4.窺窬する謀略

窺窬する謀略 ☆壱


   △   △



 昔から、何をやっても普通以上の結果を出せなかった。


 学業の成績は並。


 運動は苦手。


 人見知りで相手と上手くしゃべれない。


 容姿にも自信が持てるような部分がなく、それどころかコンプレックスさえ持っている。


 人よりも優れている部分は何ひとつなかった。


 けれど、それは常人と比べたときの話。


 なんの取り柄もないと思っていたのに、周囲の人間とは違うものを自分は持っていた。


 それは、化け物を視る力と、そんな化け物と戦うために必要な力。


 この現代日本の全国各地に出没し、人々を恐怖に陥れている人外の化け物、妖異ようい


 一般人には視認できない妖異を認知することができ、その妖異と唯一対抗できる術を発動するのに使う霊力が、自分には備わっていたのだ。


 妖異と戦い、なんの力もない一般人を守る役職『降魔士ごうまし』になれる素質がある数少ない人間のうちのひとり。それに気づいたとき、自分の中でじわじわと自負心が湧き起こって来たのを覚えている。


 だから、降魔士なろうと思った。こんな自分にしかできないことがあるのなら、それを活かしたいと思えたのだ。


 初めて家族が期待してくれた、というのも大きい。別にそれまで失望されていた、というわけではないが、やはり期待されると嬉しさが段違いだった。


 そしてこの春、降魔科ごうまかという降魔士になるために必要なことを履修する専門科を持つ高校になんとか受かり、入学を果たした。


 そこは実力でクラス分けをされるところで、自分が配属されたクラスはお世辞にもレベルが高いとは言い難がった。


 しかし、その学校には実力が上がればクラスも上がるという特殊なシステムがあったので、これから努力していけばいずれは上のクラスに行けるかもしれない。


 そうしていつかは、降魔科のエリート中のエリートだけが集う『生徒会』に自分も入ったりなんかして――なんて、そんな淡い夢を抱いて一生懸命頑張っていた。




 あの転科生が、来るまでは――。



   △   △



「んー、こんな感じでいいかー?」

「おー、なかなかいいできじゃん!」

「この調子でどんどんやっちゃお!」


 教室や廊下といった校内のそこかしこから声が飛び交っている。授業はすでに終わっており、現在は放課後なのだから騒がしさがあってもなんら不思議ではない。けれども、その雰囲気が普段とはどこか違っている。


 しかし、それも仕方のないことだった。なにせ、学生の時分にしか体験できない一大イベントが、もう少しで開催されるのだから。


 一週間後に学園祭を控えた嘉神かがみ学園は、その準備のためにぎわいをみせていた。


 七月に入ってから二週間ほど立つ。先日ようやく梅雨明け宣言がなされ、天気が崩れる日がめっきり少なくなった。


 その代わりとでもいうように、最近になって一気に気温が上がった。うだるような、とまではさすがにいかないが、最高気温が三十度近くになる日が出始めている。


 外では蝉のけたたましい鳴き声が随所で聞こえるようになり、それが余計に暑さを助長させているかのようだった。


 そんな夏が本格的になり始める頃に、毎年嘉神学園では学園祭が開催されるのだ。


 普通科と、専門の降魔科をあわせ持つ特殊な教育機関である嘉神学園だが、その学園祭自体は一般の高校のそれとそこまで遜色しんしょくがない。普通科と降魔科関係なく、各クラスで出店などの出し物をし、嘉神生以外の客を招くために学園内を一般開放する。


 変わったところを上げるとするならば、生徒会が妖異と出くわした際の対処法や、降魔科がどんなところかを講演する学校説明会を行うところぐらいのものだ。


 放課後である今、どこのクラスも自分たちの出し物のためにわいわいと騒ぎながら、準備を進めている。


 そんな活気に満ちた校内の廊下を、如月きさらぎゆらは歩いていた。何冊もの分厚いファイルを抱えて。


「まこと、騒々しきことよな」

「私はこの空気、嫌いではないな。昔、戦に勝利した暁には、我が君がよくうたげを開いたものだ」

「行事の祭りと戦後の宴は別物であろう、阿呆あほうめ」


 実に気の抜けるような会話を耳元で繰り広げられ、響は危うく片膝が崩れかけて軽くよろめく。


「む? なんだ、なんじ、もう疲労困憊こんぱいか? まだまだ仕事は残っておろうに、その為体ていたらくでは先が思いやられるな」


 そう言ったのは、響の頭上に乗っている仔犬のような生き物だ。ふさふさとした明るい灰色の毛並みをしており、額にひとつと胴体の両脇に三つずつ、赤い横線のような文様がある。


「すまない、響。私も手伝ってやりたいのだが、氷輪ひのわ殿に止められていてな……」


 今度は、響の右肩付近から別の声が上がる。


 そこには、羽の生えた子鹿としか表現できないようなものがいた。その小さな羽をパタパタと動かして宙を浮いている。


 この二体が、響がよろめく原因となった会話をしていたのだ。


 子鹿に氷輪と呼ばれた仔犬は、その愛らしい見た目とは裏腹に実に尊大な態度で鼻を鳴らした。


「この程度の些事など、式神の任ではないと幾度も言っておろう、暁鐘あかねよ」

「む……式神というのは、存外不便なのだな。主の役に立てぬとは」


 暁鐘と呼ばれた子鹿もまた、見た目にそぐわぬ物々しい口調で難しそうな顔をする。


 おそらく普通の式神が抱く不便さではない。暁鐘のそのどこかずれた感性はお国柄だろうか。良し悪しの話ではなく、単純に生まれ育った地域の差というのは少なからずあると思われる。


「だいたい、汝はもう少し自覚を持たぬか。我らほどの高位の存在が、人間に小間使いされることをとしてはならぬのだ」


 滔々とうとうと口弁を垂れる氷輪に、暁鐘は曇りなきまなこでこてんと小首を傾げた。


「しかし、我らは主と仰ぐ人間がいる式神ではないか。その主のために動かねば、式神としている意味はないのではないか?」


 そうだそうだ、と思わず口から飛び出そうになった言葉を、響はなんとか飲み込む。


 響はこの間一言もしゃべっていない。いや、しゃべれないのだ。


 ごく一部の人間を除いて、氷輪と暁鐘の姿は周囲の人間には見えていない。


 彼らのような霊的存在を認知するには、見鬼けんきさいといういわゆる霊視能力が必要だ。


 響の周りにいるのはみな見鬼の才を持つ降魔科生。だが、そんな降魔科生であっても、氷輪と暁鐘の存在に気づいていない。二体は霊気をぐっと抑え込んでいるため、よほど霊性の高い降魔科生でないと認知にまで至らないのであった。


 この二体、実は神獣である。氷輪はこの世の森羅万象に通じる知識の妖異『白澤はくたく』、暁鐘は風を自在に操る風伯ふうはく飛廉ひれん』という。


 そんな由緒ある神獣を、響は己の式神としていた。


 そもそも、式神を持つ術者自体が珍しい。


 式神は、一般的に自意識のある妖異が術者の使役しえきに下った存在である。自意識がなく決められた範疇はんちゅうでしか行動できない式鬼しきとは違い、式神は誰もが持てるものではない。妖異を使役とするには、術者と妖異双方の同意が必要だ。


 だから、式神を所有するということは、術者にとって大きなステータスとなり、周囲からも一目置かれるほどの所業なのだ。それが神獣ともなれば学園どころか斯界しかいが大騒ぎになるだろう。


 しかし、響には式神がいることを明言する気がさらさらなかった。なぜなら、その大騒ぎが非常にものすごくとてつもなく面倒くさいから、というただそれだけの理由である。


 名声などにはまったくもって興味がない。相手に侮られていても歯牙しがにもかけない。基本的に何事にも無関心。そして、ものぐさ。それが如月響という術者だった。


 加えて本妖ほんにんたち、というより、主に氷輪も自分の存在を誇示する意志がなかった。


 このことを知っているのは、学園でもごく一部の人間だけ。それ以外の人間には隠している、というのが現状だ。

ゆえに、人の目があるこんな場所で響が口を開けば、事情を知らない人からは独り言をぶつぶつ呟きながら歩いている危ない人間というふうに見えてしまうわけだ。


 誰にどう思われようと、それ自体は別に構わないのだが、変に目立つことだけは避けたい。響の嫌いなことの中には、〝面倒事〟の次に〝目立つこと〟がランクインしている。


 ちなみに、先ほど響がよろめいたのをすれ違った生徒が不審な目で見ていたのだが、本人は知る由もない。


 そんなわけで響は黙々と歩いているのだが、その目は据わっていた。つっこみどころ満載のこの会話を黙って聞いていなければならないこちらの身にもなってほしい。


 響はそっと息を吐く。最近すっかりこんな調子だ。


 今までは氷輪ひとりだけで、特に話題がなければ本当に何もしゃべらず静かなものだった。


 それが、つい先日から暁鐘と行動をともにするようになって一変した。


 暁鐘は見るものすべてが珍しいようで、何かと氷輪に尋ねている。最初は氷輪もわずらわしそうだったが、答えるたびに暁鐘が感心しさすがやら何やらと褒めそやしたのが自尊心をくすぐったらしく、今では聞いていないことまで自ら知識を披露することもある。氷輪チョロいなー。


 いつの間にやら呼び方も変わっていた。まぁお互いの存在自体は以前から知っていたようだし、同等の立場の妖異ゆえに意気投合するのもさもありなんといったところだろうか。


「よいか、暁鐘よ。式神は便利屋ではない。いざというときに力を発揮せねば、それこそ式神としている意味がないのだ」

「なるほど……確かにそれは一理ある」


 氷輪のやけに真面目ぶった言葉に、これまた至極真面目な顔つきで暁鐘が頷く。暁鐘は暁鐘で、氷輪の思ってもいない言い分を信じてあっさりと言いくるめられてしまう。暁鐘もチョロいなー。


 式神が二体に増えたにも関わらず、響の苦労はあまり変わっていなかった。


 そんな響が思うことはひとつ。


 式神、使えねー……。


 もういっそ人型の式鬼を自分で作って召喚したほうが早い気がしてきた。


 そんなことをわりと本気で画策しつつ進んでいくと、やがて目的地に到着した。


 響の目の前には大きな建築物がある。一見、普通の体育館のように思えるが実は違う。


 ここは、降魔科専用の修練場。降魔科生たちは、術を実際に行使する実技の授業をここで受けるのだ。


 普段は重厚な扉で締め切られている修練場だが、今は開け放たれている。中からかすかに話し声が聞こえてきた。


 数段の石階段を上って場内に入っていくと、真正面の壁側にステージが設置されていた。普段はないものだが、一週間後に必要になるため組み立てられたのだ。


 組み立てはまだ途中の段階で、今後両端に袖を作るための暗幕や、映像を映すためのスクリーンが取り付けられるはずだ。椅子の搬入もそのあたりだ、と聞いた。


 そんなステージの前に、ひとりの女子生徒がいた。手元の紙束に目を落としながら、他の生徒へ指示を出している。


 学園祭の一日目に、ここを会場として生徒会による学校説明会が開かれる。その準備をこの場にいる生徒会役員が行っているのだ。


「かい――あー……玲子れいこ先輩」


 つい出そうになった呼び方を寸前で改め、響が声をかけると、その女子生徒――幸徳井こうとくい玲子が振り向いた。


「持ってきましたけど」

「ありがとう。ここに置いておいてもらえるかしら」


 玲子の指示に従い、響は抱えていた荷物を台の上に置いた。


 一気に肩が軽くなり、ふぅっと息を吐きながら腕をぐるぐる回す響に、玲子が声をかける。


「お疲れ様、響」

「はぁ、どうも……」


 労いの言葉をかけた玲子は柔和な表情だ。


 暁鐘の一件を経て、共闘した響と玲子の距離は多少縮まった。まだ慣れないが、互いの呼び方も変わった。


 そのせいか、なんだか玲子が以前よりも優しくなった気がする。


 まぁ、玲子は元々そこまで厳しくはなかったような……いや、そうでもないな。この生徒会の雑務という罰則は、玲子から与えられたものだ。やっぱり厳しい。


 なんとも言えない複雑な表情をした響に、玲子が少し首を傾けた。


 と、響の頭上から氷輪が玲子に尋ねる。


「準備は順調か?」

「はい。特に遅れもありませんし、滞りなく」


 玲子の慇懃いんぎんな返答を聞いて、氷輪はうむと頷いた。


「引き続き、遠慮なくこれを使うがよい」


 そう言って氷輪がぺちぺちと尻尾で響の後頭部をはたく。それにイラっとした響がその尻尾をむんずと掴み、ぽいっとその辺に投げ捨てた。


「のわっ!?」


 すんでのところで着地した氷輪が、響の足元で抗議する。


「汝! 我はこのようにぞんざいに扱われるような存在ではないのだと、幾度申せばわかるのだ!」

「それ、こっちのセリフだから。こうなるってこといい加減わかるでしょ。知識の神獣のくせに学習能力ないわけ?」

「な、な、な……っ」


 舌戦が繰り広げられるが、ふたりのこのやり取りにはさすがに慣れたもので、周りは誰も気にしていない。


「暁鐘よ、汝からもこの不埒者に何か申してやれ!」


 水を向けられ、暁鐘がふむとふたりを見比べる。


「神獣であろうと、分け隔てなく接するその姿勢……我が君を思い出す」

「……なに?」

「それほどに、そなたたちの仲が良いということなのだろうな」

「……汝に聞いた我が愚かであった」


 氷輪ががくりと肩を落とす一方で、自分もいつかは響とこのぐらい気さくなやり取りができるのだろうか、と暁鐘はわずかな羨望せんぼうの気持ちを抱くのだった。


 それらを微苦笑を浮かべて見ていた玲子は、響に目を向けた。


「こちらのほうは、今日はもういいわ」


 ということは、これでやっと帰れる。一息吐いた響に、玲子がふと尋ねる。


「出し物のほうの準備は進んでいる? 響のクラスは、たしか軽食店だったわよね」

「あー、はい」


 クラスの出し物については、色々と案が出されたのち、現実的にできそうなものを考慮した上で投票制にし、最終的に軽食店となったのだ。


 降魔科は普通科とは違って準備期間が取りづらいため、二クラス合同で出し物をすることになっている。


「響の分担は?」

「一応、調理を」


 響がそう答えると、玲子が意外そうな顔をした。


「あなた、料理ができるの?」


 響は肩をすくめた。


「消去法ですよ。フロアスタッフよりマシなんで」


 分担を決める際、響と同じクラスであり、同様の罰則を受けている三船みふね梨々花りりかがテキパキと役割を采配したのだ。


 おそらく響の性格を考慮してのことだろう。納得した玲子が苦笑する。


「たしかに、接客は大変だものね」


 その梨々花と、もうひとり同じく罰則を受けているたかむら竜之介りゅうのすけは早々に役割を果たし、自分たちの出し物の準備のほうへ行ってしまった。


 二人とも中心人物として、クラスを主体で動かしている。響は本当によくやるなぁと他人事だ。自分は絶対そんなことやりたくない。


 ちなみに梨々花は自発的にまとめ役を買って出たが、竜之介はじゃんけんで負けたからだった。とはいえ、やる以上は半端なことはできないと、彼もちゃんと仕事をこなしている。


「ふむ。ならば、時間が空いた時に行ってみてもいいかもしれんな」


 ふいに声が挟まれ、響は思わずびくっと肩を動かす。


 気づけば、古河こがかえでがすぐそばにいた。つい先ほどまではいなかったのに、一体いつからいたのだろうか。というか音もなく忍び寄ってこないでほしい。心臓に悪い。


 驚く響とは違って一切動じていない玲子は一度瞬きをし、次いで窺うような目を響へと向けた。


「はぁ、まぁ別にいいんじゃないですかね」


 響が適当に返すと、玲子はなんだか安堵したような表情をする。


「そう。じゃあ、余裕ができたら覗きに行くわね」


 はぁどうぞ、と響は頷いた。わざわざそんなこと聞いてこなくても、好きにしたらいいのに。


 多少は仲が深まったとはいえ、親しくしたい後輩とのコミュニケーションが手探り状態の玲子と、他人の心情の機微に疎く鈍い響の間に生じる齟齬そごは、まだまだ消えてくれないようだった。






 響が雑務を終えて教室に戻るころには、完全下校時間まで残りわずかとなっていた。


 廊下の窓越しに見える外はまだまだ明るい。夏至が過ぎてそろそろ一ヶ月となる。日が短くなっていく一方とはいえ、今時分は十九時付近にならなければ暗くならない。


 梅雨を終えたあとの日が長いこの時期は、妖異の活動時間も減る。いいことだ。


 そんなことをぼんやり考えながら教室に入り、自分の席に向かう。


 ここは一般授業を受ける一年生の教室だ。いつもは特別授業のときに使っているAクラスの教室に荷物を置いているのだが、Aクラスは三年生の教室があてがわれている。


 この学園祭準備の間は、放課後になるとクラスの出し物のために三年生が使うため、六限が終わると該当生徒以外は一般授業の自分のクラスに荷物を置く決まりとなっていた。


「あ、響。お疲れ~、今終わったとこ?」


 机の横にかけてあった指定鞄を手に取った矢先、背後から声をかけられた。


 このクラス――否、降魔科で響にこれほど気さくに声をかけてくる生徒は現在ひとりしかいない。


 振り返れば、やはり梨々花がそばまで寄ってきていた。


「まぁ……」


 なんだか嫌な予感を覚えながら煮え切らない返答をするも、そんな響の小賢しい抵抗は効かないとばかりに梨々花は頷いた。


「そ、ならよかった。あたしもちょうど帰るとこだったし、一緒に帰ろ」

「えー……」

「ちょっとー、そろそろそういう反応するのやめてよね。ていうか、いい加減慣れてよ」


 響があからさまに嫌そうな顔をするのも構わず、ほら行くわよと梨々花は問答無用で出入口に向かいだした。響の扱いにももはや手慣れた梨々花である。


 嘆息した響は鞄を肩にかけ、渋々彼女のあとに続く。すると、響の頭上にいた氷輪がひょいと飛んで鞄の上に移動し、響の左側を暁鐘がパタパタと飛んでついていく。


「もうすっかり学園祭ムードね~」


 まだ校内に残っている生徒の数を見て、梨々花が独り言ちる。


「ま、テストも終わって学園祭のあとはすぐに夏休みだもんね。そりゃ誰だって浮かれるか」


 そこまで言って、何かを思い出した梨々花がふと響に顔を向けた。


「にしても、ホントにびっくりよね」


 言って、梨々花が響をまじまじと見つめる。


「まさか響が頭いいなんて思わなかった」


 若干失礼な言い草だ。しかし、響は特に気にしていない。別にー、とどうでもよさそうに返すだけだ。


 梨々花が言っているのは、先週行われた期末テストのことである。


 降魔科といえど、定期テストは普通科と変わらずにある。違うところといえば、降魔科のテスト科目が普通科と比べると少ないといったところだろうか。


 それはともかく、響は文系科目の得点がほとんど七十点を超えていたのだ。理数系はそれより下だが、それでも平均よりは高い。


 響は元々物覚えはいいほうだ。覚えようという関心さえきちんと持てれば、それらを記憶することはどちらかといえば得意なほうである。でなければ、長い呪文や正しい所作を必要とする古式こしき降魔術ごうまじゅつを扱えない。


 勉学がそこそこできるのは、単にテストの追試を受けたくないという思いからにほかならない。定期テスト自体が面倒極まりないのに、補習や追試などはもはや地獄だ。なら手っ取り早く一回のテストで事なきを得たほうがいい。


 そんな後ろ向きに全力疾走なものぐさ精神から、響は一応それなりに勉強をしているのだった。


「うらやましー……。どうやったらそんないい点とれんのよぉ」


 そう言う梨々花は、全教科平均点ギリギリだった。


 赤点を取れば、当然補習や追試が待ち受けている。それらは降魔科の特別授業の時間に割り当てられるため、授業が受けられなかった分だけ、他の降魔科生との差が開いてしまうことになる。だから、降魔科生は一般授業の科目の勉学も怠らずにこなしているのだ。


「あの竜でさえ、めっちゃ頭いいんだもんなぁ」


 竜之介は、学年で十位以内に入っている。


 響も上の中か、少なくとも上の下には絶対入る。本人は順位などはどうでもよく、微塵も興味がない。補習や追試にさえならなければそれでいいのだ。


「せいぜい蹴落とされぬよう勉学に励むことだな」


 鞄の上に乗った氷輪の言葉に、梨々花がムッとした顔をする。


「相変わらず偉っそーな仔犬さんね」


 氷輪の眉が一瞬ぴくっと動く。


「この我を家畜と同視するでない。何度言えばわかるのだ小娘」

「なら、いい加減正体教えなさいよ」

「ふん、甘ったれるでないわ。汝はなんでも教わらねばわからぬのか?」

「く……っ、ほんっとにかわいくないわねぇぇぇ……!」


 見た目だけならまだ愛嬌あるのに、と梨々花がぼそっと呟く。


「氷輪殿、少しばかり言い過ぎではないか?」


 なだめるように言う暁鐘に、氷輪はジト目を向けた。


「言い過ぎなものか。そも、汝とて子鹿などと呼び称されるのは遺憾いかんであろう」

「私は構わないが」

「ほーら、子鹿さんのほうが話わかるじゃない」


 梨々花は氷輪を仔犬さん、暁鐘を子鹿さんと呼んでいる。以前は氷輪のことは式神さんと呼んでいたが、暁鐘が増えてからややこしくなるからとそう呼ぶようになったのだ。


 氷輪と暁鐘は、梨々花に正体を明かしていない。竜之介にもそうだ。真実を知っているのは、響を輝血かがちと理解している者たちだけである。


 氷輪とて最初は猛抗議していたものの、じゃあ一号二号にするけどと梨々花が言ったら、ものすごく不満そうな顔をしながらも不承不承の体で妥協したのだった。


 式神に主がつけた名がある場合、それを他の術者が軽率に呼んではならない。与えられた名は契約の証にして、魂を縛るもの。魂そのものと言っても過言ではない。その魂に他者が安易に触れることは、ある意味禁忌なのである。


 だから、種族名すら知らない梨々花は、仕方なくなんの意味もこもらない適当な呼び方をしているのであった。


 そうこうしているうちに昇降口に着き、二人は靴を履き替えて外に出た。


「……あれ?」


 ふいに梨々花が足を止める。昇降口を出てすぐ、何気なく視線を向けた先に二つの影を認めたのだ。


 どちらも知っている顔だ。ひとりは、寮で梨々花の同室相手である早瀬川はやせがわ佳澄かすみ。そしてもうひとりは、同じく響の同室相手、小坂こさかまきなであった。


 二人は何やらひそひそと話しながら歩いており、やがて校舎の影に隠れてしまった。


「佳澄たちだ。何してるんだろ」


 もう完全下校の時間だ。梨々花と響だけでなく、残っていた生徒たちも続々と昇降口から出てきているというのに、忘れ物でもしたのだろうか。


 梨々花の親友でもある佳澄は、このところすこぶる付き合いが悪くなっていた。寮でも、彼女が自室にいる時間が減っている。以前は消灯時間までおしゃべりに興じていることがざらだったのに、今ではそんなこともすっかりなくなってしまっていた。


 梨々花には友人の行動を制限する権限など無論ないので、何も言えずにいる。梨々花自身も生徒会の雑務だったり、ここ最近では学園祭の出し物だったりで忙しなくしているため、そういうのも理由のひとつではあるが、挨拶以外はろくに話せていないというのが現状だった。


 そのせいかなんなのか、近頃佳澄は以前から付き合いがあったというまきなと行動をともにしているようなのだ。二人一緒にいる姿を見かけることが多くなった気がする。


 二人が消えた方向を見ていたそんなまきなの同室相手である響は特に気に留めることなく、さっさと歩を進めていく。


「あ、ちょっと待ってよ、響!」


 梨々花が慌てて響を追いかける。まぁ、そこまで心配しなくても大丈夫だろう。本当にただの忘れ物かもしれないし、文化祭の準備のことで頭がいっぱいになって気づいていないという可能性もある。


 教師に見つかったところで早く帰れと注意されるぐらいだろう。そう考えて、彼女は響のほうを優先してしまった。


 この時佳澄に話しかけなかったことを、のちに悔やむことになるのも知らずに。


「…………」


 氷輪はそっと背後を一瞥いちべつした。その表情はやや険しい。


 氷輪も、まきなと佳澄の存在には気づいていた。


 あの二人は響を嫌っている。それも過剰なほど。そのせいか、どうにも引っかかるのだ。


「氷輪殿、いかがした」


 その辺の事情に疎い暁鐘が、氷輪の様子を見て首を傾げた。氷輪は首を振る。


「……いや」


 形容しがたい不穏な空気を感じつつも、その正体がわからないまま、氷輪は視線を正面に戻した。



   ▼  ▼



 学園祭二週間前になると、普通科は二週間前から火曜日と木曜日の六限が、丸々学園祭の準備時間として与えられる。各々の出し物のために小物を作ったり、教室を装飾したりできるのだ。


 対して、降魔科は放課後しか準備の時間が取れない。そもそも必修科目を履修する一般授業自体が少ないため削る余地がなく、専門科目を履修する特別授業を外すことは論外。なので、降魔科は通常どおり特別授業が行われる。


 ――とはいえ、降魔科生とて学生。在学中の学校の学園祭を楽しむ権利は当然ある。


 ということで、降魔科は学園祭の一週間前に限られるが、授業数は減らない代わりに特別授業の時間が十分短縮されることになっていた。通常一限九十分のところが、この期間だけ八十分になるわけだ。


 そして現在、Aクラスの降魔科生が修練場に集まり、六限の実技の授業が行われていた。


 今回の実技授業の内容は、俊敏な妖異に対抗するための戦闘訓練ということで、制限時間内にすべての的を術で壊すこととなった。


 クラスの生徒全員が行い、みな順調にクリアしていく。


 響も制限時間内にすべて壊すことができるにはできたが、時間ギリギリでAクラス内で一番遅かった。


 こういった演習で、毎回響の結果はクラス内で最下位だ。本人が特にいい結果を出そうとしていないせいである。


 タイムの遅いほうだった他の生徒は悔しがっているのに、最下位の響だけは平然としたものだった。


「……おい、あんなんで、本当に〝羅刹らせつ〟を倒したのか?」

さらわれたらしいじゃん。それを駆けつけた会長が颯爽と助けたんだろ?」

「でも、会長は決定打はあの子がって言ってたよ」

「てか、雷獣の時もそうだったけど、なんであいつばっかり……」

「ね、タイミング良すぎって感じ」


 どこからともなくひそひそと囁き声が波立つ。響の動きを見ていた一部のクラスメートの表情は胡乱であった。


 その会話は、氷輪とともに修練場のギャラリーで見ていた暁鐘の耳に届き、なんのことを言っているのかをきちんと理解したその目に影が落ちる。


 先月発生した、とある一体の妖異が中部地方の市町村をいくつも襲い、人を食い殺した通称『中部羅刹事件』。それに、暁鐘が深く関係していた。


〝羅刹〟とは、ひとつの市町村を一晩のうちに壊滅させるほどの驚異的な妖異、または脅威的な力を持った正体不明の妖異に対してつけられる異称。


 その〝羅刹〟の正体が、暁鐘なのである。


 暁鐘は何者かの手によって呪詛じゅそを仕込まれ、人々を食い殺すよう仕向けられていたのだ。


 そして香弥こうやに現れた暁鐘に響が呪詛返しを行い、見事その呪縛から解き放った。その件があって、暁鐘は響の式神へと至ったという経緯がある。


 表向きには、〝羅刹〟は響と玲子の手によって調伏ちょうぶくされ、一連の事件は解決したことになっている。


 しかし、響が普段から周囲に本気を見せないせいで、本当に活躍したのか疑われているのだ。


 響は自分に対して無頓着で、周囲に対して無関心だ。だから、別にどう思われてもいいと思っている。そのため、なんと言われようとそれを証明しようとすることすらしない。


 そんな響の性格が災いして降魔科全体から反感を買っており、今の状況を作り出しているのだ。

 

 事情を知っている生徒会とAクラス担任の鵜飼うかい兼人けんと以外では、梨々花と竜之介だけが響の実力を認めていた。


 そうして時間は過ぎ、授業の終わりを告げるチャイムが場内に鳴り渡る。


「よし、今日はここまでだ」


 集まった生徒たちの前で鵜飼が総括する。


「学園祭も目前に迫って気持ちが浮足立つのはわかるが、授業内容をしっかり覚えておくように」

「はい!」


 そこで、鵜飼はそれまで真剣だった表情をふっと和らげた。


「降魔科はどうしても出し物に力を入れづらいが、学園祭は思いっきり楽しんでいい。学生の特権だ」

「はいっ!」


 先ほどよりも弾んだ声が返ってくる。鵜飼はうんうんと頷き、解散を言い渡した。


 ぞろぞろと修練場を去って行く生徒たちに混じり、響もまた出入り口に向かう。


 ギャラリーにいた式神二体が合流するのを見た鵜飼は、その背中に投げかけるようにそっと呟いた。


「――きみも、楽しんでくれるといいんだが」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る