もうひとつの盟約 ☆拾

「え?」


 ゆらと玲子は異口同音に声を発した。一瞬、言われた言葉の意味がわからなかったのだ。


『私は大罪を犯した。その罪は償わねばならないだろう。だから、私を裁いてくれ。覚悟はできている』


 飛廉ひれんはそう言って、細長い脚を折ってその場に座り込んだ。


幾人いくたりもの人間をあやめたのだ、まず死刑は免れまい。そこで、そなたらの手で私を滅してほしい。これも何かの縁だ』


 そんな縁は嫌だ、と喉まで出かかった言葉を、響はなんとか飲み込む。そんな空気ではないし、飛廉は至って真剣であったからだ。


『そなたらほどの力があれば、私を滅することはできるだろう。ひと思いに……いや、ひと思い、では飽き足らぬか』


 言い差して、飛廉は自嘲気味に笑う。罪のない人々を大勢貪り食らったのだ。相応の苦痛は受けてしかるべきだろう。


『なに、恨みはすまい。むしろ、恨まれるべくは私のほう。それほどのことをした自覚はある。煮るなり焼くなり、好きにして構わない』


 さぁどこからでもかかってこいとばかりに、飛廉が大きく翼を広げる。


「……えーと」


 いや、いきなりそう言われても。


 響は玲子に目配せした。


「……会長さん、これ、どうするんですか?」

「どうする、と言われても……」


 玲子は言葉を詰まらせ、答えあぐねる。


 さすがに神獣を、おいそれと調伏するわけにはいかない。信仰を受ける神獣を勝手に調伏したとあれば、現地の人間が怒り狂い、最悪国際問題に発展しかねないのだから。


 冗談みたいな話だが、これがその実そうでもない。


 神獣は神と同格。自分の崇める神が、異国の地で異国の民に殺されたとあれば、誰しも憤怒するものだろう。


 飛廉は確か、穏やかな天候と五穀豊穣、平安をもたらす存在として信仰されているはずだ。


 となれば、そんな神獣を滅することなど誰ができようか。ましてや、飛廉は自分の意志で此度こたびの一件を起こしたわけではない。悪意ある者の呪詛じゅそによって仕向けられたことなのだ。


 どうすればいいのだろうか。いくら幸徳井家の人間といえど、このような案件においての決定権はないため、勝手に話を進める訳にはいかない。明らかに自分の手には余る事案だ。


 玲子は困ったように眉間を摘まんだ。とりあえず、鎮めることだけに心血を注いでいたために、そのあとのことなどまるで考えていなかったのだ。それが今となって災いしている。


 一方、響とてそうだ。響は師の意志があったこともあり、飛廉の呪詛を返したに過ぎない。正直あとのことなど知ったことではなかった。


 これは頭の痛い事態になってしまった。まさかこんな展開になろうとは。


『どこからでも。さぁ!』


 しかも、飛廉からは催促される始末。本当にどうしたらいいんだこれ。


 困り果てている響と玲子に、助け船を出したのは氷輪ひのわだった。


『飛廉よ、なんじの潔さはある種感心に値するものであろうが、あいにくとこれらに汝を裁くことはできぬ』

『……なに? それはなぜだ』


 訝しげな表情を浮かべる飛廉に、氷輪が滔々とうとうと説明する。


『先の戦闘で、こやつらはずいぶんと力を使った。汝を調伏するほどの力はもう残っておらぬだろうよ』


 視線を向けられ、響と玲子は頷く。


 響は見ての通り、満身創痍。これ以上の術の行使は、下手すれば命を削ることになる。


 そして玲子のほうもまた、もう術を行使できない状態にあった。響を守る際に使った陽炎疆かげろうきょうを最後に、霊力をすべて使い果たしてしまったのだ。


『し、しかし、それでは私はどうすればいいのだ』


 飛廉は納得がいっていない。氷輪は一瞬の逡巡のあと、視線を移した。


『響、汝が決めよ』

「……はい?」


 響は自分の耳を疑った。気のせいだろうか、氷輪が今自分に話を振ったような気がしたのだが。


『汝がこの飛廉の処遇について決めよ、と言ったのだ。こやつを呪縛から解き放ったのは他でもない汝だ。その権利はある』


 気のせいではなかった。氷輪は自分にこの状況をなんとかしろと言っている。


「え、ええー……」


 響は助けを求めるように玲子を見た。しかし、玲子は黙って頷くのみだ。いや、頷かれても。


『飛廉よ、それでよいな。なんと言われようとも、響の決定に従うことだ』


 飛廉は険しい顔でしばし思案する素振りを見せたが、やがて首肯した。


『わかった。聞こう』


 二対の双眸そうぼうと、三つ眼が響に注がれる。


 え、ウソじゃん。なんだこれ。なんだこの状況。


 集中する視線に響はたじろぐ。


 判断しろ? 飛廉の対処を? わたしが?


 知らないんですけどー……と周りをちらちら窺うが、誰も助けてくれない。すべて響に委ねられている。


 仕方がないから一応考えてはみる。けれども、特に何かいい案が思い浮かぶわけもない。


 そのうち、響の中であるひとつの感情がむくむくと湧き上がった。


 あ、どうしよう。すっごくめんどくさい。


 なんでこんなことまで考えなきゃいけないんだ。こっちの目的は呪詛を返して、飛廉を解放すること。そして、それはやり遂げた。もうそれでいいじゃん。


 そんな思いが、ある答えを導き出した。


「――じゃあ、見なかったことに、ってことで」

『は?』


 飛廉が素っ頓狂な声を上げる。玲子と氷輪も怪訝そうにしている。


 これではさすがに語弊があるか。響は右手で頭をがしがしと掻き、もう少し言葉を選ぶ。


「飛廉の呪詛を返したってことはつまり、あっちこっちで人間を襲ってた化け物は退治したってことになるでしょ? なるよ、なるなる。だから、これでもう平和。めでたしめでたし。ってことで、今ここにいる飛廉はおうちに帰る。オッケー?」


 立て板に水のごとく、一気にまくし立てた。聞いていた飛廉は唖然とし、固まっている。


 あ、これは面倒になったな。


 式神である氷輪は当然のこと、響のことを少なからず理解してきている玲子にもまた、それがわかってしまった。


 けれど、ふたりの口元には自然と笑みが浮かんでいた。


「そうね、それが一番いい答えかもしれないわ」


 街や人を襲ったのは、呪詛を受けて狂暴化した飛廉だ。その呪詛を取り払ったということは、狂暴化した飛廉を倒したのと同義。もうこれ以上、この件で被害が出ることはない。


 この地に住む人々を恐怖におとしめた凶悪な妖異はいなくなった。脅威は去ったのだ。


 そう、響は言いたいのだろう。


 頓智とんちめいた、どうしようもない屁理屈である。それでも、道理には叶っていた。


 なんとも響らしい。それが彼女のものぐさから来たものだとしても、なかなかにいい答えなのではないだろうか。


『え、ええと……?』


 飛廉だけがいまだに混乱から立ち直れずにいる。そんな風伯に、氷輪が要約を説明してやる。


『つまりだ、飛廉。汝は人目につく前に、このまま祖国へ帰れ。それで此度の件はしまいだ』

『なっ……そ、そんなことができるか!』


 一瞬絶句した飛廉だが、次の瞬間わめいた。


 氷輪は動じない。この性格上、納得はしないだろうことはわかりきっていた。――ならば、説き伏すまで。


『なんだ、汝は響の決定に従うと申したではないか。よもや、その発言を覆すわけではあるまいな?』


 氷輪が意地悪そうに言うと、飛廉はうっと言葉を詰めた。


『そ、れは……だが、しかし……』


 なおも食い下がろうとする飛廉に、氷輪はやれやれと首を振った。


『それともなにか。受けた恩を返すこともせぬまま己の滅亡を選ぶことが、汝の住まう国での礼儀とでも?』

『ち、違……』

『それに、だ』


 反論を遮り、氷輪は切り札を切る。


『汝には守るべき民がおるのだろう。それを自儘じままで放棄するというのか』

『……!』


 飛廉がはっと息を呑む。揺れる瞳をひたと見据え、氷輪は厳然と言い放った。


『己の責務を放り出すことが、汝があがめる君主の意に添うかどうか、今一度考えるがいい』


 叱責めいた厳しい言葉が、飛廉にぴしゃりと叩きつけられる。


 しばらく呆然していた飛廉はやがて悄然しょうぜんと肩を落とし、眉を下げたやや情けない表情を浮かべた。


『……白澤はくたく殿、それはいささかずるくはあるまいか』

『知らぬ。なんとでも申せ』


 にべもなく突っぱねる。そんな氷輪に、飛廉はふっと息を吐いた。


『参った……。まさか、呪詛から解き放たれるだけでなく、命まで救われることになるとは』


 そうして飛廉は天を仰いだ。


「……お見事」


 そうこぼした玲子が、氷輪に尊敬の眼差しを注ぐ。


 しかし、響は複雑な気分だった。こんなことなら、処遇云々のとこから氷輪が話進めりゃよかったじゃん。わたしの言葉じゃなくて、氷輪の言葉で納得したんだし。なんだったんだよあの時間。ふざけんなよ。


 凄まじい疲労の上に眠気も相まって響の心が荒んでいる。それをなんとなく気配で察知した玲子が、響を見て小首を傾げた。


『本当に、なんと礼を尽くせばいいのか』

『ふん。相応の返しを期待して――』


 その時、ふいに氷輪の耳が物音を捉えた。


『まずいな……』

「氷輪?」

『足音が近づいてきておる』


 その言葉に、すぐさま玲子は思い当たった。


「……! 降魔士たちですか」


 飛廉が作り出した風の壁はすでに消失している。ならば、街で被害を食い止めていた降魔士たちは、当然こちらに向かってくるだろう。


 氷輪はちっと舌打ちした。


『見つかると面倒だ。飛廉、く去れ』

『え、いや、しかし……』


 突然のことに戸惑っている飛廉に、氷輪がすっと目をすがめる。


『このままでは言い逃れができぬ状況に陥る。さすれば、汝を救った響の意志が無下になるぞ』


 だから早く行けと、半ば追い立てられるような気迫を受け、飛廉は逡巡も一瞬に頷いた。


『……わかった』


 そうして、飛廉は翼をばさりと広げた。


『今一度言おう。そなたたちのことは一生忘れない。この恩は、いつか必ず返すと誓う』


 翼を羽撃はばたかせると、巨躯がふっと宙に浮く。


『白澤殿、幸徳井玲子、そして如月響。――さらばだ』


 最後にそう言い残し、飛廉は飛び立っていった。


 ちょうどその時だった。朝日が山の向こうから顔を覗かせたのは。


 雲が蹴散らされたおかげで、燦然さんぜんと輝く光が地上を照らし出す。陽光が草木に付着した夜露に反射し、キラキラと大地を彩った。


 朝日の光を背に浴びて明くる空を飛ぶ神獣の、なんと神々しいことか。


 そのあまりの美しさに、響は一瞬目を奪われた。


 と、風を切って飛翔していた飛廉の姿がふっと掻き消える。隠形おんぎょうしたのだろう。誰かに姿が見られぬようにと、配慮したのかもしれない。


 キャララララララララララッ!


 朝ぼらけの大空に、鳴き声が響き渡る。


 そこには、以前のような背筋が凍るほどのおぞましさは欠片もなく。


 玉同士がぶつかり合うような、なんとも玲瓏れいろうな響きを持っていた。


「……暁鐘、みたい」


 同じく飛廉を目で追っていた玲子が、ぽつりと呟く。それを聞きとがめた氷輪が、ほうと目を細めた。


『なかなかにいきな言葉を知っておるではないか、小娘』


 聞き慣れない言葉に、響が首を傾ける。


「ギョウショウ?」

あかつき――夜明けを告げる鐘の音のことだ』


 氷輪の説明に、頷いた玲子が続ける。


「鐘とはまた違うけれど、今ふっと浮かんできたの。……なんて、少しロマンチックすぎたかしら」


 玲子が少し恥じらうように眉を下げる中、暁鐘、と響は口の中で呟く。今の説明から、おそらく暁の鐘という字を持つのだろうとあたりをつける。


 なるほど、たしかにそうかもしれない。朝日が昇ったと同時に鳴り響いた飛廉の声は、今日この時に限っては朝を知らせる鐘の音といえるだろう。


 その時。



 ――――ありがとう



「え?」


 ふいに聞こえた声に、響はきょろきょろと辺りを見回した。


「今、なんか言いました?」

「? いいえ?」


 玲子が不思議そうにしている。視線を移せば、氷輪も訝るような表情だ。


 その様子からすると、ふたりには聞こえなかったらしい。


 気のせい、か。


 怪訝そうに首を傾げた響だったが、気にしないことにした。疲れすぎたゆえの幻聴かもしれない。いや、それはそれでまずくない?


 己の体調を本格的に心配し始めた響は、気づかない。


 胸元、正確にはワイシャツの左にあるポケットの中が、ほんのり温かみを帯びていることに。


 そこで、再び声が聞こえた。声だけではなく、ばたばたと走ってくるような音というか喧騒が。


 今度は玲子にも聞こえたらしい。そちらに顔を向けると、黒い羽織をまとった者と特殊な学生服を身につけた者が混在した集団が、こちらに向かってくるのが見えた。


 降魔士と生徒会の降魔科生だ。


 氷輪はふっと息を漏らすと、一瞬で縮まり常時の姿に立ち戻った。そうして隠形する。姿は見えなくなったが、ちゃんとそばにいることは響にはわかっている。


「如月さん」


 ふいに声をかけられ、響はそちらに目を移した。


「はい?」

「お疲れ様。よくやったわね」


 近距離で微笑まれ、響は目を丸くし一瞬言葉を詰めた。


「や、会長さんこそ……。あー、ええと」


 何か言いたげな響を見て、玲子は言葉の続きをじっと待つ。言いづらそうにしていた響だが、意を決して口を開いた。


「会長さんのおかげで、色々助かりました。……んで、その、どうも、でした」


 口元をもごもごとさせながらも、なんとかそう紡ぐ。


 玲子がいなければ、今回の呪詛返しは成立しなかっただろう。ひとりではきっと無理だった。


 だから、玲子がいてくれてよかったなと、響は本心から思った。思ったものの、そこまではなぜか喉の奥で言葉がつかえてしまって、口にはできないけれど。


 響の言葉を受け、玲子は軽く目を見張った。周囲にも自分にも無関心なこの後輩は、不器用に、それでもしっかりと思いを言葉にして伝えてくれた。それが嬉しくて、玲子は相好そうごうを崩しながらただ黙って頷いたのだった。


 しばらくして、降魔士と降魔科生が到着した。


 響と玲子の無事に、同期たちが喜びを示す。玲子もまた、同期の無事を確認して心から安堵した。


 喜びを分かち合うのも束の間、響が大怪我をしていることを伝え、すぐに病院へと運ぶ手筈を整える。そうしていつの間にか気を失ってしまっていた響を仲間たちに託したあと、降魔士に状況報告を始めた。


 朝日は先ほどよりも高い位置にあった。昇りゆく太陽は一日の始まりと同時に、長い長い夜の終わりを告げたのだった。






 昨今各地を襲撃して人を食いちまたを騒がせていた妖異〝羅刹らせつ〟は、香弥こうやの地にて正体不明のまま、嘉神学園降魔科生二名によって無事調伏されたということになり、事態は終息を迎えた。


 香弥市街地への被害も、降魔士と降魔科生の働きにより最小限に食い止められた。負傷者は何名か出たものの、死者はなし。これは、この事件が始まって以来初、最小限の被害でもある。


 このことはすぐに広がり、安堵と称賛の声が上がっている。メディアでも大きく報道された。


 市街は、竜巻によって受けた損害の復興とともに、人々の夜間行動の制限も解除された。街の夜の活気は、これでまた通常どおりに戻っていくだろう。


 そして、玲子と響の活躍は嘉神学園降魔科の実績に大きく貢献し、嘉神生の優秀さを知らしめることになったのだった。



   ▼    ▼



 視線の先で、満天の星空が広がっている。連日の雨が嘘のように、今夜はよく晴れ渡っていた。


 六月も終盤。数日後には七月に突入している。もう少し経てば梅雨も明け、そうしたら本格的な夏が始まる。


 天上にちりばめられた、数多の星々。そのうちのひとつを、土御門つちみかど深晴みはるは凝視していた。


「――――……」


 視線の先で、その星が微かに揺らめいた。


 それが意味するものを正確に読み取った深晴の口元が弧を描く。


 ああ、本当に――。


「あなたの星は面白いわねぇ」


 宵闇に紛れていく声音には、愉快で仕方がないとでもいうような響きが含まれていた。


「さて、明日には目も覚めるでしょうし、こっちに来てもらおうかしら」


 考えていたら、無性に唯一の愛弟子の顔を見たくなった。


 会えばきっと、終始嫌そうな顔をしていることだろう。それでも、それすらも、愛おしくて仕方がない。


 だから、もっと見たくなってしまうのだ。


「ふふ、楽しみだわ」


 くすくすと笑いながら、深晴はそっと、とある星に向けて手を伸ばした。



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