星廻る輩 ☆肆

「まったく……」


 深々と嘆息した氷輪ひのわは、修練場ギャラリー欄干上からフロアを見下ろす。


 現在、昼休みを終えた特別授業、その実技演習の時間。そこにはAクラスの生徒たちがそれぞれ実技の練習をしていた。


 大半の生徒が何人かで集まって話し合いながら術の訓練をしている中、とある生徒がひとりだけぽつんと少し離れたところにいる。


 ゆらだ。


 響の周りにだけ人がいない。クラスメートから明らかに遠ざけられている。


 転科した響が心機一転、さぁ仲間を作るぞ――などと思うわけもなく、特に何も変わらずこの一週間を過ごした結果、現時点で響に友人と呼べる人間はゼロ。完全に孤立状態となっていた。


 とはいえ、それはなにも響が誰とも関わろうとしなかったから、という単純な理由だけではない。


 きっかけになったのは、数日前に行われた実習授業でのこと。


 教師が召喚した式鬼を妖異に見立て、縦横無尽に動き回るそれに術を当てて再起不能にさせる、という実技演習があった。


 五体ほどの式鬼をひとりで撃破せよという課題で、響は術を発動しすべての式鬼を落としたのだが、すぐに息を切らしてしまった。


 同じ数を相手にしていて、他のクラスメートは平然としているのに対し、響だけが明らかに疲れを見せていたのだ。それに他の生徒に比べ、時間もかかってしまった。


 それを見た生徒たちが、最初はすごい技術の持ち主だと思っていた響への認識を悪い意味で改めた。


 特殊な術を使うかと思えば、なんだ、全然たいしたことないじゃないか。格好つけて古式なんかを使っているから、時間もかかるしそんなに霊力を消耗してすぐにへばるんだ、と。


 響に対して、侮蔑ぶべつ嘲笑ちょうしょうが入り混じるようになったのである。


 術具を使わずとも高威力の術を出せるのはたしかにすごいかもしれないが、実践じっせんじゃ到底役に立たない。それなのになぜわざわざあんな術式を使うんだ、と。


 しかし、生徒たちが響を避けるようになったのはそれだけが原因ではない。


〝すぐへばるくせに、霊力の消耗が激しい廃れた術をわざわざ使っている〟というだけならば、響にそこまでの悪印象のみ抱く者はほとんどいなかっただろう。


 一番の原因は、響の姿勢だった。


 響の授業を受ける態度にはやる気が微塵も感じられない。これが生徒たちからの反感を買うこととなっていた。


 当然と言えば当然だろう。嘉神学園降魔科に通う生徒たちはみな降魔士になるべく真摯しんしな姿勢でもって降魔科の特別授業を受け、己の力を磨かんと努力している。


 それなのに、そんな中でやる気のない者がいればどうだろう。誰もが良くは思わないはずだ。


 転科までしておいて、とりわけ成績優秀者が集まるAクラスに振り分けられたというのに、真剣に取り組もうとせず向上心をまったく見せない。そんな奴がなぜトップクラスにいるのか、と生徒たちは不満を募らせた。


 そんな転科生のことはすぐに降魔科全体に広まり、特別授業クラスだけでなく一般授業クラスでさえも響に向けられる視線は今や冷ややかなものとなっていた。


「……まぁ反面教師、と言えば、いい活力剤にもなろうものだが」


 響を見て、あんな奴に負けてたまるかと息巻き、己を叱咤激励しったげきれいしてより一層力を入れ込めば、自身の技術もおのずと上がっていくだろう。


 ポジティブに考えれば降魔科全体に自己啓発の影響を与えている、とも言えないこともない。


 しかし、それでは響が悪役になって終わりだ。


 それはあまり喜ばしくない。響自身は何も報われないのだから。


 だというのに、当の本人はまったく気にしていない。これが本当にどうしようもなかった。


 響は周囲に対して非常に無頓着で無関心だ。


 他人にどう思われようがまるで興味がない。大体の人間は多かれ少なかれ他人に嫌われたくない、よく思われたいという気持ちがあるもの。だが、響にはそれが一切ないのだ。


 だから、友人や仲間を作ろうなどという考えがない。欲しいという気持ちすらもない。


 響はとにかくコミュニケーションをとるのが下手だ。それはもう超がつくほどド下手である。


 だから特別クラスだけでなく、一般クラスでさえも生徒たちとはまったく上手くやれていなかった。


 氷輪が懸念したとおりになってしまい、やれやれと首を振った。


 そんなわけで、響は普通科にいた頃と何ひとつ変わらず、誰とも関わることなく学校生活を送っているのだった。


 ――否、誰とも、というと語弊ごへいがある。その辺りの響の事情について知っている者も、中にはいるのだから。



   ▼    ▼



「玲子よ、どう思う」

「どうって……どうもこうも」


 楓の問いかけに、玲子はこめかみに親指を押し当てて嘆息した。愛生が苦笑を漏らす。


「いやー、まさかあそこまで尖った奴だとは思わなかったわ~」


 昼休みの生徒会室。


 玲子、楓、愛生が室内中央に据えられた長テーブルに座し、昼食をとっていた。三人から少し離れた場所で、とっくに食べ終えた要一が書類の整理をしている。


「尖っているというより、協調性に欠けるという感じだけど……」


 玲子は目下の悩みの種となっている彼女の顔を思い浮かべ、そっと息を吐く。現状に、玲子は非常に気を揉んでいた。


「だからとて、わしらがあまり構うわけにもいかんしの」


 降魔科生たちが響を嫌悪して遠ざけているのに対し、生徒会のメンバーだけは響に気さくに接している。しかし、それも現在の状況に関わっていた。


 生徒会に目をかけられている。


 どうやら周囲にはそう見えているらしく、それが降魔科生たちの不満をさらに煽っていた。


 挙句の果てには響が生徒会にびている。だからAクラスに入れたのだ――などといった根も葉もない噂まで飛び交っている始末。


 媚びるどころか、生徒会にすら無関心なくらいだ。


 生徒会は降魔科屈指の実力者が集っている。そのため尊敬と憧憬どうけいの念を抱かれており、他の降魔科生はおいそれと生徒会メンバーに近寄らない。


 しかし響は初めて会ったときから、先輩に対しても慇懃無礼いんぎんぶれいな態度だった。そんなことにはまったく興味がないとでもいうように。


 とはいえ、ここで響をかばったところで、状況はさらに悪くなる一方だろう。なぜそこまで一生徒の肩を持つのか、と。


 この一週間は〝転科してきたばかりでわからないことだらけだろう。生徒をまとめる立場である生徒会として、転科生を指導する義務がある〟というお題目でまだまかり通せた。


 しかし、今後はそうもいかない。さすがにこれ以上構うと、響がさらに白い目で見られてしまうし、生徒会も特定の生徒を贔屓ひいきしているという風に思われかねない。


 だから、玲子たちは響にあまり近寄れないでいる。響の立場をこれ以上悪化させないために。


「ったく、メンドクセーなぁ。アタシが誰と仲良くしようがどうでもいいだろーが」


 頬杖をついた愛生が不満の声を漏らす。


 愛生がただの降魔科生であったなら別にどうということはなかった。けれども生徒会という立場である以上、その普通が簡単にできなくなってしまっている。


 降魔科生たちは知らない。先日の大量に出現した妖異の群れによる嘉神学園襲撃事件、その一番の功労者が響であることを。


 響がいなければ、今頃学園は深刻な被害を被っていたのだ。


 それを嘉神の降魔科生が知らないのは、事件当日降魔科生は課外演習のために学園を留守にしていたからだ。


 事実を知っているのは、生徒会メンバー六名とAクラス担任鵜飼うかい、そして降魔士界で最も権力を持つ幸徳井家現当主にして玲子の父である幸徳井定俊さだとしだけ。響が輝血かがちであることを認知しているのも同様だ。


 それをその他の降魔科生にも伝えれば、また状況は変わってくるのかもしれないが話はそう簡単なものではない。それができたらとっくにしている。


 降魔科生にそれらを教えられない理由は、響はその時点では降魔科生ではなく、降魔術使用許可証を持っていなかった。そのため、資格を持たない者が降魔術を使っていたことが知れ渡ってしまったら、色々と問題になるからだった。


 いくら学園の窮地を救ったとは言っても、賞賛だけでは済まない。降魔科生でもなんでもない者が、無許可で降魔術を使ったことを言及されることはまずまぬがれないだろう。


 いかなる理由であっても、掟を破った者には相応の罰則が必要。ままならない世の中である。


 だから響の活躍を公表することはできず、隠蔽いんぺいせざるを得なかった。


 そういったいかんともしがたい様々な事情が重なったため、件の事件の解決者は学園に残っていた玲子ということになっていた。


 正直な話、玲子はそれに対して非常に複雑な気持ちを抱いている。たしかに自分も動いたが、できたことと言えば結界の修復だけ。


 学園に張り巡らされている結界が破壊されそうになるのを防ぐため、単身牛鬼ぎゅうきとやり合い、ボロボロになりながらも見事調伏せしめ、学園の窮地を本当の意味で救ったのは響だ。彼女が動いてくれなければ、結界の修復とてできはしなかった。


 しかし、それを公にできないせいで、降魔科生たちの目には『ぽっと出の転科生がやる気もないのにどういうわけか優遇されている』と言うように映ってしまっており、不満を蓄積ちくせきさせているのであった。


「せめて響にもう少し社交性というものがあれば、まだマシだったのじゃろうが……」


 別に無理に友人を作る必要はない。とはいえ、最低限空気を読んで周りに溶け込むなど、こう多少なりとも上手い立ち回りをしようとしていれば、ここまでの事態にはならなかったはずだったのだ。


 しかし、現状は。


「アタシは響、面白いと思うんだけどなー。あんなタイプ、今まで会ったことなかったしさ」

「そうじゃな。しかし、事情を知らぬ者から見れば、そうは思わんのじゃろう」


 疲れた様子で楓が首を振ると、愛生が唇を尖らせて黙り込む。


 そこで、それまで少し離れた場所で黙々と書類を整理していた要一が口を挟んだ。


「社交性よりも、学ぶ姿勢だろう。いくら事情があるとはいえ、降魔科に移ったのはやつ自身のためだ。ならば、多少なりともやる気を見せなければならない。だというのに、あんな態度では反感を買うのは当たり前だ」


 至極もっともな正論が射貫く。場の空気がさらに重くなった。


「こうなったのも私の責任ね」


 玲子が若干肩を落とす。そんな玲子を見て、要一は少し慌てた。


「う、鵜飼先生は何か言っていないのか?」


 降魔科生たちの不満は、担任である鵜飼も当然把握している。


 ――うーん、そうだなぁ


 この間玲子が意見を伺いに行ったとき、鵜飼は何か考える素振りを見せた。ただしそこまで深刻そうな顔はしていなかった。


 そうして、ただ一言。


「ま、そのうちなんとかなるさ――と」

「え、そんだけ?」

「ええ」

「はぁ~? 鵜飼センセー、いくらなんでもテキトーすぎじゃねーか?」


 呆れ顔をする愛生の横で、楓は玲子を見やった。


「玲子よ、降魔科に置くだけならば、なにもAクラスでなくともよかったのではないか?」


 玲子もそれを考えなかったわけではない。


 しかし。


 ――私が、みんな、守ってやる!


 満身創痍まんしんそういになりながらも放たれた力強い言霊が、耳の奥にこびりついて離れない。


「……いいえ、それではダメよ」


 首を振り、玲子は瞑目めいもくした。


「前にも言ったけれど、如月さんの力は間違いなくAクラス相当のもの。実力に見合ったクラスに配属しないと意味がないわ」


 理屈的にはそうかもしれないが、その結果が現状を生んでしまっているのだ。


 とはいえ、今更何を言ったところで事態が好転するわけでもない。楓はやれやれと首を振った。


「ともあれ、わしらが下手に動くわけにもいかんからのぅ。何か考えがあるようじゃし、ここは我らが担任に委ねるとしよう」

「……そうね」


 ふぅっと憂慮のため息をこぼす玲子を見て、楓がようよう口を開いた。


「前々から思っていたのじゃが、おぬしは随分と響を気にかけておるの」


 玲子はきょとんとした。


「……そうかしら?」


 どうやら無意識だったらしい。


「あー言われてみりゃたしかに、アタシもこんな会長見たことないな」

「ああ、俺もだ」


 愛生と要一も同意し、玲子は少し困惑する。先日、担任にも同じようなことを言われた。


「そんなことない、と思うけれど……」


 そんなことはある。


 楓は嘉神学園に入学する前から玲子のことを知っている。彼女の幼馴染である要一より付き合いは短いかもしれないが、それでも出会ってからそれなりに濃い時間をともに過ごしてきた。


 降魔士界の名門幸徳井家の出自であることを矜持きょうじとし、みなの前では常に毅然とした態度を崩さず、たとえ気心の知れた生徒会役員の前であってもめったに気を緩めることはないほど、他人にも己にも厳しい人格の持ち主。


 そんな玲子が、ひとりの生徒にここまで心を砕いている。


 これを珍しいと言わずしてなんと言うのか。


 三人の視線を浴びて少したじろいだ玲子だが、すぐに居住まいを正した。


「そんなに変かしら。私が如月さんを降魔科Aクラスに、と進言したんだもの。このくらい責任を持つのは当然のことでしょう」


 その声音は至って落ち着いている。別に嘘をついている様子はない。


 だが、本当にそれだけだろうか。


 そう思ったが、楓はそれ以上の言及はしないでおく。


「そうか、それもそうじゃな」

「ええ」


 玲子が真剣な表情で頷く。愛生と要一は少し顔を見合わせたが、黙って視線を戻した。


 そんな二人の様子に気づかず、ふっと息を漏らした玲子が窓の外を見やる。


「とりあえずは様子見ね。……少しは良くなってくれればいいのだけど」



   ▼   ▼



「汝はたいしたことがないそうだ」

「ふーん」

「霊力の消耗が激しい古式なぞ使っておるから、早々に動けなくなるのだと」

「へぇ」

「あのようなものは実戦で使い物にならない、そう言われておるのだぞ」

「そっかー」


 聞いているのかいないのか、響はなんとも気のない適当な相槌あいづちを打つのみだ。


 氷輪はいささか不満そうに鼻を鳴らし、ぴしりと尾を振った。


「無知極まりない戯言ざれごとばかりほざかれ、汝は口惜くちおしくはないのか?」

「べっつにー。どーでもいい」


 本当に心底どうでもよさそうな調子で言い捨て、響は購買で買ったおにぎりの最後の一口を口に入れた。


 いつもの場所で、いつものように響は昼休みを過ごしている。


 学園にいる間中でこの時間だけが、一番気が休まる。周りに人気がなく、自身を煩わせるものが何もないからだ。


 一般授業を終えて昼休みに入るとすぐに購買で昼食を調達してからここへ来る。そして次の授業が始まる五分前の予鈴が鳴るまで時間を潰す。嘉神に入学してから続いている響の日課だ。


「あーでも」


 口に含んでいたものを飲み込み、響は疲れたような顔をした。


「視線は鬱陶しいかも」

「それは自業自得であろう」


 ぴしゃりと言われ、響は口をへの字に曲げる。


 先日の実技演習以来、響はすっかり降魔科生たちのヘイトを集めていた。


 輝血である響は並外れた量の霊力を持っている。おいそれと枯れるようなものではない。


 だから事情を知らない降魔科生たちの、〝古式を使っているからすぐに霊力が枯渇こかつするのだ〟という認識は間違っている。


 むしろ、響の場合は〝霊力以外のもの〟がすぐに枯渇してしまうのである。


 降魔術は霊力を練って放つものだが、術を発動させるには霊力だけでなく、同時に体力と精神力が必要になってくる。


 霊力、体力、精神力。これらが三位一体となって、初めて術が発動できる。


 その中の精神力と体力が、響には致命的にない。だからすぐにへばってしまうのだ。


 仮に響の霊力が千あるとする。そして体力と精神力の値を百としよう。術を一回発動させるごとにそれぞれの値が十削られていくとすれば、単純計算で十回術を使ったあと、霊力以外の値がすべてゼロになる。


 そうすると、霊力は有り余っているのに、体力と精神力が枯渇しているため、術が発動できなくなってしまう。


 つまり霊力の総量に対し、その他のものが圧倒的に足りていないのだ。だから響はすぐにへばってしまうのである。


 そうは言っても、体力、精神力を輝血の霊力量に合わせることは、生身の人間には不可能だ。それほどに輝血の霊力は膨大なのである。


 しかし、霊力までとはいかなくても、ある程度まで上げることは可能だ。肉体的トレーニングなり精神的トレーニングなり、やり方はたくさんある。


 本人にその気があれば、の話だが。


「術なんて最低限使えればいいんだよ。襲ってきた妖異を倒せれば、それ以上のものなんていらないし」


 というのが響の持論だ。


「面倒だし、疲れることはしたくなーい」


 そうして、いつものものぐさを発動する。


 こういう態度があからさまなための現状であったりするのに、響は歯牙しがにもかけていない。


「てか、古式なんか使うからとかなんとか言われてもさぁ」


 言って、響はおもむろにスラックスへと手を伸ばすと、そのポケットから長方形の薄い板を一枚取り出した。大きさはトランプカードほどで、よくよく見ると回路のような線が中に入っている。


 これは符盤ふばんと呼ばれるカデイ式術具。霊力を注ぎ任意の始動語を唱えれば、符盤に組み込まれている術式が発動する仕組みとなっている。降魔士が使う基本中の基本たる術具のひとつである。


 以前、演習の授業で配られたその符盤を、響は右手の人差し指と中指の間に挟み、霊力を注ぎながら一言。


「爆」


 瞬間、符盤はバチバチッ! と音を立てて閃光を放ち、次いで煙を立ち昇らせた。それからうんともすんともいわない。


 これは響が想定した術ではなく、この符盤に刻まれた本来の術式でもない。


 なんの術も発動しないまま使い物にならなくなった符盤の残骸をつまらなそうに見やった響は、先ほどまで食べていたパンの包装が入ったビニール袋にそれを突っ込み、その口をきゅっと縛った。


「……こっちはカデイ式、使いたくても使えないんだっつーの」


 響が古式降魔術を使っているのは、格好つけたいだからだとかそんな理由では決してない。第一、響は目立つことが嫌いだ。


 そんな響が古式降魔術を使っているのは、それしか使えないからにほかならない。


 輝血の霊力は、霊力を持つ普通の人間のそれと性質が違う。より純度が高く、清冽せいれつだ。


 カデイ式の術具は輝血の霊力に対応していない。ゆえに、輝血の霊力が注がれるとそれに耐えきれず術具がオーバーヒートしてしまい、術式が発動する前に壊れてしまうのである。


「それがガラクタでよかったな」


 氷輪がくいと顎で示したのは、響の制服の右肩についている校章だった。


 たしかに、これに他の降魔科生同様の適霊機てきれいきとしての機能が備わっていたら、響が霊力を練った際に故障し、思わぬ事故に繋がっていたかもしれない。


 そうなっていたらきっと、響が輝血であるということもばれていたことだろう。それが回避できるだけでもまだマシか、と響は校章を指先でコツコツ叩いた。


 輝血が術者になれない原因のひとつには、カデイ式が使えないという点がある。


 降魔士が使っている術式はカデイ式。降魔士育成機関で教えているのもカデイ式。百年以上前に廃れてしまった古式を教えられる機関や人間は、今や皆無といってもいい。


 だから、輝血は古式降魔術を学ぶすべがなく、術者になることができないのだ。


 しかしその本来の枠から外れ、とある巡り合わせでその術式を身につけたのが響だ。


 古式降魔術は神仏の力を借りるため、霊力をかなり消費する。その点、霊力の量が膨大な輝血には適した術式なのだった。


 響が普段使っている術具は『』という短冊のような紙で、効果は符盤とほぼ同じだ。そしてそれはすべて自分で作成している。


 清浄な水でといた墨を筆につけ、生漉なますきの和紙に丹精込めて一枚一枚丁寧に文字や図を書き連ねていく。カデイ式が生まれる前の術者は、みなこうやって符を作成していた。


 符には主に攻撃に使う霊符れいふや、結界や障壁などを築いて自身の身を守る護符ごふ、怪我をした際に痛みを和らげたり血止めをするのに使う癒符ゆふなどがある。それらは用途によって書く文字や図が全然違うため、間違えないように精神を集中させて作らねばならない。


 それに対して、カデイ式の符盤は、特殊なプログラミング技術で作られたメモリーカードのようなものだ。


 メモリーカードに術式を組み込めば、それだけで符盤は完成する。古式と違って一気に大量生産が可能なため、符のように時間をかけて作る必要がない。


 それでいて、術はしっかり発動する。こういった点からも、やはり現代ではカデイ式のほうが重宝されている。術の威力が古式よりもやや低いことを鑑みたとしても、安全性も、効率性も、利便性もカデイ式のほうが遥かに上。


 だから、周囲からは廃れた術式にはあまり利点を感じられず、不要の長物にしか映らないのだ。効率も燃費も悪い古式をあえて使うだなんて時代遅れもはなはだしい、と。


「はーあ、もうホントにめんどー……普通科に戻っちゃダメかなぁ」

「さすれば、汝は今以上に自由がなくなるのだぞ」


 即座に氷輪から鋭い指摘を入れられる。響はわかってるってのーとうんざり顔で手をひらひら振った。


 響が降魔科に転科したのは、降魔術をなんの問題もなく使うためだ。


 転科を拒めば、無免許で降魔術を行使していた違法者として拘束するという脅しめいたものを受け、嫌々ながらも条件を飲み込まざるを得なかった。


 本来であればそんな条件を出す余地もなく即刻拘束、そして然るべき機関へと送還されて罰を受けていたはずなのだ。


 だというのに、真実が露見すれば世間からの糾弾きゅうだんを免れないというリスクを冒してまで、響を野放しにしないために学校側は転科という救済処置を提示した。


 響は非常に運がよく、普通ならばあり得ない破格の待遇を受けているのである。


 それはひとえに、響の実力があってこそだろう。響の力を目の当たりにした玲子に、このまま拘束して罰を受けさせるだけなのは惜しいと思わせるほどのものがあったからだ。


 ただ、そんな事情のために否応なしに降魔科に所属することになっただけで、響には降魔士になる気はさらさらない。その態度が降魔科生たちによく思われていないせいで、針のむしろに立たされているような状態なのであった。


 本当に面倒なことになったなと思う。


 中学生時代から普通科にいたときまでは、クラスメートの記憶からも希薄な存在だったので、こんなわずらわしい思いをせずに済んだ。


 誰にも干渉せず、誰からも干渉されず。


 そんな中で寄ってくるのは輝血を喰らい、力を得ようとする妖異だけ。


 そこで響は思考をシャットアウトし、肺が空になるほどの息をそれはもう盛大に吐き出した。


 据わった目で遠くを見る響に、氷輪がたずねる。


「汝は輩を持とうとは思わぬのか?」

「トモガラ? なにそれ、スープかなんか?」

「違うわ、たわけ者。仲間のことだ。友人と思えばよい」


 唯一、響の事情を知りながらも気にかけてくれている生徒会メンバー、特に玲子が響にあまり関わらないようにしていることは氷輪の知るところだ。


 降魔科生たちとは違い、これ以上響の立場をおびやかさないようにと気を遣っているのだということも察していた。


 だから、それ以外の仲間がひとりでもいれば、この現状を少しは緩和できるのではないかと氷輪は考える。


「んー……別にそんなものなくてもなんも不便じゃないしなー」


 しかし、響の反応は鈍い。その声音は普段と変わらず平淡だ。


「それにさー、他人といると疲れんだよね」


 脳裏をよぎったのは遠い昔の記憶。


 ――うそつき

 ――こっちこないでよ

 ――あの子の周りで奇妙なことが起こるらしいの

 ――気味悪い。うちの子に関わってほしくないわ


 心無い言葉に侮蔑のこもった眼差し。同年代の子どもから大人まで、誰もが忌避きひした。


 そういうのに、もう疲れてしまった。


 だからやめたのだ。


 他人に、不必要に関わることを。


「だからそのトモガラってゆーの? は、いらない。ひとりでいたほうがずっと気楽だしねー」

「……。そうか」


 氷輪はそれ以上何も言わなかった。


 式神である氷輪だが、主たる響の過去を知っているわけではない。彼女と出会ってからまだ一年と経っていない上に、本人も特に話したりしないからだ。氷輪自身も知りたいなどと思っているわけではない。


 しかし、響の言動を見ていればなんとなくでもわかるものはある。他人との交流が極端に少ないのは、彼女の態度に原因があるのは否定できない事実ではあるが、それだけではないこともまた事実。


 そもそも、輝血はまともな日常生活をまず送れないのだ。普通の人間関係を築くことなどもってのほか。


 だというのに、自力でここまで生活を送れていること自体がすでに奇跡で、常軌じょうきいっしているのである。


 たしかに、そんな状態の響に、これまでは普通の友人を持つことは難しかったかもしれない。


 けれど、今は状況が違う。


 今は、響と同じような力を持った人間が周囲に多く集まる環境だ。


 一般人には不可視の妖異が見える見鬼の才を持ち、人に仇なす魑魅魍魎ちみもうりょうを調伏する力を持つ、そんな術者たち。


 だから、本来であれば以前よりも響にも仲間と呼べる人間ができうるはずなのである。


 周囲からのヘイトを集めてしまっているこの状況では、今すぐには厳しいかもしれないが。


「…………」


 とはいえ、この先がどうなろうと氷輪は静観するのみだ。


 響に仲間ができようができまいが、正直氷輪にはどうでもいいようなことだった。主が孤独であることに関して不憫だとか哀れだとか、そういった情は一切ない。


 ゆえに、邪魔も手助けも、不要な手出しもしない。


 氷輪は響の式神ではあるが、絶対服従ではないし、主を正しい道へ導くなどといった使命感めいたものがあるわけでもない。


 使役しえきゆえに請われれば力を貸すこともあるが、それは基本妖異調伏に関することのみ。あとは自分の興味が惹かれたときだが――まぁ要するに気まぐれだ。


 幾星霜いくせいそうを生きる白澤が、とある人間の行く末に興味を持ち、退屈しのぎにしばらくそばにいてやろうと思った。


 興味が失せることがあればあっさりと見限る。これはただそれだけの話だ。


 氷輪は空を仰ぐ。目に映るのは、蒼穹そうきゅうの中で燦々さんさんと輝く太陽と、所々に散りばめられた雲のみ。


 しかし、昼間だから見えないだけであって、そこには無数の星も確かに存在している。夜と変わらず、天に浮かんでいるのだ。


 星は、人の一生を示している。ニュース番組などでよく流れる星占いでその日の運勢が出されることがある。それとて、元は陰陽道から来たものだ。


 生まれながらにして決められた運命。それが変わることなどまずありえない。


 しかし、本来変わりえぬはずの星が動いたのだと、先日確かな筋から話を聞いた。


 それが響の星。


 不動のものを動かしたのは、他でもない響の力だ。本人はまったく意図していない上に、そのことさえ知らないのだが。


 無意識でそんなことをやってのけてしまうぐらいには、響には未知数の力が眠っている。それも、おそらくは輝血とは関係なしに。


 そんなことが起こるから、氷輪は響とともにいる。


 さて、響のうんめいはこれからどうめぐっていくのだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る