陰陽師の弟子 ☆拾壱


「あーあ、これで完全にバレちゃったなぁ」

『あちらもすでに感づいておったろうな。見え透いた建前を用いて帰路をともに、などとのたまうほどだ』

「あー、やっぱあれ、そういう感じだったかー」


 ゆらは背後を見やる。少し離れて、牛鬼がものすごい形相で追いかけてきている姿が目に入った。


 玲子との通話を終えたあと、響は牛鬼に近づいてから隠形おんぎょうを一瞬解き、術で右腕の怪我からわずかに流れた血の香りを乗せた風を放った。


 ただ牛鬼の目の前で隠形を解くだけでもよかったが、それだと他の妖異まで寄ってきてしまう。なんとか牛鬼だけの気を引くため、この方法を取ったのだ。


 思惑通り、血の混じった風がぶつかった瞬間に牛鬼の目の色が明らかに変わり、響を凝視したかと思うと、咆哮を上げながら響めがけて突進してきた。


 輝血の匂いに目がくらみ、追ってくる牛鬼と一定の距離を保ちながら、響たちは逃走しているのだった。


 学園からはだいぶ離れたので、隠形はもう解いている。術をかけ続けたままだと、牛鬼が自分を見失う可能性があった。それでは意味がないのだ。


 自身よりも何倍も大きい妖異に追いかけられているにも関わらず、悠然と上空を翔けている氷輪ひのわがちらりと背の響を見やる。


『して、どういう風の吹き回しだ。汝が自ら、囮を買って出るなど』

「別に、自分のためだよ」


 響は常日頃から己に隠形の術をかけている。輝血の霊力を遮断し、妖異に察知されないようにするために。


 ただ、術を長時間使い続けることはかなりの負担となる。術を使うと霊力だけでなく、集中力や体力までもが削られていくのだ。


 そこで結界だ。


 結界は内にいる者の気配を消してくれる。つまり結界の中にいれば、妖異から察知される心配がなく、隠形せずとも安全に過ごせる。


 だから、響はあえて降魔科のある嘉神に入学したのだ。校内にいる間中はこの結界が守ってくれる。寮にいる時は、自室にこっそりと施した魔除けの術のおかげで隠形する必要がない。


 これはもう完璧なのでは――そう考えてのことが、結果としてこんなことになってしまったのだが。


 玲子との勝負に負けて以降、降魔術の使用を禁止されて隠形できないせいで、ここ最近は輝血に魅かれた妖異としょっちゅう遭遇するはめになってしまった。しかも、遭遇したら式鬼が作った結界の中で、生徒会の誰かが来るまで待機していなければならないのだ。自衛するすべはあるというのに、馬鹿馬鹿しいことこのうえない。


 土日を挟んだ日には、もし外出して妖異に遭遇したら生徒会の人たちが休日にも関わらず駆けつけるんだろうなぁ、でもそれはなんだか悪いような気がするなぁ、などと珍しく気を遣って寮の自室に籠っていたぐらいだ。


 けれど、そんなことはずっと続けていられない。この一週間だけでもかなり窮屈だったのだ。最初は楽かもと思ったりもしたが、やはり面倒くささのほうがはるかに勝っていた。


 だから、こんなことをするのはこれっきりだ。以前のように、なんの縛りもなく生活していくために今回だけ仕方なく頑張る。それだけの話だ。


『そうか、自分のため、か』


 氷輪の含みのあるような言い方に、響はジト目を向ける。


「……なに、なんか言いたいことでもあんの」


『さて、なんのことやら』


 明らかにすっとぼけた物言いが引っかかる。しかし、追及すると藪をつつきそうだったので、響は現状へ意識を戻すことにした。


 牛鬼がどういう目的で嘉神学園に攻め入ったのかは知らないが、もう響を――輝血かがちを食らうことしか考えられなくなっているはずだ。


 よだれをまき散らしながら、血眼になって響を一点凝視したまま、全力で追いかけてくる様を見れば一目瞭然だった。


「まぁ、食われてやる気なんて、さらさらないけど」


 嘉神学園の裏には山がある。そこでなら気兼ねなくやり合えるだろうと思い、山を目指して牛鬼を引きつける。


「ん……?」


 牛鬼の様子を窺っていた響は、巨体の後方を複数の妖異が追走していることに気がついた。


「なんか、変なのも一緒についてきてる」


 よく見ると、人間の女性の頭に蛇の身体をしているものと、腰から上が女体でその下が蛇の身体の二種が混在しているようだった。


 響の言葉を聞いて、背後を確認した氷輪がああと瞬きした。


濡女ぬれおんな磯女いそおんなだな。彼奴らが化けて人間をおびき出し、それを牛鬼が食い殺すのだ。牛鬼自体が人間の女に化けることもある』

「あー、だからさっきまであんな姿だったのか」


 正体がわかったのはいいが、あの腰巾着たちの存在は邪魔だった。すでにだいぶ術を行使していたため、響の身体に疲労が蓄積されている。あれを相手にして牛鬼も、となるとさすがに体力が持ちそうにない。


 しかもあの牛鬼は以前戦ったものより強い。どのぐらいで倒せるかがわからないのだ。無駄に消耗することは避けたかった。


「氷輪、あいつらの相手してくんない?」

『汝は』

「牛鬼をやる」


 主の珍しく積極的な意志に、氷輪はにやりと口端を上げた。


『ほう、いつになくやる気ではないか』

「だからそんなんじゃないってば」


 不機嫌そうな表情で氷輪の背をべしべしと叩き、響は前方のとある場所を指さした。


「あの辺に降ろして」


 指示通り氷輪が高度を下げ、地上に響を降ろした。


『ぬかるなよ』

「そっちこそ、ちゃんと足止めしといてよ」


 そう言って響は走り出した。


 それを見届けた氷輪は再び飛翔し、一度上空へ行く。しばらくして牛鬼が通過するのを待ち、その後ろにくっついてくる濡女と磯女の群れめがけて急降下する。


 そうして、妖異たちの目前に降り立った。


『低俗な妖どもよ。これより先、通ることはまかりならん。――消え失せよ!』


 立ち止まった集団へ吠えると、氷輪は霊力を爆発させた。





 走りつつ、時折後ろを振り返っては術を放つ。


「オン・キリキリ・バザラ・ウン・ハッタ!」


 霊力の刃が牛鬼の巨躯に当たり、表皮が裂ける。術は確かに当たっているが、たいしたダメージには至らない。


 牛鬼の速度は変わらず、響の足より遥かに速い。このまま走っていても、すぐに追いつかれてしまう。


 気持ちばかりに林立する木々を遮蔽物として利用してはいるものの、牛鬼はそれを意に介さずばたばたと薙ぎ倒しながら一直線に迫ってくる。牛鬼の通った跡は、幅広の道と化しているに違いない。


 そんなだから、身を隠したとて輝血の気配で居場所は容易く割り出されてしまうため、それは悪手以外のなにでもない。逆にこちらが逃げ場を失ってしまって一巻の終わりだ。


 しかし、それはわかっていたことだったので、響は特に動じることなくこれからの算段を立てる。


 まず相手の動きを封じる。動けなくなったところに、強力な降魔の術をかけ調伏。これだ。


 古式降魔術は、正しい所作と呪文の詠唱がないと発動できないものが多い。威力が高い術ほどそれが顕著だ。


 ゆえに、まずは相手の動きを封じて動けなくしてから調伏の術を叩きこんで祓う、というのが最も確実性の高い基本戦術となっている。


 響は足を止め、牛鬼に向き直った。迫りくる巨体へ刀印を向ける。


「ノウマク・サマンダ・バザラダン・カン!」


 続けざまに詠唱する。


「ノウマク・サマンダ・バザラダン・センダマカロシャダ・ソワタヤ・ウン・タラタ・カン・マン!」


 最初のものは一字咒いちじしゅと呼ばれる不動明王の真言だ。そして次に唱えたものが、同じ不動明王の慈救咒じくじゅ


 真言は、重ねるほどにその力を増す。これらは相手の動きを封じる術であった。


 牛鬼の動きが鈍くなる。


 よし、効いている。


 先日戦った牛鬼よりも大きく妖力も上だが、術は普通に通用することがわかった。これならば特に問題なく倒せるだろう。


 振り上げた爪が、響に伸びてくる。


 緩慢な動作となったそれを、響は躱せるはずだった。そして、もうひとつの真言を唱えて、牛鬼の動きを完全に封じられるはずだったのだ。


 牛鬼が、毒を吐いてさえこなければ。


「…………!」


 響は咄嗟に横へ飛び退った。一瞬前までいたところに、毒が着弾する。


 毒はぎりぎりで躱せた。しかし、それに息吐く間もなく、避けて移動した場所に伸びてきていた牛鬼の爪が、響の脇腹を貫いた。


「がっ……!」


 勢いで吹き飛んだ響の身体が、背後にあった木の幹に叩きつけられる。


「……っ……」


 背中を強か打ちつけ、呼吸ができない。


 喘ぐように息を漏らす。しばらくしてようやく酸素が肺に入り、ごほごほとむせた――その瞬間、腹部に凄まじい激痛が走り、響は危うく意識を失いかけた。


 片手で口元を覆い、こぼれそうになった悲鳴を飲み込んで苦痛を懸命に耐える。痛い。いや、痛いを通り越してもはや熱い。呼吸をするたびに、焼けるような熱さが腹部を襲う。


 そろそろと手を伸ばす。右の脇腹、ぬるりとした生温いものが触れ、それがべっとりと手のひらに付着した。


 見るまでもない。血だ。


 幸いと言うべきか、牛鬼の爪は脇腹をかすめた程度のものだった。かすめたとはいってもあの巨大な爪に裂かれたのだ。かすり傷と言うには深すぎるし、傷口もけっして小さくはない。今もどくどくと血が体外に流れ、衣服を湿らせているのがわかる。


 あまりの苦痛に意識が朦朧とする。身体がまったく動かせない。


 そんな響を見て、牛鬼の顔がにたりと凶悪にわらう。響の行動を予測して、あんな戦法に出たのだろう。


 はめられた。この妖異、一見知能の欠片もなさそうな外見をしているのに、なかなかどうして頭が回るようだ。


 輝血の濃厚な血の匂いに酩酊している様子の牛鬼は、唾液をだらしなく垂らしながら、ただでさえ巨大な口をこれでもかと大きく開けて響を丸飲みせんと迫る。術が効いているせいで動きは緩慢だが、今の響にはそれでも早いと感じる。


 身体が言うことを聞かない。意識も朦朧もうろうとしている。今この瞬間、どうあがいてもこの状況を打破する術はもう間に合わない。


 ――ここまでなのか。やはり、自分の人生は妖異に食われて終わってしまう運命なのか。



 物心ついた頃から、普通の人には見えないものが見えた。そして、妖異と呼ばれるそれらから、響は常に狙われ続けていた。


 自分が輝血であることを知ったのは、小学校に上がって少ししてからだったか。降魔士から妖異を退ける強力な護りの術具を常に身に着けていなければならないほど、響には特別で特異な力をその身に宿しているのだと、両親から教えられた。


 しかも、響は並の見鬼を凌駕する才を持っていた。


 自分には見えているものが、他人には見えない。一般人にも可視の妖異にはみな怯えるが、見鬼にしか見えない妖異はその存在を信じることが難しい。


 不可視の妖異の存在を示唆しても、他人はそれが信じられず、気味悪がり疎んでくる。


 そして、いつしか誰も寄ってこなくなった。響が妖異を呼びよせてしまうから。みんなが怖がるのだ。


 だから響もまた、他人と関わることをやめた。周りにも、何に対しても期待することなく、関心を寄せなくなった。


 両親だけはそんな自分を愛し守り、味方であろうとしてくれた。しかし、時折悲しそうな顔をしていたこともまた、響は知っていたのだ。


 いつの日か、妖異に襲われて窮地に追いつめられたとき、響は一度生を諦めかけたことがある。


 もういいやって。ここで自分が死ねば、もう両親に苦労させずに済む。誰に迷惑をかけることもなくなる、と。


 あの人に出会ったのは、そのときだった。


 ――ねぇ、いいことを教えてあげましょうか


 あの人の放った言葉が、響の心の奥底にずっと居座っている。


 ――自分の身を守れるのは、自分だけなのよ



 それから、あの人のもとで修業し、隠形の術で気配を隠すことを覚え、ようやく妖異から狙われにくくなった。たとえ妖異と遭遇したとしても、戦えるほどの力も身につけた。


 だというのに、それもここで終わってしまうのか。


 自分の身を守れるのは自分だけ? じゃあ、自分でも自分の身が守れなかったら? 他に、誰が自分を守ってくれるというのか――。


「――――式鬼、起動!」


 牛鬼の口に覆われようとした寸前、声が響いたかと思うと響の懐から一羽の真っ白い小鳥が飛び出した。


 小鳥型の式鬼が響の目前で結界を展開し、直後に激突した牛鬼の顔面を弾き飛ばす。


「如月さん!」


 名を呼ぶ声が、何が起きたのか理解が追いついていない響の耳朶を打つ。そちらへ目だけを向けると、白い虎に乗って駆けてくる玲子の姿を視界の端で捉えた。


「……で……」


 なんで、ここに。結界は。学校は。


 疑問がぐるぐると脳内を駆け回る。そんな響をよそに、状況は勝手に動いていく。


「炎弾!」


 玲子の放った術が、牛鬼の胴体に叩き込まれた。勢いに押されてやや後退した牛鬼の目がギョロリと動き、玲子の姿を捉える。


 玲子は牛鬼と一定の距離を置いて虎から降りた。そして虎に何事か囁きかけると、虎は踵を返して元来た道を戻っていく。


 響はそれをぼんやりとした目で見ていた。


 会長さんが狙われる。自分なんかを助けに来たから。


「……に、げ……」


 思ったように声が出ず、言葉がかすれる。


 蚊の鳴くような声で聞こえたわけはないだろうが、響の表情が物語っていたのか玲子は首を振った。


「私は幸徳井家現当主の娘で、降魔士を志しているのよ。人に仇なす妖異から、人々を守り助けるために」


 玲子は牛鬼に据えていた目をちらと響へ向け、彼女の周りに展開されている結界を見た。


 響によって式鬼は一度解呪されていたが、召喚核自体には注いでいた霊力の残滓ざんしがまだあるはずだと踏んで始動語を放った。そして、予想通り式鬼は起動してくれたのだ。


 よかった、返してもらってなくて。よかった、彼女がちゃんと持っていてくれて。


 玲子は再び視線を邪悪な妖異へと据えた。


「如月さん、あなたが輝血であることは承知しています」


 ふっと息を詰める。表情を強張らせる響へ、玲子が背を向けたまま言葉を続けた。


「けれど、そんなことは関係ない。輝血だろうとなんだろうと、妖異に襲われている人間を放っておくことは絶対にできない」


 だから、私はあなたを守る。


 きっぱりと放たれた力強いその言葉に、響ははっと息を呑み瞠目する。


「結界は無事修復できたわ。あなたのおかげでね。だから――あとは任せて」


 玲子がそう言うと同時に、牛鬼が咆哮を上げた。血走った目で玲子を睨みつける。極上の餌を前に邪魔が入ったせいでかなり苛立っている様子だった。


「牛鬼。これ以上好き勝手なことはさせない。お前を調伏する!」


 鋭く言い放つと、玲子は牛鬼に向かって右腕を掲げた。校章が淡い光りを帯びる。


藍火らんか――炎々羽えんえんば


 すると、玲子の周りに数多の藍い炎が出現する。炎は鳥の羽のような形をしており、その羽の先が牛鬼に向く。


 玲子が翳した手首をくいっと下げると、おびただしい数の羽が一斉に放たれ巨躯に突き立った。刺さった羽はその場で燃え、表皮の至る所に藍い火の手が上がる。


 炎羽が突き刺さった傷口から出火したことにより、表皮よりも内側に近い部分の肉を焼かれているため、尋常ではない痛苦が牛鬼を襲う。妖異は堪らず絶叫した。


 猛り狂った牛鬼が、藍い炎に身を焼かれたまま二本の前足を同時に玲子へと振るう。


 しかし、それに動じることなく、玲子は即座に応戦の態勢を取った。


「藍火――業火流ごうかりゅう!」


 両手を突き出した玲子の目前に、陣のようなものが出現し、そこから凄まじい勢いの炎が噴出された。


 まるで火炎放射器のように放出された藍炎を浴び、その炎に包まれた足が二本とも焼け落ちた。牛鬼は慌てて後退る。


「すご……」


 目の前で繰り広げられる戦闘に、響は思わず見入った。凄まじい術の練度だ。模擬戦のときとは比べ物にならない。これが、制限のない嘉神学園降魔科主席の真の実力か。


 これなら牛鬼を倒すのも時間の問題だろう――そう思われた矢先。


 ふいに、牛鬼の顔がぐるりと響に向いた。このままでは勝ち目がないと思ったらしい牛鬼が、再び響に狙いを定めたのだ。


 牛鬼が毒を吐きかける。すると、響を囲っていた結界がジュウッと音を立てて溶け出した。溶けた結界の隙間に牛鬼の足が伸び、小鳥を貫く。


 核を破壊された式鬼と共に結界も消失し、牛鬼の爛々とした眼光が動けない響を射抜いた。


「……っ、藍火爆散!」


 響を狙う牛鬼の気をなんとか引こうと、玲子の放った術が妖異の眼前に炸裂する。牛鬼がたたらを踏んだ。


 そんな光景を、響はどこか遠くのもののように見ていた。


 ぼうっとした頭のまま視線を彷徨わせた先で、ふと玲子に焦点が合う。瞳に力強い闘志を燃やし凛とした佇まいではあるものの、肌には汗を浮かばせ、疲労が色濃く滲んだ表情をしていた。


 あれほどの大規模な結界を結び直し、どうやったかは知らないがあの百鬼の群れを突破してきた上に、ここに来てから術を繰り出し続けているのだ。いくら降魔科トップの術者であってもその疲労は尋常ではないだろう。術の勢いも、最初よりは衰えているような気もする。


 しかし、それでも玲子は自分を助けようとしてくれている。どこまでもまっすぐで、己の信念を曲げない。正義を貫く気高いひとつ上の先輩。


 ――だから、私はあなたを守る。


 あんなことを言われたのは初めてだったし、こうして誰かが自分を守ってくれようとしてくれたことが今までほとんどなかった。


 その気持ちは嬉しい、ような気がする。


 ―――――が、それよりも。


 それは、響の心に違和感という名の波紋を起こした。


 自分の身は自分で守れるように、あの人のもとで辛い修業時代を過ごし、いくつものトラウマを植えつけられてきた。正直妖異に襲われるよりも恐ろしい目に合ってきた気さえする。


 面倒ごとと頑張ることが、なにより嫌いなのに。


 そうまでして、身を守るすべを手に入れたのに。


 今更他人に守られるのは、今までの自分がしてきたことが全部無駄になってしまうようで。


 それが、どうにも嫌だと思ったのだ。


 だらりと下がった響の手に力がこもる。


「そ……うだ……」


 そういえば。


 誰かに守ってもらいたい、なんて本心から思ったことは、ただの一度もなかったのだった。


「…………んな」


 響の意識が徐々にはっきりしていく。


「ふざ、けんな……」


 なんのために自分がここまでしたと思っているのだ。ガラにもないことをして、こんなに痛くて苦しい思いをしたのに、何の成果も得られずにやられるのは正直納得がいかない。いくわけがない。


 妖異への怒りがふつふつと沸き上がってくる。


 そもそもこいつのせいで、降魔術の使用を禁止されたり監視をつけられたりなんだりして、自分のこれまでの生活が狂ってしまったのだ。そうなった元凶は目の前の牛鬼ではなくこの間の牛鬼だが、そんなことは知ったことではない。同じ種族なのだから同罪だ。


 頭がカーッと熱くなっていく。響はギッと牛鬼を睨みつけた。


 よくも散々な目に会わせてくれたな。お前たちの好きにばかりさせて、たまるか!


 牛鬼には、響が先ほどかけた術がまだ効力を保っている。やつの意識が逸れている今が絶好の機会だ。


 溢れ出る怒りが着火剤となり、刀印を組んだ響は一息に真言を紡いだ。


「ノウマク・サラバタタギャテイビャク・サラバボッケイビャク・サラバタタラタ・センダマカロシャダ・ケンギャキギャキ・サラバビギナン・ウンタラタ・カンマン!」


 裂帛の気合とともに刀印を叩き落す。すると、電流が走ったかのように全身をびくりと震わせ、牛鬼が硬直した。


 めの一字咒、次の慈救咒、そしてつい火界咒かかいしゅ


 完全となった術が、牛鬼のすべての動きを封じ込める。


 牛鬼がどうにかして動こうともがくが、意に反して身体はびくともしない。不動の金縛り術が、巨躯をがんじがらめに封じているのだ。


 襲い来る激痛を、歯を食いしばって堪える。身体中に脂汗を滲ませ、ぜいぜいと息を荒げながらも、響の瞳は強い闘志をみなぎらせていた。


 守られることなんて、望んでない。


「…………ったら……」


 守られるぐらいだったら。


「――わたしが、みんな、守ってやる!」


 木にもたれて座り込んだ体勢ながらも大上段に言い放ち、響は牛鬼をひたと見据えた。


「この超絶気持ちの悪いブサイクグロ妖異め……とっとと消え失せろ!」


 呼吸を整えて集中力を極限まで高め、痛みやその他諸々を一瞬忘却の彼方へと追いやる。


 そして、両手を軽く上げ、パンッとひとつ柏手を打った。


 瞬間、清く澄んだ波動が周囲に放たれる。響の全身から凄絶な霊力が迸った。


「あまねき諸神しょしん諸仏しょふつ帰依きえし奉る。この悪しきまがものを退けたまい祓いたまえと申すことを聞こしめせと、かしこみかしこみ申す!」


 詠唱し、響は合わせていた手を離すと、右手の人差し指を下に向けた。


 仏が悪魔を祓った際に行った印相――降魔ごうまの印。


 指先を地面につけ、全霊を振り絞ってあらん限りの力で叫んだ。


悪鬼あっき降伏ごうぶく―――――――――――――!」


 響の言霊に呼応して、天から清冽なる白熱の一閃が降り注ぎ、動けぬ牛鬼を覆い尽くす。


 陽の気に満ち満ちた聖なる光を一身に浴び、牛鬼は悲鳴を上げる間もなく一瞬で消し飛んだ。






 降り注いでいた光はやがて薄れ、徐々に細くなっていく。完全に視界が晴れると、それまで圧倒的な存在感を放っていた巨躯は、すっかり消え去っていた。


 一連の光景を目の当たりにした玲子は、その場に呆然と立ち尽くす。


「すごい……」


 自然と口からこぼれ出た。これほどまでの絶大な霊力を有していたとは。


 これが古式降魔術の真髄。そして、これが輝血の持つ力、なのか。


「会長!」


 ふいに、背後から声が聞こえた。振り返ってみれば、白い虎の式鬼を先頭に、学園であとを任せた同期たちが駆けてくる姿が見えた。


 式鬼を帰す際に、響を発見した旨と可能ならば援軍を、と言付けていた。それで、戻った式鬼が彼らを引き連れてきたのだろう。


 玲子のもとまで来た同期たちにまず状況を訊ねる。


「学園のほうは」

「会長が行って少ししてから降魔士が到着した。だいぶ数が減ったから、俺と古河がここに来たんだ。名倉だけが残って今も交戦している」

「そう」


 安堵する玲子に、楓が詰め寄る。


「それよりも玲子、今の光はなんだったんじゃ!?」

「あれは、如月さんが……」


 答えかけて、玲子ははっと視線を移した。


 顔面蒼白の響が目を閉じ、幹にもたれてぐったりとしている。その右脇腹がぐっしょりと濡れ、滴ったものが地面に血溜まりを作っていた。


 ひどい出血だ。あの血の量、もしかしたら臓腑にまで達しているかもしれない。一刻も早く治療しなければ、取り返しのつかないことになる。


「如月さ――」


 血相を変えた玲子が響のもとへ駆け寄ろうとした、刹那。


「――この声を、聞きし者ども。あまねく足を、留めたる」


 声が、聞こえた。


 そう思ったときには、生徒会三人の四肢が硬直し、身体がその場で縫い留められていた。


 玲子は愕然と目を見開く。指一本動かせないどころか、声すらも出ない。すべての感覚が支配されたかのごとく、身体が一切言うことを聞かない。


 声が出せないと、術を行使することもできない。古式でもカデイ式でも、降魔術は言葉を発することが命なのだ。


 唯一自由が利くのは、視覚と聴覚のみ。その視覚が、あるものを捉えた。


人影だ。いつの間に、どこから来たのか、わからない。もしかしたらずっとそこにいたのかもしれない。


 そんな奇妙な感覚に陥ってしまうほどに、その人物はどこからともなく現れた。


 妙齢の女性だ。七分丈の白いワイシャツに細身のジーンズ姿。そんな至ってシンプルな格好が様になって見えるほどの背丈をもち、体形もすらりとしていた。


 肘を抱えるようにゆるく組まれた腕に、自身の体格よりも大きいサイズの薄紫のストールをルーズにかけている。その様はまるで天女の羽衣のようだった。そのせいか、長身でありながらも華奢きゃしゃに見える。


 色素の薄い髪は腰に届くほど長く、非常に整った顔立ちをしていた。


 そんな全体的に浮世離れした美貌を備えた女性は、ゆったりとした足取りで歩いていく。その先にいるのは――響だ。


 響のもとまで歩み寄った女性は、地面に膝をついて手を伸ばし、その青い頬に触れた。


「ああ、響。愛しい私の響。こんなにボロボロになってしまって、かわいそうに」


 女性は言葉とは裏腹に、澄んだ声色にはどこか楽しそうな響きが含まれていた。


 声に反応して響の瞼が震える。うっすらと目を開け、女性の姿を認めた。


「せ……ん、せ……」


 かすれた声で呼ぶと、女性は目元を和ませ、響の頬を撫ぜる。


 響がなにか言いかけた途端に腹部に激痛が走り、うめき声を上げた。


 ボロボロで息も絶え絶えな響の様子に、女性はそっと視線を下にずらす。


「ひどい怪我ね」


 女性は頬に当てていた手を響の腹部に移し――やおら傷に触れた。


「――――!」


 声にならない悲鳴が口をついて出た。呼吸ができなくなり、響は激痛に表情を歪める。


「痛い?」


 血がつくのも構わず、手のひらをぐっと患部に押しつけた女性の表情には笑みが浮かんでいる。


 響は涙目で己が師を睨み、無言の抗議をする。


 そんな風に触ったら痛いに決まってるだろ。馬鹿じゃないのか。


「ふふっ、何か言いたそうね。なぁに?」


 微笑みながら小首を傾げる女性の手は、依然として傷口に触れたままだ。


 この人は、わざとやっている。人の苦悶の表情を見て楽しんでいるのだ。現に、浮かんだ微笑みがどこか恍惚としている。頭おかしい。


 いっそ意識を飛ばしてしまえたらいいのに、痛みが覚醒を促すためにそれも叶わない。


 痛い。苦しい。痛い。熱い。痛い。どうにかなってしまいそうだ。


 激痛と疲労で響の頭がくらくらし、まともに働かなくなってきている。


 ああ、嫌だ。もうこんな思いは嫌だ。なんでもいいから、早く楽にしてほしい。


 響は朦朧としながら緩慢に腕を上げ、いまだ傷口に触れたまま離そうとしない女性の袖をきゅっと握った。


「せん……せ……、い…たく……しな……で……っ」


 息も絶え絶えに懇願すると、女性は浮かべていた微笑をより一層深くした。


「――いい子ね、響」


 響はこれまでの経験で知っていた。師はこういったことを言うと、やっと次の動きを見せてくれるのだ。ただ、どうしてなのかはわからない。この人、本当に意味がわからない。


 どのくらいの経験があっても、師の思考回路を理解することだけは一生できそうにない、というか理解したいとも思わない響だった。


「あなたを見ると、ついつい意地悪をしてしまいたくなるの」


 この状況でそれ言うとか最悪じゃん、と響は思ったが口には出さない。そんな元気がない。


「ふふ。……さぁ、傷を治しましょうか」


 女性は微笑を浮かべたまま、口を開いた。


「ひふみよ、いむなや、ここのたり。ふるべ、ゆらゆらと、ふるべ――」


 女性が歌うように澄んだ声で唱える。


 すると、響の怪我に当てていた手が光り、傷がみるみる塞がっていった。


 それまで自身を苛んでいた痛みがすっと消え、苦痛に歪んでいた響の表情が和らぐ。ゆっくりと手を動かして腹部の様子を探ると、服は破れているものの傷は跡形もなく消えていることが確認できた。


 ふと見やれば、右腕にあった裂傷もなくなっている。腹部だけでなく、身体中の怪我も治っているようであった。相変わらず恐ろしい力だ。


「…………ありがとう、ございます」


 礼を口にするが、言葉とは裏腹に響の顔に感謝の色はない。むしろ恨みがましい表情だ。


 しかし、女性は意に介した風もなく、口元に指を当てながらころころと笑う。


「かわいい生徒のためだもの、当然のことよ」


 響はしらっとした目で見る。どの口が言うんだ、それを。じゃあなんであんなことしたんだよ。余計なことせずさっさと治してくれたらよかったじゃないか。


 次から次へと不平不満が湧き出てくるが、そのすべてを飲み込む。ただでさえへとへとなのだ。もうこれ以上疲れることはしたくない。


 言葉を飲み込む代わりに、息を大きく吐き出す。怪我が治り、痛みもなくなったとはいえ、消耗した体力まで戻ったわけではない。依然として倦怠感で身体は重い。


 ふと緩慢な動作で首を巡らせた響は、師の術で動けずにいる玲子たちを認め、あっと声を上げた。


「先生、あれ、もう解いてもいいんじゃないですか」


 その言葉に同じく視線を移した女性が、ああと思い出したような顔をする。


「そういえば、そうだったわね――いいわよ、動いても」


 途端に、玲子たちの身体が自由を取り戻す。術をかけられたときと同様の唐突さに戸惑っているようだった。


 そんな先輩らを尻目に、響は訝しげに師に訊ねる。


「てか、術かける必要ありました?」

「ないわよ?」


 ないのかよ、と内心つっこむ響だ。


「だって、響との逢瀬を誰にも邪魔されたくなかったんですもの。だから、つい、ね?」

「あーそうですかー」

「つれないわね。まぁ、そんなところもかわいいのだけど」


 響の心底嫌そうな顔を十分に堪能した女性は、すくっと立ち上がり、身体の向きを変えた。


「ごめんなさいね。幸徳井のお嬢さん。それと、嘉神学園降魔科生徒会のみなさん。いきなり術をかけてしまって」


 微笑みかけられた玲子たちは、言い知れない何かを感じ取った。


 初対面のはずなのに、こちらの素性がすでに知られている。


 それにフランクな態度とは裏腹に、その微笑には友好的な空気を一切感じないのだ。生徒会一同の表情に警戒の色が浮かぶ。


「あ、あなたは一体――」


 口を開きかけた要一を手で制し、玲子が前へと進み出る。


「名乗るまでもないかもしれませんが、私は幸徳井玲子と申します。あなたは、土御門家の方、で間違いありませんか?」


 女性は微笑をたたえたまま、ええと頷いた。


「私は土御門深晴みはる。この子の師であり――一応、土御門家現当主、といったところかしら」

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