09:渦巻く悪意
――その翌日。
学校に来た聖斗は、真紅が予想していた最悪の事態に遭遇していた。
朝、勇気を振り絞ってきた学校。普段通りを装いながら生徒玄関にたどり着いた時には――既にもう周囲の生徒達の口から『噂話』が飛び交っていた。
「あいつが緋根だよな。昨日の夜に甘楽ちゃんを襲おうとしたらしいぞ。強姦魔だったのかよ」
「甘楽ちゃん、今までずっとあいつに弱みを握られて脅されていたんだって」
「誕生日を祝おうとして駆けつけた我間くんが助けてあげたそうだよ、凄い勇気だ」
「流石は風太様だよね~憧れちゃうな。それに比べてほんときもっ……緋根とかいう奴」
「おい、あいつこっち見てるぞ。気持ちわりい、死ねよクズ」
聖斗は息を呑む。
学校に行けばどうなるのか、分かっていたはずなのに、いざその時を迎えるとその光景が信じられず呆然と立ち尽くしてしまう。
真紅の言った通りだった。聖斗が誕生日を祝いに恋人である甘楽の元を訪れた時、別の男である我間と抱き合っていたという紛れもない事実は――聖斗が甘楽を襲おうとアパートに押し入り、我間によって阻止されたという嘘で真っ黒に塗り潰されていた。
聖斗が靴箱に手を伸ばしたその時だった。彼は突然背中に衝撃を受けた。
ドンッと強く押されて前につんのめる。聖斗は転びそうになる身体を支えようと足を踏み出したが――次の瞬間、再び背中を蹴飛ばされ聖斗はその場に倒れ込んでいた。その痛みと同時に浴びせられる暴言。
「お前なんか生きてても意味ねえんだよ。消えろ、このストーカー野郎!」
「平気な顔して良く学校に来れるよな……マジでありえないぞ、てめえ」
二人の男子生徒が倒れた聖斗の前に立っている。怒気を露わにしたその表情で、今にも殴りかかってきそうな様子で聖斗を見下ろしている。
周囲の生徒達もそれを止めようとはしなかった。むしろやってやれと煽るような内容だけが聞こえてくる。
聖斗を取り巻く環境はたった一晩で大きく変わった。聖斗に向けられる罵倒の数々、聖斗は決して悪くなどない、むしろ騙された側で被害者なのに、彼の味方になる者などいなかった。
(こんなの……耐えられるわけないよな)
今の聖斗には甘楽に騙された他の男子の気持ちが痛いほどよく分かった。
彼らは被害者で、本当なら手を差し伸べられる側の人間で、それなのに誰も味方になってくれない。真実を告げても誰も聞く耳なんて持ってくれない。
学校中の生徒達から浴びせられる罵倒の数々。心を病み、殻の中に閉じこもり、いずれは学校を自らの意思で去る。そうなってしまうのは当然の事のように思えた。
けれど聖斗が彼らのようになる事は決して無い――聖斗には『悪魔』がついていた。
「――緋根くん。おはようございます、朝から早速大変な事になっているようですね」
男達の背後から聞こえた鈴のような声。凛とした透き通る綺麗な声が響いた。
彼らの振り向いた先にいたのは長い黒髪の少女――紅い瞳で真っ直ぐと前だけを見つめる真紅が立っている。
真紅は笑む。黒い光を放つような――そんな不気味な微笑みを浮かべながら彼女は言う。
「緋根くんから離れて下さい。でなければタダでは済みませんよ」
二人の男子生徒は黒い笑みを浮かべる真紅を睨みつけながら語気を荒げる。
「ああ? てめえ脅しのつもりか? 強姦魔の肩を持つって事か、てめえ!?」
「言っても聞きませんか。随分と頭に血が昇っているようで」
今にも掴みかかりそうな男子生徒を前にしても真紅が臆する事はない。ただひたすらじっと――深い海の底を思わせるような暗い色の瞳で彼らを見据えていた。
「あなた方は三年生の立木 慎吾さんと田上 隆さんでしたよね。進路先は地元の建築会社で、それぞれ内定済。その内定が突如として無くなってしまえば、ああ――大変な事になってしまいますね」
「な、なんで……てめえ名前を? って、ていうか俺らの内定先まで……?」
見知らぬ相手から名前と自分達の進路を言い当てられ、二人は怯んだような様子を見せる。そして片方の男子がはっとしたような表情を浮かべた直後だった。
前に出ていた男子生徒の腕を掴み、彼は耳打ちするようにこう言ったのだ。
「ま、待て。こいつ例の――」
「例の? って……あ」
その言葉を聞いた途端、彼の目は大きく見開かれ、顔面蒼白になる。
まるで悪夢でも見ているかのように震え出した男子生徒は真紅を見るなり、そそくさと逃げていくようにその場を離れていった。
その様子を見ていたもう一人の男子生徒も、同じように慌てて彼を追いかけるように走り去っていく。
あっという間に聖斗を囲んでいた輪が解けると、今度は周囲に居た他の生徒達も何かをぼそぼそと話し合っていた。
その囁き声は聖斗の耳には届かない。けれど、周囲の生徒達の口から一斉に漏れ出すとある単語だけは唯一聞き取れていた。
悪魔。
「緋根くん、ほら立ってください」
「あ、ありがとう、黒曜さん。助かったよ」
「いえいえ。大した事はしていません、それより教室に着いてからが大変です。他の学年や別のクラスの生徒達ですらこれだけ話が回っているのですから。事の元凶であるわたし達の教室では、もっと酷い状況になるかもしれませんし」
「……そうだな。こんなのまだ、序の口なんだ」
聖斗は立ち上がり、乱れた制服を直しながら歩き始めようとした時だった。
「緋根くん、ちょっといいですか?」
「ん、何?」
「ほら、ネクタイが曲がったままです」
そう言って真紅は聖斗に近づき、手を伸ばす。
彼の胸元にあるネクタイに触れようと真紅の顔が間近に迫ってくる。
ふっくらと形の整った艶やかな唇が、ほんのりとした桜色の頬が、長いまつ毛に縁取られた宝石のような紅い瞳が、凛とした美しい顔立ちの少女の全てが聖斗の目と鼻の先にあった。
聖斗は慌てて目を逸らす。高鳴る心臓、熱くなる身体。緊張しているのか全身が微かに汗ばんでいるような気がする。
そんな聖斗を見つめながら真紅は笑みを浮かべた。それは慈愛に満ちた優しい笑み、聖斗だけが知っている真紅の笑顔だった。
「さて、ネクタイは整いましたよ」
「ど、どうも……」
「では教室に向かいましょう。心配しないで、わたしがついていますから」
そう言って真紅は聖斗の隣に立って歩幅を合わせた。彼女の横顔を眺めながら聖斗はぎゅっと拳を握る。
昨日、聖斗は真紅の手を取った。
囁きと共に差し伸べられた――真紅の提案を、受け入れたのだ。
真紅との徹底的で破滅的な復讐。
聖斗を利用し、騙し、多くの生徒達を扇動し、彼の存在そのものを踏みにじった女――高峰 甘楽への復讐。
それが一体どういう意味を持つ事なのか、これから何をしようとしているのか、真紅は話そうとしなかった。けれど、それでも構わないと聖斗は思った。
絶望の底――ヘドロの溜まったその場所から救い出すと真紅は誓い、彼女は聖斗に手を差し伸べてくれたのだ。だから聖斗はその手を取った。
それが悪魔との契約であったとしても聖斗が彼女の手を離す事はない。
何故なら彼女が聖斗にとって唯一の希望なのだから。
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