陰陽師の弟子 ☆拾弐 【完】


 場がしんと静まり返る。


 玲子は固唾を呑み込んだ。今、この女性はなんと言った。土御門家現当主、そう言ったのか。


 一同が言葉を失う中、ゆらはといえば、あ、そんなあっさりばらしちゃうんだ、と複雑な気持ちだった。


 というか。


「先生、なんでここにいるんですか?」

「あなたの雄姿を見届けるため……かしら?」

「……疑問形で言われてもなぁ」


 知らないんだよなぁと響はぼやく。もとより師は神出鬼没だった。


 深晴の言葉に、呆然としていた玲子の眉がぴくりと動く。


「……それは、ずっと見ていたということですか」

「そうね、この子が牛鬼に金縛りを仕掛けた辺りから、だったかしら」

「ほぼ最初からじゃないですか……」


 てか、どこにいたんだよこの人。木にでも化けていたのか。


 響が内心つっこむのをよそに、玲子は視線を鋭くした。


「なら、どうして如月さんを助けてあげなかったのですか」


 ずっと見ていたのなら、響があんな大怪我を負う前に助けられたのではないか。一歩間違えれば手遅れの事態になっていたかもしれないというのに。


 しかし、女性は玲子の言葉の意味がわからないとでもいうように首を傾げた。


「なぜ? そんな簡単に助けたら、意味がないじゃない」


 そして、口元に指をあてがい、くすっと笑う。


「苦境に立った生徒を黙って見守ることも、先生の役目だもの」


 響は半眼になった。違う。なんだか良いことのように言っているが、師がそんな殊勝なことを考えているはずがない。なぶられている弟子を面白おかしく見ていただけだ、絶対。


「それに、いいところで颯爽と出てくるほうがおいしいじゃない?」


 冗談めかして言ったこっちのほうが、まだ本音らしいと思う響だ。


 つやめいた微笑を浮かべている深晴を、玲子はじっと睨む。


 額にじっとりと汗が滲み、粒となったものが頬を伝って滴り落ちた。牛鬼と対峙した時よりも、よほど緊張している。


 得体が知れないのだ、この土御門深晴という人物は。相対していると、魂を絡み取られそうな感覚に陥る。こうして神経を研ぎ澄ませていないと、すべてを掌握されてしまいそうだ。


 ごくりと固唾を呑み込み、玲子は確かめなければならないことを訊ねる。


「あなたは……土御門家の復興を、目論んでいるのですか」


 百年余り消息を絶っていた土御門家。それが今になって再び出てきた理由として考えられるものに、玲子にはひとつだけ心当たりがあった。


 土御門が衰退した大元の原因は、カデイ式降魔術の提唱だ。カデイ式を作り上げたのは幸徳井家。実質的に、幸徳井が土御門を蹴落としたも同然なのである。


 ならば、やはり土御門は幸徳井を――。


 すると、深晴は高らかに哄笑こうしょうした。それはもうおかしそうに。


「復興? そんなものに興味はないわ」


 笑い声が漏れる口元を手で押さえつつ、深晴はついと視線を滑らせて響を見やる。


「私はただ、この子が面白いから呪術を教えた。それだけよ」


 そう言われても、すぐには鵜呑みにできない。玲子は汗ばんだ拳をぐっと握り、慎重に言葉を重ねる。


「それが、土御門家の意志、ということですか」

「さぁ? 土御門の意志なんて知らないし、興味もない。ただ、私が現存する土御門の血筋で一番強いんだもの。なら、私の意志がすべて、なんじゃないかしら?」


 どこまでもおかしそうに笑って言うせいで、彼女の真意がまったく見えない。


 玲子の警戒するような色を見て取り、深晴はうっそりと目を細めた。


「ふふ、安心なさい。あなたに――幸徳井に対して、何かしようだなんて考えていないから」


 見透かされたように言われ、玲子の心臓がどくんと跳ねる。


「そんなものどうだっていいわ。私が興味あるのは、響ただひとりだけ」


 響がうげっと思い切り顔をしかめる。深晴は楽しげに笑うと、やおら歩き出した。


「さて、愛しの教え子とも触れ合えたことだし、私はそろそろおいとましようかしら」


 瞬間、風が吹いた。初めはそよ風程度だったものが、だんだん強くなっていく。


 絹糸のような髪とストールをはためかせた深晴が、ふいに視線を上にあげる。それはまるで上空にある何かを見ているようで、口元に微かに笑みを浮かべた。


「あなたたちも、早く学校に戻ったほうがいいのではなくて?」


 さーっと音を立てて葉が擦れ合う。その音が強さを増し、風がびゅうびゅうと吹き荒ぶ。突風に煽られているというのに、深晴は平然としている。


「日はとっくに落ちているわ。ぐずぐずしていると、闇が忍び寄ってきてしまうわよ。ねぇ? 響」


 深晴の細められた目が響に向く。響はびくっと肩を動かし、息を呑んだ。


 焦燥を滲ませた弟子の顔をさも愉快そうに見てから、深晴はその視線を玲子たち生徒会へ移した。


「またね、嘉神の降魔科生さんたち」


 ひと際強い風が巻き起こり、玲子たちはたまらず目を閉じた。


 少し風が弱まったのを感じ、一同が目を開けたときにはそこに人影はなかった。


 土御門家現当主は、どこからともなく現れ、どこへともなく消えていった。


「一体、何が起こったんだ……」


 要一たちが動揺している中、玲子はひとり、それまで深晴がいた場所を固い面持ちで見ていた。


 あれが、土御門の現当主。


 自分たちの身動きの一切を封じ、響が負ったあれほどの怪我を造作もなくたちどころに治してみせ、そして瞬く間に消え去った。


 間違いなく、間違えようもなく、土御門深晴は相当な腕の術者だ。そこらの降魔士とは比べものにならない。それこそ、当代最強と謳われる父と肩を並べられるほどの。


 いや、もしかすると、あるいは――。


 そこではっとし、玲子は慌ててその思考を打ち消した。いや、そんなはずはない。父こそが一番だ。


 玲子は気を紛らわせる気持ちも多少抱きつつ、響に近寄っていった。


「如月さん、大丈夫?」

「まぁ、なんとか」


 立ち上がろうとした響に、玲子が手を差し出した。


「…………」


 響はしばらく無言でその手を見たあと、そろっと腕を伸ばした。玲子はその手をぎゅっと握り、優しく慎重に引く。


 起き上がった響の顔を覗きながら、玲子が心配そうに声をかける。


「平気?」

「はい……どうも、です」


 響はぱっと手を離すと少し後退り、もごもごと口を動かして礼を言う。そんな響の様子を少し不思議に思った玲子だったが、そこでふと気づいた。


 響の脇にあった血溜まりが消えている。


 どうして、という疑問も一瞬、すぐに思い当たった。


 深晴か。


 妖異は輝血かがちの血を一滴でも取り込めば、それだけで甚大な力を得られるという。血をあのままにしておけば、匂いに誘われた妖異が寄ってきていたことだろう。


 それを見越して、処理したというのか。いつの間にそんなことをしたのか周囲に悟らせないほど、迅速かつひっそりと。


 そうすると、深晴の去り際に起こしたあの風。あれが血の匂いを吹き飛ばすためのものだとも考えられないだろうか。だとしたら――。


 玲子の瞼が震える。深晴の先見の明と手際の良さには、感服とともに一抹の恐れを抱かざるを得ない。


「……あの人が、如月さんの師なのね」


 玲子がぽつりとこぼすと、土埃をぱたぱたと払っていた響は不機嫌そうな顔をし、吐き捨てるように言った。


「まぁそうですね、遺憾ですけど。見ての通りの人格破綻者なんで」


 わりと重症な怪我人に対してあんなことをするような人だ。というより、もう人であるかどうかも怪しい。鬼だ。いやさ、悪魔だ。


 なんなら本能と欲望しか向けてこない妖異のほうがまだやりやすいと思えるほど。どんな妖異よりも化け物じみている。


 全身から黒いオーラを放ってぶつぶつ怨嗟を吐いている響を見て、周囲は少し引いていた。


「はぁ……んなことより、早く帰らなきゃ……」


 深晴が言った通り、早急にこの場を離脱しないとまずいことになる。


 時刻は十八時を過ぎ、日はとうに沈んでいるのだ。辺りもだいぶ薄暗くなっている。


 これから訪れようとしている時間は魔物の領分。


 妖異が、この身を狙ってやってくる。


 頭痛がする。身体も鉛のように重く、疲労が限界に近い。隠形の術でさえも、今の状態で使えるかは正直怪しかった。


 だが、やらなければ。そうでないと、自分の身を守れない。


 隠形をしようとした響だったが、直前であっと思い出し、玲子へ顔を向けた。


「会長さん、牛鬼倒しましたよ。これでわたしは自由で――」


 ふいに、膝の力が抜けた。


「……れ?」


 何が起きたのかわからないまま、身体が傾いでいく。


 限界に近い、ではなく、響の限界はとっくに超えていたのだ。


「き、如月さん!」


 自分を呼ぶ慌てたような声をどこか遠くで聞きながら、響の意識は沈んでいった。


   ▼    ▼


「書類はこれで全部か?」

「ええ」

「やれやれ、これであらかた片付きそうじゃな」


 生徒会室にて、生徒会メンバーが言葉を交わしながら忙しなく動いていた。


 大量の妖異が嘉神学園を襲撃した日から、三日が経過していた。


 玲子たちが学校へ戻ったころには、降魔士たちによって妖異はあらかた殲滅させられていた。おかげで場に滞っていた瘴気が消え去り、異様な暗さも払拭されていた。そのあと、避難していた普通科生たちを帰宅させて、ようやく長い一日が終わったのだ。


 そして生徒会はここ連日、後始末のために慌ただしく動き回っていた。報告書等の書類の作成や普通科生への説明など山のようにできたタスクをこなす日々が続いている。


 ただ、なぜあれほどの妖異が嘉神学園に集い、襲撃してきたのかはまだ解明されていない。学園の周囲、といっても結構離れているがその辺りの民家などに被害が出なかったのが不幸中の幸いだった。


 それも不可解な話ではあったが、今回の事件は降魔士のもと現在目下調査中である。


「あの輝血の子、えーと、如月響ちゃんだっけ。その子の調子はどーなの?」


 満瑠の問いかけに、玲子が書類を整えながら答えた。


「怪我自体すでに完治していたから命に別状はなし。あとは体力の回復と、血液の量が基準に戻るのを待つだけ」


 冷静さを装ってはいるが、その声音には隠し切れない安堵の色が滲んでいる。たぶん、本人は気づいていないだろう。


 それはよかった、と楓もほっとし、そうして話を切り替えた。


「して、玲子よ。結局、あの娘はどうするつもりじゃ」

「ちょうど、その件の話をしようと思っていたところよ」


 そこで玲子が生徒会メンバーにその旨を伝えた。全員が着席し、態勢が整ったのを認め、玲子が話を切り出す。


「では、如月響さんの処遇についてなのだけど、まず私の提案を聞いてもらってもいいかしら」


 異論はなく、玲子は自分の考えを語って聞かせた。


「――と、私は考えているのだけど、みんなはどう?」


 メンバーをぐるりと見渡す。玲子の考えに反対する者は、誰ひとりとしていなかった。


「では、これを決定事項とします。嘉神学園生徒会は如月響さんを――」



   ▼    ▼



 響は生徒会室で椅子に座っていた。室内の視線を一身に浴びているため、居心地の悪いことこの上ない。そんな響とは対照的に、彼女の目前の机上に腰を落とした氷輪ひのわが悠然と尻尾をくゆらせていた。


 なんだかデジャヴを覚える。つい最近似たようなことがあったような。


 思わず遠い目をしてしまう響である。


 牛鬼を調伏した日から丸三日間、響はずっと眠り込んでいた。過去最高レベルで降魔術を行使し、体力を限界まで使い果たしたせいなのはもちろんだが、血を流しすぎた結果貧血になってしまったというのもある。


 怪我は治っても、流した血までは元に戻らない。そのせいで、響は寝たきりになっていたのだ。


 目を覚ましたとき、知らない場所で横になっていたことに気づいたときは驚いた。そこは病院で、玲子の采配であてがってくれたのだと、あとになって聞かされた。昏倒し、搬送された響に輸血をしてくれたという。


 そうして、一週間が経ってようやく学校へ復帰した矢先に生徒会から呼び出され、今に至るというわけだった。


 室内には響の他に生徒会メンバーが六人勢揃いしている。うち二人は初めて見る顔だった。


「体調のほうはどうかしら」

「まぁ、それなりに。めっちゃ寝ましたし」


 玲子の質問に肩をすくめて答えたあと、今度は響が少々困惑気味に訊ねた。


「えーっと……で、わたしはなんで呼び出されたんです?」

「あなたにお礼を言いたくて」


 そう言って、やおら玲子が居住まいを正す。


「今回の件、如月さんの協力のおかげで学園が救われました。本当に感謝しています。ありがとうございました」

「え、いや、それは、別に……」


 丁寧に礼を述べられたことに面食らい、響は思わずへどもどとしてしまう。


「それと、今回の如月さんの活躍を加味し、あなたの今後の処遇について正式な決定が出たので、それをお伝えします」


 そうだ、肝心なことを忘れていた。自分がなんのために身体を張って頑張ったのかといえば、すべてはこのためだ。


「取り引きのこと、覚えてるんですよね?」

「――ええ、もちろん」


 玲子が確かに頷くのを見て、響はよっしと小さくガッツポーズした。


 牛鬼が出現した際に交わした取り引き。自分を監視から解放してくれることを条件に、牛鬼を相手取ることを買って出たのだ。


 やっとだ。これでやっと自由の身に――。 


 そうして気を抜いた響に、玲子はこう告げた。


「如月響さん、あなたには降魔科に転科し、Aクラスに入っていただきます」

「…………………………………………は?」


 たっぷり数秒の間を置き、響はようやくそれだけ発した。傍で聞いていた氷輪の口端が微かに上がる。


 ぽかんと口を開けて呆気にとられていた響だったが、やや置いて言葉の意味を理解すると、ダンッ! と机に手をつき椅子を弾き飛ばす勢いで立ち上がった。


「まっ、待ってくださいよ! 転科? 転科だって? なんでっ、どうしてっ、そうなるんですか!?」


 声を荒げ、猛抗議する。


「約束が違う! わたしは自由にしてくれって言ったのにっ!」


 わめく響とは対照的に、落ち着き払っている玲子は瞑目して慎重に言葉を紡ぎだす。


「私も、色々と考えたの」


 響の願いを叶えるためには、どうすればいいのかを。


 彼女の意見を尊重することを約束してしまった玲子。それを違えるつもりはない。ただし、響が輝血であるという事実も踏まえると、やはり野放しにしておくことだけはどうしてもできなかった。


 そこで思いついたのだ。だったら、響を降魔科に入れればいいのではないか、と。


そうすれば、なにもかも丸く収まるのだ。降魔科生であるならば、外での妖異との遭遇時における術の行使は違反ではなくなり、監視もつける必要なく日々を過ごせる。


「これが、現状最善の策なの」


 玲子がひとつひとつ丁寧に語ってみせたが、響の表情に納得の色はない。


「でも、わたしは降魔士になりたいわけじゃ……」

「ならなくてもいい」

「……え?」


 予想外の言葉に目を丸くする響へ、玲子は落ち着いた様子で説明する。


「降魔の教養を履修しながらも、降魔士にならなかった者はいるわ」


 降魔士だけでなくすべてにおいて言えることだが、やはり才能の差というものはどうしても生まれてしまう。


 いくら努力してもそれが実らず挫折してしまう者、妖異と遭遇した際に恐怖が勝って怖気づく者、妖異調伏が想像よりずっとハードであるという現実に打ちのめされて意志を消失する者。


 様々な要因で降魔士になることをやめる人間は少なくないのが現実だ。


 良くも悪くも、やってみなければわからないのだ。自分がそれに向いているのか、いないのか。


「とりあえず、あなたは籍を置いておけばいいだけなの」


 そうすれば、少なくとも嘉神学園降魔科に在籍している間は、限りなく今まで通りに近い生活が送れる。


「でなければ、あなたは違反行為をした人間として、捕まってしまうのよ」


 それに、これに気づかなかった学園側の信用に綻びが生じてしまう。幸徳井家の者として、何より嘉神学園現生徒会長として、そんな事態だけは避けたかった。


「いい? 如月さん、あなたを今一番自由にする方法はこれしかないの。これを拒むのであれば、残念だけれど私たちはあなたを降魔士に引き渡さなければならなくなるわ。そして、輝血であることも伝えなければならない。それは嫌でしょう?」


 響は色を失くした。こんなもの、ほとんど脅しではないか。自分が従わなければすべてをばらし、自由を剥奪すると言っているようなものだ。


 返す言葉がなくなり、響は思わず助けを求めるように氷輪を見た。主の視線に気づいた式神は尻尾をひと振りすると、平然とこう言った。


「小娘の言葉に従うほかないではないか」


 氷輪には最初からわかっていた。術者であると露見した以上、響はもうこれまで通りの日常は送れないのだということを。


「提示された条件に、何か不都合でもあるのか?」

「そ、れは……」

「まぁ、汝が捕らえられることを望むのであれば、我は汝のもとを離れるだけだがな」


 あまりにも薄情な発言に、響は恨みがましい顔で式神を睨む。


「氷輪、この間は『我が汝を守ろう』なーんてかっこつけたこと言ってたくせに」

「履き違えるな。我は汝の邪魔をする者を蹴散らすと言ったのだ。むしろ、こやつらは汝に手を差し伸べておるではないか。我の出る幕はなかろう」


 至極正論である。


 うぐっと黙り込んだ響へ、楓が言葉を挟んだ。


「玲子はかなりの無理を通したのじゃぞ。交渉の末、おぬしを降魔科に転科させることで違反を不問に処す、というところまでなんとか漕ぎつけた。玲子の腐心を無駄にせんでやってくれ」


 懇願とも取れる風情で楓が畳みかけるが、それでも響にはまだ受け入れられない。


「そ……」

『――なかなか面白い話をしているわね』


 響が口を開きかけたとき、どこからともなく声がした。すると、突然響のスラックスのポケットから白い蝶が飛び出す。それはパタパタと飛んで響の肩の上に止まった。


 式鬼だ。それもアゲハチョウを模した式鬼。響にはすぐにこれがなんなのかがわかった。これは――。


「……先生」


 響が嫌そうに呟く。


 そう、このアゲハは土御門深晴の式鬼だった。一体いつの間にこんなものを仕込んだんだ……。


 思わず眉間を摘まむ響に、式鬼から師の声がかかる。


『響。元気になったようで安心したわ』


 ははは、こっちはあなたの声を聴いたせいでまた具合が悪くなりそうです。


 と出そうになった言葉を響は必死に飲み込む。状況が嫌すぎるあまり、もう完治しているはずの脇腹が痛んだような錯覚を生み、思わずそちらに手を当ててしまった。


「なんの御用でしょう」


 玲子が警戒の色を滲ませながら訊ねると、式鬼から落ち着いた声音が発せられる。


『話は聞かせてもらったわ。勝手にごめんなさいね?』


 謝罪の言葉を口にしながらも、誠意があまり感じられない。


 玲子は毅然とした態度を崩さぬまま、漸う口を開く。


「反対、でしょうか」

『いいえ?』

「え、止めに来てくれたんじゃないんですか」


 響は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。


「先生はいいんですか、わたしが降魔科に入っても」

『あら、どうして? 面白そうじゃない』

「おもっ……土御門のこととか、色々あるんじゃないですか」

『あるわねぇ。でももう私も身元知られちゃってるもの』

「そりゃ自分で名乗ってましたからね……」


 つっこむのにも疲れ、響は頭をがしがしと掻く。


「てか、隠す気ないんだったらわたしにかかってる呪い、解いてくださいよ」

『そんなものないわよ』

「は?」


 衝撃の発言に、響はぴたりと身体を止めた。


「え、だって、土御門の関わることとかを誰かに話せば呪詛が発動するって……」

『嘘よ?』


 あっけらかんと言われ、響は絶句した。


『最初からそんなものはかけてないわ』

「じゃ、じゃあ、なんで……」


 響がふるふると肩を震わせる。深晴はこともなげに言ってのけた。


『だって、こう言えばあなたは信じるでしょう?』


 わかっていたことだが、それはもう身に染みているぐらいなのだが、いくらなんでも性格が悪すぎる。


「じゃあもう秘密にしてなくていいってことですか」

『ええ、いいわよ。なにも術がかかってないと知って、それでもあなたが話せるというのなら』

「いや、そんなの簡単でしょ。…………っ」


 話せ、ない。


 響は愕然とする。すりこまれた恐怖が、言葉を発することを拒んでいる。


 深晴は響に平気で嘘をつく。今の呪詛の件だってそうだ。だが、これが嘘でないとどうして断言できるのか。もし、呪いをかけていないというのが嘘で、話した途端に実は本当にかかっていた呪詛が発動する、という可能性はなきにしもあらずではないだろうか。


 わからない。本当のことが、何も。


 怖い。無理だ。言えない。


 疑心暗鬼に囚われ、黙り込んでしまった響の耳元に声が届く。


『響、〝言葉を弄する〟というのはこういうことよ。言霊を操る者ならば、このぐらいできないと、ね?』


 完膚なきまでに打ちのめされ、響は見事に撃沈した。


 たとえ物理的な術が発動しなくても、これは確かに呪詛だった。


 室内に愉快そうな笑い声が響く。


『それでは、Aクラスのみなさん。私の最愛の教え子のこと、よろしく頼むわね』


 その言葉を最後に、蝶の式鬼がたちまち符へと成り代わり、ひらりと響の目前に舞い落ちる。


 場をかき回すだけかき回して、というか、ほぼ響をいじるだけいじり倒して帰っていった。なんともまあ自由すぎる。


 諸々のショックで机に突っ伏している響を不憫な目で見る一同だ。さしもの氷輪も憐憫の情を抱き、尻尾で響の肩を軽く叩いている。


 当人の魂が半分抜けたような状態で、このまま話を進めるのは気が引けたが、いつまでも黙っていては何も始まらない。


 若干後ろめたさを抱きながらも、玲子は咳払いをして場を取りなした。


「では、如月さん、この決定に従っていただけますね?」


 響はもう反論する気力もなく、ただこくりと頷いた。もう勝手にしてくれ。


 玲子はほっと安堵の息を吐く。


「転科の手続きはもう進めてあります。来週から降魔科で過ごしてもらうので、準備をお願いします」


 話に折り合いがついたところで、場の空気が一気に弛緩する。いまだ消沈している響へ、楓がそっと声をかけた。


「おぬしの師は、なんと言うか一癖も二癖もあるよう、じゃな」

「そんな生ぬるいもんじゃない……人でなしで大嘘つきなんですよ、あの人は……!」


 ゆっくりと身を起こした響はただの紙切れと化した符を引っ掴み、ぐしゃりと握り潰す。


「ほんっとにいつもいつも人の嫌がることばっかしくさって……!」


 肩をふるふると震わせながら、黒いオーラを放ち始めた響に、別のところから声がかかった。


「おーい、アタシらにも挨拶させろー」


 そちらへ目を向けると、二人の生徒が響の視界に入った。今日が初対面の生徒会役員だ。


 ひとりは女子生徒で、かなり明るい色をした髪をアップにし、ワインレッドフレームの眼鏡をかけている。ブレザーは袖口が少し広く、大きな赤いネクタイを締め、今時珍しいルーズソックスを履いている。全体的に派手めな特注制服姿であった。


 そして、もうひとりは男子生徒。ブロンズヘアで、目鼻立ちが純日本人のそれとは少し違う気がする。ハーフだろうか。ところどころ金の装飾が施された白のブレザーを来ており、その上から右肩にだけ赤いマントをかけている。貴公子然とした煌びやかな姿で、こちらも派手な出で立ちである。


「アタシは吾妻あがつま愛生あき。気楽にラブって呼んでくれ。んで、こっちはピースだ」


 女子生徒が名乗ったあと、横合いへくいっと立てた親指を向ける。その先にいた男子が眉をひそめた。


「ちょっと、ラブ。紹介が雑すぎじゃあないかい?」


 男子は咳払いをすると、前に進み出た。


「ボクの名前は平良たいら・F・和希かずき。以後、お見知りおきを、レディ」


 片手を胸に当てて恭しく一礼して見せた。その動作がどこかキザったらしい。それはそうと名前からして、やはり純日本人ではないようだった。


「は、はぁ……」


 二人の勢いに気圧される響は例のごとく知らなかったが、この二人は校内でラブ&ピースと呼ばれる降魔科きってのゴールデンコンビとして名を馳せていた。どちらも二年生である。


「ほぼひとりであの牛鬼を倒したって聞いたぞ。古式使いなんだって? しかもあの土御門の門下生ってすごいじゃんか! てか、あんたのお師匠さん色々とやばいな?」


 愛生の怒涛の勢い圧倒され、思わず響は一歩引く。そこへ楓が助け舟を出してくれた。


「ラブ、少し落ち着け。下級生が困惑しとるじゃろうが」

「やー悪い悪い。でも気になっちまってさぁ。まさかこんな一年がいるなんて思わないだろ?」

「気持ちはわからんでもないがの。確かにこやつの実力は本物。玲子と渡り合っただけのことはある」

「あー、模擬戦のやつか。会長が膝ついたとかいうの。アタシもそれ見たかったわ~」


 女子たちがわいわいし始めた。その隙に要一が和希にこっそり近寄り、囁きに近い声量で話しかけた。


「……おい、平良。お前はあいつが女子だとすぐわかったのか?」

「うん? おかしなことを聞くね、ヨーイチ。どこからどう見てもレディじゃないか」

「そ、そういうものか……」


 当たり前のように返され、思わず言葉に窮する要一である。


 そこにいつの間にか近くに寄っていた満瑠が、彼の肩に腕を回した。


「要ちゃんだけだよ~? 気づいてなかったの」

「ぐっ……」


 そしてそんな男子たちのやり取りを、耳の良い楓がしっかりと聞いていた。


「要一、いい機会じゃ。この間の件、今のうちに謝っておけ」

「え」

「これからともにやっていくのじゃ。わだかまりは早々に払拭しておいた方がよいじゃろう?」


 要一は狼狽し、ちらと上座を見やった。玲子がただ静かに、こちらへ目を向けている。


 逃げ場がなくなり、要一は一歩前に出て響に向き直った。


「そ、その……この間は乱暴なことをして、悪かったな」

「はぁ、まぁ別に」

「俺はお前を、男だと勘違いしていたんだ。すまない」

「男?」


 なぜ勘違いされたのだろうか。はてと首を傾げた響は視線を下げて、己の格好を見てみた。


「あー髪が短いからですか? 昔は長かったんですけど、邪魔になったから切って以来ずっとこれですね。あとは……スラックス? これは動きやすいのと、スカートがあまり好きじゃなくて」


 響はただ自分の見た目に無頓着なだけだった。


 一連の流れを見ていた玲子は安堵していた。これなら早いうちに馴染めるかもしれない。


 気がかりも消えて少し騒がしい中、玲子は席を立った。


「では、私は諸々の報告をしてきます」


 そう告げ、生徒会室を後にする。


 職員室へ向かいながら、玲子はほっと息を吐いた。とりあえず、肩の荷が下りて気持ちもいくらか軽くはなった。


 玲子は今回の決定に際し、学園襲撃の件についてと響にまつわる一連のできごとを、父にだけはすべてをつまびらかに話した。


 そして、響への対応について掛け合ったのだ。響を降魔科へ転科させ、無許可で降魔術を使っていたことを不問にしてほしいと。


 玲子の父定俊は、学園にそれなりの力を加えることができる。嘉神学園の結界を施しているのが他でもない、幸徳井家現当主たる定俊であるからだ。よって、嘉神学園への父の存在の影響はかなり大きい。そんな貴賓の言うことに、学園側は下手に逆らうことはできないのだ。


 無理を押し通した自覚はある。本来であれば、響は資格を持たずして術を行使していたため、罰せられなければならないのである。それが秩序なのだから。


 それでも父は、熟考に熟考を重ねた上で、最終的にそれを許可してくれた。


 ――こちらでできるだけのことはしよう。しかしそれ以上は、お前がすべて責任を負いなさい


 もちろんそのつもりだと、玲子は身を引き締めた。父の力だけをあてにするつもりは毛頭なかったのだから。


 加えて、響の動向をきちんと把握しておくようにときつく言い渡された。それを了承し、話が決まったのだ。


 今回こういった運びとなったのも、すべて父のおかげであった。


 父の寛大さに敬服する一方で、自分の非力さを思い知らされもした。父に頼らないと、自分の力ではこういった異例の処置ができない。それが悔しく情けない気持ちでいっぱいになったため、玲子はさらに精進しようと決意を新たにしたのだった。


 自身の進めたいほうへ動いたことにほっとする反面、権力に物を言わすという強行手段を取ってしまったことに、尋常ではない罪悪感があることもまた事実だった。普段なら、玲子は絶対にこういうやり方を認めない。


 しかし、今回ばかりはことがことだけに仕方がなかった。自身の力が足りなかったばかりに、こうせざるを得なかったのだ。


 しかも、これによって生徒会メンバーにも負担を背負わせてしまった。もうあとに引くことはできないので、腹をくくってまかり通すほかない。これを後悔しないためにも、やはり自分が頑張らなくてはならないのだ。


 幾多の困難を乗り越えてこそ、自身の成長に繋がる。要修行だ。


 向上心の鬼である玲子は冷静沈着に見えて、その内心は存外情熱的であった。まさに彼女が操るあおい火そのものを体現しているかのよう。


 けれども、玲子にはひとつだけ引っかかっていることがあった。


 ――……あの女狐、一体なにを考えている


 父の自室から退出する間際に聞こえてきた言葉。


 玲子が土御門家について話したとき、父は非常に固い面持ちで聞いていた。現在の土御門家には特に復讐などするつもりはないそうだと伝えたあとも、険しい表情を崩さなかった。


 あのときの言葉がどうにも気がかりだ。父は現在の土御門家について、何か知っているのだろうか――。


「会長さん」


 ふいに呼ばれ、思考の淵から引き戻される。玲子は振り返ると、そこには響の姿があった。


「如月さん? どうかしたの?」

「あ、その……あのときは、ありがとうございました」

「あのとき?」


 思い当たらず首を傾ける玲子に、響は頭を掻きながら言う。


「……牛鬼に、やられそうになったときの、こと」


 ああ、とようやくなんのことか合点がいった。玲子はふるふると首を振る。


「いいえ。結局、牛鬼を倒したのは如月さんだもの。あとは任せて、なんて言っておいて、情けない限りだわ」

「そんなこと……」


 玲子が来なければ、響はあのまま食われていた。玲子があそこまで弱らせてくれていたからこそ、満身創痍の身でも牛鬼を調伏することができたのだ。たぶん。よく覚えていないが。


 あのときは、頭に血が上って考える前に勢いだけですべてを押し通してしまったような気がするため、正直記憶がおぼろげだった。


 けれども、牛鬼を倒した前後の記憶がほとんどない中で、師が現れたところだけはなぜか鮮明に覚えている。なんなら一番忘れていたい記憶のはずなのに一体どうして。


 苦虫を百匹ほど噛み潰したような表情で唸る響を不思議に思いながらも、玲子は言葉を続けた。


「私も、お礼がまだだったわね」

「え?」

「あなたが学園に駆けつけてくれたときのことよ。ありがとう、如月さん。本当に助かったわ」


 当時はつい叱責の言葉を口走ってしまったが、響が来てくれなければ、妖異の攻撃を受けて玲子も無傷では済まなかったはずだ。今更ではあるが、言うべきことはきちんと言わなければならないだろう。


「あー、いや、あれは別に……」


 思わぬ返しに、響はややたじろいだ。さっきもそうだったが、礼など言われ慣れていないので反応に困ってしまう。なんだかむず痒い。これはいったいなんなのだろう。


 そんなどこか落ち着かない風情の響を、玲子はじっと見つめる。


 それにしても、本当に彼女の力は凄まじかった。あんな瀕死の状態で、あれほどの術を使うことなど普通できるはずがない。これが、輝血に備わった本来の力なのだろうか。


 一瞬そう思いかけて、玲子はいやと首を振った。


 ――わたしが、みんな、守ってやる!


 そう言ってのけたあのときの勢い。あれはきっと、輝血だとかは関係ない。


 言うなれば、彼女の〝意地〟なのだろう。


 輝血である響は並みいる降魔士志願者たちよりも、想像もつかないほどの過酷な経験をしてきているはずだ。そんな幾度とない窮地を潜り抜けてきた彼女にも、負けられない、否、負けたくないという並々ならぬ意地があり、それが彼女を突き動かしたのだと玲子は推測する。


 本人はその気のない素振りだが、案外満更でもないのでは、と玲子は思っている。とはいえ、すべては本人次第だが。


 そこで、玲子はふと思い出した。白澤が姿を現すのは、王者出現の前兆とも言われているということを。


 その白澤が人の式神となり、行動をともにしている。


 ということは、もしかしたらこの子は――。


「会長さん?」


 はたと我に返ると、響が小首を傾げていた。なんでもないと首を振り、玲子は考えを頭の片隅に追いやる。


「改めて、これからよろしくね、如月さん」


 その言葉になんとも形容しがたい複雑な顔をしつつも、響は小さく頷く。


 玲子はふっと微笑むと、踵を返した。


 その背を見送り、響はがしがしと頭を掻く。


 まったく、本当に面倒なことになってしまった。よりにもよって、降魔科への転科。まさかこんな結果に落ち着いてしまうとは。


 その場にしゃがみ込んでううっと頭を抱えていると、背後から声が投げかけられた。


「そのようなところで何をしておるのだ」


 振り向くまでもない。氷輪だ。いつの間にか近くに来ていたらしい。


「見てわかんない? この頭の痛い状況に打ちひしがれてんの」

「よかったではないか。いきなりAクラス入りであるのだぞ? むしろ喜んでしかるべきだろう」


 悠長な式神の言い分に響が食ってかかる。


「なーんもよくない! 変に目立つし、あと絶対めんどくさいじゃん!」

「そうか? それよりどうだ、これを機に降魔士を志してみるのは。――汝が、みなを守るのであろう?」


 響はぱちくりと目を瞬かせると、思い切り怪訝そうに首を傾けた。


「はぁ? なにそれ」

「汝が申したのではないか。〝わたしがみんな守ってやる〟、とな」

「……守る? みんなを? わたしが?」


 ぽかんと口を開けていた響は、やがて大仰にため息を吐いた。


「あのさぁ、いくらなんでも、わたしがそんなこと言うわけないじゃん……。つくならもっとマシな嘘ついてくんない?」


そう言って、響は心底嫌そうに顔を歪めている。どうやら本当に記憶にないらしい。


 覚えていないか。まぁ、それでもいいだろう。


 微かに口元を緩めた氷輪を見て、響が半眼になる。


「……氷輪、なんか楽しんでるでしょ」

「おかしな言いがかりはよせ。決まったものは仕方がないではないか。せいぜい精進することだ、はしくれ降魔士よ」

「やっぱ楽しんでんじゃんか! 降魔士なんかになるつもりないってば! ……あーもうほんとにめんどくさ――――――いっ!」


 かくして、普通科生から降魔科生へとなり変わることとなった少女の吠えるような叫び声が、嘉神学園の廊下に響き渡るのだった。






 月光が明るい。星が点在する夜空にぽっかりと浮いた、ひと際目立つ月が丸みを帯びている。数日後には満月となるだろう。


 氷輪は橋の欄干の上に座り、ゆらゆらと揺蕩たゆたう川の水面を見ていた。


 川面に合わせてゆらりと左右に揺れていた尻尾が、ふいに止まる。


 次の瞬間、すべての雑音が消えた。虫の鳴く音が、川のせせらぎ音が、一瞬にして聞こえなくなった。不自然な静寂が場を満たす。


「――いい月夜ね」


 よく通る澄んだ声がし、氷輪の三メートルほど先でその人間は立ち止まった。


 それに一切動じることなく、氷輪はその人物をいささか剣呑に一瞥する。


「人払いの意味は」

「あら、通行人に見られでもしたら、私が独り言をぶつぶつ呟いている怪しい人間だと思われてしまうでしょう?」


 くすくすと笑って、土御門深晴は欄干に背を預けた。鼻を鳴らして、氷輪は再び川面を眺める。


 沈黙がふたりの間を漂う。


「星が、動いたわ」


 ふいに深晴が口火を切った。その言葉の意味を正確に読み取った氷輪は、ぴしりと尻尾を一振りする。


「こうなるということは、わかっていたのであろう」

「さぁ、どうかしら」


 うそぶくような深晴に、氷輪はすっと流し目を送る。


「何を企んでおる」


 本当に土御門に関することを隠蔽いんぺいしたいのならば、響を降魔科のある高校へなど行かせはしなかっただろう。リスクが高すぎる。


 それに、深晴は自ら玲子たちの前に現れて正体を明かし、あまつさえ響の降魔科への転科を容認した。


 では、彼女は一体何がしたいのか。


 訝しげな視線を受け、深晴は軽く肩をすくめた。


「私は何もしていないわ。すべて、あの子の力が動かしている」


 だから、この先どうなるのかは私にも読めないの。


 そう言った深晴の横顔を氷輪はじっと見ていたが、ふっと視線を正面へ戻す。普段真意が読み取れないことばかりをのたまう深晴だが、その言葉からは嘘偽りを感じさせなかった。


 星が動いた、と深晴は言った。


 それすなわち、響の星のめぐりが変わったということだ。


 人には生まれたときからすでに定められた運命があり、それを星が示している――と考えるのが陰陽道だ。星を読んで人や事象の吉凶を占うのが、陰陽師の役割のひとつであったことからもわかるだろう。


 人の運命は生まれながらにしてすでに決められており、その通りに人生を歩んでいく。それが変わることなど、まずありえない。


 しかし、その星が動いたのだという。


「…………」


 氷輪には、心当たりがあった。


 ――わたしが、みんな、守ってやる!


 牛鬼との戦いの際、満身創痍の瀕死状態でありながら、響が放った言葉。氷輪が濡女たちを退けて響のもとに戻ったときに、上空でこの言葉を聞いたのだ。


 ぴたりと動きを止めた氷輪の背筋がぞくぞくと震えた。それから、響が牛鬼を倒し、深晴との一連のやり取りを終え、力を使い果たした響が倒れるまで、氷輪はずっと遠巻きにそれらを見ていたのだった。


 満身創痍で必死だったせいで本人は覚えていなかったようだが、逆にそんな状況でさすがの響でも、まったく思ってもいないことを吐き出したりはしないだろう。


 響の中で、確実に何かが変化している。本人も気づいていない、何か。


それが響の星を動かした。


 これから、もっと面白いものが見られる。氷輪には、その確信があった。


これだ。これこそが自分の望んでいたことだ。


 表には決して出さないが、氷輪の中で久しく感じていなかった血湧き肉躍るような高揚感が、確かに沸き起こっていた。


「わたしがみんな守ってやる――ね」


 氷輪の思考を見透かしたように、深晴も同じことを呟いた。


「まさか、あの子がそんなことを言うなんて」


 愉快そうに目を細めて、深晴は意味ありげに氷輪を見た。


「私よりも、あなたのほうがよほど知っているのではなくて?」

「何がだ」

「響が降魔士になるよう、仕向けているでしょう」

「…………」


 氷輪は答えない。それを気にすることなく、深晴は話を続ける。


「約束、覚えているかしら」


 約束。


 その言葉を聞いた途端、白澤の脳裏に鮮明に蘇ってくる記憶があった。


 ――ねぇ、白澤。私とひとつ契約しましょうか


 あれは、去年の秋口。あの日もこんな夜更けだった。


 今晩ほど明るくはないが、雲の少ない夜天にふくよかな三日月が浮かんでいたのだ。


 そしてその月は、冴え冴えと氷のような冷たい輝きを放っていた。


ひょうりん』と呼ばれる、自身に与えられた名と同じ字を冠する月だった。


 ――面白いものを見せてあげる。だからその代わり……


「あの子を助けてあげてね」


 あの日と同じセリフを聞き、氷輪はそちらを横目で見やる。


「なんだかんだ、弟子を案じておるのだな」

「当然でしょう? 私は別に、あの子に酷い目に合ってほしいと思っているわけじゃないもの」


 私以外には、ね。


 ぞっとするようなことを妖しく続けた深晴はくすりと笑い、夜空を見上げた。


「私はね、あの子がかわいくてかわいくて仕方がないの」

「人間の愛情表現など知ったことではないが、汝のそれが歪んでいるということだけは我にもわかる」

「心外ね、こんなにも愛情をたっぷりと注いでいるというのに」

「当人にはまったく通じておらぬようだが」

「あら、それは悲しいかぎりだわ」


 氷輪はふんと鼻を鳴らした。何千何万という年月を生きている大妖の白澤でさえ、土御門深晴という人間は底が見えず食えない存在であった。


「……仕方がない」


 氷輪はぴしりと尾を振った。


「今しばらくは、汝に唆されておいてやろう」

「ふふ、素直じゃないわね」

「汝にだけは言われたくない台詞だ」


 ぴしゃりと撥ねのけられ、深晴は薄く笑うともたれていた欄干から背を離し、身を翻した。


 背を向けて歩き出した彼女の姿が、少ししてふっとかき消える。その瞬間、一気に喧騒が戻ってきた。深晴が張っていた人払いの結界が解けたのだ。


 氷輪は視線を湖面へ移した。月の光が反射して、水が波打つたびにキラキラと輝いている。


 氷輪が思うに、土御門深晴は当代最高峰の術者だ。表向きは幸徳井の現当主が斯界トップに君臨しているが、実力は間違いなく深晴のほうが上だと氷輪は確信している。いけ好かないが、その腕だけはしっかりと認めていた。


 百五十年前まで陰陽師宗家のひとつと謳われていた土御門家。新しい呪術形態を受け入れず、降魔士という役職で活躍することなく廃れていった家門の技術だけは、いまだ脈々と受け継がれ続けている。


 その末裔まつえいたる深晴は、降魔士ではない。古式降魔術――陰陽術を操る、現代に生きる陰陽師ということになるだろう。


 そんな最高峰術者から技術を注がれた輝血の少女、如月響。その身に負う〝障り〟ゆえにカデイ式降魔術が使えない彼女はさしずめ――。


「陰陽師の弟子、といったところか」


 極度の面倒くさがりで何事にも関心は薄いが、彼女もまた輝血による膨大な霊力を遺憾なく発揮し、古式降魔術を操り妖異と真っ向から渡り合っている。


 ――響が降魔士になるよう、仕向けているでしょう


 先ほどの深晴の言葉が脳裏をよぎる。


 たしかに、それがなかったとは言い切れない。響を妖異調伏に誘い、降魔科生のトップクラスと共闘させた。そこに、響の実力を周囲に知らしめたいという気持ちは十分にあった。


 そして、状況は氷輪の期待以上の動きを見せた。


 氷輪はやはり見たいのだ。響の可能性が繰り広げるであろうその行く末を。


 視線を上げ、夜空を見つめた。明るい光を放つ月の少し離れたところで、数多の星がちかちかと瞬きを繰り返している。


 彼女の定められていたはずの命運が変わった。その先で、一体何が待ち受けているのか。


 氷輪は欄干からひょいと飛び降りた。もう一度だけ月を仰ぎ見てから、くるりと踵を返す。


 森羅万象に通じる知識を持つ神獣は、月影を背に夜闇に紛れていった。





 さぁさぁ、遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ。


 これより語られるは、とあるものぐさな降魔士……になるかもしれない、うら若き術者によって綴られる奇譚。


 宿命に抗い続ける少女の物語が、今幕を開けた。


変動を見せた星の廻りは、果たして吉と出るか凶と出るか。


 さて、少女の運命やいかに――。

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