2.星廻る輩

星廻る輩 ☆壱



「はぁ……はぁっ……」


 息が上がる。鼓動がどくどくと脈打ち、身体が少しだけ重い。


「……なんだ、もう霊力が尽きたのか」

「……イキってあんな術式使ってるから」

「……まぁ術はすごいけど、あんなの実戦じゃ使い物にならなくない?」


 周囲からくすくすという忍び笑いや、ひそひそと囁く声が聞こえた。それらには、明らかに侮蔑ぶべつの色が混じっている。


 まさに針のむしろだった。


 膝に手をついて荒い息を吐いていた如月きさらぎゆらは、額に滲んだ汗を拭いながら、心底うんざりした面持ちでこう思った。


 ああ、普通科に戻りたい――と。


   △    △


 まばらに散っている比較的大きな雲が時折太陽にかかり、日が翳る。少し怪しいが、すぐに天気が崩れるということはないだろう。気温は六月間際のため、ほどよく暖かい。


 そんな可もなく不可もない天候の下、市街地の歩道にとある影がふたつ。


 背中に大きなリュックを背負い、片方の肩にはこれまた大きなボストンバッグ、もう片方にスクールバッグをかけた姿でえんやこらと歩いているのは、制服を身にまとった高校生だった。


「はぁぁぁぁぁ……おっも……もーやだ帰りたーい……」


 重苦しい息を吐き、大荷物を抱えて気だるげに歩を進める学生の横から、冷淡な声が発せられる。


「何を弱音を吐いておるのだ、響よ」


 声は随分と下のほうから聞こえた。響が視線だけを動かしてそちらを見やる。


 響の足元。そこには、明るい灰色の毛並みで、もふもふとした四足歩行の生き物がいた。小型犬ほどの大きさで、神社やなんかでよく見かける狛犬のような形をしている。


「今向かっておるところが、今後なんじの帰る場所となるのだぞ」


 響へと向けられた大きな目は金色。額に赤い横線のような不思議な文様があり、胴体にも同じような文様が散見される。


 そんなどの動物とも似つかない生き物へ、響はどよんとした表情を向けた。


「はーあ、氷輪ひのわが人型の式神しきがみだったらよかったのになー」

「なにを戯けたことを。この我が姿こそ至高。これほど完璧な存在などおりはせぬ」


 居丈高な物言いに、響は目を据わらせた。


「じゃあ、本性に戻って乗せてってよ」

「断る。汝のその足はなんのためにあるのだ」

「そっちこそ、困ってる主を助けないとかなんのための式神なわけ?」


 やり取りがどんどん殺伐としていく。


「ふん、我は汝に忠誠を誓っているわけではないのだ。汝の言い分をすべて聞いてやる義理などないわ」

「うーわぁ……ホントつっかえねー式神」

「なっ、使えないとは何事かれ者め!」


 喧々諤々けんけんがくがくとした言い合いが続く。これがふたりのいつもどおりの光景だった。


 このしゃべる四足歩行の奇怪な生き物、名を氷輪といい、その実妖異よういである。そういったこの世のものでないモノを見る霊視能力『見鬼けんきの才』を持つ者でないと、氷輪の姿や声は見聞きすることができない。


 なので、氷輪は周囲の目を気にする必要はないが、響は限りなく小声であった。


 かくいう響も、自身に周囲の目を暗ます隠形おんぎょうという術を己にかけてはいる。しかしこの術は、自身の気配を断って他人から自分の姿を認識させづらくするというもの。けっして透明人間になるというわけではないため、大声を出すなど注目されるような言動をとれば、すぐに破れてしまうものだった。


 幸い先ほど市街地を抜けたので、周りには民家がぽつぽつと並ぶだけとなった。田畑も入り混じり、長閑のどかな自然の風景が広がってくる。


 今のところ近くに人影はないが、油断はできない。民家は響たちが歩く道を挟んで建てられていたりするので、声量が大きいと室内でも普通に聞こえるレベルだ。


 もしこんなところを誰かに目撃されたら、独り言をぶつぶつ口走っている頭のおかしい人間だと、一般人から白い目で見られてしまうわけだ。


「大体、机などの家具は備え付けゆえ、運搬する必要がないのだろう。汝は己の所有品を持てば良いだけであろうに、この軟弱者め」

「距離があるじゃんか。これをひとりで抱えて三十分も歩かなきゃいけないの、ダルすぎ……」


 響は先のことを考えて、さらにうんざり顔を濃くした。


「しかも、このあと部屋片さなきゃだし……めんどくさいったらない」

「言うほどの荷もなかろうに。まったく、怠惰たいだ極まりないな」

「荷物が少なくても、仕舞ったりとかしなきゃいけないのが面倒だっつってんのー」


 氷輪は呆れ返って嘆息した。


「住居移動程度でこの為体ていたらく。これ以上のことが今後いかほど待っているやら」

「ちょ、馬鹿やめろ。せっかく現実逃避してたのに、思い出させんな」

「この期に及んで、まだそのようなことを言っておるのか。いい加減腹をくくれ、汝はこれから降魔科生ごうまかせいとしての日々を送るのだぞ」


 響の横を悠然と四足歩行しながら、氷輪は滔々とうとうと口弁を垂れる。


「学べることも多かろう。しかとその身に叩き込み、己の血肉とすることだ」

「なーんで上からなんかなー……」


 心底嫌そうな顔で響はぼやく。抱えていた荷物がずしりと重みを増したように思えた。


 荷物を抱え直し、歩を進めていくことしばし。


 民家を抜け、脇道に木々が立ち並ぶ人気のない舗装された坂道をえっちらおっちら登っていくと、やがて眼前に大きな建物が見えてきた。


 響がこの四月から通っている学校の校舎である。


 豪奢ごうしゃな門柱にはめ込まれた青銅のレリーフには、『私立嘉神かがみ学園高等学校』という文字が刻まれている。


 ここまでくれば大丈夫だ。響は一旦その場に立ち止まり、隠形の術を解く。


 響の一歩後ろには、常人には見えない膜があった。見鬼の才を持つ者であっても、気を集中させて目をよく凝らさなければ見えない障壁しょうへき


 結界だ。


 嘉神学園には敷地内をぐるりと囲む、巨大な結界が張られている。悪しきものを敷地内に入れないためのもので、基本的に妖異はこの結界内に立ち入ることはできない。


 そのため、嘉神学園は有事の際の緊急避難所として指定されていたりする。もしこの辺りで妖異絡みの災害が発生したら、一般人をここへ避難させるのだ。


 響が隠形を解いたのも、結界の範囲内に入ったからだ。この結界は非常に強力で、悪しきものの侵入を阻むだけでなく、中にいる者の気配を遮断する効果もあわせ持つ。


 少しだけ気が楽になった響が再び足を踏み出そうとしたとき、自分を呼ぶ声が耳に届いた。


「如月さん」


 首を巡らせると、校門から出てくる二人の女子生徒が目に入った。そのうちのひとり、上背うわぜいのある女子生徒が軽く手を上げる。


 響は特に足を速めることもなく、そのままのペースでそちらへ向かった。


「……どうもです」


 近寄って覇気はきのない声色で一言、軽く頭を下げる響に、もうひとりの小柄な女子が小首を傾げた。


「なんじゃ、随分と浮かない顔をしておるな。体調でも悪いのか?」


 そうですね。これからのことを考えると猛烈にお腹が痛くて。


 と出かけた言葉を、なんとか飲み込む。


「これだけの荷物を持って歩いてきたのだから疲れたでしょう。もう少しだから頑張って」


 それもそうだが、そうではなく。


 とは思うものの、わざわざ否定するのも面倒なので、響は無言で頷いておく。


「汝らもここまでご苦労だな」


 そこで響の足元から氷輪が居丈高に言葉を放った。上背のある女子生徒がそちらに視線を落とし、軽く頭を下げる。


「白澤様も、ご足労感謝いたします」

「うむ」


 その慇懃いんぎんな対応に、氷輪は満足そうに頷くと尻尾をひとつ振った。


 氷輪は、その正体を白澤はくたくという。


 白澤は多く妖異に分類されているが、人語を自在に操り森羅万象に通ずる知識を持つ非常に知性の高い存在で、かの有名な麒麟きりん鳳凰ほうおうに並ぶいわば神にも近しい霊獣である。


 それを承知している彼女たちは、敬意を払って氷輪に接している。そんな白澤を式神としている主たる響は、一切そのような振る舞いはしていないが。


 先に声をかけてきたほうは名を幸徳井こうとくい玲子れいこといい、嘉神学園の生徒会長を務めている生徒だった。


 端正な面立ちで、高めの身長も相まってスラッとした体型をしており、彼女が動くたびに艶のある長い黒髪がさらりと揺れる。凛とした雰囲気を醸し出しており、いかにも優等生といった風体だ。


 事実、彼女は学園きっての才媛さいえん。全校生徒の憧れの的であった。


 そして、嘉神学園を囲む結界を張った、名門『幸徳井家』当主、幸徳井定俊さだとしの息女でもある。


 もうひとり、老人のようなしゃべり方をするのは古河こがかえで。こちらも玲子同様、生徒会に所属している生徒だ。髪を後ろで高くひとつに結っているのが、小柄な身長ということもあってやや幼さを感じさせる。


 どちらも響のひとつ上の先輩で、嘉神学園の二年生である。


 二人とも響と同じく嘉神学園の制服姿だったが、その格好は少し……否、だいぶ変わっていた。


 響が今身に着けている制服が普遍的であるのに対し、玲子が着用している制服は軍服のようなデザインだった。襟部分がナポレオンカラーとなっており、腹部にいくつもの金色のボタンがあったり、肩にはエポーレットがついていたりと、各所に優美な装飾が施されている。


 スカートはインバーテッドプリーツで、ひだの内側に見えるのは品のある藍色。そして、手に黒いハーフグローブをはめている。その姿は気品に満ち溢れていた。


 楓のほうは見事なまでに全身真っ黒で、その様は忍者装束のそれに酷似している。上は襟が交差した着物のような形だが、下に普通のプリーツスカートを合わせていて、和洋折衷わようせっちゅうなデザインだ。


 スカートの裾からスパッツが覗き、さらにはハイソックスを履いている。手甲をはめ、首元にはスカーフが巻かれており、口元がわずかに隠れていた。なんというか、露出を徹底して抑えたような格好である。


 個人によってかなりの拘りが見えるこれらは、嘉神学園の許された生徒にのみ着用が許された特注の制服なのであった。


「それでは、行こうと思うのだけど……荷物、何か持ちましょうか?」


 歩き出しかけた玲子だったが、響の大荷物を改めて見て軽く片手を差し出しながら問いかけてくる。


 しかし、それに答えたのは響ではなかった。


「不要だ。あまりこやつを甘やかすでない」


 氷輪だ。響がジト目を己の式神に向ける。


「なんで氷輪が答えるんだよ」

「ただでさえ怠惰なのだ。これ以上堕落しようものならば、人の枠を外れた畜生以下と成り果てるであろう」

「言いすぎだろ人外」


 響がぎろりと睨むのも気にかけず、すました顔で氷輪がひょんと尻尾を振る。


「目的地までそう遠くもなかろう。最後までやり遂げよ」


 そんな大層なことでもないような気がするのだが。


 玲子が少し困ったように、本当にいいの? と目で訪ねてくる。響は伸ばされた手を一瞥いちべつした。


 氷輪の言い分には一ミリも納得していないが、かと言ってここではいと自分の手荷物を渡すのもそれはそれでなんだか気が引けるというかなんというか。


 なんとも言い表しがたい複雑な気持ちになってしまった響は、渋面でふるふると首を振り、荷物を抱え直した。


「……大丈夫、です」


 そう、とだけ言って玲子はそっと手を降ろし、今度こそ歩き出した。その横に楓が並び、あとから響と氷輪も続く。


 そうして、校舎を囲む柵に沿って歩くこと五分。


「ここじゃ」


 目的地に辿り着いて足を止めた響は、目線を上げてその大きな建物を見た。


 正面の二階建ての建物を中心として、その背後にくさびのような形でそびえる五階建てのマンションのような建物があった。


 まるで洋館のような造りの建物を、うわーでっけーと少しばかり感嘆して見ている響に、玲子が声をかけた。


「ようこそ、降魔科寮へ。如月さん、あなたを歓迎します」





 私立嘉神学園高等学校は、普通科ともうひとつ、『降魔科ごうまか』という一風変わった学科をあわせ持つ学校だ。


 国内有数、各地方に一校しかない降魔士育成機関のひとつ。それが嘉神学園だった。


 日本誕生からこの令和の現在にも、妖怪変化や魑魅魍魎の類、通称『妖異』が全国各地に出没し、人間を襲っている。


そんな人々に仇なす悪の存在である妖異を調伏ちょうぶく――退治し、人々の安寧を守る役目を担うのが降魔士という存在だった。


 降魔士は特殊な職業で、降魔術という呪術を操って妖異と戦うため、高い霊力と見鬼の才を持つ者しかなれない。嘉神学園降魔科は、そんな降魔士希望の学生を募り、教育し、降魔士として世に送り出している。


 響は降魔術を扱う術者でありながら、わけあって普通科に所属していたのだが、つい先日起きた事件に関わった結果、降魔科へと転科する運びとなったのだ。


 そして転科に伴い、寮も移動することになった。嘉神学園の寮は普通科と降魔科で分かれており、立地が違う。普通科寮は学園から徒歩三十分ほど離れた場所にあるのに対して、降魔科寮は学園にほぼ併設へいせつされている。これは有事の際に、降魔科生がすぐに動けるようにするためであった。


 まあ、生徒数の増加に伴い、学園から離れた場所に新たに増設された寮へ普通科生が追いやられた、という見方もできる。


 しかも、新たに増設されたといっても、それももう十数年も前の話。元からあった現在の降魔科寮が老朽化に伴い、数年前に全面改築されたので、今や降魔科寮のほうが新しいほどである。目の前に佇んでいる建物がそれを如実に物語っていた。


 それはともかく、響がえっちらおっちら自身の手荷物を運んでいた理由はこれだ。

今日は日曜日。週明けの明日からちょうど六月に入るため、響の転科をそこに合わせることになり、突貫とっかんで寮の移動を行っているのだった。


「入りましょう」


 玲子に先導され、向かった寮の入り口は自動ドアだった。普通科寮は古びた木製の扉だったというのにすごい差だ。


 先輩二人に続いて自動ドアをくぐり、寮内に足を踏み入れると広い玄関ホールが目の前に広がった。少し行った先に幅広い階段があり、そこから二階に繋がっているらしい。


 上った先の両サイドに木製の欄干がある。こちらを見下ろせる通路になっているようだった。


 華々しく綺麗な内装は、まるでちょっとお高目なホテルにでも来たかのような感覚にさせられる。改築して外観も内装も一新し、最先端の設備が整っているのだろう。少し肩身が狭い思いを抱いてしまう。


 玲子が右横にあったカウンターに近寄り、そこにいた中年の女性へ声をかけた。


「今日からこちらに入寮する生徒を連れてきました」


 玲子が目配せをしてくる。挨拶を促され、響は管理人と思しき女性に向かってぺこりと頭を下げた。


「如月響です。えー……よろしくお願いします」

「はいはい、聞いていますよ。私はここの管理責任者の淡海おうみです。よろしくね」


 管理責任者。つまり、寮母といったところだろうか。淡海と名乗った管理人は、カウンターの下から鍵を取り出し、トレーに載せたところでふいに動きを止めた。


 響をまじまじと見てから鍵に目をやり、次に玲子へ顔を向けた。


「えーと、女子生徒……で合ってますよね?」


 玲子は目を瞬かせ、ああと思い至るとしっかりと首肯しゅこうした。


「はい、間違いありません」

「そ、そうよね、ごめんなさい」


 謝られるも、響は特に気分を害するわけでもなく、いえ別にと淡泊に返す。


 響が着用している制服はスカートではなく、黒いスラックスだ。それに短い黒髪で特にアレンジやヘアアクセ等もしておらず、中性的な見た目だったために一瞬迷ってしまったのだろう。


 これに限らずよく男子に間違えられるのだが、響にはその辺の頓着とんちゃくが一切ないのでまったく気にしていなかった。


「改めて、はい、これが部屋の鍵ね」


 響は差し出された鍵を受け取った。


 鍵は寮から出る時に管理人に預け、帰ってきたら受け取るといったシステムだ。これは普通科寮にいたときも同様だったので、特に代わり映えしない。


「靴はこっちじゃ」


 響が鍵を受け取ったのを見て、楓が今度は左側に向かっていった。くり抜かれた空間になっていて、そこに靴用のロッカーがずらりと並んでいる。


 ロッカーの扉には各々数字が印字されている。部屋番号と連動しているようなので、響は自分の鍵についていたタグにある数字〈四〇八〉と同じ番号のロッカーに下足を入れ、持ってきたスリッパに履き替えた。


「では、行くかの」


 楓の合図で響たちは部屋へ向かう。カーペットが敷かれた階段を上ると、そこもまた広い空間となっていた。


 円形の壁のほとんどが窓ガラスで埋め尽くされており、壁際に沿って長いソファが設置されている。テーブルと椅子がセットになったものもいくつか置かれているところを見るに、どうやら談話ができる憩いのスペースとなっているようだった。


「ここから、男女で棟が分かれるわ。右が女子棟で、左が男子棟よ」


 言われて左右に交互に見やれば、大きな扉が対面にあった。木製で両開きの扉で、その上にはそれぞれ〈女子棟〉〈男子棟〉と刻まれたプレートが取り付けられている。


 右方に歩いていく玲子たちに続いて、響も歩いていく。その途中でふいに玲子が足を止めた。


 どうしたのかと不思議そうに見てくる響よりもさらに視線を下げ、玲子の目には氷輪が映る。


「……白澤様、ひとつお聞きしてもよろしいでしょうか」

「ふむ、許そう。申してみよ」

「その、白澤様の性別は……」


 突飛な質問に一度瞬きした氷輪は、ぴしりと尾を振った。


「ふん、我にそのようなものはない。この白澤は唯一無二の存在。繁殖などとは無縁ゆえ、性別など不要の長物よ」

「へぇ、氷輪って性別ないんだ」


 氷輪の返答に対する第一声は、意外なところから発せられた。玲子と楓が同時にえっと声を上げ、驚いた表情で響を見る。


「おぬし、もしや知らなんだのか!?」

「え? まぁはい、特に気にしたことなかったので」


 そんなに驚くことだろうかとでもいうように、響は小首を傾げつつしれっと言ってのける。


 無頓着と無関心もここまでくれば、少し心配になってくる。


 玲子が複雑な面持ちで響を見つめる横で、氷輪が剣呑けんのんな表情で主を振り仰いだ。


「おい、響よ。この小娘らならばいざ知らず、汝までもが把握しておらぬとはなんとしたことか」

「いやだって別にどうでもいいし」

「どうでもいいとは何事か!」


 氷輪がくわっと牙を剥くが、響はどこ吹く風で平然としている。疲れた氷輪はもうよいと嘆息し、玲子へ視線を向けた。


「なにか、我が雄ならばここから先は進めぬ、とでも言いたかったのか?」

「いえ、そういうわけでは……失礼いたしました」

「よい。人間どもには重要なことであろう。我は寛大ゆえ、そのような些事さじにいちいち腹など立てぬ」

「お心遣い痛み入ります」


 偉そうに胸を張る氷輪に、玲子が一礼する。


「…………」


 氷輪はいつも通りなので置いておくとして、玲子は至って真面目なのだろう。けれども、響にはそれらが茶番にしか見えなかった。正直、楓も同じ気持ちであった。二人ともおくびにも出さないが。


「して、我はこのまま進んでも問題なかろうな?」

「もちろんです」


 そうして、響たちは女子棟の扉の前まできた。


「ここで一旦止まって」


 玲子が扉の横に埋め込まれていた液晶パネルを操作しだした。楓が説明をしてくれる。


「入寮者はまずここで個人登録をするのじゃ。防犯も兼ねての」

「如月さん、少しそのままでいてもらえる?」


 言われた通りにじっとその場に立っていると、プレートの下にあったセンサーであろう黒い小さな長方形の箱から、赤く細い光線が数本放たれ、響の身体をくまなく巡った。それも数秒で終わり、赤い点滅が緑色に変わる。


「はい、これで登録完了よ」

「登録されていない者がここを通ろうとすれば警報がなるようになっておる」


 セキュリティがしっかりしている。さすが最先端の設備を持った降魔科寮。金のかけ方が違う。


 響の認証が通ったことによってこの場にいる全員の入棟が許可されたためか、扉がおもむろに開き始めた。


「では、行きましょう」

「あれ、氷輪はいいんですか?」


 問いかけに、玲子が苦笑した。


「これは対人間用のものだもの。妖異などの霊的なものに反応できるほど高性能ではないの」

「忘れたか。この寮は嘉神の敷地内。まずもって妖は立ち入れぬゆえ必要がないのだ」


 補足するように付け加えられた氷輪の言葉に、響はああと納得した。結界があるため、妖異が入ってくる心配がないのだ。つまり、結界自体が妖異用センサーの役割を果たしているのである。とはいえ、登録した人間を即座に判断できるだけでも、十分高性能だと思うのだが。


 全員が棟内に入り歩き出すと、背後で扉が閉まる音が聞こえた。開閉は完全にオートのようだった。


 響の部屋は四階にあるらしく、エレベーターを使って行くことになった。入ってすぐのところにあったエレベーターに一同乗り込む。


「――転科の件、急でごめんなさい」


 ドアが閉まると、玲子が唐突にそう切り出した。


「クラスメートたちもさぞ驚いたことじゃろう。寂しかろうな」


 楓が話を繋ぐと、響は首を振った。


「いやそれは別に。友達とかいないですし」


 なんの気なしの返答に、玲子と楓は思わず顔を見合わせた。そして、氷輪のほうを見やる。響の横でお座りしていた氷輪は、視線を感じ彼女らの意図を察するとうむと肯定した。


「こやつは誰とも関わろうとしなかっただけでなく、何くれと隠形しておったからな。ゆえに、そもそもクラスの者どもには、響の存在の認識すら薄かったであろう」


 尻尾でべしべしと足を叩いてくる氷輪を、鬱陶しそうに響が払いのける。


「だってめんどくさかったんだもん」

「汝のそのものぐさはどうにかならぬのか」

「って言われてもなー。てか、そーゆーの、あんま興味もないし」


 転科が決まったことは、一応担任を通して普通科のクラスメートたちにも伝えられた。


 多少なりとも驚きはしていたようだが、わざわざそれについて触れて話しかけてくるような生徒はいなかった。響が親しい友人を作るどころか、普通に会話をするということもほとんどしてこなかったせいでもある。


 加えて、響はまだ一年生。高校に入学してから二ヶ月も経っておらず、クラスメートとはいえ、関りがほとんどない人間にそこまでショックを受ける生徒などいないだろう。


 響がいなくなったところで、あのクラスは特に何も変わらないはずだ。今まで通り、彼ら彼女らの学園ライフを過ごしていくのだろう。


「…………」


 玲子はふと思い出した。一週間ほど前、響に用事があって昼休みに訪れたところ、彼女は教室ではなく校舎裏でひとり昼ご飯を食べていたのだ。昼はいつもひとりで過ごしているという旨もそのとき聞いた。


 なんとも寂しい話だったのだが、当の本人は全然気にしていなさそうなので、なんと声をかければよいものか判断がつきかねる。


 そのとき、エレベーターが止まり、ドアが開かれた。目的の階に到着したのだ。


「おぬしの部屋はここの突き当りじゃ」


 降りたところで、楓が気を取り直すかのようにしゃべりつつ先導し始めた。


「Aクラスは基本一番下の階なんじゃがな。あいにくと部屋が空いておらんくての。じゃから、おぬしはこの四階で、Cクラスの一年生との同室となる」


 楓の言葉に、同室かーと響は少し憂鬱になった。


 普通科寮にいたとき、響はひとりで部屋を使っていた。と言っても、個室というわけではなく二人が共同で使うように設計された相部屋だったのだが。


 ではなぜひとりで使っていたのかというと、普通科寮生が極端に少なかったからだ。


 嘉神学園は全寮制ではない。それに、嘉神学園は普通科も設置されているとはいえ、主としているのが降魔士育成機関としての部分。そんなところの普通科にわざわざ行くような、寮に入らないと通えないほど遠方から来る生徒が果たしてどのくらいいるだろうか。


 そういうわけで、普通科生の大部分は地元民であり、ゆえに自宅から通っている。数少ない普通科寮生は響だけでなく、みな相部屋を個室として使っていたのだった。


 それがここにきて相部屋になった。当然これまでと違って同室の生徒に気を遣わなければならず、窮屈な思いをすることになるのが響は少し嫌だった。


 しかし、そんなことをさすがに言えるわけもなく、響はただ黙って頷くに留める。


「同室の生徒にはもう話は通っているから、その子から色々と聞いてね」


 玲子がそう言ったときに、ちょうど階の突き当りにたどり着き、そばにあったドアの前で立ち止まった。


 ドアの目線の位置に『四〇八』のプレートがあり、そのすぐ下に紙製の名札がはめ込まれている。『如月響』ともうすでに自分の名前が書かれており、その右横に『小坂こさかまきな』とあった。


 コンコンと、玲子がドアをノックする。中から応えの声があり、かすかな足音がしたかと思うとドアが開かれる。


 現れた女子生徒は、焦茶色の髪をひとつお下げにして左肩に垂らしていた。身長は響より少し低いぐらいだろうか。鼻周りにうっすらとそばかすがあり、下がり気味の眉尻はどことなく気が弱そうな印象を与えた。


 そんな彼女へ玲子がすっと声をかける。


「寮母さんから聞いていると思いますが、今日から同室になる子を連れてきました」

「は、はい」


 女子生徒は響と顔を合わせると、はっと何かに気づいたように慌ててお辞儀をしてきた。


「こ、小坂まきなです」

「……如月響、です」


 名乗られたので、仕方なく響も名乗り返して軽く顎を引く。


「小坂さん、如月さんに降魔科寮のことを教えてあげていただけますか」

「は、はい! わかりました」


 こくこくと頷くまきなを見て、玲子は響へ視線を移した。


「それじゃ、如月さん。私たちは先に学校に戻っているわね」

「またあとでの」


 身体の向きを変えかけた楓が、そこでふと何かを思い出したかのように声を上げた。


「おっと、そうじゃ。あとでクローゼットの中を見てみるといいじゃろう」


 響はぱちくりと目を瞬かせて頷く。


 挨拶代わりなのか氷輪がぴしりと尻尾を振ると、それに目礼して二人の生徒会役員は今度こそ背を向けて去って行った。


「と、とりあえず、中に、どうぞっ」


 まきなが若干どもりながら促してくるので、響はドアをくぐった。


 入ってすぐの眼前に、鉄パイプ製の二段ベッドがあった。部屋の真ん中に置かれているため、部屋を区切る意図があるのだろう。ベッドの左右対称に同じ家具が置かれている。


「えーと、き、如月さん、の机は、こっち」


 まきながそう言って指さしたのは右側。机と棚とクローゼットの家具以外、装飾品などまったくなくがらんとしている。使用者がいないことが丸わかりなほうだった。


 ちらと反対側を軽く見やれば、棚には小物などが多分に置かれ、机にも教本や文具が乗っている。そしてフローリングの床に小さめの丸いピンクのカーペットが敷かれており、そちらのほうは生活感に溢れていた。


 氷輪が響の横をすり抜け、さっさと右側に行くのに響も続く。そして、まずクローゼットの前に荷物を降ろした。一気に肩が軽くなり、嘆息して伸びをする。


「ふむ、悪くはない部屋だな」


 肩や首を回している響をよそに、机の上にひょいと飛び乗った氷輪が、首を巡らせて部屋の中を眺めてそう評価する。たしかに内装はとてもきれいだった。改築されて数年しか経っていないのだから当然といえば当然かもしれない。


「そ、それから、ベッドは上、を使ってもらえる?」


 再びまきなが声をかけてくる。言われて視線を移し、確認する。足元のほうに布団が畳まれており、その上に枕が乗っていた。カバーはあとで持ちに行くことになっているとのこと。


 ふと下のベッドを一瞥すると、枕元に薄桃色のうさぎのぬいぐるみがちょこんと座っていた。


「ど、同室の子って、初めてだから、緊張、しちゃって……」


 まきなのもじもじした態度に対し、響ははぁと気のない相槌を打つ。そして響は目だけを氷輪に向けた。視線に気づいた氷輪が頷きを返す。


 氷輪について一切触れてこないあたり、この小坂まきなという女子生徒は氷輪が見えていない。


 降魔科に所属しているのだから、もちろん見鬼の才はあるのだろう。しかし、氷輪は高位の霊的存在であり、かつかなり霊力を抑えている。そのため、よほど強い見鬼の持ち主でないと、氷輪の存在を認識することはできない。


 主である響は当然として、降魔士や生徒会ほどの実力を持つ降魔科生でないと氷輪のような高位妖異を見ることは叶わないのだ。氷輪がその気になって霊力を多少強めれば見られるだろうが、その必要性が皆無なので特に自分の存在を誇示するようなことはしないはずだ。


 響も自身の式神をひけらかしたいなどという気持ちは微塵もないので、わざわざ教えてやるつもりもない。


 しかし、これで面倒なのが氷輪と堂々と会話できないことだ。


 普通科寮では実質ひとり部屋だったので、自分の部屋にいるときは人目をはばからずに氷輪と話すことができていた。だが、相部屋となりその同室の生徒が見えないとなると、氷輪と話すことも容易ではなくなる。


 さてどうしたものか、と響はしばし思案したが、いやまぁ話すというほどの実のある会話を普段からしているわけでもないからとりあえずいっか考えんのもめんどうだしなるようになる、とすぐさま思考を放棄した。


 本当ならもうこのままベッドにダイブして休みたかったのだが、ベッドが二階ならばそれも簡単にできない。


 相部屋、不便すぎる。


 響は漏れそうになる深い深いため息を、まさか知り合ったばかりのルームメイトのいる前でするわけにもいかないという常識ぐらいはさすがにあったので、なんとか抑え込むと仕方なしに校舎へ向かうことにした。


 響はこのあと、普通科の自身の机やロッカーに置いてあった教科書類等の荷物を、降魔科の教室に移動させることになっている。玲子たち生徒会がちょうど校舎に行くので、それに便乗させてもらうことになったのだ。


 部屋を出ようとドアに向かいかけたとき、正面にあったクローゼットを見て、響はふと足を止めた。


「そういえば……」


 先ほど楓に言われた言葉を思い出し、響はそのクローゼット開けてみた。当然何も釣り下がってはいなかったが、底のほうに透明のビニール袋で包装された新品の制服が一式置かれていた。


「これは……?」


 それを手に取って怪訝そうな響の声を聞き留め、まきなが教えてくれる。


「それは、た、降魔科の制服、だよ。生徒会の先輩たちが、用意してくれてた」

「ああ……」


 合点がいき、響はそれをめつすがめつ見やる。


 響が今着ているのは灰色のブレザーだ。それに対し、手に取ったブレザーは黒色だった。


 嘉神学園は普通科と降魔科で制服が異なる。普通科は灰色のブレザーに、深緑を基調としたズボンおよびスカート。降魔科は黒色のブレザーに、濃紺を基調としたズボンおよびスカートというのが基本仕様となっている。


 この降魔科の制服、一見なんの変哲もなさそうだが、対妖異用の防具の役割を担っている。つまり、普通科の制服と比べて耐久性が何倍もあるのだ。


 そういえば、降魔科に転科するという話になったときに、新しく降魔科専用の制服を用意すると言われ、サイズを聞かれたのだった。降魔科生はこれを着用して、実技演習を行うだとかなんだとかという話もされたような気がする。


 先の事件で凶悪な妖異牛鬼ぎゅうきと戦った際、響は今着ている普通科の制服姿だった。


 当然洗濯はしたのだが派手に転がったり牛鬼の攻撃を受けたりしたため、完全には汚れが落ちずところどころほつれもあり、入学して二ヶ月しか経っていない学生の制服とはとても思えないほど傷んでしまっていた。


 ブレザーに関しては牛鬼によって脇腹辺りが裂かれ、今もその状態のままである。中のワイシャツは替えが何着かあるのでいいが、ブレザーとなるとそうもいかない。


 いくら響が無頓着とはいっても、さすがにいつまでもこの状態のままでいるのもよくはないとは思っていた。


 もっとも、すぐ六月に入るし、そうしたら衣替えで夏服になるため、そこまで取り急ぎのことではなかったのだが。


 ちょうどいいし、これだけ着ていくか。


 響は着ていたブレザーを脱いで鞄の上に適当に放り投げると、包装を取り去って新しいブレザーを羽織った。


 防護服というぐらいだから多少なりとも重みがあるのかと思いきや、全然そんなことはなかった。


 新品の独特な匂いが少し鼻につくこと以外は、今まで着ていた普通科制服と特に変わった感じはしない。前もって言っておいたので、サイズ感も問題なし。


 着心地を確かめていた響の視界に、ふと銀色が入り込んだ。


 ブレザーの右肩付近。そこに、少し厚みのある金属製プレートが取り付けられていた。


 校章だ。


 普通科生の制服には、右胸元に校章のワッペンが縫いつけられていた。二つの科の制服で、色以外にもこんなところに明確な違いがあった。


 うーん、これ、わたしのにもついてて大丈夫か……?


 少し渋い顔をした響だったが、このあと聞いてみるかと考えて一旦保留にした。


 響はブレザーの上からぽんぽんと軽く身体を叩くと、よしと歩き出す。ドアの前に行って部屋を出ようとする響を、まきなが慌てたように呼び止めた。


「あ、き、如月さん? ど、どこ行くの?」

「え、学校だけど」

「そ、そう、なんだ……」


 まきなが面食らったように言葉を詰まらせる。


 響の簡素な返答は、はたから聞くとかなりぶっきらぼうだが本人としては他意など欠片もなく、聞かれたことに答えているだけなのである。簡潔すぎるのがいけない。


「汝よ、この娘は事情を知らぬのだ。それだけではわからぬだろう」


 氷輪が思わず至極真っ当な苦言をていするレベルである。


 えー別にいいじゃん……と響は返事をしかけて思いとどまり、代わりに顔をしかめた。


 氷輪の存在を知らないまきなは、それが自身に向けられたものだと思ってしまった。


「あ、ご、ごめんなさい……余計なこと、聞いて……」

「え、何が?」


 突然謝られて響が首を傾けると、まきなはさらに困惑する。会話が成り立っておらず、氷輪は目も当てられないとばかりに片前足を額にやって首を振った。


 響は不思議だったが己のマイペースさがまさり、よくわからないがまぁいいかと特に言及することなくドアを開けた。


「じゃあ」


 そう一言だけ言って部屋を出る響に氷輪も続く。少し振り返った氷輪はドアが閉まる間際、取り残されておろおろしているまきなを目にした。


 氷輪にしては珍しく不憫ふびんの情を米粒三つ程度には抱き、歩を進める響に並びつつその横顔をちらと仰ぎ見て思った。


 こんな調子で、響は新しいクラスで上手くやっていけるのだろうか。先が思いやられる、と。


 そして、氷輪のこの憂慮は見事的中することとなる。

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