すような生徒がたくさんいて、教師達からも一目置かれているのだ。


 その事を真紅は転校してきたばかりで分かっていないだけ。ただそれを陰謀論みたく語っていて、きっと鼻だって利いちゃいない。風邪か何かで鼻が詰まっているだけでごちゃごちゃなのだと、聖斗はそう思っていた。


 けれど聖斗は知る事になる――これから三ヶ月後、甘楽との絆が紛い物だったと、自分が利用されていた事を知った後、彼のいるクラスがどれだけ狂っていたのかを思い知る事になる。

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