窺窬する謀略 ☆伍

   △  △



 人でごった返す廊下を、掻い潜るように進む人影がある。


 器用に人と人、あるいは障害物の間隙を縫って、一切衝突することなく疾駆する姿はまさに風。人々は、それがすり抜けた後で初めて何かが通って行ったことに気づく。しかし、そのころにはその何かは影も形も見えなくなっているのだ。


 影は目当ての教室に着いてようやく立ち止まった。その息はまったく乱れていない。


 降魔科一年の軽食店。その人物は、軽食店の調理場所である一組の教室に入った。


「頼まれていたものを届けに来た」


 その声に振り向いた生徒たちは、一斉に驚いたような表情を浮かべた。


「え……あ、ありがとう?」


 戸惑いがちに差し出された袋を受け取った女子生徒は、改めてその人物を見る。


 目鼻立ちが整った端正な顔つき。肩より少し長いセミロングの髪はさらさらで、黄色がかった明るい茶髪。おまけに高身長で足がすらりと長く、スタイル抜群だ。


 まるでファッション雑誌にでも出てくるモデルのよう。誰もが目を瞠るような美少女であった。


「え、と……買い出しに行ったのは、梨々花りりかと如月さん……だよね?」


 女子生徒が確認するように周りを見渡すと、生徒たちがそろって頷く。


ゆらたちは……やむにやまれぬ用ができてしまってな。頼まれたゆえ、代わりに私が来たのだ」


 説明する時間も惜しく、その女子生徒――に変化した暁鐘あかねは適当にぼかして手短に伝える。


「あ、そ、そうなんだ」


 するとなんとか納得してくれたようで、生徒たちは再び感謝を述べた。


 それに頷き、では、と暁鐘は踵を返して教室を出た。


 そそくさと立ち去った女子生徒を半ば呆然と見送った生徒たちは、揃って首を傾げた。


「あんな綺麗な子、会長以外で降魔科にいたっけ?」






 続いて、暁鐘が向かったのは生徒会室だ。


幸徳井こうとくい玲子れいこはいるか!」


 目的の場所の到着するや否や、暁鐘は扉を開け放った。


「誰だ、貴様は」


 そう言ったのは要一よういちだ。室内には要一と楓、それから玲子がいた。


 要一が剣呑な表情で来訪者を睨む。


「ノックもせず、あろうことか生徒会長を呼び捨てにするなど不躾ぶしつけにもほどがある」


 ああと暁鐘は今の自分の姿を思い出し、瞬時にいつもの小鹿姿に変化へんげした。


「すまない、私だ」

「…………は!?」


 大きく目を見開く要一の横で、玲子とかえでも一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにその表情を引き締めた。


飛廉ひれん様、どうされました」


 暁鐘が人間の姿に変化できることなど、今この瞬間まで知らなかった。しかし、そんなことを話している場合ではないことは、暁鐘がひとり緊迫した風情でここまで来たという事実が証明していた。


 すぐに状況を察して促してくる玲子に、暁鐘は単刀直入に言った。


「響たちが妖異と交戦している」


 玲子と要一と楓の表情が一変する。


「詳しくお聞かせ願えますか」


 玲子が落ち着きながらも真剣味を帯びた言葉で促すと、暁鐘は頷いて仔細しさいを語った。


 響と梨々花が不足した備品を買い出しに、香弥こうや市街へ行ったこと。


 帰路の途中で二名の降魔科生と出くわし、響が退学を迫られたこと。


 そして、彼女らが妖異を召喚し交戦に至ったこと。


「妖異を召喚しただと……!?」


 要一の表情が驚愕に彩られる。


「馬鹿な、妖異を召喚し、操るすべなどあるはずが……」


 玲子も楓も同じ気持ちである。しかし、今はなぜどうしてと疑問について話し合っている場合ではない。


 そんなものは後だ。まずはその状況をどうにかしなければならない。


「私が――」

「待て、玲子」


 立ち上がりかけた玲子を寸前で楓が止めた。


「もう三十分足らずで説明会が始まる。だというのに、おぬしが抜けてはまずかろう」


 玲子はぐっと言葉を詰めた。


「けれど、このままにするわけには……」

「わしが行く」


 即座に名乗り出たのは楓だった。


「今この場で現場に急行できるのは、わしを置いて他におらんじゃろう」


 平時ならともかく、学園祭という嘉神生だけでなく一般客を多く招いているこの状態で、周囲をいたずらに不安にさせるようなことがあってはいけない。


 学校説明会は、来年度降魔科生を迎えるにあたって非常に重要な催しだ。そこに、生徒会長たる玲子が不在というわけにはいかないだろう。その補佐として副会長の要一も必要不可欠だ。


 それに対して、楓の出番は元々ないに等しい。説明会に来た客の席案内程度の役割しかなく、どうしてもいなければならないかと言われれば、そういうわけでもない。


「じゃからこの件はわしに任せて、おぬしはおぬしのやるべきことをまっとうしてくれ」


 しばし考えを巡らせていた玲子だったが、やがてこくりと頷いた。


「わかったわ。頼んだわよ、楓」

「心得た」


 しっかりと頷き返した楓は、暁鐘に視線を移した。


「飛廉殿、案内を」

「ああ」


 身を翻しかけた暁鐘はふと動きを止めた。案内を頼んだ楓が、出入りする扉ではなく窓際に向かっていくではないか。


「? どこに行くつもりだ?」


 暁鐘が怪訝に問うと、楓は窓を開け放って答えた。


「なに、近道をしようと思いましてな」


 そう言うや否や、楓がそこから身を投げ出した。


「何を……!?」


 ここは三階だ。こんなところから落ちたら人間など大怪我では済まない。


 暁鐘が慌てて窓際に飛んで下を覗く。


 眼下には、校舎を囲むようにして植えられた木がある。そのうちのひとつの木の幹に乗り、こちらに向かって手を振っている楓の姿が目に入った。


「飛廉様、ご心配には及びません。彼女はあれが平常です」


 玲子は至って冷静だった。暁鐘は戸惑いながらも、無事ならいいかと楓を追っていった。


「あれが普通の反応だがな」


 窓を閉めながら、要一が独り言ちる。自分も最初は大層驚いたものだが、今ではすっかり慣れてしまった。


 生徒会の中で、楓の身体能力がずば抜けて高い。そもそも鍛え方からして違う。あんな芸当ができるのは、生徒会どころか学園中で彼女ぐらいのものだ。


鵜飼うかい先生と他のみんなにも伝えないといけないわね」


 玲子の言う他のみんなとは、準備のために先んじて修練場に向かった生徒会役員たちのことだ。


「それは俺がやろう。会長は説明会に集中を」


 ありがとうと一言告げると、要一が携帯を取り出して連絡を取り始める。


 玲子はひとつ深呼吸をし、気持ちを切り替えた。そして、楓たちが出ていった窓のほうを見やって祈る。


 どうか無事で。



   △   △



「先輩がどうしてここに!?」

「響の式神殿が来られてな。状況を聞いて飛んできたんじゃ」


 楓の答えに、梨々花は、え、いつの間に……とびっくりして響のほうを見た。


「話はあらかた聞いた。大変な目にあったな」


 楓のその言葉に、梨々花は張り詰めていた緊張が幾分か緩んだ。緩めていい状況ではないが、先輩、それも降魔科で飛び抜けた実力を持つ生徒会役員の心強さゆえに安堵してしまったのだ。


「…………」


 と、梨々花と楓が会話をしている横で、響はさかんに目を瞬かせていた。梨々花とは違う部分で驚きを隠せずにいる。


 楓と、その両脇の人影は子どもをひとりずつ抱えていた。楓があの煙幕を生み出し、その隙に子どもたちを救出したのだろう。


 それはいい。問題は楓の両脇だ。


 子どもを抱えたその両脇の人物が、どちらも楓だった。


 何を言っているかわからないかもしれないが、楓の隣に楓がいて、またその隣に楓がいる。


 つまり、楓が三人いるのである。


 姿かたちがどこからどう見ても寸分違わず、全員同一人物だ。


 ドッペルゲンガーとかいうやつだろうか。いや三人の場合は……なんだ? トリプルゲンガー?


 無言の下で脳が絶賛混乱を極めている響の様子に気づいた楓が、至極真面目な表情を浮かべた。


「今まで隠しておったが、実はわしは三つ子だったんじゃ」

「そう、なんですか……」

「嘘じゃ」

「嘘かよ」


 思わずつっこむ響である。一瞬本気で信じてしまったではないか。


 はっはっはと軽快に笑い飛ばした楓は、半眼の響に今度はきちんと答える。


「これはわしの分身じゃ。安心せい」


 分身だから安心しろというのもよくわからない。さらりと言ってのけたが、内容は軽く流せるようなものではなかった。それを聞いて、なんだ分身か~とはならない。三つ子のほうがまだ信憑性がある。


 分身って、そんなことが生身の人間にできるのだろうか。


 ますます忍者っぽい。というか、忍者そのものだ、これは。


 何も理解できないが、とにかくものすごいことをやっているということだけはわかった。


 などと、無理やり自分を納得させた響はまだ混乱している。


「と、悠長に話しておる場合ではないな」


 そこで、楓の表情がすっと真剣さを宿す。


「まずはあの妖異をどうにかせんとな。一応痺れさせはしたが、あの様子じゃとすぐに効果も切れるじゃろう」


 そう言った楓の視線が、ふいに響たちの背後に注がれた。


 視線の先、目が合った佳澄かすみとまきながびくっと肩を跳ね上げる。


 楓とその分身たちは、子どもを抱えたまま彼女たちに近づく。青い顔をしている二人に、ついと目を細めて楓が声をかけた。


「この状況は、おぬしらにも予想外のことなんじゃな?」


 二人が必死にこくこくと首を上下に振る。


「ならば、この子らを預けるぞ。簡易結界ならば張れるじゃろう」


 そう言って、楓は気を失っている子どもたちを二人に預けた。


「話はまたあとで聞かせてもらう。完全に堕ちたわけではないのならば、一般人を守ってみせよ。それが降魔士の役目じゃ」


 佳澄とまきなははっと息を呑み、見張られた目がみるみる潤んでいく。


「は、はい……!」


 頬に涙を伝わせながらも頷いた彼女たちに楓は頷き返し、結界が築かれたのを見届けてから分身に目をやった。


「おぬしらは周囲に人がいないかの確認と、いた場合の避難誘導を」

「承知」


 分身たちが指示に応じて散っていく。


 楓が響たちの元に戻ったその直後、雄叫びが聞こえ、次いで妖力が爆発した。


 立ち込めていた煙が一瞬で吹き飛び、その中から百目鬼どうめきが姿を現す。全身の目がこちらをギロリと睨みつけている。


「あれは百目鬼か? 実物とは初めて相対するが……何か様子が変じゃな」


 眉をひそめる楓に、梨々花が説明する。


「そうなんです、最初はあんなんじゃなかったのに、変異して……」


 それを聞いて、楓は大して動じることなくそうかとただ一言だけ答え、響と梨々花を顧みた。


「どうあれ、妖異と対峙して降魔科生がやることはひとつ。わしら三人であれを調伏するぞ」

「はい!」


 威勢よく返事をする梨々花と黙って頷く響を見て、楓は先陣を切った。


「行くぞ!」






 民家の塀の上。そこで響たちを見ていた氷輪ひのわのそばに、ふと気配が降り立つ。


「ご苦労だったな」

「ああ」


 氷輪の労いの言葉に、隠形を解くと同時に小鹿の姿に変化した暁鐘が答え、楓に視線を向ける。


「あの古河こが楓という人間、大したものだ」


 本性に戻った暁鐘は、最初楓を乗せて行こうかと思っていた。しかし、人を乗せて全速力は出せない。また響の時の二の舞になってしまう。


 ためらう風情の暁鐘に、楓は不敵に笑ってみせた。


 ――心配はご無用。わしのことはお気に召されるな


 だから、先に飛んでいってもらって構わない。ただ、気配さえわかるようにしてもらえれば、とだけ言われた。


 暁鐘は戸惑いつつも、とりあえず言うとおりにした。


 すると驚くべきことに、全力ではなくともそれなりの速度で飛んでいた暁鐘に、楓は一定の距離を保ったままついてきたのだ。


 木の枝や電柱のてっぺんに次から次へと飛び移り、屋根や塀の上を駆けて。


 普通の人間からかけ離れた身体能力だと、神獣をして言わしめるほど。


「あれは忍術の類よ」

「忍術?」


 祖国が中国というのもあり、忍者というものをよく知らない暁鐘は首を傾ける。


「あの小娘は、おそらく忍の一族の出なのであろうな」


 しのび――忍者は、室町時代から大名や領主に仕え、また独立して諜報活動や破壊工作、暗殺などを生業としていた者たちだ。武芸に優れているだけでなく、動植物や医学の方面にも広い知識を備えているとも言われている。


 現代人にとっては、もはやフィクションの存在としての印象が強いかもしれない。しかし、忍も細々とだが現存している。元々忍は忍ぶからこそ、あえて存在する痕跡を残さないものだが、そこは今や廃れた古式降魔術をひっそりと継承し続けている土御門つちみかど家と似通っている。


 氷輪の見立てでは、楓は忍者として相当の手練れ。しかもあの忍術や身のこなしから察するに、名のある家系の生まれだろう。


 おそらく、頭領に相当するほどの。


「なるほど、日本にはそのような人間が存在するのか」


 氷輪の説明を聞いていくらか理解した暁鐘はついと視線を移した。


「戻り次第加勢せねばと思っていたが――」


 そこまで言って暁鐘が苦笑する。


「その必要はないようだな」

「うむ、我らは高みの見物とゆこうぞ」


 白々しくこんなことをのたまっているが、氷輪は始めから加勢などする気はない。そもそも白澤には戦闘能力がないのだから、どちらにしろ物理面での戦力にはなり得ない。


 さて、とくと見させてもらうぞ。


 氷輪は悠然と尻尾を揺らしながら、そっと口の端を吊り上げた。


 一方、楓が加わって三人対一体となった響たちの戦闘は、熾烈を極めていた。


風切かざきり!」

「バン・ウン・タラク・キリク・アク! ウン!」


 梨々花が風の刃を召喚し、響が霊力の波動を放ち、楓が鉄の塊――苦無くないを投げ、三人総当たりで攻撃を仕掛けるが、百目鬼には大したダメージが入らない。ことごとく弾かれてしまう。


「……硬いな」


楓が片目をすがめる。百目鬼は変異したと梨々花が言っていた。詳細は聞いていないのでわからないが、怪しいのはあの赤黒い炎。あれが妖異の肉体を強化している、もしくはこちらの術の威力を激減させているのではないだろうか。


ふむとひとつ考えた楓は、響を顧みた。


「わしがやつの注意を引く。その隙に響、おぬしが金縛り術をかけるんじゃ」

「わかりました」


 次いで、楓の目は梨々花に向けられる。


「おぬしの適性は、わしと同じ木行じゃったな?」

「は、はい!」


 楓はうむと頷いた。


「わしが合図したら、おぬしの持つ中で最も強力な雷の術を放て」

「わかりました!」


 梨々花の返事を聞き、楓が地を蹴った。


 まるで体重や重力などないように宙へ浮いた楓は、妖異の目前まで接近した。


 いっそ無防備とも言える楓に向かって、百目鬼の腕が薙ぎ払われる。


 命中する――かと思いきや、剛腕は空を切った。


「こっちじゃ」


 いつの間にか、楓は百目鬼の足元にいた。


 再び妖異が足で蹴り飛ばそうとしたが、足を上げた時にはすでに別の場所へ移っている。


「ほれ、どこを見ておる」


 楓はおちょくるように相手を撹乱する。動きが早すぎるせいで生じた残像によって、まるで何人もいるかのように見えた。


「古河先輩の『影分身かげぶんしん』、やっぱりすごい……」


 感嘆する梨々花の横で、響もまた見入っている。


 変異した百目鬼の動きはけっして愚鈍ではない。振り払われるたびに空気が唸っているのだから、速度も威力も相当あるはずだ。


 しかし、その百目鬼の動作速度を楓の俊敏な動きが上回り、攻撃を難なく避けている。


 本当にすごい技だ。とはいえ、いつまでも見とれているわけにはいかない。


 響は神経を研ぎ澄ませた。両手を組み合わせて剣印を作り、静かに真言を唱え出す。


「ノウマク・サマンダ・バザラダン・カン」


 百目鬼の動きが若干鈍る。しかし、これだけでは誤差の範囲内だ。


「ノウマク・サマンダ・バザラダン・センダマカロシャダ・ソワタヤ・ウン・タラタ・カン・マン」


 次に響が唱えると、百目鬼の動きがさらに緩慢になった。


 さすがに煩わしく思ったのだろう。妖異が己を束縛せんとする術をかけている人間に目をつけた。


「ノウマク・サラバタタギャテイビャク・サラバボッケイビャク・サラバタタラタ――」


 詠唱を続ける響に向かって飛びかかろうとした百目鬼の前に、楓が割り込んだ。


「そうはさせんよ」


 楓が再び影分身を使って百目鬼の進行を阻む。妖異は目障りな人間を振り払おうと、一心不乱に腕を振り回す。だが、ひとつも当たらず立ち往生している。


「センダマカロシャダ・ケンギャキギャキ・サラバビギナン・ウンタラタ・カンマン!」


 響が唱え終えたその瞬間、百目鬼が完全に硬直した。


いかずちよ!」


 すかさず手を後ろに回した楓が腰につけていたポーチから苦無を取り出し、妖異に投げ放った。


 投擲とうてきと同時に放った術によって雷を帯びた二本の苦無は狙い違わず、百目鬼の顔にあるひと際大きい両目に突き立つ。


 生物において目は急所。それはたとえ妖異でも同じはず。


「今じゃ!」


 楓の合図を受け、梨々花が右手を翳した。


電一閃いなずまいっせん!」

「雷撃!」


 梨々花と同時に、楓も木行の雷術を放った。


 放たれた雷が、刺さった苦無に引き寄せられるようにして妖異を穿つ。次の瞬間、両目付近が爆発した。


 楓は投げた苦無に爆薬を仕込んでいた。それが雷の追撃を受けて起爆したのだ。


 百目鬼のおぞましい絶叫が空気を震わせる。先ほどまでとは違う確かな手ごたえ。かなりのダメージが入ったようだ。


 爆発と雷を受けた百目鬼は両膝をついた。両の眼のあった位置がぽっかりとえぐれ、全身に電撃を浴びたことで肉体が焼け焦げたように変色している。まさに惨憺たる有様である。


 灰となるのも時間の問題──誰もがそう思った時。


 突如として、百目鬼の身にまとわりついていた赤黒い炎のような妖気が広がり出した。


「……!」


 嫌な気配、という次元ではない。妖気を通り越した凄まじい瘴気。じわじわと周囲に広がり続けるその瘴気がそばにあった草木に降りかかる。すると、触れたところにあった草木がたちまち枯れ始めたではないか。


 響の背筋に冷たい何かが滑り落ち、脳が警鐘を鳴らす。これは、だめだ。触れれば最後、命はない。


 あそこまで行くと、もはや瘴気でもない。毒気だ。それが梨々花にもわかったのか、青い顔をして一歩足を退いた。


「――おぬしらは下がっておれ」


 と、響たちの脇を疾風が通り過ぎる。


 楓だ。百目鬼へと一直線に迫りながら、その目をすっと細めた。


「まったく、しぶといやつじゃな。──いい加減失せよ」


 毒気が触れる寸前。楓は地を蹴ると建物の壁や電柱を利用して高く高く飛び上がり、妖異の頭上を越えた。


 そして、宙を舞ったまま両手に持った苦無を逆手に握る。


「逆巻きおろし!」


 右腕の校章が光り、楓の周りに風の渦が生じた。


 風の渦に包まれた楓が、身体を回転させながら頭から急降下する。その様はまるで、自分自身が竜巻となったかのようだ。


 狙いは、直下の百目鬼。


 百目鬼がのろのろと、頭上に焼けただれた腕を伸ばす。この期に及んで、まだ抵抗しようとしているらしい。


 待ち構えるようにしている妖異に構わず突っ込んだ楓が、身にまとった風で毒気を帯びた瘴気を霧散させ、さらに風の力を利用して両手の苦無で百目鬼を細々に切り裂く。


 傍から見れば、竜巻が地面に叩きつけられたようにしか見えない。その凄まじい衝撃の余波に、周囲の草木がザワザワと鳴き、周辺民家の窓をガタガタと震わせた。


 やがて竜巻が消える。そこに妖異の姿はなく、片膝をついて苦無を握った両手を胸の前で交差させた体勢の楓だけがいた。妖気も何もかも一切なくなり、地面が多少陥没した跡だけが残っている。


 深く息を吐き出した楓が悠然と立ち上がった。


「ふぅ、なかなかに骨の折れるやつじゃったな」


 最後の術……否、あれは術というより技だ。小柄な見た目からは想像もつかないほど、ダイナミックな攻撃であった。


「お、お見事でした、古河先輩! すっごくかっこよかったですっ!」


 響たちのもとに歩み寄ってきた楓に、梨々花が興奮気味に言う。


 きらきらと輝かせた目を見て、楓はからからと笑った。


「そうじゃろうそうじゃろう。おぬしもタイミングばっちりじゃったぞ」


 そして、楓の目が今度は響に移る。


「響もご苦労じゃった。おぬしの術はやはり目を見張る」

「や……先輩のほうがすごかった、と思いますけど」


 あまり抑揚のない口調だが、咄嗟に出た響の紛れもない本心だった。


 生徒会の実力。会長である玲子のものはこれまで何回か目にした。しかし、彼女以外の生徒会役員の技量を見るのは、そういえばこれが初めてだった。


 実技の授業で見る機会は確かにあった。生徒会は、演習の最初に手本をやって見せることもあるのだ。しかし、授業での術など実力のほんの一端に過ぎず、ここまでの大技を出すことはほとんどなかった。


 玲子がとんでもない力を持っていることはもう十分承知しているが、楓もこれほどとは。あんな戦法、絶対に真似できない。やはり生徒会に入るほどの生徒は、一線を画している。


 楓がほほうと目を細める。


「おぬしも人を褒められるんじゃな」

「……わたしをなんだと思ってるんですか」


 響は渋い顔になった。そりゃ、すごいものをすごいと思うことぐらい自分にだってある。


「ふむ、おぬしに褒められると悪い気はせんな」


 自然な仕草で響のそばに寄って肩を叩いた楓は、ふっとトーンを落とした声を耳元に忍ばせた。


「……さっき、隠形を解こうとしとったじゃろ」

「……!」


 響の瞳が揺れる。それを見て、楓は目元を和ませた。


「おぬしは降魔士に向いておると、わしは思うんじゃがな」


 響は子どもたちを救おうとし、そのために隠形を解こうとした。


 隠形を解けば、確実に輝血が露呈する。妖異にも、梨々花にも。


 それをわかっていながら、それでも響は子どもたちの身を優先した。


「…………」


 さすがに目の前で襲われそうになっているのを、黙って見ていられるわけもない。それに、まきなたちの狙いは自分だった。子どもたちは巻き込まれただけだ。


 黙然と俯いた響に、楓はそれ以上何も言わなかった。


「さて」


 楓が踵を返した。その行く先を見て、響と梨々花も続く。


 楓が足を止めたのは、まきなと佳澄のもとだった。そのそばに横たわっている子どもたちは顔色こそ少し悪いが、全員無事だ。


「わしが言いたいことはわかるな?」

「……はい」


 結界が解かれ、うなだれている彼女たちに抵抗する気配はない。もう完全に観念している様子だった。


「今ここで全部話せ――と言いたいところじゃが」


 楓はちらと気を失っている子どもたちを一瞥した。いつまでも子どもたちをこのまま放置しておくわけにはいかない。


 見たところ命に別状はなさそうだが、あくまで素人判断だ。妖気にあてられた影響で何かしらの後遺症が残ってしまう可能性もゼロではない。なるべく早く病院に連れて行く必要がある。それから、彼らの家族ともどうにか連絡を取って事情を説明しなければ。


 悠長にしている暇はない。だから、楓は今ここではっきりさせておかなければならないことだけをいくつか聞くことにした。


「まず一つ。あの妖異はどうした。召喚したと聞いたが」


 詰問を受けて語った佳澄とまきなの話を要約するとこうだ。


 妖異を召喚するために使った符は、ある男からもらった。その男の正体は不明。どこにいるかも一切わからない。ただ、不憫な降魔科生を救いたいから力を貸すと言われ、彼女らはそれに乗った――と。


 話を聞いていた楓は眉をひそめた。佳澄たちの話はどうにも明瞭さを欠いている。違和感が拭えないのだ。


 本当はその男のことや出会った経緯など問い詰めたいところではあるが、その辺を今掘り下げたところですぐにどうこうできる問題ではなさそうだ。そこは一旦置いておいて、楓は次に肝心なことを問う。


「二つ。なぜこんな凶行に出た」 

「……私はただ、如月さんに退学してほしかっただけなんです」


 そう言った佳澄に続いて、まきなも口を開く。


「し……死んでほしい、とか、そこまで思ってたわけじゃ、なくって」


 そう。だから殺すなどという気は微塵もなかった。


 ただ少しおどかして。それで学園から追い出そうとしただけ。


 彼女たちの言い分を聞いて、楓の目元に険が宿る。


「退学してほしかっただけ、か」


 妖異を召喚して襲わせるなど、気に入らないから学園から追い出したいという程度の気持ちでやることではない。いっそ暗殺計画と言われたほうがまだ納得できるレベルだ。


 わからない。そうまでして響を退学させたがる理由が。


響が降魔科生からよく思われていないことは楓も把握している。その理由も。降魔科生の気持ちは痛いほどわかるが、これはいくらなんでも度が過ぎている。


「それにしては、やりすぎじゃと思うがの」


 すると、佳澄がキッと響を睨んだ。


「だって、まきなを泣かせたことが、許せなくて……!」


 梨々花と楓の視線が響に向く。


 響はぱちぱちと瞬きをした。まきなを泣かせた? なんだそれは。まったく記憶にないのだが。


 あまり顔には出ていないが困惑している響を、佳澄がものすごい眼光で射貫く。


「あんたの言葉が、まきなを傷つけたのよ」


 響は首を傾げた。わたし何か言ったっけ?


 なおも思い当たらない響を見て、表情を歪めながら当の本人が口を開いた。


「わ、私、前、如月さんに聞いたんです。私も頑張れば、い、いつか如月さんみたいになれる、かなって。そしたら……そし、たら……」


 ――無理でしょ。わたしたちは違うんだから


 そう返ってきた言葉が、まきなを絶望に突き落とした。


 それを聞いて、響ははっと思い出した。


 言った。それは確かに言った覚えがある。


 だが。


「ちがっ、あれは……」


 そういう意味で言ったのではない。断じて、まきなを見下したわけではないのだ。


 自分とまきなでは境遇が異なり、そもそも使っている術式も違うのだから同じになれるはずがない。


 自分は輝血かがちで。己の身を守るために降魔術を身につけて、使っているにすぎない。


 降魔士になって妖異から人を守るという意志があるまきなとは、目的が正反対なのである。


 そういった考えから出た言葉だったのだ、あれは。他人を見下すどころが、むしろ自身を嘲るような意味合いのほうがずっと強い。


 けれど、そんなことは知る由もないまきなは、別の意味で捉えてしまった。


 これは、響が普段から直截的な物言いをするうえに、言葉足らずであることが災いしたものだった。相手が響の事情を知らないというのも、それに拍車をかけてしまったのだ。


「……別に、馬鹿にしてたとか、そういうんじゃない。ほんとに」


 しかし、それ以上詳しいことは言えない。きちんと説明しようとすると、輝血のことや、降魔科に転科した経緯を話さなければならなくなる。


「誤解させたなら、謝る。ごめん」


 響は素直に謝罪し、頭を下げた。今回ばかりは、本当に悪いことをしたと心の底から思ったのだ。


 しかしそれは、さらにまきなを絶望の底に叩きつけることとなった。


「そ、んな……」


 まきなの瞳がひび割れる。


 今までずっと抱えてきたものが、全部自分の思い違いだったなんて。


 その思い違いで、自分は何の関係もない子どもを危うく殺してしまうところだったというのか。


「じゃ、じゃあ、私は……なんの、ために、こ、こんなことを……」


 呆然とした瞳から、はらはらと涙が流れ落ちる。唇をわななかせていた彼女は、堪らず顔を覆った。その隙間から嗚咽おえつがこぼれ出る。


「まきな……」

「ごめん、ごめんなさい……っ、わ、私のせいで佳澄ちゃんまで、まき、巻き込んで……っ」

「……謝らないでよ。あたしはあたしの意志でやったの。まきなのせいじゃないわ」


 そう言って、佳澄はまきなをそっと抱きしめた。その腕の中で、まきなが身体を震わせながら謝り続けている。


「――――」


 慰め合う二人を前に、響は瞬きひとつせず、その場に立ち尽くしていた。


 術者が言霊を軽んじてはいけない。


 言霊を操る術者は、言葉に注意しなければならない。言葉は、その良し悪しに関わらず、他人の運命を左右する力を持っているのだ。


 意味はわかっていたはずだ。しかし、理解しているつもりになっていただけだった。その結果、他人の人生を歪めてしまったのだから。


 響は言霊の〝力〟というものを、今この時本当の意味で初めて理解した。


 微動だにしない響に楓がそっと近づく。今の話を聞いて、まきなの事情はわかった。そして響がどういう気持ちでそんなことを言ったのかも、事情を知っている楓は大体察していた。


「響」


 静かな呼びかけに、緩慢な動作で首を巡らせた響に表情はない。いや、心做しか青くなっている気がする。


 そんな後輩を正面から見据え、楓はきっぱりとした口調で言った。


「おぬしがすべて悪いわけではない。巡り合わせが悪かったんじゃ」


 まきなは、元々己に強い劣等感やコンプレックスを抱いていた。それが、そういう解釈に導いてしまったというのも確かにあるのだ。


 どんな事情や理由であれ、まきなは降魔科生としてやってはいけないことをした。それは確かな事実。


 だから、これは響だけに責任があるわけではけっしてない。様々な要因が合わさり絡んでもつれた末に、こうなってしまったというだけなのだ。


「…………」


 それでも、自分がトリガーを引いてしまったことに変わりはない。


 響が顔を伏せる。そんな彼女を見て一瞬眉尻を落とした楓の視界の端に、ふと立ち枯れた雑草が入った。


「しかし、あの妖異はなんだったんじゃ」


 妖気や力が尋常ではなかった。百目鬼は見た目はあれだが、そこまで強くはない妖異のはずだ。それが、あそこまでの力を持っているのはにわかに信じがたい。


 楓の呟きに、梨々花がそうだったと佳澄に尋ねた。


「ねぇ、佳澄。妖異に投げたあの袋みたいなのは、一体なんだったの?」

「袋?」


 怪訝そうな顔をした楓に、梨々花ははいと頷いて説明する。


「妖異が子どもたちに目をつけた時、佳澄が妖異に小さな袋みたいなのを投げたんです」


 召喚された当時の妖異の力はそこまで大したものではなかった。しかし、佳澄が投げつけたものを浴びた途端急変し、術が通らなくなったのだ。


 そこまで聞いて、楓はやっと理解した。妖異が変異したというのは、そういう経緯があったのか。


「あれは妖異を弱らせる……はずだったもの」


 答えた佳澄が悔しそうに唇を噛み締める。


 弱体化した妖異を叩けば、Cクラス程度の実力でもひとりで調伏できる。そうすれば、評価が跳ね上がるだろうと言われたのだ。


 邪魔者を学園から追い出せるうえに、妖異を調伏して自分たちの評価も上がる。そうして、クラスアップを掴む。


 そういう計画だった。


 タイミングを見て投げようと思っていたのだが、子どもが乱入してくるという予想外の事態が起こってしまったので、咄嗟に使ったのだ。


 とはいえ、あの時は絶好のチャンスだと思った。妖異に襲われそうな子どもを救ったとなれば、自分たちの評価は必ずや上がるはずだ、と。


「その袋の中身はなんじゃ」

「……わかりません」


 男から妖異を召喚する符と一緒にあの小袋を渡され、これを使えば妖異が弱体化すると。そう言われただけだ。


「そんな何かわからないようなものを、おぬしらは使ったのか?」


 厳しい口調で言われ、佳澄は返す言葉もなかった。


 今思えば、確かにおかしい。相手の言葉を特に疑うこともせず鵜呑みにした。どうかしていたとしか思えない。


 佳澄は頭を振った。なんだかあの男のことを考えると、頭がぼんやりとする。


 何が弱体化だ。弱体化どころか、逆に強化されて暴走していたような気がする。突如妖異の妖気が膨れ上がって、禍々しさを増したのだから。


「…………っ」


 瞬間、佳澄の顔色が変わった。


 もし、自分の感覚が勘違いではないとしたら。


 あの小袋が真実、妖異を弱体化させるのではなく強化するものだったとしたら。


「ど、どうしよう……」


 顔色が蒼白を通り越して土気色になっている。


「どうした」


 ただならぬ様子に問いかけた楓に、佳澄はすがるようにしがみついた。


「今、学園にいる人たちが……!」



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