06:焦げたカレー

 聖斗は真紅との交友が、その一晩で終わるだろうと思っていた。


 部屋に泊めた事は非常事態で二度はない。それに真紅は自分のいるクラスを変だと、ヘドロのような場所だと言った事が許せなかった。


 あのクラスの中心で輝いている甘楽を、自分の恋人が馬鹿にされているように思えて、それが不愉快で仕方がなかった。


 だが真紅は約束を守ってくれた。甘楽や他のクラスメイトにも、聖斗の部屋に泊まった事を秘密にしてくれた。それがせめてもの救いで、だからもう何も気にする事はないと思っていた。それなのに――。


「――っう。何でこんなに焦げ臭いんだ?」


 真紅を部屋に泊めた翌日の事だ。


 無事に鍵を取り替えてもらったのか、聖斗がバイトを終えて帰って来た後も真紅が隣室の扉の前で立ち尽くす事はなくなった。

 

 引越し業者も来て家具も運び終えたのだろう。壁の向こうからは夜になってからもバタバタと音が聞こえてきて、真紅が一人でダンボールの中に詰められた食器やら着替えやら、色々な物を取り出して忙しそうにしている姿が想像できた。


 そうして真紅が生活するのに十分な条件が整えば、これ以上関わる事はないと聖斗は思っていた。部屋は隣ではあるが接点はそれだけで、たまにアパートの外で顔を合わす程度の関係になるだけだと、学校での繋がりも最低限のもので済むものだと期待していた。


 甘楽が聖斗のアパートに来る事もなくなったので、真紅が彼の隣に引っ越してきた事を知る機会もない。


 テレビやマンガ、ゲームを売ってからは「居ても退屈だから」と二人でのデートは基本的に外でのお出かけがメインになっている。レストランでの外食だとか彼女の服や化粧品、アクセサリを買ってあげたりなど、そんな内容の外出が当たり前だった。


 甘楽は本当に可愛いのだ。以前に男子からストーカー被害を受けたり、弱みを握られて脅迫されたり、そんな大変な目にも何度かあった。


 甘楽にずっと笑っていて欲しいと願っている聖斗としては、彼女からの頼みごとは決して断れなかった。そしてその頼みごとを聞けば甘楽の笑顔が曇る事はない。だからこそ甘楽が嫌いに思っている真紅とは距離を置くべきだと、そう考えていた――そのはずなのに。


「はあ……もう。まさか火事にでもなってるんじゃないだろうな……」


 隣の部屋から臭ってくる焦げ臭さに我慢しきれず、聖斗は椅子から立ち上がっていた。


 家にいてもする事と言えば勉強くらいしかない。甘楽にスマホでメッセージを送っても既読がつくのは大体が次の日で、彼氏彼女がするような甘いやり取りは一度もした事がない。通話をかけても出る事は極稀だった。

 

 彼女は人気者で忙しい。だから仕方ないのだと、彼氏なんだからそれくらい我慢しようと、気を紛らわせるのにも聖斗にとって勉強はちょうど良いものだった。


 けれどその勉強も部屋に漂う焦げ臭さの中では集中出来ない。真紅は一体隣の部屋で何をやっているのかと、本当に火事になっているんじゃないかと大急ぎで部屋を飛び出していた。


 隣の部屋のチャイムを押すと、しばらくして普段通りの表情で真紅が顔を出す。扉を開けた瞬間、焦げ臭さが一気に外へ広がってくるが、部屋の向こうに火の手が上がっていない事を確認して胸を撫で下ろす。


 聖斗はこの焦げ臭い原因を真紅に聞いていた。


「あのさ……黒曜さん、めちゃくちゃ焦げ臭いんだけど。隣の部屋にまで臭ってくるって一体何やってるの?」

「ああ、緋根くん。ご心配をおかけしてしまって申し訳ありません。今日は初めての自炊で張り切っていて、カレーライスを作ってみようと思ったのですが」


「カ、カレー? どうしたらカレーが隣の部屋にまで届くレベルで焦げるわけ……?」

「それがわたしにも良く分からないのです。困ったものです、レシピには玉ねぎが飴色になるまで炒めるというお話でしたのにならなくて……」


「いや、なるでしょ……飴色に……。ちゃんと炒めてたらなるよ、普通……」

「ですが、赤にも青にも緑にもならないのです……。玉ねぎを足していくら炒め続けても最後は真っ黒になるばかりで……何がおかしかったのか……分かりません」


「あのさ……飴色って分かる?」

「市販の飴はカラフルでしょう? ですから玉ねぎを炒めていれば、市販の飴のような彩色を放つものだと……」


「んああ……めちゃくちゃだ。黒曜さんはやっぱりめちゃくちゃだ……」

「そうだ。緋根くん、あなたの料理の腕前を見込んで頼みがあります、わたしのカレーをどうにかしていただけないでしょうか……?」


「そのつもりだよ……こんな焦げた臭いがずっと漂ってきたらぜんっぜん勉強に集中出来ないから……」

「良かった。では上がってください、まだ荷物が運び込まれたばかりで散らかっているのですが」


 そうして真紅に招かれて部屋に上がる。間取りは聖斗が住む部屋と全く一緒なので迷う事はない。


 靴を脱いでそのまま中へと向かい、窓を全て開けて新鮮な空気を取り込みつつ――キッチンにあった鍋の前で聖斗は固まった。


 大きな寸胴鍋の中に広がる真っ黒な光景。幾度も刻んだ玉ねぎを放り込んでは焦がし、放り込んでは焦がしを繰り返していたのか、底にまでびっしりと焦げたタマネギがこびりついていた。


 鍋の脇にある調味料入れの中には砂糖、塩、胡椒など香辛料の類が一切なく、代わりに謎の黒い粒が入った瓶が置かれていた。


(これ……もしかしてコーヒー豆か?)


 隠し味にインスタントコーヒーを入れる、というのは聖斗も聞いた事がある。けれど挽かれていない豆をそのまま入れるだなんて――そもそもコーヒー豆を大量に混ぜ込んだらカレーの味も香りも台無しになってしまうだろう。食感だって果たしてどうなのか、ともかく隠し味の範疇を超えている。


 それにこの寸胴鍋で一人前のカレーを作るのがそもそも間違いなのではないか――ツッコミどころが多すぎて聖斗は大きくため息をつく他なかった。


「あのさ、一応聞くけどこのコーヒー豆は?」

「カレーは隠し味が決め手というお話を耳にして、おすすめにあったインスタントコーヒーを用意しようと。ですが折角ですし、もっと香りが濃厚な豆の方を直接入れてみようと思いました。コーヒーはとても好きですので多めに入れてみたのです」


「そ、そう……。やっぱりコーヒー豆を直接、ね……。黒曜さんのカレーは独特だなあ、いや毒々だなあ」

「ともかくです、飴色にならないのです。真っ黒になって煙しか出てきません」


「この寸胴鍋はもうダメかなあ……金属製のたわしでこびりついた焦げを取れれば……でも分厚すぎて、もう……」

「あの、緋根くん? だめなのでしょうか……わたしのカレー……」


「ここからは再起不能かな……ていうか、焦げちゃったらもう失敗だよ。もしかして黒曜さんは料理とかしたことない? 少なくとも学校で調理実習とかもあったでしょ?」

「調理実習……ですか。わたしの以前いた学校にはそのような科目はありませんでしたね。料理をしようと思ったのもこれが生まれて初めてです」


「調理実習のない学校って何処……? ていうか初めての挑戦にしてもこれは――ええと、今日の夕飯はどうするの? 続行するの?」

「いえ……他の材料もいくつか鍋に入れて、その、全部黒くなってしまったので……続けたいのですが材料がありません」


「じゃあこれにて終了、って事かな……」

「そうですか……終了ですか……」


 しゅんとした様子の真紅を見て、聖斗の心が少し痛む。彼女なりに初めての挑戦という事もあって気合を入れて望んだはずだ。


 その結果が黒く燃え尽きた何かで終わってしまい、失敗という最後を迎えてしまったのは実に残念だったろう。

 

 それにお腹も空いているはず。この寸胴鍋を用意した理由は、自分で初めて作った料理でお腹いっぱいになりたいという、真紅なりの期待の表れだったのかもしれない。


「ちなみにさ……掃除とか洗濯とか、他の家事はしたことある?」

「いえ、任せきりでわたしは何一つ……。ですが、それも全てこの一人暮らしを通じて覚える事が出来ればと」

「なるほどなあ……何一つ、か」


 聖斗はため息をつきながら頭をかいた。


 真紅との交友は昨晩の一度きり、そうでありたいと思っていた。けれどどうやらそれは無理らしい。


 昨夜、真紅が扉の前で立ち尽くしていたのもそうだが、彼女はこのアパートに引っ越してきたは良いものの、一人暮らしに必要な生活力というものを何一つ持っていないのだ。


 どうして真紅の親がそんな彼女に一人暮らしをさせようとしているのかは分からない。だが今の聖斗にも分かる事はある、カレーを作るのにここまで焦がしてしまうようなめちゃくちゃな彼女が隣に住んでいて、生活力皆無な彼女を放っておけばどうなるのか、それは容易に想像がつくものだった。


 聖斗は覚悟を決めた――真紅の面倒を見よう。


 何せ隣人同士なのだから、放っておくわけにもいかない。それに彼女の両親はおそらく、生活力皆無な娘をこのまま放置するつもりだ、自立に必要な事だと思っているのかもしれない、そしてこのままでは確実に悪い方向へと転がっていく。


 せめて最低限の事が出来るようになるくらいまでなら……いくら恋人のいる聖斗と言えど神様だって悪くは言わないはずだ。むしろここで見捨てる方がどうかしている。


「あの……とりあえず、今日の夕飯の残り物だけど、俺の作ったの食べるか?」

「良いんですか? 昨日のように緋根くんの手作り料理を、わたしが?」


「まあタッパーに入れたのを持ってくる感じで。流石に二晩連続で俺の家で、ってのは良くないと思うし……」

「それで構いません。昨晩は鍵も合わず部屋に入れなかったのが原因ですから。嬉しいです、緋根くん。本当にありがとうございます」

 

 真紅はまた笑顔を浮かべる。昨日見せた初めての笑みと同じ、眩いような可愛らしい笑顔だ。


 それじゃあタッパーに入れて持ってくるからと、聖斗は真紅の部屋を後にする。


 長くても一週間あれば真紅も最低限の生活力は身に付くだろうと、そう思っていた。


 けれどこの関係が三ヶ月後も続いていくだなんて――真紅が一人暮らしにおいては覆しようのないダメ人間そのものだったとは、今の聖斗には想像出来るはずもなかった。

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