陰陽師の弟子 ☆玖


「――はい……はい……」


 険しい表情で通話のやり取りをしている生徒会長を、ゆらは黙って見ていた。


「わかりました。すぐに向かいます」


 通話を切った玲子は苦々しげにうめく。


「よりにもよって、こんなときに……!」


 嘉神学園の教員から、学園に妖異が襲撃してきたとの知らせが入った。


 この時間は普通科生の多くが部活動などで校舎にいる。実習で出払っている降魔科生はまだ帰ってきておらず、今学校には降魔術を使える教師が若干名残っているだけだ。まさかこのタイミングで妖異が出現するなんて。


 最悪だ。


 だが、嘆いている時間はない。玲子は一度深呼吸をして心を落ち着かせると、響へ顔を向けた。


「学園に妖異が襲撃してきたとの連絡があったわ」


 漏れ聞こえてきた言葉の端々からなんとなく察していた響は、ただ黙然と頷く。


「ごめんなさい、私は今すぐ行かないといけないの。ここからはひとりで帰ってもらえるかしら」


 そう言って踵を返しかけた玲子は、ふと思い出して再び響を見やる。


「もし、道中で妖異に遭遇した場合は……また、来ます。くれぐれも術を使うことのないように」


 一瞬迷う素振りを見せたが、最終的にそう言い残し、今度こそ玲子は来た道をたっと駆けて行った。


 この状況で他のことに構っていられる余裕などないはずなのに、生真面目な玲子はそれでも自分で取り決めたことを果たそうとしている。


 よくやるなーと他人事のように思いつつ、生徒会長の背を見送った響はくるりと身体の向きを変えて歩き出した。


「汝よ、まことこのまま帰るつもりか?」


 左脇から聞こえてきた問いかけに、響は当然とばかりに返す。


「そりゃね。帰れって言われたし、今会長さんが行ったんだから大丈夫でしょ」


 にしても、降魔科のある学校に出現するなんて間抜けな妖異もいたもんだと言う響に、氷輪ひのわはさらりと呟いた。


「――妖力の気配はひとつやふたつではないがな」


 それを聞いても、響はへぇと気のない反応だ。


「何体いんの?」

「何十……否、これは何百にまで及ぶやもしれぬ」

「は? ひゃく……?」


 予想だにしない数を告げられ、さしもの響も思わず足を止めて目を見開く。ちらと視線を上げると、小鳥型の式鬼は特に変わった様子もなく響の頭上を旋回していた。


「でも、式鬼はなんも反応してないけど」

「たわけ、あれの察知範囲などたかが知れておろう。わかるわけがあるまい」


 それもそうかと納得した響は、怪訝そうに首を捻る。


「てか、なんでそんなバグみたいに妖異が出てるわけ? 集会でも開くの?」

「さて。それは我のあずかり知らぬところだ」


 氷輪は学校のある方角へ首を巡らせた。


「今現在、降魔科はみな出払っておるとのことだったが」

「…………。そいや、そんなこと言ってたねー」


 少しの間を空け、響は歩みを再開した。


「響」

「行かないよ」


 響はため息を吐き、あのさぁと氷輪を見やった。


「わたしは今、術の行使を禁止されてるってこと、まさか忘れたわけじゃないよね。隠形もできないそんな状態で、妖異がうじゃうじゃいるとこなんかに行ってみ? まさに飛んで火にいる夏の虫、自殺しに行くようなもんだって」


 手をひらひらと振るが、氷輪は聞いているのかいないのか、目を閉じて何かを探っている様子だった。


「とりわけ妖力の強い妖が一体紛れ込んでおるな。それも相当な力をようしておるようだ」

「じゃあなおさら行かないよ……」


 それを聞いて、よし行こう、となるはずもない。氷輪はわたしを戦闘狂か何かだとでも思っているのだろうか。まるで対極の位置に属しているという自覚しかないのだが。


 式神の自分への認識に疑念を抱く中、氷輪はそんなことなど構いもせずに響を仰ぎ見た。


「響、仮に今この瞬間妖が目前に現れたとしよう。幸徳井の小娘が参じる前に、万一その妖に式鬼が張った結界が破られることがあらば、汝は一体どう動くつもりだ?」


 唐突な問いに、響は怪訝な顔を向けた。氷輪は表情を変えず、響に真剣な視線を注いでいる。


「そりゃ、術を使って――」

「禁じられているというのに、か?」


 遮るようにかぶせられ、響はぐっと言葉に詰まったが、なんとか言い返す。


「だってしょうがないじゃん。緊急事態だもん、術を使わなきゃやられちゃうし」

「ほう。では、今はその緊急事態とやらではないと?」

「……わたしには、関係ないことじゃんか」

「響よ、なぜそう頑なに拒むのだ」


 響は押し黙る。


 これまで自分が襲われたら術を使ってきた。だって、妖異はまずこっちを狙ってくるから。


 周囲に他の人間がいても、妖異は例外なく自分を真っ先に獲物として目をつけ襲いかかってきたのだ。


「わたしは別に誰かを守りたいとか、そんなのないんだよ。今までだって、自分のために、自分を守るためだけに術を使ってきたんだから」

「だからとて、人を救ってはならぬわけではあるまい。師から自衛以外での術の行使を禁じられているとでも?」

「別に、そんなんじゃない、けど……」


 口ごもりつつ、響は言い訳でもするかのように言い募った。


「きっと会長さんとか、学校の人がどうにかするって。それにそんな緊急事態だったら降魔士だって駆けつけるはず。わたしが出張る必要性なんてどこにも――」

「できなければ? 降魔士の到着が間に合わなければ? おそらく多くの死者を出すことになるであろうな」


 氷輪が厳しい目を主へ向ける。


「汝は知っていながら素知らぬふりをし、見捨てた人間となるのだぞ。それでも、汝は平然としていられるのか?」

「ああもう、うるっさいなぁ!」


 我慢の限界を超えた響が大声を上げた。氷輪をギッと睨みつけて喚き立てる。


「こっちにそんな義務はない! なんでそんな面倒なことをしなきゃなんないんだよ! 他人を助けるのは降魔士の仕事だろ! わたしは降魔士じゃないし、降魔士になりたいわけでもないんだ!」


 氷輪は身じろぎひとつせず、ただ黙って聞いていた。


 何事にも関心が薄く、やる気というものを感じさせない響が、ここまで感情を爆発させることは滅多にない。


 響はしばらく荒い息を吐いていたが、呼吸が整い始めるとギリッと奥歯を噛み締めた。


 自分の身を守るために降魔術を身につけた。そして、その術で己を食らわんと襲い来る妖異を退けてきた。


 自分以外の他人は降魔士が助けてくれる。だから、自分は自分の身だけを守ればいい。


 これまでも、これからも、ずっとそうしていくつもりだった。


 それなのに。


「そんなわたしに、どうやって、他人を助けろって言うんだよ……」


 それまでの勢いが嘘のように、力のない声音。うなだれて悄然しょうぜんと肩を落とす姿は、まるで迷子になった幼い子どものようだった。


 そこで、それまでじっと主の言い分を聞いていた氷輪が、漸う口を開いた。


「先日」


 響ははっと息を呑み、視線を式神へ合わせる。氷輪の表情はどこか柔らかかった。


「汝は救ってみせたではないか。妖異から人間を」


 一週間前、牛鬼を調伏したあの日。響は自身を囮にして、襲われそうになっていた降魔科生を逃がした。


 あのとき、響は確かに人を助けていたのだ。


「だって、あれは、たまたま……」


 目を泳がせ、俯く響の肩にかけた鞄の上から氷輪が飛び降りる。そうして響の真正面に回り、主を見上げた。


「響」


 しっとりと名を呼ばれ、響は少しだけ顔を上げる。


「汝が嘉神へ向かうというならば、我は式神として汝に力を貸そう」


 響は目を見開いた。氷輪が普段なら絶対言わないようなことを言ったのだ。しかし、それでもまだ響の心は定まらない。


「術、使ったら、絶対面倒なことになる……身柄を拘束とか、言ってたし」

「ならば、我が汝の邪魔をする者を蹴散らす。我が本気を出せば、何人たりとも止めることなどできはせん」


 氷輪は目を伏せたままの響をまっすぐに見つめた。


「響。これは、汝にしかできぬことなのだ」


 かつて、これほどまでに氷輪がまともなことを言ったことがあっただろうか。


 静寂が流れる。


 やがて、響は伏せていた顔をゆっくりと上げた。


 その表情に浮かんでいたのは――笑みだ。


「……は、氷輪、さっきからかっこつけすぎ。式神っぽいことまで言っちゃってさ」

「何を言うか。我はいついかなる時も格好よく気高かろう」

「自分で言うの、それ」

「事実を言って何が悪い?」


 高慢に言い放ち、そして氷輪はにやりと笑った。


「それに我は立派な式神だ。如月響の、な」


 熱くなっていた頭がすーっと冷えていく。何かが燻っていた気持ちも、心なしかすっきりしているような気がした。


「……ちぇっ」


 響はひとつ舌を打つと、仕方ないとばかりに首を振った。


「わかったよ。やればいいんでしょ、やれば」


 氷輪は満足げに口端を釣り上げた。


「それでこそ、我が見込んだ人間だ」

「調子乗んな」


 いつもの調子を取り戻した響は、天を仰いで息を吐きだした。


「はーあ、だっさ……」


 らしくないところをたくさん見せてしまった。気恥ずかしいが、どういうわけか気分はそんなに悪くはなかった。


「……よし」


 響は意を決すると、頭上で旋回している式鬼を見た。響たちが立ち止まっている間、ずっとああしていたらしい。


 まずはあの式鬼をどうにかしなければ。


「式鬼ー、ちょっとこっち来てー」


 手をパタパタと振って呼びかけると、式鬼が下降してくる。召喚主でなくとも、多少はこちらの言うことを聞いてくれるらしいことは把握済みだ。


 そして、広げた手のひらに白い小鳥がちょこんと降り立った。こう見ると愛らしい。


「ちょっとの間だったけど、守ってくれてありがと。でも――ごめん」


 そう言って響は刀印を作り、小鳥に向けた。


かい


 唱えて刀印を横一文字に払う。すると、式鬼は瞬時に召喚核へと姿を戻した。一瞬だったため、主に信号が送られていることはいないだろう。玲子が式鬼の気配を辿ればすぐにわかるだろうが、この状況できっとそんな余裕はないはずだ。


 響はそれを大事に懐へしまい込む。次いで視線を己の式神へ移すと、〝力〟を込めてその名を呼んだ。


「氷輪」


 氷輪の身体が光を放つ。巨大化し、額と両脇の奇妙な文様が開眼した。背中と額から長大な角が伸びる。


 神聖な霊力を放出し、神獣・白澤としての本来の姿に立ち戻った氷輪を響は見上げる。


「学校行く前に、ちょっと寮に寄ってくんない?」

『ほう、火急の事態に寄り道とは、随分と余裕だな』

「そういうのいいから。術の使用禁止されて、術使えないのに持ってても重いし邪魔なだけだと思って、色々置いてきてるんだよ。ついでに鞄も置いてきたいしね」

『ふむ、ならば仕方あるまい』


 響が大きな背中に乗り込むと、氷輪の身体がふわりと浮かび上がる。


『行くぞ』


 そして、古式降魔術使いと、その式神たる白澤は普通科寮に向けて飛翔した。


   ▼    ▼


 校内に悲鳴と怒号が飛び交っている。


 恐怖で叫びながら廊下を駆け回る生徒と、それをなんとかなだめて避難を促す教師たちのがなり声。我先にと廊下に溢れかえる人だかりへ強引に分け入って、ぶつかったり足を踏んだり転んだり。そこで生まれた喧騒が、避難を呼びかける校内放送をかき消している。


 嘉神学園は阿鼻叫喚と化し、大混乱に陥っていた。


 妖異の大群が、校舎をぐるりと取り囲んでいる。妖異たちはひしめき合っているが、それ以上進行できずにいた。悪しきものが足を踏み入れられないようにと嘉神学園全体に敷かれた結界が、妖異の侵入を阻んでいるのだ。


 しかし、どういうわけか妖異たちは諦めて消えていくどころか、続々と集ってきている。


 そのさまは、まさに百鬼夜行だった。


「……一体、どうなっているの」


 教師陣に混じって校舎に残っている普通科生たちを避難誘導しながら、玲子は険しい表情で窓から校舎の外を見ていた。


 まさかこれほどの事態になっているとは思わなかった。せいぜい妖異が数匹出たものだとばかり思っていたのだ。連絡を受けたとき、電話口の教師はひどく動揺していた。そのせいか、伝わった情報が不十分だったらしい。


 玲子が到着したときは、ここまでではなかった。校門前を塞いでいた妖異を蹴散らしながら、なんとか敷地内に入ることに成功したが、今となっては外から敷地内に入ることはかなり厳しいだろう。逆にこちら側から外に出るのもほぼ不可能な状況となっている。


 結界の外が不自然に暗い。大量の妖異が密集しているため、敷地外の周辺には妖気が充満し、それが瘴気しょうきとなって黒い靄を生じさせていた。五月も半ばともなれば、もうだいぶ日が長く、太陽が沈んだ十八時付近でもわりと明るい。それなのに、十七時の今はまるで夜更けのように暗くなっている。


 異様な光景だった。


 自分と響が校門を出たときにはなんの気配もなく、まったく異常を感じられなかった。ということは、自分たちが学校を離れてすぐに妖異が集まりだしたということになる。


 なぜそのタイミングで出現したのか。この妖異たちは一体どこから現れたのか。わざわざ降魔科のあるこの嘉神学園を狙った、その目的とは。


 疑問は尽きないが、いくら考えても結論が出ないものに、いつまでもかかずらっている暇はない。


 玲子は首を振り、再び自身のやるべきことへと立ち戻る。まずは生徒の避難誘導、それが第一優先だ。


 普通科生たちに避難を呼びかけながら校内を東奔西走しつつも、しかし、その脳裏には様々な状況への悩みがあった。


 校内には、生徒への避難を促す放送が延々と響き渡っている。しかし、それもノイズ混じりで、途切れがちになっていた。


 結界外に充満している瘴気のせいで、電波が狂わされているのだ。そのせいで、実習へ行っている降魔科生、ひいては同期の生徒会メンバーや、降魔士への救援要請ができない状態となっている。


 あんな状態では外へも出られないため、降魔士の元へ直接赴き、助力を請うこともできない。


 降魔士はいずれこの状況に気づくだろうが、それもいつになるかわからない。そして、降魔科生たちの帰還は、予定では一時間後の十八時となっている。


 正直、この状況は玲子ひとりの手には余る。いくら嘉神学園降魔科主席の実力があろうと、これだけの妖異を退けるのは極めて困難だった。すべての妖異を調伏する前に、確実に霊力が尽きてしまう。


 となれば、いざというときのために霊力は温存しておきたいので、下手に術を行使するべきではないだろう。


 教師の中にも降魔術を扱える者が何人かいるが、はっきり言ってこの状況を打破できるほどの強力な術者はいない。降魔士が駆けつけるか、降魔科生たちが到着するまでなんとか持ちこたえなければならなかった。


 それに響のことも気がかりだ。嘉神学園がこんな状態なっているとは思いもせず、もし彼女が妖異に襲われることがあれば、また向かうと言ってしまった。だが、このままでは実行できそうにない。


 玲子は苦渋を浮かべつつ頭を振った。それについては、何事もないことを祈るしかない。


 そして、玲子は教師陣と連携を取って室内や室外を隈なく見て回り、生徒たちを避難場所へ向かうよう促した。


 普通科生たちが避難しているのは、降魔科専用の修練場。あらかた見て回った玲子は、生徒たちへ状況説明を行うため、修練場へ赴いた。


 場内には普通科生の半数以上の人数がいた。それまで、部活動やその他の活動、もしくはおしゃべりに興じて放課後に校舎に残っていたであろう生徒たちだ。


 案の定、と言うべきか、中の空気は暗鬱としていた。生徒たちの表情は不安や恐怖に彩られている。すすり泣きがところどころから聞こえ、膝を抱えて顔を埋めていたり、青い顔でひそひそと話し合っていたりと、普通科生たちの痛々しい姿が伺えた。


 玲子はそれを見て一瞬表情を曇らせたが、すぐに気を引き締め直して普通科生たちの前に立った。


「普通科生の皆さん、聞いてください」


 マイクを通して場内に響いた声に、生徒たちが顔を上げて玲子に注目する。


「降魔科Aクラス二年、生徒会長の幸徳井玲子です」


 まず名乗り、毅然きぜんとした態度で言葉を続ける。


「現在、嘉神学園は多数の妖異に包囲されています。なぜこのような事態になったのか、原因は今のところ不明です」


 生徒たちがどよめく。さらなる不安が彼らの恐怖心を煽り、動揺が広がる。そんな生徒たちに、玲子は微笑んで見せた。


「ですが、心配ありません。手は打ちましたので、もう少しで事態は終息します」


 玲子はひっそり拳を握りこむ。嘘をついてしまった。この状況を打破する手立ては何も思いついていない。降魔士が来るか、降魔科生が帰還するまで動きようがないのが実際のところだった。


 言霊を操る降魔士を志す者が、こんなことではいけないのに。


 忸怩たる思いだが、自己嫌悪に浸っている場合ではない。そんな暇があるなら、他にやるべきことがたくさんある。


 己を叱咤し、玲子はマイクを持つ手に力をこめる。


「何があっても、私が皆さんを守ります。絶対に手出しはさせません」


 これは紛れもない本心だった。降魔士を志す者として、全身全霊をかけて生徒たちだけは守ってみせる。


 生徒会長の力強い言葉に、普通科生たちの表情に少しだけ安堵の色が滲む。降魔科生でトップの生徒会長が言うのだから、きっと大丈夫なのだと信頼している顔だ。


「この中にいれば安全です。みなさんには申し訳ないけれど、もう少しだけ辛抱していてください」


 そう締めくくって話を終えた玲子は、あとのことを教師に任せて一旦修練場を出た。


「さて、これからどうしようかしら……」


 玲子は疲れたように息を吐き、思考を巡らせる。このまま結界が妖異たちの侵入を阻んでくれていれば、特に心配することもないのだが――。


「…………!」


 瞬間、異変を感じ取り、玲子ははっと顔を上げてあらぬほうを見やった。


「結界が……弱まっている……?」


 現在、大量の妖異の襲来を阻んでいる、学園全体を覆う堅牢な結界。その膜がたわみ、守護の力が弱まりかけているのを、玲子は感知したのだ。


 血の気が引いていくのを感じる。


「そんな……っ」


 馬鹿な。この結界は幸徳井家現当主にして、現在の降魔士業界を牽引している玲子の実父、幸徳井定俊さだとしが施したものだ。


 築かれて以来一度も破れたことのない、業界トップの腕を持つ降魔士が施した結界に今、綻びが生じている。


 考えるより先に、玲子の身体は動いていた。一番弱まりを感じる校門前に向かって駆け出す。


 こんなこと、あっていいはずがない。


 全力で走りながら、玲子は焦燥感に苛まれる。


 もし、結界が破られてしまったら、あのおびただしい数の妖異が一気になだれ込んでくるだろう。そうなれば、今も体育館で恐怖と戦っている普通科生たちに被害が及ぶことは必至。


 このままでは、先ほど自分が放った言葉が嘘になってしまう。


 唇を噛んで、玲子は思考を打ち消す。いけない、悪いほうにばかり考えがいってしまう。このかつてないイレギュラーな状況は、自分でも思っている以上に応えているようだ。


 不甲斐ない。仮にも降魔科主席の立場の自分がこんな為体ていたらくでどうするのだ。しっかりせねば。


 意識して呼吸をし、自身の気持ちを落ち着かせていたとき、突如悲鳴が聞こえた。正門のほうからだ。


「まだ生徒が……?」


 玲子が急いで昇降口から出ると、正門の前で男子生徒が一人、へたり込んでいる姿が目に飛び込んできた。


「何をやっているの! 早く逃げなさい!」


 思わず厳しい声が口をついて出る。生徒はびくっと肩を動かし、緩慢な動作で顔をこちらへ向けた。


 はくはくと口を動かすものの、言葉になっていない。男子はガクガクと震えている。どうやら恐怖で身体の自由が利かないようだ。


 その生徒に向けて、外から妖異が手を伸ばす。すると、膜が大きく歪んで押された。


 と、ふいに何かがひび割れるような、ピシリという乾いた音が玲子の耳に突き刺さった。


 膜にひびが入っているのが見える。結界が今にも破られようとしているのだ。


「いけない……!」


 色を失くした玲子が懸命に足を動かし、生徒のもとへ走る。


 そして、あともう少しというところで、パリンッとガラスが砕けたような音が響いた。


 結界に穴が開いたのだ。


「うわぁああああ!」

「……っ」


 男子が悲鳴を上げる。玲子は咄嗟に右手を突き出し、生徒へ腕を伸ばした妖異に手のひらを向けた。


「炎弾!」


 翳した手から生まれた藍火が弾丸となって妖異に命中し、ギャッと悲鳴を上げて燃え上がる。


 玲子は瞬時に、空いた穴へ抜き取った符盤を放つ。


ふう!」


 しかし、符盤が結界へ張りつくほんの一瞬の間隙を縫って、一匹の小柄な妖異が入り込んできた。それは銃弾のようなスピードで玲子たちへ向かってくる。


 しまったと思ってももう遅い。術が間に合わない。


 せめて生徒だけは、と玲子は男子を背後にかばい腕を交差し、衝撃に備えて身体に力を入れる。


 刹那、頭上から声が降ってきた。


「オン・キリキリ・バザラ・ウン・ハッタ!」


   △    △


「うへぇ」


 嘉神学園に着き、上空から地上を見下ろした響の第一声はこれだった。


「なんだこれ……」

『ふむ、想像以上に大ごととなっておるようだな』

「妖異ってこんだけ集まると、めちゃくちゃ気持ち悪いな……」


 妖異の集団を見下ろしながら、響は思い切り顔をしかめる。氷輪も地上を睥睨へいげいした。


『よくもまぁ、これほどの妖が集ったものよ』


 小さいもの大きいもの、二足歩行のもの四足歩行のもの、基本的に屋内に出るもの森に出るもの、限りなく人に近い見てくれのものから固形であるか怪しい姿のものまで、実に多種多様の妖異が混在して嘉神学園を囲っている。


 響は己に隠形の術をかけているので、今のところ妖異は自分たちに気づいていない。依然として、結界の周りでうごうごとひしめき合っている。


 響の脳裏に、夏の夜の自販機に群がる虫のイメージが浮かんだ。自分で想像しておいて鳥肌が立ったので、慌ててその想像をかき消す。


「てか、くっら……」


 嘉神の敷地に入った途端、妖異たちが発する瘴気によってこの辺りだけ妙に暗くなった。嫌な空気が響の肌をピリピリと刺激する。言いようのない不快感があった。


 身じろぎしながら、響は結界の周りに密集している妖異に眉をひそめた。


「これじゃ百鬼夜行っていうより、百鬼デモって感じだなー」


 妖異たちが結界の前で立ち往生している反面、常より響の登下校についてきている氷輪は平然と通り抜けられている。響の式神だからというのもあるが、たとえ式神でなくともこの結界は氷輪には効かなかっただろう。学園を覆っている結界は悪しきものを内に入れさせないためのもので、害をなさないどころか瑞獣に区分される白澤には効果がないのだ。


 白澤を含めたその他の一部の神獣は、どの文献でもどういうわけか妖異に分類されていることが多い。


 人間は、悪しき妖異を〝恐怖〟の意味で恐れ、聖なる神獣は〝畏敬〟の意味で畏れる。


 良いものだろうが悪いものだろうが、人外の存在は人間にとってはどちらも結局は似たようなもの、ということなのだろう。きっと。


『響よ、この状況なんとする』


 氷輪に促され、響はうーんと悩む。


「さすがにこれ全部ひとりで調伏するのは無理だしな~」


 いや、本当にどうしようこれ。どうにもできなくないか? もはやどうにかできるという域を超越している。というか、結界が張ってあるんだから、わざわざ自分が来る必要はなかったのでは。


 そう思いかけたとき、響はふと違和感を覚えた。


「……んー?」


 気を凝らし、結界をよく視る。


「なんか、弱まってない?」


 眉をひそめていると、響の耳が微かな音を捉えた。


 まるで、何かがひび割れるような音。


 それとほぼ同時に、氷輪が鋭い声を上げる。


『響!』


 氷輪の顔が向いている先へ目をやると、正門の辺りがなにやら騒がしかった。


 よくよく見ると、二つの人影があることに気づく。嘉神生で、そのうちのひとりには見覚えがあった。


「会長さんだ」


 どうやら玲子は生徒を守っているようだった。そこへ妖異たちが押し寄せようとしている。


 そのせいで結界の膜がたわみ、脆くなり始めているのだ。あれでは結界が破られるのも時間の問題だろう。


 首を巡らせた氷輪がどうする、と目で訴えかけてくる。


「ピンチっぽいし……助けよう、か」


 助ける、という言葉が口馴染みなく、どうにも面映おもはゆい。響はなんともいえない微妙な表情を浮かべつつ、氷輪へ命令を下す。


「行って、氷輪」


   △    △


「オン・キリキリ・バザラ・ウン・ハッタ!」


 玲子たちへ迫っていた妖異が吹き飛ぶ。転がった妖異はそのまま消失した。


 驚いた表情でそれを見ていた玲子の頭上に、影が降りかかる。見上げた先に、銀の燐光をまとった巨体が浮かんでいた。


 そして、その上に乗る人物の姿を認め、玲子は大きく目を見開く。


「如月さん……?」


 氷輪が地面に着地し、響もその背から滑り降りる。


「あなた……どうして!」


 玲子の視界を覆い尽くすほどの氷輪の姿。これが本性なのだろう。普段の姿からは感じ取れない、神聖な波動が玲子の身体にびしびしと伝わってくる。


 これほどの霊気を放とうものなら、式鬼が反応しないはずがない。それに今し方、響も術を使った。それなのに、式鬼から脳内に伝わってくるはずの信号がまったく感じられない。


「式鬼は? 式鬼はどうしたの!」

「いますよ、ここに」


 響は懐から召喚核を取り出し、掲げて見せた。


 核に異常はなく、綺麗な状態だ。もし外敵の襲撃に耐え切れずにやられてしまったのであれば、核は破損しているか消失しているはず。


 ということは、つまり。


解呪かいじゅ、したのね……」


 キッと睨みつけられ、響は肩をすくめる。


 玲子が厳しい形相で言葉を発しかけたが、ふと後ろにいる男子生徒のことを思い出した。まずは彼を避難させなければ。


 人型の式鬼を呼び出した玲子は、男子生徒を抱えさせて避難場所へ連れていくように指示を出す。


 校舎に入っていく式鬼を見送ったあと、振り返った玲子は再び響に冷ややかな視線を送った。


「どうして来たの」

「氷輪から学校が大量の妖異に取り囲まれてるって聞いて。それでまぁ……来た、というか、なんというか……ですかね」


 助けに、とは言わない響だ。


 そんなどこかはっきりしない態度の響に、玲子は依然として冷たい目を送っている。


「私は、術の行使を禁止したはずよね」


 厳しく責めるような語調だった。当然と言えば当然の反応だろう。


 さてなんと言ったものかと響が考えあぐねていると、ふいに背後に控えていた氷輪が口を挟んだ。


『小娘、ここは一時共闘といかぬか』

「なんですって……?」

『響と力を合わせるのだ。ここが突破されるのも時間の問題であろう』

「それは……」

『結界が破壊されればどうなるか、汝がわからぬわけではあるまい』


 痛いところをつかれ、玲子はぐっと言葉に詰まった。


 ちらりと結界を見やる。符盤で応急処置をしたとはいえ、長くはもたない。一度脆くなったところに負荷がかかればこの霊力の膜は容易く瓦解するし、それどころか穴が広がり修復不可能な状態になってしまうことも充分にあり得る。というかその可能性のほうが極めて高い。


 そうなってしまえば、この白澤の言う通り、それこそ妖異の侵入を許してしまって一巻の終わりだ。


 だが、だからといってここで響に降魔術の使用を看過してしまうのもはばかられる。普通科生であり降魔術行使の公的資格を持たない響に、術を使わせるわけにはいかなかった。規定を破ってしまうことになるのだから。


「…………」


 葛藤している玲子の耳朶に、厳かな声が届く。


『――掟を守り通すことは、けだし正しく素晴らしきことよ』


 顔を向けてきた玲子をひたと見据え、だがな、と氷輪は言葉を続けた。


『いつの世も、その場の状況を鑑み、いかなるものも利用することを厭わず、最適解を選択し実行に移す者こそが真の先導者たりえるのだ。違うか? 賀茂の血族よ』


 玲子ははっとした。


 白澤は、徳の高い為政者の治世に姿を現すことがあると言われている。


 幾星霜を生きるこの大妖は、これまで数多の有力者の姿を見てきたのだろう。いつの世も、という言葉にそこはかとない重みが感じられた。


 ならば、自分が取るべき行動は――。


 玲子は一度目を瞑る。そして再び開かれたその瞳には、確かな決意が宿っていた。


「――緊急事態です。全責任は私が取ります。如月さん、白澤様、力を貸してください」

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