41:新しい世界

 学園は今、甘楽達の悪逆の限りが白日の元に晒された事でひどく混乱した状態にあった。


 学園のアイドルと王子と呼ばれた二人の不正と、その裏で行われていた悪行の数々。それが生徒達に与えた衝撃は凄まじいものだった。


 事の首謀者である甘楽と我間、そしてそれに関与した生徒達は皆が空き教室に集められ、理事長もその場に立って今後の対応を協議しているらしい。


 そして聖斗と真紅はこの混乱に巻き込まれないようにと、復讐の舞台となった全校集会が終わった後、理事長の指示で学校内にある応接室にいた。応接室の入り口は屈強な警備員達に守られて、外部の人間が入り込む余地はない。


 聖斗と真紅は二人きりのその部屋で寄り添いながら座っていた。その表情には疲れが浮かんでいるものの、どこか満足げでもあった。


「終わったな、真紅」

「はい。無事にわたし達で復讐を成し遂げる事が出来ました」


 聖斗の言葉に真紅は微笑んで答える。


 今回の件で聖斗を強姦魔だと罵る者はいなくなるだろう。それに真紅も悪魔を演じる必要はなくなった。結城 香織は転校した後も遠い場所で元気に暮らしている事が広まれば、彼女が悪魔と呼ばれる事もなくなるはずだ。


 しばらくは学校も騒がしい毎日が続くだろうが、いずれ平穏を取り戻していく。学園内で育っていった生徒達の心の闇は教員達がこれから解決していくに違いない。そうなればごく当たり前な日常が聖斗と真紅を待っている――だが聖斗には一つ不安な事があった。


 彼は隣に座る真紅を見つめる。

 真紅は聖斗の温もりを確かめるように隣り合う彼の腕を抱き寄せて、肩にもたれかかっていた。こうして聖斗は真紅と一緒に居る。けれどこの関係が終わってしまうかもしれないと、それが不安で仕方がなかったのだ。


 真紅の父親はとても優秀な人物で、理事長の幼い頃からの友人らしく、理事長は信頼足り得る黒曜家へ学園内に蔓延る不正の調査を依頼した。


 そうして転校してきた彼女は理事長に、復讐の為にも不正の告発は全校生徒の前で行うという条件を取り付ける。理事長にとってもリスクのある条件であったが、何よりも学園内に渦巻く邪悪の根源を断つ事を優先した。


 そして真紅はただの転校生として振る舞いながら、聖斗と共に全ての元凶である甘楽と我間を追い詰め、そしてその全てを終わらせた。真紅が与えられた役目は終わり、理事長の依頼を果たした事になる。


 それはつまり――彼女がこの学園に残り続ける理由がない事を意味していた。


 だから聖斗は恐ろしかった。真紅との関係の終わりを告げているような気がしていた。彼女はここに来る前、海外で母親と暮らしていたとも言っていた。また母親の元へと戻るかもしれない、彼女が手の届かない遠くへと、聖斗の前から消えてしまうかもしれない。


 真紅と二度と会えなくなってしまう、聖斗はそれが怖くて堪らなかったのだ。


 聖斗はそんな恐怖に耐え切れず真紅の手を握る。真紅は少し驚いた様子だったが、すぐにその手を握り返してくれた。


「聖斗くん……どうしましたか?」

「な、なあ……真紅。その、理事長からの依頼っていうのは……もう終わってしまったよな。だからこれからどうするのかと思って……また転校しちゃうのか?」


「そうですね。お父様やお母様からも事が済めば海外へ戻るように言われています。お父様は日本で仕事をしていますが、お母様は今も海外に居ますし帰って来て欲しいと言われてしまいましたから」

「……っ」


 やはり真紅は自分の元から離れて行くつもりなのだと、聖斗は唇を噛む。


 考えたくなかった、真紅と離れ離れになりたくないという気持ちが胸の中に溢れてくる。


 学校に行けば隣には真紅が座っていた、優しく微笑みかけてくれた。家に帰っても隣には真紅が居た、楽しげに話しかけてくれた。聖斗にとってそれは当たり前の事であり、彼女の存在が傍にある事が自然だった。それがいつまでも続くものだと思っていた。


 しかし今となってはそれすら叶わなくなる。彼女の存在を失う事を想像すると、身体の奥底から震えるような感覚に襲われる。


 真紅との日々は、聖斗にとってかけがえのないものだった。

 いつの間にか彼女の存在が自分の中で大きくなっていた事に聖斗は気付いた。


 想いが強くなればなる程、聖斗は何も言う事が出来ず黙り込んでしまう。


 そんな聖斗を見て真紅は何かを悟ったように、ゆっくりと彼の手に優しく指を絡ませる。


「また考え事をしていますね。いつもそうです、聖斗くんは考え事をしている時、いつもこうして止まってしまうから、とても分かりやすいのですよ」

「……」


「わたしは聖斗くんのそういう所も好きです。聖斗くんは嘘が苦手で素直で分かりやすくて、だから傍に居て一番落ち着く人なのです」

「……真紅」


 聖斗は真紅の瞳を見つめた。深い紅色の瞳は本当に綺麗だった、この瞳に何度も見つめられた、そして次第に惹かれていった。


 ――ずっと一緒にいたい。聖斗は強く願った。


 胸の中で溢れる感情、その正体が何なのか聖斗にはずっと分からなかった。甘楽と一緒に居た時は一度たりとも感じた事はなかった。それは真紅と共にいて初めて抱いたもので、今まで感じた事のない気持ちだった。真紅の言葉に、その表情に、その仕草に何度も心を揺さぶられた。


 そしてその正体を今の聖斗ははっきりと自覚している。


 ――真紅が好きだ。彼女の温もりを決して手放したくないと思える程に。


 聖斗は真紅の頬に手を触れる。桜色に染まったその肌はとても柔らかくて温かい。指を滑らせるとくすぐったそうに真紅は身を捩らせた。その仕草を愛おしく思う、いつまでも見ていたいと思えた。


 けれど終わりが近付いていく気がした。彼女との別れが迫ってくるのを感じ取ったのだ。だから――。


「真紅……俺、言いたい事がある。伝えたい事があるんだ」


 真っ直ぐに真紅を見つめる。勇気を振り絞った。その瞳を逸らさずに彼女へ伝えたかった。


 聖斗の真剣さに真紅は一瞬だけ目を丸くしたが、彼女はやがて微笑んでくれる。


「はい、聞かせてください。聖斗くんの想いを、あなたの口から聞きたいです」


 聖斗は息を吸い込む。後悔したくないと思った、伝えなければ絶対にいけないと聖斗は思った。だから――その胸の中で溢れる想いを言葉にして紡いでいく。


「俺はあの日……甘楽に騙された事を知ったあの時、どうすれば良いのか分からなかった。どうやって生きれば良いのかさえ、俺には答えが出せなかった」


 絶望の底に沈んだあの日を思い出す。今でも思い出すと心が痛む。だが聖斗はその痛みを噛み締めながら言葉を続けた。


「でも真紅が傘を差し出してくれた。ずぶ濡れになっていた俺に、真紅だけが救いの手を伸ばしてくれたんだ。味方は誰もいなかった、誰も信じてくれない、だけど真紅だけは違った。たった一人、真紅だけが俺を信じてくれていた」


 真紅は微笑んでくれた。彼を絶望の底から救い出そうと手を差し伸べてくれた。だから聖斗は救われた。生きる希望を見つけた。真紅が自分を信じてくれるように、聖斗も真紅を信じようと思った。差し伸べられた手を決して離さないと、そう誓った。


「真紅が居てくれたから俺はここまで来れたんだ。真紅はいつだって優しかった。その優しさが俺を支えてくれた。辛い時、苦しい時、楽しい時、いつだって真紅は俺の傍に居てくれた……」


 聖斗の言葉の一つ一つを真紅は、穏やかな表情で静かに聞いてくれている。決して目を逸らす事無く、彼女も真っ直ぐに聖斗の想いを受け入れる。


 だから聖斗は言葉を紡ぎ続ける。自分の気持ちの全てを伝える為に、決して後悔しないように。


「……真紅が俺を幸せにしてくれたように、俺も真紅の事を幸せにする、絶対に。だから何処にも行かないでくれ、ずっと傍に居てくれ」


 真紅の両手を握った。聖斗は彼女に想いを伝える為に最後の勇気を振り絞る。そして聖斗は――告げた。


「好きだ――真紅、愛してる」


 聖斗は今まで抱いたありったけの想いを言葉にした。


 これが本当の恋だと聖斗は知った。この気持ちこそが愛なのだと彼は理解した。


 その全てを真紅が教えてくれたのだ。


「ありがとう、真紅。俺に新しい世界を教えてくれて、君に会えて本当に良かった」


 聖斗は笑いかけた。心からの笑顔だった。


「――ねえ、聖斗くん」


 真紅は静かに呟く。優しい瞳で聖斗を今も見つめ続けていた。


「わたしが転校してきたあの日、聖斗くんに言った事。覚えていますか?」

「……えと、良い匂いがする。優しい香りがするって、隣の席に座りながら……そう言ってた」


「はい。あの言葉、どういう意味だったか分かります?」

「……あれは、初めの頃はよく分からなかったけど、今なら何となく。俺が不正に関わってないのを知ってたから出た言葉だって、そういう意味かと思ってた」


「それもあります。聖斗くんが不正に関わっていない事は以前の成績などを通じて分かっていましたから。でもね、本当は別の意味があったのです。実はですね――」


 真紅は耳まで赤く染めて、恥ずかしそうな顔をしながら、聖斗にゆっくりと近づいた。そして彼女は耳元で囁く。


「――あの日から、聖斗くんの事が好きになったのです」

「え……?」


「実は一目惚れだったのですよ。わたしね、初めて会ったあの日から聖斗くんの事が気になって仕方がなかったのです。それから毎日のように聖斗くんを見ていました。聖斗くんの仕草とか、表情とか、声色とか、全部が好きでした。いつも一生懸命なところ、ちょっと抜けてるけど頑張り屋さんなところ……知れば知る程、わたしは聖斗くんの事がもっともっと好きになっていきました」


 その言葉を聞いて――聖斗の瞳から涙が零れた。胸の奥から込み上げてくる感情が、ぼろぼろと溢れ出す。


 ああ、そうだ。こんなにも簡単な事だったのだ。どうして気付かなかったのかと不思議になるくらい、聖斗は彼女の気持ちを理解していた。


「それでね、本当に奇跡だったのです。借りたアパートの部屋が……聖斗くんの住んでいる隣の部屋だった。それから聖斗くんはわたしの事を何度も何度も助けてくれました、一人ぼっちじゃ何も出来ないわたしを支えて励ましてくれた。嬉しかった。聖斗くんと一緒に居るだけで、幸せになれました。聖斗くんが傍に居てくれるだけで――どんな困難だって乗り越えられる気がした。だからわたしは……あの時、手を、手を伸ばしたんです。聖斗くんが苦しむ姿なんて見たくなかった。だから頑張れた、ここまで来れたんです。周りの人達がどんなに怖くても、笑顔でいられた、真っ直ぐに立つ事が出来た。だって、だって――わたしも……っ――」


 真紅の瞳から大粒の雫が零れ落ちる。彼女は泣いていた。涙を流しながら、それでも笑っていた。


「――あなたの事を愛しているから……」


 その瞬間、聖斗の中で何かが弾けたような音が聞こえた。


 彼女が悪魔を演じ続ける事が出来た理由、多くの悪意と敵意を前にしても決して挫けずに前を向いてきた理由、その全てを悟った。


 真紅はずっと、今までずっと愛する人を一途に想い、自分を犠牲にしてでも彼の為に戦った、愛する彼の苦しむ姿は見たくないと、そう願って今日まで戦い続けてきた。


 真紅が居てくれたから聖斗がここまで来れたように、聖斗が居てくれたから真紅もここまで来れた。愛し合う二人だからこそ、悪意が渦巻く絶望の世界に屈する事無く、互いを信じ合えた。その愛が悪を討った、復讐を成し遂げる力となったのだ。


 そして二人は見つめ合う。

 

 二度と離れる事の無いように、お互いの想いを確かめるように――聖斗と真紅は唇を重ねた。

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