陰陽師の弟子 ☆肆


 全体の三分の一を占めるほどの大きな顔。黄色く、どこを見ているのかわかりにくい焦点がずれたうつろな目。頭にはどんなものでも貫けそうなほど鋭く長い二本の角。口元から覗く歯は不揃いでギザギザに尖っており、その巨躯きょくは緑色の皮で覆われている。


 そして、極めつけは。


「なんで! 顔が牛で! 身体が蜘蛛くもなわけ!」

「それは、あれが妖異『牛鬼ぎゅうき』だからだな」


 若干顔を引きらせて迫ってくる妖異から逃走するゆらの横で、氷輪ひのわが並走しつつ悠然ゆうぜんと解説する。


「特性としては、非常に残忍ざんにんかつ獰猛どうもう。口からは毒を吐き、人間を食い殺すことを好む」

「……ご丁寧にドーモ」


 見ればわかるような内容だった。というか、そもそも妖異は基本的に人を襲うものでは。


 などと思いつつ、響はちらと背後を一瞥した。視線の先に、角と同等の鋭利な爪を持った八つの足を器用にカサカサと動かし、機械の残骸をなぎ倒しながら猛然と追いかけてくる化け物、牛鬼がいる。


 よだれをまき散らしながらすさまじい形相ぎょうそうで走る様は、さながら狂った闘牛のよう。


「…………」


 響は無言で顔を正面へと戻し、動かす足にさらなる力を込めた。


「珍しいな、なんじが怯えるなど」

「別に怯えてなんかない。ただ、虫とかああいう見た目がグロテスクなものが無理なだけっ」

「ふむ。ならば、深海魚などは――」

「もう恐怖の塊でしかない」


 らちもない会話をするふたりの後ろで破壊音が響き渡る。


 氷輪は響を見上げた。


「ところで響よ。汝はいつまでこうして逃げ回るつもりなのだ」

「それっ、思ってた、はぁっ、ところ……っ」

「軟弱者め。だから体力をつけるべきだと幾度も言っておろうに」

「っさいな……っ、は……!」


 響はくっとうめいて、歯を食いしばった。


 いささか持久力に欠ける響の身体では、さすがにこれ以上走り続けるのも限界に近くなってきていた。横っ腹が痛くなる前に、そろそろ次の行動に移らなければ。


 響は右手で刀印とういんを組みながら、くるりと身体を反転させた。正面に迫ってくる牛鬼を見据え、作った刀印の切っ先を向けて叫ぶ。


「縛れ! これは見えざる神力じんりきの縄、あらゆる動きをふうずるものなり!」


 響の放った言霊ことだまが霊力の縄となり、牛鬼の身体にまとわりついた。妖異が一瞬動きを止める。


「どうだ……っ!?」


 言い差して、響は目をみはった。


 牛鬼が咆哮ほうこうしながらその巨体をよじり、呪縛じゅばくを無理やり振りほどいたのだ。


「うわー、術を自力で破りやがった……」


 なんて馬鹿力だ、と愕然がくぜんとする響を牛鬼はギロリと睨むと、突然口から何かを吐き出してきた。


 弾丸のように飛んでくるそれは禍々まがまがしい紫色で、あきらかに粘り気のありそうな物体。


「……毒!」


 響は咄嗟に懐から数枚の護符ごふを抜き放った。符は術者の眼前で宙に浮かび、壁を織り成す。


 直後、妖異の毒が護符の壁に激突した。


「ふぅ、ギリギリセー……」

「たわけが! 気を抜くなっ、避けろ!」


 息を吐いた響の耳朶じだに、切迫した氷輪の声が突き刺さった。


「は?」


 視線を向けると、響の目の前で壁を作っている護符が溶け始めていた。


 毒の威力が、護符を上回っている。


「うっそ……っ」


 体裁ていさいなど気にかける余裕もなく、響は全力で横に転がった。


 同時に壁が効力を失い、ほんの一瞬前まで響がいた場所にヘドロのような塊が着弾する。


 即座に身を起こした響は、ジュジュゥ~ッという焼けるようななんとも嫌な音とともに、毒が付着した床が丸くえぐれるように溶ける様を目にした。


「…………」


 頬に冷たい汗が流れるのを感じる。


 先ほどの束縛術そくばくじゅつといい、こちらの術がいとも簡単に破られ続けている。なんともでたらめな力だ。


 この牛鬼という妖異、そこらの雑魚妖異とは明らかに一線を画した力を持っている。


「……! 響、避けろ!」


 氷輪の鋭い声にはっと我に返り、響は反射的に後ろに飛び退いた。目の前の床にザクッと牛鬼の足の爪が突き刺さる。


「く……っ」


 響はそのまま何度かバックステップし、牛鬼と距離をとった。


 頬を伝ってあごへと垂れてきた汗をぬぐい、荒くなった呼吸を整えながら考える。さて、この怪物をどう倒そう。生半可なまはんかな術ではどうにも勝てそうにない。


 響はため息を吐くと、傍らの式神に声をかけた。


「ねぇ、氷輪」

「なんだ」

「帰りたい」

「言っておる場合か!」


 刹那、牛鬼が機械をなぎ倒しながら再び攻撃をしかけてきた。


 響たちも再び逃走を開始。


 そうしてしばらく走り回っていたが、牛鬼の攻撃のせいで今や床は大破した機械や崩れたコンクリートの残骸で埋め尽くされている。


 なんとか間隙かんげきって走り続けるが、疲労で徐々に意識が散漫さんまんになり――。


「うわっ……!」


 ふいに響の身体が傾ぐ。足をついた先の瓦礫がれきを踏み、バランスを崩したのだ。


 咄嗟に反応できず、響は派手に転倒する。


「ぐ……っ」

「響!」


 響の少し前で止まった氷輪が、振り返って叫ぶ。


 上体を起こして背後を見ると、かの化け物が鋭利な爪を振りかぶったところだった。


 その先にあるのは――響の身体。


「……っ」


 あんなものに貫かれたら、響の命は間違いなくない。


 牛鬼が爪を振り下ろす。響の感覚のすべてがスローモーションになった。


 迫ってくる牛鬼の爪が。


 氷輪の怒声が。


 絶体絶命の窮地きゅうちを前に、響はそっと目を閉じる。――そして、言霊を放った。


「我が式神白澤はくたく・氷輪。本性を現せ」


 瞬間、閃光が周囲を真っ白に染めた。そのあと、何かが崩れる物音が重く響く。


 やがて光が収束していくのを感じ取り、響は目を開けてゆっくりと立ち上がった。


『――まったく。我が主ともあろう者が、けつまずくなど情けない』


 パタパタと服についた埃を払う響の耳元に、厳かな声が入り込んできた。


 そちらを見やると、そこには白銀はくぎんに輝く巨体があった。


 大きさは象ほど。全身は純白の滑らかな毛並みで、首回りにはふさふさの長毛がたくわえられていた。がっしりとした四本脚から光沢のある黒い爪が覗いている。精悍せいかんな顔つきは犬や狐に似た造形で、耳の上に長い角が一対伸びていた。


 何よりも特徴的なのは、胴体の左右に三つずつある眼と、背から生えた四本の角だろう。


 氷輪と名を与えられた神獣白澤の真の姿が、そこに顕現けんげんしていた。


「氷輪」


 呼びかけに、氷輪の目が響へと向く。その額には、吊り上がった両目の他にもうひとつの瞳があった。


 先ほどまでの小型犬サイズは、力を抑えた仮の姿。その時に赤い線だった不可思議な文様こそが白澤の眼であり、正体を解放すると閉ざされていた七つの眼すべてが開眼するのだ。


 麒麟きりん鳳凰ほうおうに匹敵する神獣とされ、人語を話して万物に精通する、非常に知性の高い妖異。


 それが、白澤。


 氷輪の本性である。


『何をやっておるのだ、汝は』


 響を見下ろす氷輪は神々しく、威厳いげんに満ちあふれていた。


 神獣がかもし出す神聖な霊気が、氷輪が全体にまとっているキラキラと輝く粉のようなものに現れている。


 それはさながら、細氷さいひょう――ダイヤモンドダストのようで。


『このようなことで我を頼るとはなんとしたことか。幾度も言うておるが、汝は緊張感というものも持てぬのか。これでは先が思いやられるぞ』


 言いたい放題言われ、響の眉がぴくりと動く。こういった小言を言われることがわかっていたから、響は氷輪の力を極力借りたくなかったのだ。


「…………文句言うくらいなら、さっさと変化へんげすりゃよかったのに」


 思わずぼそっと呟くと、今度はそれを聞きとがめた氷輪の立て耳がぴくりと動く。


『思いたがえるな、人間。我はあやかし退治をするためにいるのではない。汝に興味を持ったから式神の任に甘んじておるのだ。よもや、それを忘れたわけではあるまいな』


 そう言って、氷輪はついと三つの目をすがめた。


『この白澤が目をかけたのだ。我を失望させてくれるでないぞ、降魔士――いや、降魔の力を持つ者よ』


 勝手なことばっか言ってくれちゃって。ちょっとは人をおもんぱかる気持ちとかないのか。


 尊大な物言いに響はうんざりしたような顔をしたが、反論は面倒だしそんなことをしているほどの余裕もないので押し黙るに留める。


 そのとき、ガラガラと瓦礫が落ちるような音が響き渡った。視線をやれば、そこには機械の残骸から這い出てくる牛鬼の姿が。


 牛鬼は、氷輪が本性に戻る瞬間に放たれた霊気によって弾き飛ばされていた。それで今の今までひっくり返っていたのだろう。


 体勢を立て直した牛鬼が憤怒ふんぬの形相で響たちを睨みつけるやいなや、ザザザッと八本の脚を器用に高速で動かし、響たちのほうに突進してきた。


醜悪しゅうあくあやかし風情が、白澤たる我に刃向うか』


 氷輪が冷やかに言う。その顔には、凄惨せいさんな笑みが浮かんでいた。


『笑止。己の身の程もわきまえぬ下賤げせんやからはなはだしい。我との格の違い――身をもって思い知るがよい!』


 瞬間、氷輪の霊気が爆発した。


 波紋はもんのように広がった霊気が猛牛のごとき勢いで迫ってきていた牛鬼に叩き込まれ、いとも容易く吹き飛ばした。


 牛鬼はごろごろと転がり、けたたましい音を立ててコンクリートの壁に激突した。衝撃で壁が崩れ、巨大な穴が開く。


 再び瓦礫に埋もれた牛鬼だったが、すぐさま起き上がった。体勢を整えながらも、その目は響に狙いを定めている。


「……氷輪のあれ受けて、まだ来るんだ」

『あの状態の妖異には、我の力は効力を発揮せぬ。汝の手で調伏ちょうぶくするほかに道はない』


 二度も吹っ飛ばされたためか、さすがにすぐに突撃してくるようなことはなかったが、牛鬼が退散するような気配は微塵もなかった。響を凝視する両の眼は真っ赤に充血し、口の両端から唾液だえきを閉まりなく垂らしている。ただ響を食うことしか頭にないのだろう。


 氷輪の言うとおり、あれは完全に状態だ。


『ゆえに、我の手出しはここまで。響、早々にあれを滅せよ』


 響は鬱屈うっくつとした息を吐き出した。まったく、本当に厄介だ。


 うんざりもいいところだが、ここまで来たらもうやるしかない。響はすっと表情を引き締めて策を巡らせる。


「それじゃあ、氷輪。とりあえず外に連れてって」

『…………。よもや、逃げ帰ろう、などというわけではあるまいな』

「そう言ったらどうする?」

『汝を置いて行く』

「ひど……」


 これが式神の言うことなのだろうか。人でなしにもほどがある。いや、氷輪はそもそもが人ではない。


「あーもう、いいからさっさと乗せろってば」


 ぞんざいな言い草に氷輪は眉をひそめたが、主人の雰囲気が一変していることに気づき、にやりと笑った。


『――よかろう』


 身を屈めた氷輪に、響はさっとその背に乗り込んだ。角の間に上手く身体を入り込ませ、ぎゅっと角を掴む。


『落ちるなよ』

「落とさないでよ――」


 響が言い切る前に氷輪が地を蹴り、飛翔した。


 ぐんぐんと上昇していく氷輪は、天井に向かって空をる。


『抜けるぞ』


 注意喚起を受け、響は体勢を低くして角を掴む腕に力を込める。


 直後に、轟音が響き渡った。


 衝撃をやり過ごして響がゆっくりと顔を上げると、差すような強い光が視界に飛び込んできた。あまりの眩しさに思わず目を細める。


 夕陽だ。視界いっぱいにだいだいに染まった景色が広がる。氷輪が天井を突き抜けて外に出たのだ。


 ほどなくして、下のほうから何かが崩壊するようなすさまじい音が轟いた。


 視線を落とすと、建物の壁からもくもくと砂埃すなぼこりが舞っていた。砂の煙が薄らいでくると、壁には巨大な穴が開いているのが見え、そこから黒い影が現れる。


 牛鬼だ。響たちと同じく壁を破壊して出てきたのだ。


 響は妖異から視線を外し、ざっと辺りを見渡した。どこか開けた場所がないかと探していると、アスファルトで埋められた空間を見つけた。ところどころひび割れて、その割れ目から雑草がびっしりと生えている。部分的に薄っすらと白い線が見えるところからすると、おそらく以前は駐車場として使われていたのだろう。


「氷輪、あの駐車場っぽいとこに降りて」


 指示を出すと、滑空していた氷輪が言われた通りに高度を下げ、広い空間の中央にふわりと着地した。


 響は氷輪から降りて、ある方向を向く。凄烈せいれつな気を放つ大妖はそんな響の背後に控え、じっと主を見つめている。


 なんだかプレッシャーを感じる、気がする。


 居心地の悪さを感じながら、しかし特に気負うことなく、牛鬼へ意識を集中させる。


 響は右手首につけていた薄桃色の珠が連なる数珠を外すと、左手に握り込んだ。静かに息を吐き出し、右手で刀印を組む。


 ほどなくして、豪快な破壊音が響いた。響のちょうど真向かい、コンクリートの壁をぶち破って牛鬼が姿を現す。


 牛鬼は獲物の姿を見つけると、猛烈な勢いで突っ込んでくる。距離はどんどん縮まっていき、残り十メートルほどとなった。


 響はそれをじっと見据える。先ほどまでのような半端な術は効かない。ならば、それ以上の術をぶつけるしかないだろう。


 響はゆっくりと呼吸をし、組んだ刀印を標的へと向ける。


「――不動ふどう金剛こんごう明王みょうおう帰依きえたてまつる」


 詠唱し、刀印を素早く動かす。


 右斜め上、次に左へ横一文字に引き、右斜め下、左斜め上、最後に左斜め下。


 一筆で描き上げられたそれは――五芒星ごぼうせい


 宙に五芒星を描いたと同時に、牛鬼の足元が光を放ち始めた。


たけ神威しんいは不動のかせ邪鬼悪鬼じゃきあっきの行く手を阻みたまえ!」


 霊力の宿った言上ごんじょうが凛と放たれる。


 響の眼前には、人間の脆弱ぜいじゃくな身体などいとも容易く切り裂く長い爪が。


 しかし、牛鬼の爪が響に届くことはなかった。


 なぜなら、巨大な妖異は指一本動かせないからだ。


 腕を振り上げた姿勢で停止している牛鬼。凶悪な形相で動こうと必死にもがいているようだが、ぴくりとも動かない。


 神仏しんぶつの強力な神威を借りて敵の動きを拘束する、金縛りの降魔術。


 響は視線を前方に据えたまま後ろに数歩下がり、牛鬼と充分な距離をとった。そうして、妖異へと向けていた腕を真上に上げる。


 同時に、先ほど取り出した数珠を上空へ放り投げた。そして、目を瞑って静かに言霊を紡ぐ。


鳴神なるかみよ、天駆ける一筋の煌めきよ。その一閃のもとに、悪しきものへと裁きを下せ――」


 その瞬間、宙を舞っていた数珠がばっと弾け飛んだ。繋がるものをなくした珠は、しかし落下することなく、術で拘束された妖異の頭上で巨体を囲むように円を織り成した。


 かっと目を見開き、響が掲げていた腕を一気に振り下ろす。


雷神らいじん招来しょうらい急々如きゅうきゅうじょ律令りつりょう!」


 叫び声と同時に、円を描いていた数珠が光を帯び、稲妻がほとばしった。十数個の珠が生み出した閃光は直下の牛鬼に突き刺さり、辺りを一瞬白く染め上げる。


 断末魔だんまつまの叫びが地を揺るがした。


 牛鬼の背には、響が召喚した稲妻の焼け跡がある。それがじわじわとむしばむように牛鬼の身体に広がっていく。


 牛鬼は裂けた口からよだれをまき散らし、血走った目を見開いてもだえ苦しんでいる。


 やがて焼け跡が全体を覆うと、牛鬼は動かなくなった。まもなく、妖異の巨体は砂がこぼれるように消えていく。


 辺りに立ち込めていた妖気も消え失せ、平穏な空気が漂い始める。


「はぁ~~~~~……」


 妖気が完全に消失したことを認め、響は緊張を解いて肺が空になるくらいの息を吐き出した。


『ふっ、まずまずと言ったところか』


 その声に背後を顧みると、それまで一切手出しをしなかった氷輪がにやりと笑みを浮かべていた。


『この程度こなせないようであれば、我はとんだうつけを見込んでしまったことになるところであったぞ』

「…………」


 響がしげしげと自分を眺めていることに気づき、氷輪は怪訝そうに首を傾げた。


『なんだ』

「や、氷輪の本性もだいぶアレだけど、こっちはまだ平気なんだよなーと思って」


 初めはなんのことかわからなかった氷輪だが、響のグロいもの嫌いのことだと気づくとくわっと牙をいた。


『この不埒者ふらちものめが! 我をあのような醜悪極まりないものと同視するとは何事か!』


 いやだって、身体中に目が九個もあって角だっていくつも生やしてる生き物なんか普通気持ち悪いじゃん。


 という言葉を響はすんでのところで飲み込んだ。これ以上言うと本気でへそを曲げてしまう。


 冗談冗談と適当に謝る響に、ふんとそっぽを向いた氷輪の身体が突如白く光り出す。そして光が消えた時には巨大な姿はなく、代わりのように小型犬ほどの大きさでちょこんと座る氷輪の姿があった。先ほどまでの凄烈せいれつな霊気はすっかりなりを潜めている。常時の姿に戻ったのだ。


 その直後、ピシリと何かが割れるような乾いた音が響く。響が目を向けた先に、効力を失って地に転がっていた数珠があった。薄桃色だった珠はそのどれもが黒ずみ、ひびが走っている。


 そして次の瞬間、十数個の珠は一斉に砕け散った。粉々に破砕した残骸は、夕陽を受けてキラキラときらめきながら風に流されていく。


「あの程度の術で、もう使い物にならなくなるのか」

「ま、所詮しょせん百均のやつだしねー」

「仮にも降魔調伏は神聖な儀式のうちに数えられるであろう。だというのに、それに対して安価な媒体を使うというのはいかがなものか」


 いささか渋い顔を作って呟く氷輪に、響はやれやれと首を振り、言い含めるように滔々と語り出す。


「あのね、ものすごーい霊力が込められた霊験れいげんあらたかな術具にいくらかかると思ってんの? あいにくそんなもんを買えるほど、この学生の身の上に金銭的余裕はないのです。てか、そんなご大層なもんがなくても、安物だろうとそれで術が出せるんだからなんの問題もないじゃん」


 高級な降魔道具は維持費もばかにならない。手入れをおこたれば、その術具が本来持っている力がおとろえてしまうことだってあるのだ。


 その点、百円均一など格安で簡単に手に入るものは、使用はほぼ一度きりの消耗品となってしまうが使い勝手がいいのだ。正当な降魔専用道具の購入価格とその後の維持費を考えれば、こちらのほうがコスパ的にも断然いい。


「それに、重要なのは道具じゃない。道具を扱う術者自身なんだよ」


 いつになく真剣な面持ちで、きっぱりと言い切る。


 そんな主をじっと見つめて、氷輪はようよう口を開いた。


「もっともらしいことを言っておるが、立派な術具が買えない自身を正当化したいだけではないか?」


 少しの間が空く。


「そんなことないし」


 発言とは裏腹に、響の顔は明後日の方へ向いている。


 氷輪が疑わしい表情で主を見ていると、突然響の身体がふらっとよろめき地に手をついた。


「響? おい、どうした……っ」


 先の戦闘でどこかやられたのだろうか。まさかかわしたと思っていた毒を実は食らっていた、とかではないだろうな。


 思わず顔色変えて駆け寄る氷輪に、屈み込んだ響が力の抜けた声をもらした。


「……っあー、だっる。つっかれたぁ、もー動きたくなぁい」

「…………」


 氷輪は脱力のあまり、言葉を返す気力も湧かずに黙り込んだ。


 この学生、強大な力を持つがいかんせん体力がない。ついでに緊張感もない。あるのはただ無気力だけだ。


 無気力があるというのはまた矛盾しているな、などと益体やくたいもないことを思っていた氷輪はふと気配を感じ、がばっと顔を上げた。


「……? なに、どしたの」


 突然氷輪の神経が尖ったことに気づいた響が目を向ける。


 しばらく視線をある一点に向けたまま微動だにしなかった氷輪だが、やがて首を振った。


「……気のせいか」


 頭を振った氷輪は、ふいに自分の身体が浮くのを感じた。


「ぬおっ」


 何事かと氷輪は目を白黒させる。その眼前には据わった目をした響の顔。響が氷輪の首根っこをむんずと掴んで、自分の目の前にぶら下げたのだ。


「な、何をするのだっ、放せ!」

「人の質問ガン無視で、勝手に自己完結させるな。どうしたのかって聞いてるんだけど」


 じたばたともがいていた氷輪だったが、やがて観念して呟いた。


「……何やら視線を感じた気がしたのだ」

「視線?」


 響は先ほど氷輪が見ていた方向へ顔を向けた。しかし、特に変わったところは見受けられない。


「我の気のせいだったようだがな」

「どうせ氷輪を狙ったカラスかなんかじゃないの? こんなの食べたってお腹壊すだけだってのに」

「……前々から汝には言いたいことが山ほどあったのだ。まず我を開放し、そこへ直れ」

「やなこった」

「……っ、この……!」

「てか、さすがにもう帰んないと夕飯抜きになるし。やー、それにしてもホント身体重い。今夜はぐっすり眠れそー」

「ええい、ひとの話を聞け!」


 短い手足を振り回してわめく氷輪を放り投げ、ものぐさな降魔術使いはよっこらせと立ち上がって伸びをした。


 足元からやかましく何か聞こえるが、響は無視を決め込む。


 やれやれ、思わぬできごとのせいでひどい目にあった。嘆息し、肩をぐるぐると回していた響の脳裏にふと引っかかるものがあった。


 そもそもあんな巨大な妖異が、一体どこから出現した? 人里ならともかくこんな街外れの廃工場に出現する意味がわからない。


 妖異は人を襲い、災厄を振りまくもの。ならばあの女子生徒たちを狙って?

もしくはその逆か。女子生徒たちが響と同様に妖気を感じて駆けつけたほうだろうか。


 それにしてはお粗末そまつなものだったが。降魔科生のくせに抵抗もせずに怯えてるだけってどうなんだ。もし、自分が来なかったらどうなっていたことか。


「…………」


 これは、助けたことになるのだろうか。


 妖異から人を助けるだなんて、これではまるで、降魔士のよう――。


「……っ」


 響は慌ててかぶりを振って思考を打ち消す。違う、そんなんじゃない。今日のはたまたまだ。氷輪にそそのかされて、そうなってしまっただけだ。自分の意志で助けたかったわけじゃない。


 自分は、ただ。


 自分の身を守れさえすれば、それでいいのだから。


「っと、そうだ」


 きびすを返しかけた響は、自分が先ほど牛鬼の意識をこちらへ向けるために、隠形の術を解いてしまっていたことを思い出した。


 いけないいけない、また面倒なことになるところだった。


 空はすでに日が沈み、わずかに明るみを残すだけとなっている。じきに夜の帳が辺りを覆うだろう。そうすれば、魔の領分だ。


 響は術をかけ直すと、ひょいと氷輪のほうに首を巡らす。


「氷輪ー、帰るよ」


 声をかけ、響の頭上に飛び乗った氷輪はまだ憤然ふんぜんとしていた。そんな式神を適当になだめすかしながら、響は今度こそその場をあとにした。

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