陰陽師の弟子 ☆伍


 世の中、楽なことばかりではない。むしろ辛苦のほうが圧倒的に多い。


 どうして現実というやつはこんなにも厳しいのだろう。全部自分の思い通りになればいいのに――。


「現実逃避をしたとて、何かが変わるわけでもあるまいに」

「くっそぉ……いっそサボっちまおーか」

なんじには授業を受けるほかに、やることがあるのか?」

「うー……」


 雲ひとつない晴天、温かな日差しが地上を照らし出していた。どこからか鳥のさえずりが聞こえてきて、微風が頬をくすぐる。


 そんなのどかな雰囲気とは対照的に、ゆらは通学路を慌ただしく駆けていた。


 もともと朝が苦手な響だが、今朝は一段とだるかった。昨日の一件が、だいぶ身体にきていたのだ。


 久々にあんな大物に遭遇し、散々走り回った挙句、普段はあまり使うことのない強力な術を使ったのがたたったらしい。


 よほど疲れていたのか、今朝はいつもより三十分も遅くに目が覚め、見事に寝坊してしまったのだ。


 元々、響は毎回始業のチャイムが鳴る直前に教室に入るたちだ。だから、無駄にできる時間など文字通り一分たりともないのである。


 それから急いで着替え、朝食を気持ち程度に食べてから寮を飛び出してきて今に至る。


 強力な術ほど、それに比例した霊力を消費する。多少疲弊ひへいするのも当然のことだが、一晩経ったというのに身体はまだ疲れを残していた。


 いつも以上にやる気が起こらず、心の底から学校を休んでしまいたかった。


 けれど、それはできない。なぜなら寮は一度出てしまえば学校の授業が終わるまで閉まってしまうからだ。


 寝坊に焦るあまり、学校を休めばいいのではという発想が浮上したのは、寮を出てから。寮の管理人が玄関のドアを閉める直前に飛び出してきたので、思いついたころにはもう寮は閉まった後だった。


 ならば、学校に連絡を入れた後、どこか適当な場所で休んでいればいいと思うだろうが、それもできない。


 というのも、学校を休むときは原則寮にいなければならない。休む旨を伝えると、学校側が寮へ確認をとるのだ。


 この状況ではサボりが間違いなくばれてしまうので、響はなんとしてでも登校せねばならないのだった。


 これが降魔科寮だったらまだよかった。普通科寮は学校から徒歩三十分の距離にあるのに対して、降魔科寮は校舎のすぐそばに併設へいせつされている。理由は、降魔科生が有事の際すぐに出動できるようにするためだとか。そのため、降魔科生は寮を出て五分ほどで校舎に入れるのだ。


「だー、このままじゃ学校着く前に行き倒れるー。ひの――」

「断る」


 いつも通り指定鞄の上に乗っている式神は、みなまで言わさず即答した。


「まだなんも言ってないんだけど」

「大方予想がつくわ、たわけ者。どうせ乗せていけとでも言うつもりだったのだろう。あいにくと我はタクシーではないのでな」


 図星を突かれた響は渋面を作りつつ、なおも食い下がる。


「おい式神、主人の命令が聞けないっていうのか?」


「確かに我は汝の式神だ。しかし、交通手段ではない。この程度のことで汝の命に従うなど御免ごめんこうむる」

「けーち……」

「ふん、なんとでも言え。さあ、遅刻したくなくば口ではなく足を動かすことだ」


 その言い草にイラッとした響は、走りながら左脇の鞄に手をやって氷輪ひのわ鷲掴わしづかむと、無言でぽいっと放り投げた。


「おわっ!?」


 唐突に空中に放り出された氷輪だが、くるっと一回転して危なげなく着地する。


「こ、この無礼者! いきなり我を放り投げるとは何事か!」


 響に並走しながら氷輪が抗議するが、本人はまったく悪びれない。


「ご主人様の言うことを聞かない式神にはお仕置きです。つか、なんでひとりだけ楽してるんだよ。氷輪も走れっつの」

「本音がだだ漏れておるぞ! ケチなのはどちらだ!」

「聞こえなーい」

「このっ……」


 言い合いながら、学生と神獣が街中をばたばたと駆けていくのだった。






 一日の半分が過ぎ、現在五時限目。


 科目は数学で、教師が黒板にカツカツと音を響かせながらチョークを走らせ、数式を書き連ねていく。


 響はあふぁとあくびをした。目尻に涙を浮かべ、表情は明らかに眠そうだ。


 一日中ずっとこんな調子だった。登校時になんとか滑り込みセーフを決めて遅刻を免れたはいいものの、そこで今日一日分の体力ややる気をすべて使い切ってしまった気分である。


 この次は体育かー、などとぼんやり考えていたとき、ふいに響の耳が声をとらえた。


「じゃあ、この問題を金本」

「はい」


 教師に呼ばれ、前の座席の生徒が立ち上がって黒板へ向かって行く。それをぼんやり見ていた響は、はっと我に返った。


「……あ、やべ、次じゃん」


 他の教科もだいたいそうだが、出された問題の回答者は座席順で当たっていく。前の生徒が呼ばれたということは、必然次は自分の番だ。


 苦手教科のためうわの空で授業を聞いていたせいで、問題を解いていなかった響は慌てて計算を始めた。


 そのうち、答えを書き終えたらしい生徒が戻ってくる。


 え、ちょっと待って、まだ解けてないんだけど。


 焦る響を他所に、教師が響を見ながら口を開く。


「次は、きさら――」


 と、名前が呼ばれるか呼ばれないかのタイミングで、コンコンと教室にノック音が響いた。


「ん? なんだ?」


 教師が出入り口に向かい、戸を開ける。そして、来訪者らいほうしゃと何やら話をし始めた。


 誰だか知らないがナイスタイミング。これで時間が稼げるぞ。


 突然の来訪者に感謝しながら、響は必死で問題を解く。そして、ようやく答えが出たところで、ふいに名前を呼ばれた。


如月きさらぎ


 顔を上げた響に、教師がちょいちょいと手招きをする。このクラスに『如月』という苗字はひとりしかいない。呼ばれたのは自分のことで間違いなかった。


「……はい?」


 戸を開け放したままなので、問題を解けという意味で呼んだわけではもちろんないだろう。そういう雰囲気でもない。


 怪訝けげんそうに眉をひそめて、響は仕方なく立ち上がった。そうして、クラスメートたちの視線を感じながら教師の下へ向かう。


「なんですか?」

「お前さんに用があるそうだ」


 教師はくいっと親指で廊下の外を示した。そちらを見た響は軽く目をみはった。


 そこに立っていたのは、ひとりの男子生徒だった。百八十を超えるがっしりとした体格に、剛毛そうな短めの髪。目鼻めはなちがはっきりとした顔つきで、目は若干吊り上っている。


 そして。


 彼が身にまとっているのは、普通科および一般の降魔科生とも違う、特注の制服。


 嘉神かがみ学園降魔科Aクラス。その中でも、さらに飛びぬけた実力を持つ生徒会の生徒だったのだ。


 響は目を何度かしばたたかせた。なんで降魔科の、それも生徒会の人がここに?


「授業はいいから、ついて行け」


 状況を把握はあくできず戸惑とまどう響に、教師は言い放つ。


「お騒がせして申し訳ありません。ご協力に感謝します」


 男は慇懃いんぎんに頭を下げると、響に視線で同行をうながしてきた。


 響は何がなんだかわからないまま、その男子生徒について教室を後にした。






「……なに、この状況」


 響はぼそりと呟き、それから前方の背中を注視する。


 教室を出てからあの男子生徒は一言もしゃべらず、響を先導するように黙々と歩を進めるのみだった。


 男子生徒は髪を短く刈り上げており、詰襟つめえりのチャイナ服を模した上着をかっちりと身につけ、両手には黒い指抜きグローブをはめている。


 響は例のごとく知らなかったのだが、氷輪の情報によると彼は二年の不破ふわ要一よういち。なんと降魔科Aクラスのナンバー2だという。


 それはつまり、あの生徒会長、幸徳井こうとくい玲子れいこに次ぐ実力を持っていることを指す。役員としても、副会長を担っているのだそう。


「…………」


 しかし、それにしてはなんというか、印象が残りにくいというか、影が薄いような。


 そんな失礼なことを考えながら、わけのわからないこの状況に翻弄ほんろうされる響であった。


「用ってなに……てか、どこ行くのこれ」


 副会長の男子生徒と少し距離を取って歩きながら、響がごく小さな声で呟く。


 もちろん理由を訊こうとは思ったが、このひとつ上の先輩は非常に話しかけづらいオーラをかもし出しており、結局訊けずじまいになっていた。


 よかったことと言えば、数学の授業を合法的に受けずに済むことだけだ。それはそれでラッキーだな、などと若干楽観的に考えている響である。


 それに対して、響が教室を出るときに瞬時についてきて、かばんがないため今回は響の頭の上に乗っかっていた氷輪が応じる。


「心当たりは?」

「…………。……まるでない」


 言われて思い返してみたが、本当に何も出てこない。


 確かに今朝遅刻しそうになったが、しそうになっただけで結局なんとか間に合った。それ以外にも、特に思い当たる節はない。


 生徒会に呼び出されるようなことは何ひとつしていないはず。それなのに、この現状はいったいどういうことだ。


「なにゆえ悪しき方向にばかり考えるのだ。呼び出しは何も、そうと限りはせぬだろうに」

「そりゃまぁそうだけど……いいことに関してもまったく記憶にないんだなー、これが」


 響の根底にあるのは無気力。非行をすることがなければ、積極的に善行をする性格でもない。


 消極的ともまた少し違う。言うなれば、非積極的人間なのである。人はそれをものぐさと言う。


 そこで、氷輪が深々と嘆息たんそくした。


「……響よ、いつまで目をそむけているつもりだ」

「……なんのことだか」


 すっとぼける響に、氷輪が容赦ようしゃなく切り込んだ。


「昨日の一件。これに他ならぬではないか」


 うっと響は顔をゆがめた。やっぱりそれしかないか。薄々気づいてはいた。ただ信じたくなかっただけで。


「……でも、バレるはずがないんだけど」


 響が逃がした女子生徒たちが報告し、ひとりの嘉神生が妖異よういに立ち向かったという情報は生徒会も掴んでいるかもしれない。しかし、それを響だと特定することはできないはずだ。


 工場内はだいぶ暗かった。女子たちとは一瞬すれ違っただけだ。顔の造形など外見の細部までははっきり見えなかったはず。


 自分の顔は特別整っているというわけでないし、これといった特徴のある容姿でもない。存在感も薄いし、クラス内や学年内で有名であるというわけでもない。自分は他人の記憶に残りづらい人間だろうと思っている。というか、意図的にそうしている部分もある。


 自分に対してこうも散々な評価を下している響だが、これは卑下ひげでも自虐じぎゃくでもない。客観的に見て、自然と自分はこうなのだと思っているだけなのである。


 周りに関心を持つことが少ないうえに自分に対しても無頓着なので、自分がどうであろうと特に気にしていない。如月響とは、そういう人間だった。


 ともあれ、嘉神の生徒であることはわかったかもしれないが、あの場にいたのが自分だと特定できるはずがない。響はそう確信していた。


「……まぁ」


 百歩譲ってその件だったのだとしても、本当のことを言うわけにはいかないのだが。


 ――いつか、降魔士になりたいと思う日が来るかもしれないわよ?


 脳裏にちらついた声を、ぶんぶんと首を振って打ち消す。ならない、自分は絶対降魔士になんか――。


 ふいに響の前をすたすたと歩いていた副会長が足を止めた。そのため、思考が中断される。


 響たちが立ち止まったのは、とある教室の前だった。


 視線を上げてプレートを見る。木製のそれには『生徒会室』の文字が刻まれていた。降魔科屈指の実力を持つ生徒たちが集う、生徒会の根城にほかならない。


 要一はその教室の扉をノックし、中へ声をかけた。


「連れてきたぞ」

「――入れて」


 扉の向こうからの応えに、副会長の顔が響へ向く。


「入れ」


 鋭い眼光で威圧的に言葉が放たれる。


 なんでそんなに睨まれなきゃならないんだ。詳細もまったく説明されてないし、なんかさっきから感じ悪くないかこの人。


 昨日の牛鬼との戦いによって倦怠感けんたいかんさいなまされ、いつもより二割増しでやる気が沸き起こってこないのと、詳しい説明もなしに連れ出された上になおざりな扱いを受けたせいで、いささか心がささくれ立っている響は気分を害しながらも、渋々生徒会室に足を踏み入れた。


 室内には複数人の生徒がいた。みな特注の服に身を包んでいる。生徒会メンバーだ。


 そして室内の中央には、十人は席につけるであろう長机が置かれており、そこに生徒たちが着席している。


 その長机の辺の短いほう。ドアから最も遠い奥の席。


 生徒会室に複数人いる中で、ひと際存在感を放っている生徒――生徒会長、幸徳井こうとくい玲子れいこがそこに座していた。






 響に続いて中に入りドアを閉めた要一が奥へ行き、会長席のすぐそばにあった空席につく。


 すると、玲子が響を見据えながらおもむろに口を開いた。


「――普通科1―2、如月響さんですね」


 厳粛げんしゅくな雰囲気に居心地の悪さを感じながらも、響がはいと答えると玲子は軽く頷いた。


「はじめまして、私は幸徳井玲子です」

「……はぁ」


 それは知っている。まさかわざわざ自己紹介が来るとは思わず、面食らってしまい微妙な反応になってしまった。


 そんな響を見て、心中を察した玲子がほのかに笑う。


「名乗るまでもないかもしれないけれど、初対面なのだしまず名乗るのは当然の礼節、でしょう?」


 またしても、響は軽く驚く。生徒会長はもっと居丈高いたけだかな人だと勝手に思っていたのだ。ろくにしゃべりもしなかった副会長とは大違いだ、などと胸中でこぼす響は意外と根に持つタイプだった。


「突然呼び出してごめんなさい。あなたに確認したいことがあって、ここへ来てもらいました」

「聞きたいこと、ですか」


 響の反芻はんすうに生徒会長は頷くと、余計な御託ごたくなど一切なしに話を切り出した。


「昨日の夕方頃、街外れの廃工場で嘉神学園の生徒二名が妖異と遭遇しました」


 玲子は響をじっと見つめている。反応を窺っているような視線に響が顔色ひとつ変えずにいると、玲子は話を続けた。


「彼女たちは両名とも降魔科Dクラスの一年生。まだ降魔術もたいして使えず、しかも遭遇したのが牛鬼ぎゅうきという非常に凶悪な妖異だったため、到底太刀打ちできない状況にあった」


 よどみなく語られる話を、響はただ黙って聞いている。玲子はそんな下級生にりんとした瞳を据えながら、淡々と言葉を紡いでいく。


「女子生徒たちが絶体絶命の窮地にあったとき、ふいにひとりの人間がその場に現れた。その人物は降魔術を駆使して、牛鬼が気を取られているうちに彼女たちを逃がしたとのこと」


 空気が張り詰めている。周りから視線を感じながらも、響は顔に出すことなく耳を傾け続ける。


「嘉神に戻ってきた彼女らからの報告を受け、現場に急行した生徒会役員が見たのは、崩壊寸前の建物と牛鬼を滅したと思われる痕跡こんせきのみ。女子生徒たちを助けた人物の姿もなかったそうです」


 そこで話が切れた。玲子の眼差しは響をとらえて離さない。響が言葉を発するのを待っている。


 響はその視線を静かに受け止めつつも、内心は天を仰いで息を吐き出したい気持ちでいっぱいだった。


 あーもうやっぱりその話なのかー。


 話の切り出しで覚悟していたが、まさか本当にその件についてだったとは。まったく関係ない別件であれという願いは、無情にも砕け散った。


 くそっ、やっぱりガラにもないことをするんじゃなかった。ろくなことにならない。


 密かに悪態あくたいをつきつつ、響はふっと息を吐いた。


「――そうなんですか」


 響は一度目をつむってそう答えたあと、開いた目をまっすぐに生徒会長へと注いだ。


「面白い話ですけど、それをどうして自分に?」


 自分が関係していることなどおくびにも出さずに尋ねる響に、玲子も淡々と返す。


「あなたに、重要参考人として話を聞かせてもらいたいと思いまして」

「重要参考人? 自分がですか?」

「その牛鬼を調伏ちょうぶくした生徒が、あなたであるという可能性が上がったからです」


 断定的な言い方だ。しかし、響は動揺することなく首を傾けた。


「はい? どうしてですか?」

「その人物が嘉神生であることだけは、女子生徒たちから証言を得ています。しかし、あの牛鬼を調伏できるほどの力を持った降魔科生は生徒会と、Aクラスの半分程度しかいない。けれど、その中の誰ひとりとしてあの場にいなかった」


 一旦言葉を区切った玲子は、響を見る目をすっと細めた。


「昨日、嘉神学園の降魔科生が牛鬼を倒せるはずがないのよ」

「だから、自分がって? ちょっと待ってくださいよ。そんなわけなくないですか?」


 響は大仰おおぎょうな仕草で首を振った。


「自分は普通科生ですよ。降魔科生が倒すのも大変だとかいう妖異を、ただの普通科生が倒せるわけないじゃないですか。大丈夫ですか?」


 人を食ったような響の発言に、玲子のそばに座していた要一が殺気立つ。射るように響を睨みつけ、牙を剥いた。


「貴様、口の利き方を知らんようだな……!」


 地の底からうような声音で要一の言葉が、しかし途中で途切れる。玲子が片手を上げてそれを制したのだ。


「会長!」

「やめなさい」

「だが!」

「副会長」


 玲子の有無を言わさぬ迫力に、要一はぐっと言葉を飲み込み、姿勢を正した。しかし彼は響に苛烈かれつな視線を注ぎ続けている。


 鬱屈うっくつとした気分になる響へ、玲子は再び視線を据えた。


「ひとつだけ言い忘れました。女子生徒たちの話によると、その生徒は灰色のブレザーを着ていたそうです」


 ブレザー。それは失念していた。


 響は舌打ちしそうになるのをなんとか堪え、平静を装って応じる。


「あーなるほど、だから普通科生を調査してるんですね」

「そういうことです。それで、あなたに心当たりは?」

「ないですねー、まったく」


 きっぱりと言い切るが、相手がそれで引いてくれるわけもなかった。


「昨日の放課後は、どこで何をしていましたか?」

「すぐ寮に帰りました。それから一歩も外に出てないですね」


 よどみなく嘘をつく。そんな響を要一がめつける。


「おい、嘘をつくと身のためにならないぞ」


 響は肩をすくめて、本当ですよとうそぶいた。


「なるほど――」


 玲子はやおら片手を持ち上げると、その人差し指をすっと響へ向けた。


「では、そこにいるのはなんなの?」


 彼女の指先が差したのは、響の頭上。


 それまでずっと場の流れを静観していた氷輪がうっそりと目を細め、ぴしりと尾をひとつ振った。


「ほう、我が見えるのか」


 再び響は己の失念を知る。そうか、氷輪が見えているのか。これはまた面倒なことになった。ていうかこいつもなんでしゃべるんだよ空気読めや。


 思わず氷輪を睨みそうになった響だが、そんなことをしてはこれまでのことが全部水の泡となるので、もうままよとばかりに素知らぬふりを続ける。


「え、なんかいます?」

「ええ、あなたの頭上に」


 すっとぼけた返答に玲子は肯定を返す。響は何か思い当たった素振りでぽんと手を叩いた。


「ああ、それはあれです。守護霊。我が家に代々いてるらしくて。親から聞いていて半信半疑だったんですけど、降魔科の先輩が言うんだったら間違いないですね。いやでも、まさか本当に憑いてただなんてー」


 そっかー、だからピンチになったときとかうまく切り抜けられることが多いんですかねー、などと白々しくのたまう。


 息をするように並べたてられた嘘八百を聞き、氷輪は感心とも呆れともつかない微妙な表情を器用に作った。


 表情を変えることなく響の言葉を聞いていた玲子は、ついと氷輪へ視線を向ける。


「と、言っているけれど。あなたの意見は?」

「――さて。我には、そのようなことを汝に語ってやる義理はないのでな」

「この、妖異風情が……っ」


 目を吊り上げた要一を、玲子が再び手振りで制す。どうやらこの副会長は相当気が短いようだ。


「とりあえず、それはあとでいいでしょう。話を戻します。では、あなたはこの件に無関係、と言うのですね?」

「はい」

「……そう」


 玲子は短く息を吐き、おもむろに片手を上げた。その指先には、一枚のカード状の板が挟み込まれている。


「これが何かわかりますか?」


 突然の行動に若干戸惑いながら、響はふるふると首を横に振る。


符盤ふばんと言って、霊力を流すことでここに刻まれた術式が即時発動する術具。昔は紙製で霊符れいふ、なんて呼ばれていたそうね」

「…………」


 それは知っている。自分が術を発動する際に時折使うのだから。


 霊符は短冊のような形の薄い紙で、墨で複雑な図や文字が書かれている。一見よくわからない落書きのようなものだが、これらは神の勅令ちょくれいを表しているのだ。呪文を唱えることによってその神の威徳いとく顕現けんげんし、妖異を祓うのである。


 対して符盤はトランプほどの大きさで、かざすとっすら回路のようなものが見え、その様はプリント基板に酷似こくじしている。これはいわゆるメモリーカードのようなもので、玲子の言う通りここに術式が刻まれており、霊力を流すことで術が速やかに発動する仕組みとなっていた。


 霊符と符盤。形状や材質さえ違えど、どちらもだいたい同じ用途や効果を持つ。


 なぜまた急にそんなことを話し出したのだろうか。意図が掴めず怪訝な表情をする響に構わず、玲子は依然いぜんとして静かな口調で話を続ける。


「それで、この符盤の使い方なのだけど――」


 そこで言葉を切った玲子は次の瞬間、その符盤を持った手を響に向けて突き出した。


 響の背筋がぞわりと粟立あわだつ。


風刃ふうじん!」


 響は咄嗟に組んだ刀印を横一文字にぎ払った。


きん!」


 迫った風の刃が、直撃する寸前で何かにぶつかり消失した。


 響が術で壁を築いて風の刃を防いだのだ。


「あ」


 場に静寂が流れる。


 しまった。ついうっかり、脊髄せきずい反射で術を使ってしまった。


 硬直する響へ、玲子は長い髪をさらりと払いながら言う。


「守護霊が動くどころか、自分で自分の身を守ったみたいだけど」


 玲子の目が冷たく細められる。


「これでもまだ、言い逃れを続けるつもりかしら」

「…………」


 響は悔しさでギリッと奥歯を噛み締めた。


 完全にはめられた。一般人に術を放つなどご法度はっとだが、玲子は響が術者であることを信じて疑わず、こんな強行策に出てきたのだ。


 今の術、威力自体は低めだ。とはいえ、もしあれが当たっていたら、少なくとも無傷では済まされないところだった。


 むちゃくちゃだ。一歩間違えば大怪我をするようなことを平然とやってくるなんて。それをその筋の知識をきちんと学んだ上で最上位クラスにおり、しかもその中でもトップの実力を持つ生徒会長ともあろう者が知らないはずがないのに。


 しかし、これで言い逃れができなくなった。響はまんまと相手の手口に踊らされてしまったのだ。


 けれども驚いたことにこの期に及んでもなお、響には素直に降参する気がなかった。この学生は往生際が非常に悪かったのだ。


 頭を振った響は顎に手を当て、いけしゃあしゃあとこう言ってのけた。


「ふむ、どうやら自分には降魔術が使える才能があったみたいですね」


 言下げんかに、笑い声が響く。


 そちらを見やると、ひとりの女子生徒が天を仰ぎながら大笑いしていた。


 ひとしきり笑い、目元に浮かんだ涙を拭いながらその女子生徒が響へ顔を向ける。


 座っていてもわかるほど、ずいぶんと小柄な体躯たいくだ。目測で百五十センチあるかどうか。顔立ちも幼さを感じるせいか、本当に高校生なのかと疑いたくなる外見である。


 黒い髪を後ろでひとつに結わっており、動きに合わせて房が揺れる。下半分は机の下に隠れてしまっているためわからないが、見える範囲内ではその服装は髪色と同じ黒一色だった。


 襟が交差した着物のような形の上着で、机に置かれた手には手甲がはめられている。首元にはスカーフが巻かれており、口元がわずかに隠れていた。なんだか忍者を彷彿ほうふつとさせるような格好だ。


「おぬし、随分とまあ図太い神経の持ち主のようじゃな。ここに来てそんな態度でいられたのは、おぬしが初めてじゃ」


 開かれた口から発せられたのは、見た目にそぐわぬ老人のような言葉遣いの高い声だった。喉の奥でくっくっと笑いながら、彼女が話を続ける。


「わしは古河こがかえで。こんななりじゃが、おぬしよりひとつ上じゃぞ?」


 小柄な生徒会役員、楓がにやりと口端を釣り上げた。こちらの心が読まれたかのようで、響は少しどきりとする。


 ようやく笑いを落ち着けた楓は満足そうに頷いた。


「うむ、実に面白いものを見せてもらった。その礼と言ってはなんだが、こちらからもいいものを見せてやろう」


 そう言って、楓はいつの間に取り出したのか、十数枚の写真を机の上にばさっと広げて見せた。


 それを見た響の目が驚愕の色に染まる。


 その写真のすべてに、自分の姿が映り込んでいたのだ。


 背景はあの廃工場の駐車場跡地。場面的に牛鬼を倒した後だろう。連写で撮っていたらしく、自分が座り込んでいるところから、印を組んで隠形おんぎょうするまでの間をコマ撮りできれいに抜かれている。


 肝心の牛鬼を倒している最中のものはないにしろ、昨日自分が確かにあの場にいたことと、隠形の術を使ったことを証明していた。


「…………」


 つまり、証拠はつかまれ、とうに正体が割れていたのだ。だから玲子もあんな行動に出たのだろう。


 そして瞬時に結びつく。氷輪が言っていた視線の正体。あれはカラスでも気のせいでもなんでもなかった。この忍者のような生徒会役員にしっかりばっちり目撃されていたのだ。


 響は苦々しい表情を作ると、楓をじろりと睨みつけた。


「盗撮が趣味なんですか?」


 思わず言葉が刺々しくなる。が、彼女は気を悪くした風もなく、いつの間にか手に持っていたデジタルカメラを構えてにやりと笑ってみせた。


「なかなかうまく撮れておるじゃろ。ふむ、案外わしはカメラマンに向いとるかもしれん。そうは思わんか?」


 その程度の皮肉などまったく効かないとばかりに飄々ひょうひょうと返され、響はついに観念した。


 そもそも先ほど術を使ってしまった時点で後の祭りだったのだ。これ以上嘘をついていても仕方がない。


 響はぶすっとした顔を生徒会長へ向けた。


「……証拠が揃ってたんなら、あんな回りくどいことをする必要なかったじゃないですか」

「できれば、あなた自身の口から聞きたかったから。自白があれば情状酌量じょうじょうしゃくりょうの余地があるというもの、でしょう?」


 座り直した玲子が、響に鋭い視線を向ける。


「では、この件にはあなたが関与している。間違いないですね?」

「ご覧の通りでは?」


 机上の写真を一瞥した響は完全に開き直っている。その投げやりな態度に、要一の眼光が凄みを増す。


 しかし、玲子はそれに動じることなくひとつ頷くと、目線を氷輪へと移した。


「では、もう一度聞くけれど、その妖異は? あなたとは、一体どういう関係なのかしら」


 先ほどから氷輪を警戒していることには薄々気がついていた。妖異を悪とし、調伏することが目的の降魔士を志しているのだから、真っ先に気にかけるのは当然だろう。


「結界を通れる、ということは、あなたの式神なのよね?」


 嘉神学園には、敷地をぐるりと囲む形で結界が張られている。悪しき妖異を阻むそれを難なく通れるのは、人間の支配下にある妖異以外ありえないのだ。


 響は深々とため息を吐くと、視線を上に向けた。


「これですか」

「これとは何事か、れ者め」


 氷輪の反駁はんばくをきっぱりと無視して、響は玲子の問いに答える。


「まぁ、そうですね。こんなちんちくりんな見た目してますけど、一応式神ですかね」

「……響。汝は我を怒らせたいのか?」

「怒りたいのはこっちだっての。なぁにが気のせいだよ。思いっきり見られてた上に、こんなに写真まで撮られちゃってんじゃん。妖異のくせに、察知能力ザルすぎじゃない?」

「なんだと! だいたい汝が調伏に手こずるからこうなったのであろう、この未熟者めが!」

「はぁ~? 主の死角をフォローすんのが式神の役目でしょ。だっていうのに氷輪が――」

「いいや汝が――」


 いつものように舌戦を繰り広げる響と氷輪。要一と楓が呆気に取られてそれを眺める中、ひとり冷静な玲子が氷輪をじっと見ながら口元に手を当てる。


「見たところ、普通の妖異ではない、ようだけど」


 わずかにだが、あの小さな身体から清冽せいれつな霊気が漂っている。立ち居振る舞いにもどこか気品があり、その辺りの有象無象の妖異とは違った存在であることは確かだった。


 すると、その言葉を聞き留めた氷輪が、響との言い争いを中断し、玲子を見やって口端を吊り上げた。


「ほう、伊達に降魔科主席の成績を修めてはいない、と言ったところか。見る目はあるようだな」


 居丈高に言い、氷輪は居住いずまいを正した。


「いかにも、我が本性は白澤はくたく。そこの不埒者ふらちものからは、氷輪と呼ばれておる」


 瞬間、室内に動揺が走った。


「白澤……? 白澤ですって?」

「嘘だろ……。白澤といえば、森羅万象に通じると言われる神獣じゃないか」

「信じられん。麒麟きりん鳳凰ほうおうに並ぶともされる大妖たいようがなぜ人間の配下に……」


 降魔士には、『式鬼しき』及び『式神』という使い魔とも言える存在を使う場合がある。


 式鬼と式神はどちらも術者の使役しえきだが、そこには明確な違いがあった。


 式鬼は、人が作り出した人工的な存在だ。自我を持たず、ただ術者の意のままに動く。基本的に式鬼の術式を組み込んだ術具に霊力を注いで展開する。


 対して式神は、自我のある存在を使役としたものである。その対象は主に妖異。ごくごくまれに神でさえも式神となる場合もあるが、めったにないことなのでここでは割愛かつあいする。


 式神となった妖異は、術者の命令がない限り自発的に人を襲うことができなくなり、概ね無害な存在となる。それに、他の術者から間違って祓われることもなくなる。


 そんな妖異が人の使役に下るのは、大抵その術者より弱いものだ。つまり術者がぎょせるほどの程度の低い妖異がほとんどなのである。


 だというのに、あろうことか神にも近しい存在である白澤を、人間と対等どころか指揮下に加えることなどほぼ不可能に近いことだ。


 にわかには信じがたいことだが、白澤であれば降魔科生が今の今まで学園に入り込んでいた氷輪の存在を感知できなかったのも得心がいく。神獣クラスの白澤ほどの霊力の高さならば、見鬼けんきの人間にでさえ存在を気取らせないぐらいのことはいくらでもできるからだ。


 さしものことに玲子を含めたこの場にいる生徒会一同が絶句する。その様子を見ながら、氷輪はほくそ笑んだ。


「ただし、思い違えるな。式神とはいえ、我はこやつに忠義を誓ったわけではない。この人間に少々興味を持ったゆえ、行動をともにしておるだけなのだ」


 そう言って、尻尾でその頬をぺしぺしと叩く。


「やめろ、鬱陶しい」


 響は手を振り、氷輪を頭上から払い落とした。玲子たちの顔色が一斉に青ざめる。


 白澤ほどの大妖ともなると、そこらの妖異と比べ物にならない、否、もはや別次元の凄まじい力を有している。ときには神のように扱われる異形の中でのトップクラスの存在を、まるでほこりでも払うかのようにぞんざいな仕草で地面へ叩き落としたのだ。


 あわやのところでなんとか着地した氷輪が、目を吊り上げて抗議の声を上げる。


「何をするか! 我は汝を評価したのだぞ!」

「知らないよ。誰も頼んでないし」

「な……っ。だ、だいたい汝は我と相見あいまみえ、我の正体を知るところとなったにも関わらず、ただの一度も殊勝しゅしょうな態度を取ったことがないではないか! こやつらの反応を見よ、これが普通なのだぞ!」

「だから知らんて。よそはよそ、うちはうち。てか、何度も言ってるけど、そっちこそ式神のくせに主に対する態度じゃないよね、それ」


 喧々諤々けんけんがくがくとした言い合いが再び展開される。周囲の存在などお構いなしだ。


「お、お前、そんなことをしたら、た、祟られるぞ……!」


 わなわなと肩を震わせながら言う要一に、しかし響はいつもの調子を崩さない。


「そんな大層なもんじゃないですよ、これ」


 響は無遠慮に氷輪を指さす。


「白澤って祝福をもたらすとかなんとか言われてるくせに、持ってきた試しないですからね。そんな妖異が祟れるわけないじゃないですか」


 響がしれっとそう言うと、地の底から這い出るような声が上がる。


「……汝が我をどう思っているのか、よぅくわかった。汝は我を舐めすぎだ。我がいかに偉大な存在であるか、一からじっくり説いてやる。そこへ直れ」

「やなこった」

「このっ……!」


 玲子は眉間を摘まんで首を振った。これではらちが明かない。


「やめなさい」


 制止の声をかけると、ふたりはようやく静かになった。口喧嘩が収まっただけで、まだ睨み合ってはいるが。


 玲子はそっと息を吐く。


「話を戻すけれど、いいかしら」


 その言葉でようやく顔を上げた響に、玲子は追及を再開する。


「見たところ、あなたの使う術は随分と特殊なようね。今ではめったに見ることのないその術式、一体どこでその力を身につけたのかしら」

「…………」


 響はその問いに答えず、肩をすくめるのみ。黙秘を押し通す。


「白澤を式神とし、牛鬼をたったひとりで倒せるほどの力を持っていながら、なぜ降魔科に入らず普通科へ?」


 黙秘。


「その白澤とはどういう経緯で今の形に至ったの?」


 黙秘。


「貴様! いい加減にしろ!」


 一切答えようとしない響に、我慢ならないといったていで要一が声を荒げた。


「自分の状況がわかっていないようだな。貴様はこちらの質問に答えなければならない。拒否する立場にないんだ。それを貴様は……!」

「――いいわ」


 いきり立つ要一を遮り、玲子はひとつ頷いた。


「言いたくないのであれば、今はそれでもいいでしょう」

「れ……会長!? 何を言って……」


 抗議の声を黙殺し、彼女はおもむろに立ち上がって歩き出した。


「それでは、私に勝てたらこれ以上の追及をやめ、あなたを解放しましょう」

「……勝てたら?」


 首を傾ける響の目の前まで移動した玲子は、下級生と目を合わせて言い放った。


「そう。模擬戦で、ね」

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