窺窬する謀略 ☆捌

    △    △



「ごめんなさい、突然こんなところに連れてきてしまって」

「い、いえ……」


 ここは校舎の物陰。遠くからがやがやとした喧騒が聞こえてはくるが、辺りに人影はない。


 そんな場所に、玲子れいこと普通科生が向かい合っていた。


 どことなく落ち着かない様子の男子生徒。つい先ほど出くわした彼を、玲子が呼び出したのだ。


 突然彼に話があると言い出した玲子に、彼と一緒にいた生徒たちは大層驚いていた。降魔科の生徒会長が普通科生に用? と。


 理由も告げずにいきなりそんなことを言いだしたら、そういう反応にもなるだろう。気が急いていた玲子は普通科生たちが戸惑っていることに気づくのが遅れ、咄嗟に言葉に詰まってしまった。


 そこで助け舟を出したのが、なんとこの男子生徒自身だったのだ。


 彼は、五月のあれがあってから実は何回かヒーリングを受けていて、と仲間に説明した。すると、生徒たちはそういうことかと納得してくれたので、彼をすんなり連れ出すことができたのだった。


 結果的に詮索されずに済んで助かったのだが、玲子は訝しんだ。


 男子生徒が仲間たちに告げた内容は嘘ではあるものの、まさに玲子が話そうとしていた件そのものに触れていた。まるで、自分の言いたいことがわかっていたかのようではないか。


 内心警戒する玲子に、その生徒がおもむろに口を開いた。


「あの……」


 そして、彼はがばりと頭を下げた。


「すみませんでした!」

「……え?」


 意表を突かれ、玲子は目を丸くした。


「妖異がここを襲って来たあの日、助けてもらったのにお礼を言いに行かなかったこと、やっぱ怒ってます、よね?」


 彼がおずおずと顔を上げて玲子の表情を窺う。


「あの、違くて、ずっとお礼しなきゃって思ってたんです、本当です! けど、タイミングを見失ってしまって……言い訳かもですけど。でも、本当に会長には感謝してて……っ」


 必至に言い募ってくる普通科生に、玲子はひとまず肩の力を抜いた。どうやらこの生徒は、それが気がかりで挙動が不審になっていただけらしい。


 申し訳なさそうにしている彼に、玲子は首を振った。


「それは気にしていません。降魔科生として当然のことをしたまでです」


 そう言ってとりあえず彼を落ち着かせると、居住まいを正した。


「それとは別ですが、その時の件でお聞きしたいことがあって。今回声をかけた理由はそこにあります」

「聞きたいこと……?」


 不思議そうに首を傾げる彼に、玲子は頷いて問いかける。


「あの時、なぜあなたはあの場にいたのですか? 避難指示の校内放送がされていたはずですが」

「……っ、ご、ごめんなさい」


 委縮する生徒を、玲子は慌ててなだめる。


「責めているわけではありません。純粋な疑問というだけなので、答えていただけませんか?」


 あの一件は未だ解決には至っていない。だから、手がかりを得るために、生徒会は色々な方面で調査している最中だった。


 そんな折に偶然当事者と遭遇したので、思わず声をかけてしまったのだと説明した。納得してもらえるように言葉を選んではいるが、まるっきりの嘘ではない。


「学園祭中で楽しんでいるところ、申し訳ないのですが」

「あ、それは、全然……」


 そういうことかと納得した風情の男子生徒だったが、再び表情を曇らせて言い澱んだ。


「あの、怒らないでほしいんですけど……」


 ちらとこちらを窺うように見てくる彼に、玲子はとりあえず聞かせてほしいと請う。すると、普通科生はぽつぽつと語り出した。


 いつも通りなんでもなく過ぎていくはずだった夕方に、突如起こった大量の妖異が学園を囲むという異常事態。


 彼にはもちろん怖いという気持ちもあったが、非日常的な出来事につい気分が高揚してしまった。それで、結界もあるし大丈夫だろうと思い、こっそり外の様子を見に行ったのだと言う。


 話を聞いていて、玲子は険しい顔をした。それを見た生徒が、慌てて頭を下げる。


「本当にすみませんでした! あの時はどうかしてて、本当にバカなことしたなって……今ではめちゃくちゃ反省してるので、もう絶対にあんなことはしません!」

「ああいえ、そうではなく……」


 彼の言葉に偽りは感じられない。本当のことなのだろう。


 しかし、何かが引っかかる。


「……本当に、それだけですか?」


 玲子はまっすぐに生徒の目を見た。


「他に何かありませんでしたか?」


 念を押すように訊いた瞬間、彼の表情がさっと青ざめる。


 それが答えだった。


「――心当たりがあるようですね」

「あ、その……」


 青い顔をしたまま、彼の目が泳ぎ始める。


「勘違い、かも、しれなくて……」

「それでもかまいません。まずは話を聞かせていただけませんか」


 玲子ができる限り口調を和らげて促す。それでもしばらく躊躇っていた彼だったが、やがてゆっくりと口を開いた。


 興味本位で結界まで見に行ったが、圧倒的な量の妖異の群れに怖気づき、修練場に行こうとした瞬間。


「声が、聞こえた気がしたんです」

「声?」


 男子生徒はこくりと頷く。


「中に入れてくれ、って……」


 今でもはっきりと覚えている。頭の中に、直接響いてくるような声だった。


 冷たくて低いその声は、こう言った。


 入れてくれたら、お前の命だけは助けてやる。


 そうでなければ、これからお前の家族を襲いに行く、と。


 身体の震えが止まらなかった。恐ろしくて、怖くて、たまらなかった。


「そ、それで、おれ、俺は……」


 男子の声がわななく。泣き出しそうにくしゃりと顔を歪めた。


「頷いて、しまったんです……!」


 その瞬間、結界に亀裂が生じた。見鬼の才を持たない彼にも、何か恐ろしいことが起こったということだけがわかった。


 そこで腰が完全に抜け、情けない悲鳴が口をついて出たところに玲子が駆けつけた、というわけだ。


「ごめんなさい、ごめんなさい……! 俺がっ、俺のせい、で……っ」


 顔を覆い、泣き崩れるようにして男子生徒はその場に膝をついた。


 今の話を聞いて、玲子の脳裏でいくつものピースがぴたりとはまっていくのを感じた。


 これでようやく謎が解けた。


 この強固な結界が破られかけてしまった原因は、やはり〝内側から招く〟という行為があったからだった。


 男子生徒の言う声の正体まではわからないが、確かなことはその声自体はけっして彼の勘違いなどではないということ。でなければ、彼が頷いた瞬間に結界が弱まるわけがない。そのやり取りは真実行われたのだ。


 この結界は『妖力のある存在を拒む』ということを定義し、織りなされたものだ。式神化した妖異というような例外を除き、妖力を持つあらゆる存在の侵入を許さない。


 それなのに、式神でもない妖異を内側に招き入れるなどすれば、結界の効力も当然がくりと落ちるというものだ。


「ちなみに、その返答は言葉には出さなかったんですか?」


 玲子がそう問うと、顔を覆ったまま彼は頷いた。


「そ…です……」


 あまりの恐怖に喉の奥に絡まって、声が出てこなかった。だから頷くしかできなかったのだと。


 玲子は納得する。言葉ではなく動作だったがために、あの程度の亀裂で済んだのだろう。


 言葉には言霊が宿る。それは術者非術者関係なく誰しもの言葉に宿り、特殊な力を持たない一般人であっても多少なりとも影響を及ぼす。


 もしはっきりと言葉で返していたら、亀裂が走るどころでは済まなかっただろう。そうだったら、玲子が駆けつけたとしてもすべてが手遅れになっていた。それが不幸中の幸いと言える。


「このことを誰かに話したりは?」


 男子生徒はふるふると首を横に振った。


「言え、ませんでした……」


 震える声からこぼれ出た言葉から、玲子は彼の心情を察した。彼は自分が学園を危機に陥れてしまうところだったというその事実を口にしてしまうのが、どうしようもなく恐ろしかったのだろう。


 言ってしまえば、確実に自分が責められる。認めてしまえば、自分の精神に大きな負担がかかる。そのため、無意識的に防衛本能が働いたのかもしれない。だから、言いたくても言えなかったのだ。


「……事情はわかりました」


 玲子は屈んで男子生徒の肩に手を置いた。 


「つらいことを思い出させてしまってごめんなさい。話してくれてありがとう」


 あの日から、負い目や後悔をずっとひとりで抱えていたのだろう。目の前で懺悔している彼を見ていればわかる。彼は事の重大さを理解しており、心底悔やんでいる。つらくて、苦しかったに違いない。


 そう思うと、玲子の中に憤りが生じた。男子生徒にではない。その聞こえてきた声とやらにである。


 人の心につけ込んで、随分と非道なやり方をしてくれたものだ。その声の主――おそらく犯人と思われる人物を必ずや見つけ出し、制裁をきっちり受けてもらわねば。


 玲子が決意を新たにしていると、男子生徒が恐る恐るといった体で、涙に濡れた顔を上げた。


「怒らないんですか……?」

「怒りません」


 男子生徒の行動は仕方がないものだ。降魔科生とは違い、特殊な力を持たない一般人の学生に抗うすべなどないに等しい。


 彼はもう十分罰を受けた。本人も心底反省しているようなので、もう叱責する気にはなれなった。


「ですが、危険なので避難指示にはきちんと従ってください」


 一応そう念押しすると、男子生徒はこくこくと首を縦に振る。それを見て、玲子はふっと肩の力を抜いた。


「あなたのおかげで、重要な手がかりをつかむことができました。必ず、この一件を解決すると約束します」


 そうして玲子は、何度も謝罪と礼を繰り返す彼と別れた。


 謎の声という新たな疑問が浮上したものの、今回の収穫は大きい。


 そして、深晴が言い残した『窺窬きゆする影』の意味も大体見当がついた。


 きっと、これで今回の件、ひいては百鬼夜行の件が解決する。深晴の言葉にちゃんと意味があり、自分の考えが勘違いでなければの話だが。


 早くこのことを伝えなければ。玲子がスマホを取り出して連絡先一覧を開いたその瞬間、端末が震え出した。



      △    △



「このクソ式鬼しきっ、邪魔すんな!」

「お、おい、これ獣式鬼だろ? 生徒会に気づかれてるってことじゃん! やばいって……!」

「ああ? 何ビビってんだ、ここまで来て引き下がれるかよ!」


 目的地付近にようやくたどり着いた要一よういちは、二人の男子生徒を発見した。何やら揉めている風情の降魔科生二人組の彼らの足元には、白い犬が転がっている。獣式鬼【いぬ】だ。


 その【戌】を彼らが踏みつけているのを見て、要一は顔色を変えた。


「貴様ら! 何をやっている!」


 全速力で駆け寄りながらよく見ると、彼らの足元の地面が掘り返された跡がある。【戌】が呪具を発見し、掘り出したのだろう。そんな【戌】を攻撃している彼らは、呪具を埋め込んだ張本人たちに間違いない。


「うわ、見つかった……!」

「くそっ!」


 迫ってくる要一に気づき、男子生徒のひとりが【戌】の顎を思い切り蹴り上げた。


 天を仰いだ【戌】の口から、くわえられていた呪具がぽろりとこぼれ出る。地面に落ちたそれを即座に拾い上げると、男子たちは逃走し始めた。


「な……っ、待て!」


 要一は慌ててそれを追うが、距離がある上に彼らの足が思った以上に早く、すぐに追いつけそうにない。


 タイムリミットがすぐそこまで迫っている。手荒な真似は極力したくなかったが、もうそんなことは言っていられない。


 要一は意を決して、グローブをはめた右拳を振り上げた。腕の校章が淡く光る。


地聳ちしょう!」


 そして、拳を思い切り地面に叩きつける。すると衝撃が地面を伝って男子生徒を追い越し、彼らの目前で土が盛り上がり、壁を作り出した。


 逃げ道を封じられ、立ち往生した男子が腕を振り上げた。その手には呪具が握られている。


「ちくしょう!」


 要一に捕まる直前、降魔科生は呪具を思い切り上に放り投げた。


「なっ……!」


 男子生徒を羽交い絞めにしながら咄嗟に術を解除して壁を崩すと、投げ出された呪具が弧を描いて飛んでいくのが見えた。その先では出し物が立ち並び、人でごった返しているのを認めて要一は色を失った。


 視線の先で回転しながら空を舞う呪具がふいに鈍く光り、禍々しい気を放ち始める。


 十五時になったのだ。


 今まさに、呪具から妖異が召喚されようとしている。


 なんとかそれを阻止しようと要一が術を発動しかけたところで、降魔科生が拘束から逃れようと腕の中で暴れ出した。


「この……っ、大人しくしろ!」

「ぐ……」


 咄嗟に男子の腹を殴りつけると、彼はそのままくずおれ昏倒した。


 しかし、今のタイムロスで呪具がだいぶ群衆のほうへ近づいて行ってしまった。


 要一が操る土行どぎょうの術は強力だが、範囲が広くダイナミックなものばかりだ。繊細さも隠密性も皆無に等しいため、はっきり言って目立つ。今術を発動すれば確実に大衆が気づき、事が露見してしまうだろう。


 だが、もはやこうなってしまったらどうしようもない。このままでは人混みの只中に妖異が出現することになる。それが一番最悪の事態なのだ。それだけはなんとしても避けなければならない。


 要一が腹をくくって術を発動しようとした、その時だった。


「副会長!」


 唐突に聞こえてきた声にはっと目を向けると、そこに見知った人影があった。


 青みがかった少し長めの前髪を揺らしてこちらへ駆け寄ってくるのは、降魔科Aクラスの一年生、たかむら竜之介りゅうのすけだ。


「一体何が……」

「篁! 術であれを壊せ!」


 尋ねようとした竜之介を遮り、要一は呪具を指さしながらあらん限りの声で叫んだ。


 生徒会副会長の剣幕にただならぬものを感じ、竜之介は指し示されたほうへさっと視線を走らせる。


 上空に、放物線を描いて飛ぶ小さな物体が見えた。同時に、その物体から放たれる妖気を認める。しかも、その妖気は急速に膨れ上がっているではないか。


 何が起こっているのかは依然としてわからないが、あれがまずいものだということはすぐに察せられた。


 考えるよりも先に身体が動く。竜之介はすかさず右手を拳銃の形にし、その怪しい物体へと照準を定めた。


「――水穿すいせん!」


 校章が淡く光り、銃口に見立てた指の先から一筋の細い水が噴射される。


 光線のようなそれは狙い違わず呪具を貫き、粉々にした。それと同時に、妖気も消失する。


「でかしたぞ、篁!」


 拳をぐっと握った要一は、視線を落として大衆の様子を確認する。


 賑わいに特に変化はない。依然として楽しそうな雰囲気だ。今起こったことに気づいた者は、誰一人いないようだった。


 安堵しかけた要一だったが、その前にやっておくべきことがある。


 それまで呆然と一連を見ていた降魔科生に目を移す。その鋭い眼光にひっと小さな悲鳴を上げ、片割れの降魔科生は両手を挙げて降参の意を示した。


「校章を渡してもらおうか」


 大人しく差し出されたそれを受け取った要一が、足元で伸びている男子生徒の校章も剥奪した。


 そこに、竜之介が近寄ってきた。


「副会長」

「篁、お前どうしてここに?」

「俺は、職員室からの帰りで」


 クラスの出し物のことで担任に相談があり、竜之介は職員室に行っていた。話が終わってクラスに戻る際に、この辺りを通りがかったのだという。


「そうしたら争うような声が聞こえてきたので、何かあったのではないかと思って来たんですが」


 そう言って、竜之介は気を失っている降魔科生と、そのそばに座ってうなだれている降魔科生を見やった。


「一体、何があったんですか?」


 問いかけてくる竜之介の表情は真剣そのものだ。この一件は極秘裏に遂行しなければならないことだったが、ここまで巻き込んでおいて話さないわけにもいかない。


 竜之介は降魔士家系で有名な篁家の人間だ。当人もその名に恥じぬ成績を持ち、真面目で努力家な降魔科生である。いたずらに言いふらすような真似はしないだろう。


 そう判断し、要一は手短に事の次第を語って聞かせた。


「そんな、ことが……」


 信じられない面持ちで仔細を聞いていた竜之介は、握りしめた拳を震わせて吐き捨てるように言った。


「バカなことしやがって!」


 要一も同意する。本当に彼らは馬鹿なことをしたと思う。


「とにかく、お前が来てくれて助かった。感謝する」


 そうでなければ、今頃大惨事だっただろう。


 竜之介がいなくても呪具の破壊自体はできたかもしれない。しかし、一連のことは確実に公となり、学園内はパニックに陥っていたはずだ。


 この一年生が迅速な行動をとってくれたおかげで、生徒や一般客たちに気づかれずに済んだ。だから、竜之介が居合わせたのは天の采配としか言いようがない。


 誠意を込めて礼を述べる要一に、竜之介はやめてくださいと首を振った。


「お役に立てたならよかったです」

『……いち!』

「ああ、本当にいいタイミングで……」

『要一!』


 ふいに、叩きつけるような声が耳に飛び込んできた。肩口にずっといた白鼠からだ。


「ああ、吾妻あがつまか」

『ああ、吾妻か、じゃねーよ! さっきからずっと呼びかけてんのに、一切返事を寄こさねーでこのヤロォ!』


 鼠を通して聞こえる声は憤然としている。あまりに急展開な事態に気を取られ、愛生の声が一切届いていなかったようだ。要一は素直に謝る。


「それはすまん」

『ったく、こっちがどんだけ心配したと思ってんだ』


 まぁ、聞いていた限りでは大丈夫そうなのはわかるが、とブツブツ言っている愛生に、要一はふと首を傾げた。


「ん? お前だけか?」


 他の声が一切に聞こえないことに対して疑問に思うと、愛生が説明してくれた。


『くらっちは先生に一緒に来るように言われて、ピースは集中するために今は通信オフにしてる。ぶっちゃけ卯野うのからの反応さえありゃ問題ねーからな』

「そうか」


 鵜飼が抜けたあたりで今の騒動があったため、全然気づかなかった。特に問題はないが、鵜飼が満瑠を呼び出したというのが少し気になる部分ではあるのだが。


『んじゃ、捕まえたやつは打ち合わせどおり修練場に連れて行ってくれ。獣式鬼置いて見張らせてあっから』

「わかった」


 ひとまず最後の呪具も無事除去されたことを鵜飼うかいに報告するため、愛生が一旦通信を遮断する。


 自分の役割を最後まで果たすため、降魔科生たちを連れて行こうとした要一は、昏倒している降魔科生を見てぴたりと動きを止めた。


「しまったな……」


 咄嗟に気絶させてしまったが、この状態の人間を担いでいるところを見られたら何事かと思うだろう。軽く呼びかけてみるが反応はなかった。強く殴りすぎただろうか。いやしかし、あの場面で手心を加える余裕などなかったのだから仕方がないのでは。


 腕を組み難しい顔で思い悩んでいる要一に、それまで黙っていた竜之介がそっと口添えする。


「暑さにやられてしまった生徒を救護室へ連れて行く、というのはどうでしょう」

「……そうだな」



    ▼    ▼



「――ご苦労様。警戒だけは引き続き頼む」


 そう言って、鵜飼は通話を切る。


 愛生からの連絡だった。呪具の排除およびこの件に関与した降魔科生全員の拘束が完了したとの報告を受け、とりあえず鵜飼は息を吐く。


 続いて、鵜飼は玲子に電話をかけた。


『もしもし』

「説明会は無事終わったか?」

『はい、滞りなく』

「そうか。すまなかったな、すべてきみに投げてしまって」

『とんでもありません。むしろ、おかげで説明会のほうに集中することができました』


 生真面目な返答に鵜飼はふっと笑った。


「今さっき吾妻から連絡があってね。こちらの対処もひととおり済んだ」

『そうですか……』


 返ってきた玲子の声には安堵が滲んでいる。しかし、その声音はすぐに硬くなった。


『先生のお耳に入れておきたいことが……』

「なんだ?」


 促すと、玲子から百鬼夜行事件について響から伝えられたこと、それから結界の件について聞かされた。


「そういうことだったのか……」


 鵜飼は額に手を当てた。内側から招き入れる。今思えば、そうでもなければ説明がつかない。そこに思い至らなかったのは完全にこちらの落ち度だ。


『申し訳ありません。私がもっと早くに気づいていれば……』

「いや、きみが悪いわけじゃない。僕も含め、降魔士ですら誰もそのことに気づかなかったんだ」


 内側から招き入れる利点がない。だから誰もその可能性を考慮しなかったのだ。


『それと、土御門つちみかど家現当主に会いました』

「なんだって?」


 耳を疑うような言葉に思わず聞き返すと、玲子が事情を説明した。


「…………」


 遥か昔に降魔士の前身である陰陽師界で屈指の力を持ち、百年ほど前に没落した名門のその現当主、土御門深晴みはるが玲子の前に現れた。鵜飼は剣呑な表情を浮かべた。


 鵜飼が会ったことはないが、響や玲子たちの話からどういった人間なのかは伝え聞いている。何を考えているのかわからない、わからせない人間だと。


 話を聞いていて、鵜飼でも深晴の真意ははかりかねた。彼女は本当に響に会いに来ただけなのだろうか。話によると、こちらの事情を把握していたという。わざわざ玲子にコンタクトをとった理由も気になる。果たして本当に偶然なのか。


『そして、去り際に、〝窺窬する影は北方にあり〟と言い残していきました』

「窺窬する影……」


 反芻はんすうし、逡巡した鵜飼は顎をさすった。


「きみはどう思う?」

『おそらく、犯人の居場所かと』


 鵜飼も同じ考えだ。そうとしか考えられない。


 相手にどのような意図があるのかはわからないが、嘘だとはどうにも思えなかった。とりあえず今はその言葉を頼りにするほかない。


『どうしましょうか』

「――とりあえず、その件は僕に預けてほしい。きみは吾妻たちと合流して引き続き警戒を行ってくれ」

『わかりました』


 通話を切った鵜飼はひとつ深い息を吐いた。玲子には説明会の様子を聞くためと、こちらの状況経過を伝えるために電話しただけだったのだが、思わぬ話まで聞いてしまった。


 ひとつ頭を振り、鵜飼は職員室自席のパソコンを開く。スリープモードを解除し、さっそく検索に取りかかった。


 鵜飼は先ほどまで修練場にて身柄を拘束した降魔科生から事情聴取を行い、彼らに接触した人物についてを重点的に聞いていた。


 彼らの発言は、かえでから伝え聞いた佳澄かすみやまきなと概ね同じ。彼らに妖異召喚の呪具を渡した人間は、どこの誰かわからず名前も知らない。その人物は常にフードを目深にかぶり、口元はマスクで覆っていたから顔も見ていない。わかるのは、ただ若い男だということだけ。


 そんな見るからに得体のしれない人物の言ったことを、どうして信じたのか。そう尋ねると、生徒たちは考えたあとに揃って首を捻った。


 あれ、そういえば、なんでだろう、と。


 そこにふざけた様子や誤魔化しは感じられなかった。本当によくわかっておらず、己の言動を訝しんでいるようだったのだ。


 きっと、何かされていたのだろう。その人物の言葉を信じるよう仕向ける、禁厭まじないのようなものが。


 一種の催眠術ではないかと鵜飼は推測している。そういったものは、汎用されるカデイ式降魔術にはない。それを可能とするのは、古式降魔術――陰陽術だけだ。


 それからも、他に知っていることはないかと聴取を進めいていた時、ひとりの生徒がふと声を上げた。


 数回会ったうちの一度だけ、偶然聞いてしまった言葉があるのだと言う。


 絶対復讐してやる――と。それがやけに耳に残ったのだと生徒は言った。


 復讐。今回の犯行を鑑みるに、嘉神学園を指しているに違いない。その人物は相当この学園に恨みがあるようだ。


 若い男で、嘉神に恨みがある。


 それを合わせて考えた時、鵜飼の脳裏にひとつだけ思い当たるものがあった。その考えを確かめるために、鵜飼は一旦聴取を切り上げて職員室に来たのだ。


「――あった」


 学園内で特別な許可を持っている者しか開けないファイルに目を通していた鵜飼は、ようやく目当てのものを探り当てた。


 それは数年前にあった、とある生徒の退学処分についての報告書だった。


 その生徒の名は、河西かさい凌吾りょうご。降魔術を不当に扱ったとして、一年の夏に退学を言い渡され、嘉神学園を去っている。


 彼は降魔術を脅しの道具として使い、普通科生から複数回に渡って金品を巻き上げていたのだ。


 降魔術を人間相手に行使するのは原則禁止されている。それも、相手が一般人ならば尚更だ。その現場を偶然見た別の普通科生が降魔科に報告し、現行犯で降魔科生に取り押さえられた。


取り調べをしていくうちに、河西は恐喝きょうかつだけでなく、喧嘩にも使って相手に怪我を負わせていたことが判明した。本人にまったく反省の色がなく、極めて悪質とのことで、問答無用で退学処分の決定が下されたのだ。


 報告書の文面にはそう載っている。この一件は、鵜飼が嘉神学園に配属されるちょうど一年前に起こった出来事のため、直接見聞きしてはいない。今はもう嘉神にいない先任の教師と話していて偶然この話になった時に、記録には載っていないことを話してくれた。


 退学を告知された時に、河西はこう言い放ったという。


 絶対復讐してやる――と。


 適霊機てきれいきを剥奪されれば、術者はカデイ式降魔術を使えなくなる。適霊機や術具は、降魔士教育機関もしくは術具販売店といった特定な場所でしか扱っていないうえに、ライセンス所持者しか入手できないようになっている。退学の時点でライセンスも取り消されるため、手に入れることはほぼ不可能となるのだ。


 河西がなんと言おうと負け犬の遠吠えでしかない。だから、嘉神学園は当たり前だがまったく取り合わなかった。


 自分が悪いというのに、お門違いも甚だしい。反省の意思がまったくないどころか、あまつさえそんな発言までしたというのだから呆れる。この話を聞いた時、鵜飼はそう思った印象が強く残っており、降魔科生から同じ言葉を聞いた時にはっと思い出したのだ。


 この話を聞いていなかったら、考えつかなかったかもしれない。よしんば考えついていたとしても、もっと後のことだっただろう。先任の教師には感謝しなければ。


 ともかく、これで犯人の正体ははっきりした。ずっとわからなかった犯人が学園を狙う動機も。この河西凌吾という男が犯人なのだとしたらすべての辻褄が合う。


 ライセンスも適霊機も失ったはずの河西は、どういうわけか術を操る手段を手に入れ、宣言通りに嘉神学園に復讐をしかけた。しかも彼は、玲子から聞いた話だと百鬼夜行ひゃっきやこうの一件にも関与しているかもしれないとのことだった。


 信じられないことだ。退学した元生徒が一体どうやってそんな大がかりなことができるというのか。


 彼がどうやってそのような手段を手に入れたのかも当然気になるが、ひとまず今考えることではない。


 鵜飼はもうひとつ、気になっていることを確かめるために機密情報のページを閉じ、今度は嘉神学園周辺マップのサイトを開いた。


 キーワードは、土御門深晴が残したという〝窺窬きゆする影は北方にあり〟という言葉。


 マップを拡大し、北側を入念に探っていた鵜飼はある場所に目を止めた。


「……そうか、わかったぞ」


 ここなら確かに高みの見物を決めるにはうってつけだ。深晴の言葉が真実この一件を指しているのであれば、おそらく今ここに河西がいる。


 犯人の居場所を割り出したはいいが猶予はない。急がねば尻尾を掴み損ねてしまう。これ以上後手に回ってなるものか。


 鵜飼はすばやくスマホを手に取ると、通話をかけた。


 数コール後に出た相手に、鵜飼は笑みを浮かべてこう言った。


「きみにちょうどいい遊び相手がいるんだが、興味はあるか?」



   △   △



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