もうひとつの盟約 ☆弐

   ▼   ▼



 男は住宅街の道を早歩きで進んでいた。


 今日は日中小雨が降った程度で今はやんでおり、うっすらと空を覆った雲の隙間からは星が覗き、時折ときおり月明かりが差し込む。


 じきに日付が変わる。すっかり遅くなってしまった。早く帰って一杯やりたい。


 その一心でひたすらに足を動かす。そうして、角のへいを曲がった時。


 ふいに月に雲がかかり、月光がさえぎられる。


 瞬間、爆風が吹き荒れた。


「うわっ……!」


 あまりの強さに足の踏ん張りが利かず、男は尻もちをついた。叩きつけられる風で呼吸がままならず、両腕で顔面をかばってやり過ごす。


 その頭上を何か巨大な影が通り過ぎて行った、気がした。


 はっと見上げるも、強風のせいで目がまともに開けられずその正体を知ることは叶わなかった。


「な、なんだったんだ……?」


 やがて風がやみ、辺りが落ち着きを取り戻した頃、男は呆然と呟いた。


 身を起こした男は衣服についた砂埃を払い、視線を正面に向け――目を見開いて固まる。


 目の前に広がっていたのは、半壊した住宅だった。


「こ、これは……一体、なにが……」


 衝撃的な光景に、発した声はか細く震えていた。


 先ほどの暴風があまりにも凄まじかったせいか、様子を見に人が徐々に集まり出す。


 その時、立ち尽くしていた男の頭上から、微かに月光が降り注ぐ。


 月明かりが目前を照らした時、男は確かに見た。


 その半壊した瓦礫がれきの至る所に付着した赤黒いものを。


 そして、その付近に落ちている何かを。


「……っ……あ……」


 ひくりと息を飲み込む。脳が理解することを拒んでいる。


 けれども、目の前の凄惨せいさんな光景は、否応なしに状況を突きつけてきた。


 飛び散っている赤黒いものは、血。


 そして落ちているものは――上半身のない、かつては人だったもの。




 夜更けの空に、金切り声が響き渡る。



   ▼    ▼



「……ねっむ」


 半分閉じたような目をさせながら、ゆらはもぐもぐと朝食を口へ運んでいた。


 ここは降魔科寮の食堂。寮の棟と浴場は男女別だが、食堂は共用だ。


 十個ほど設置された長机に寮生たちが好きに席を取り、各々朝食を食べながら賑わいを見せている。


 そんな食堂の一番端の机の、これまた一番隅の目立たない席に響はひとりで座っていた。周囲に人はなく、同じ机でも少し離れたところで他の寮生がまとまって座している。


 大半の寮生は仲の良い者同士で好きに集まって食事をとっているが、響は朝食も夕食もいつもひとりだ。普通科寮にいた頃からずっとそうしてきているので、今更なんとも思っていない。むしろこれが響にとっての平穏な日常だ。


 寮だけでなく学校にいる間も、響は誰とつるむでもなく悠々自適にひとりの時間を過ごしていた。


 少し前までは。


「響、おっはよー。わ、すっごい眠そう。本当に朝弱いのね~」

「…………」


 対面の席になんの断りも入れずに座ってきた梨々花りりかに、響は怪訝けげんな顔を向ける。


「なんで……」

「えー? 知り合い見つけたらそっち行くでしょ、普通」


 梨々花がきょとんとした顔で小首を傾げる。その口調はさも当たり前と言わんばかりに断定的だ。


 勝手に座らないでほしいんだけど……。そうは思いながらも口に出すことを面倒がり、響はただため息を吐く。


 雷獣らいじゅう襲来の一件以降、梨々花はなにかと響に絡んでくるようになっていた。


 特別教室にいてもそうだ。他の降魔科生たちは響と一切関わろうとしないのに、この女子生徒だけは平然と話しかけてくる。


 普段は仲の良い子らと一緒にいるのだが、響と目が合うと手を振るなどなにかしらのアクションを必ず取る。


 それを響はおざなりにしているが、梨々花は特に気にしていないようだった。たまに文句を言ってくるときもあるが、それも別段本気で怒っているわけではなく、次の瞬間にはころっと話を変える。……響がそれに対しても適当に流しているから諦めている、というのもあるかもしれないが。


 もっとも、響がそんな態度をとってしまうのは、相手に関心がないというのも少なからずあるが、どうすればいいのかわからないというのが大きいせいだった。


 響はとある事情のせいで、人と関わることを極端に避けてきた。自身の気配を殺し、目立たないようにひっそりと行動するといったことをずっと続けてきたのだ。


 その結果、他人や物事への関心がだいぶ希薄になってしまった。いっそ薄情ともいえるほどに。


 しかし、それが最近になって徐々に誰かと行動したり会話したりということが増えた。


 それまでまともに人と接することをしてこなかった響は、この状況に正直なところ戸惑いを覚えている。


 友人というものもほとんど作ってこなかったため、相手との接し方や距離感をどうにもつかみ切れずにいるのである。


「小娘、なぜなんじがここに来るのだ」


 氷輪ひのわがそう問いかけると、梨々花はそっと周囲の様子を伺った。近くに人がいないことを確認し、頭の向きを響のほうから動かさないまま目だけを氷輪に向ける。


「いつもは同室の子と食べるんだけどねー。今日はあたしひとりなの」


 開いた口から放たれた声はトーンを落としたものだった。


 妖異の類である氷輪の姿は常人の目には映らない。そういったモノを見るには〝見鬼けんきの才〟と呼ばれる霊視能力が必要不可欠だ。


 降魔士になるためには必須の能力で、この嘉神かがみ学園降魔科に所属する生徒たちはみな持っている。


 しかし、氷輪は響の式神であり極限まで霊力を抑え込んでいるので、並の見鬼の才を持つ者では、その目に映ることはない。


 見鬼の才にも強さがあり、その最低ラインが妖異の姿が見えること。そして、強い見鬼の者はそうやって霊力を抑え込んでいるものでもある程度見えるほか、遠くにいる妖異の気配を察知することができたり、妖力や霊力すらも視認できたりする。


 現在校内で氷輪を認識できているのは、あるじである響以外では生徒会とAクラス担任、それから梨々花と竜之介りゅうのすけだけだった。


 以前は梨々花と竜之介にも氷輪の姿は見えていなかったのだが、一度氷輪が彼らにもわかるほど霊力を強めたところ、それ以後も普通に見えるようになっていた。


 響は氷輪の存在をおおやけにしていないし、氷輪自身もひけらかそうとは思っていない。術者には『式神と主の関係に第三者がむやみに触れてはならない』という暗黙の了解があるので、周囲もそれについて言いふらすことはない。


 そういった事情から、氷輪の姿が見えている者は、周囲にそれが露見しないように気を配っているのだった。


「んで、席探してたら響が見えたから、ここに来たってわけ」


 梨々花の説明に氷輪がふむと頷く。響は特に関心を示さず黙々と食事を進める。


佳澄かすみ……あー、あたしと同室の子ね。その子が、別の子に用事があるとかなんとかで先行かれちゃってさー」


 なーんか最近付き合い悪いのよねぇ、と梨々花は独りちた。


「ほら、響と同室の……小坂こさかさん、だっけ。その子と昔から仲いいみたいで、ここんとこずっと一緒にいるみたいなんだよね」

「ふぅん」


 響のまるで気のない反応に、梨々花が目をぱちくりと瞬かせ、視線だけ氷輪に送りこそっと話しかけた。


「……え、なに、上手くいってないわけ?」

「そうなるな」

「なんで?」


 氷輪がふんと鼻を鳴らし、響を一瞥いちべつした。


「こやつの悪評のせいよ」


 その言葉で、梨々花があーと納得した。


 降魔科生はみな立派な降魔士になるべく熱心に授業に臨み、努力を惜しまず日々研鑽けんさんを積んでいる。誰もが真剣で、全力だ。


 しかし、そんな周囲とは違い、響はそういった姿勢をまったく見せない。向上心など微塵みじんも感じられず、まるでやる気のないその態度は、およそ降魔士になりたいと思っている者のそれではなかった。


 そのせいで、響の降魔科での評判はだいぶよろしくない。普通科から降魔科へ異例の転科を果たした生徒として注目されていただけに、余計その反動が大きかった。


 しかも、響の所属がAクラスになったのがいけなかった。


 Aクラスは降魔科の中でもかなり優秀な生徒しか入れないクラス。そんな誰もが憧れるクラスに配属されたにも関わらず、響の姿勢がそこにいるのにふさわしくない不真面目さだと反感を買っているのだ。


 転科して間もない頃の好奇の目は次第に失望へと変わり、今や響を侮蔑ぶべつする生徒ばかりである。


 降魔科生が響に関わろうとしない理由はここにあった。


 周囲からうとまれけむたがられているというのに、響はそんなことはまったく関係ないとばかりに平然と過ごしている。それがさらに降魔科生のかんに障っているのだが。


 だからといって響に何か手出しをするわけではなく、あんなやつに負けてなるものかという敵愾心てきがいしんを燃やし、己を叱咤しったして自己研鑽に励む者ばかりだということが、幸いというべきだろうか。


 そういったことがあり、最初は何かと世話を焼いてくれていた響の寮での同室相手――小坂まきなだったが、今では話しかけてくることがぱたりとなくなり、それどころか響などいないものかのようにあからさまな避け方をしているのだった。


「なにそれ……。さすがにひどくない?」


 話を聞いていた梨々花が眉をひそめた。まきなとはあまり話したことはないが、遠目から見ている限りでは気弱そうな雰囲気で、他人にそんな態度をとるような子とはとても思えなかったのに。


「響、そんなんで平気なの?」

「別にー、特に困ってないし」


 すげない返答に、梨々花は呆れ混じりに息を吐く。


「みんな、響のことわかってないだけよ」

「…………」


 響は何も言わず、黙々と食事を続ける。


 わかってない、か。


 氷輪はすっと目を細める。それを言ったら、梨々花も本当の意味で響をわかってはいない。


 梨々花は最初から、他の生徒ほど響に対して敵意を持っていなかった。雷獣戦で共闘してからは、さらに響と親交を深めようとしている。それは彼女が生来持つ本質ゆえなのだろう。


 とはいえ、梨々花が響に関わるようになってからまだまだ日は浅い。何より、響自身がまだ彼女に心を開いていない。


 もし。


 もし、響が〝背負っているもの〟を知ったとき、果たして彼女の態度は変わらずにいられるのだろうか。


「でも、響も響だと思う。あんなすごい術が使えるのに、どうしてそんな態度なの?」


 梨々花がずばっと切り込む。


「響だって降魔士になりたいからここにいるんでしょ? だったら、もうちょっとどうにかしたほうがいいと思う。そうしたら、みんなだって認めて――」


『――続いてのニュースです。人喰い妖異、またも出現か』


 ふいに、鋭い音声が飛び込んできた。すると、食堂内の空気が少し変わり、多くの寮生の視線が一ヶ所に集中する。梨々花も言葉を切って、声が聞こえてきたほうへと目を向けた。


 寮生が一斉に注目した先には、大型モニターがあった。食堂の壁に設置されたそのモニターは、食事時にニュースを流している。


『昨晩、○○市の住宅街に妖異が出没した模様です』


 ニュースキャスターの言葉のあとに画面が切り替わった。


 映し出されたのは、事件現場とおぼしき風景。民家が立ち並んでいる場所で、フォーカスが当たっているところは倒壊した家屋で、至る所がブルーシートで覆われていた。その周辺で幾人もの警察と降魔士が忙しなく動き回っている。どうやら現場検証が行われているようだ。


「これって、近頃ちまたを騒がせてるっていう妖異事件、よね」


 梨々花の目元に影が落ちる。


「まだ調伏ちょうぶくできてないんだ……」


 そのニュースは、二週間ほど前からとある妖異が各地の市街に出没し、人間を襲っているというものだった。


 たびたびニュースになっていたので、降魔科生の間にも広がっており、少し話題になっていたほどだ。


『死者・行方不明者は十数人にも及んでおり、警察が身元の確認を急いでいるとのことです』


 被害者の数が流れた時、食堂内がかすかにどよめいた。死傷者がそこまで出るほどの事件など中々ないからだ。


「また、こんなに……」


 わずかに顔を青ざめさせ、梨々花が両手で口元を覆った。


 行方不明者は、妖異に連れ去られてしまった人間のことを言ったりもするが、基本的に妖異はその場で人間を襲って殺すか食うかする。なので、この場合の行方不明者は大半が跡形も残らず食われてしまったものを指している。


「ほう、これはまた派手にやったものだな」


 氷輪が悠然と尻尾を振る。その横で、響はモニターを見るともなしに見ながら朝食を食べ進めている。


 しばらく事件現場を映していた画面が切り替わり、ひとりの人間を映し出した。


 五十代ぐらいの男性で、黒い羽織をまとっている。降魔士だ。


 画面に表示された名前の横に連なった肩書を見るに、それなりに階級が高いらしい。その降魔士がインタビュアーから見解を聞かれ、いかめしい面持ちでこう語った。


『かの妖異の正体はいまだ不明。現状判明しているのは、夜更けに爆風とともに現れ、どうやら空を飛ぶことができ、風を操るすべを持っていると思われるということです』


 そこで一旦言葉を区切った降魔士の目元が険しくなる。


『そこで我々降魔士はこれまでの被害状況を鑑み、くだんの妖異を『羅刹らせつ』と認定いたします』


 その言葉を聞いて、再び場がどよめいた。


 羅刹。それは、大量殺戮さつりくや破壊の限りを尽くした妖異に与えられる呼称である。人でいう殺人鬼や乱射魔らんしゃまのようなものだ。


 羅刹は、天候や地形を操るほどの力を持つ天災レベルと称される妖異の、さらに上を行く圧倒的脅威な存在。ゆえに、めったにそう認定されることがない。現にここ数年の内で羅刹認定された妖異の事例がない。


 それだけ凶悪な妖異なのだ、今騒がせているものは。


 以降、降魔士はこう続けた。正体が判明するまでは件の妖異を、暫定的に〝羅刹〟と称すること。


 降魔士は一刻も早い事態の収束に向けて動いている。原因究明を急ぐとともに、各地の降魔士が通常業務として行っている夜間の見回りを強化すること。


 そして最後に、いつどこに現れるかも掴めていないため、一般市民はこの一件が落ち着くまで夜間の外出は控えてほしい、と呼びかけた。


 それを聞いた氷輪が失笑する。


「外出を控えたところで何になるというのか。その〝羅刹〟とやらは屋内でも構わず人間を襲っておるのは明白であろうに」


 氷輪の言うとおり、映っていた現場は家屋が倒壊しており、それを覆うようにしてブルーシートがかけられている場所があった。その下には――メディアには映せない惨状が広がっているのだ。それが屋内外問わず、人間を襲っていることの証左であった。


 そうしてひとしきり流れていたそのニュースは、やがて週間天気予報へと変わった。


 すると、徐々に食堂内に喧騒けんそうが戻り始める。今のニュースの内容について、色々と語り合っているのだろう。


 梨々花も神妙しんみょうな面持ちで声を発した。


「羅刹認定なんて、かなりの大事おおごとじゃない。もしこの辺に現れたらどうするのかしら……ねぇ、響――ってちょっと!?」


 食事を終えた響が席を立ってトレーを持つ。それを見て梨々花が慌てたように声を上げた。


「ま、待ってよ、あたしまだ食べ終わってないんだけど!」

「知らないよ……別に一緒に食べてたわけじゃないし」

「ひっどくない!? ……え、ウソ、本当に行っちゃうの!?」


 わめく梨々花を無視し、響は無情にもきびすを返した。その頭上に、氷輪がひょいと飛び乗る。


「……まったく」


 空いた食器を返すべく、返却口へ向かいながら響は小さくため息を吐いた。


 騒がしくなった食堂内は、先ほどのニュースのことで持ちきりだ。しかし、そのことについての関心は響にはなかった。


 ――響だって降魔士になりたくてここにいるんでしょ?


 梨々花の言葉が脳裏によみがえってくる。響はトレーを持つ手にわずかに力をこめた。


 違う。


 響には、降魔士になりたいという意志はない。だから、普通科にいたのだ。


 それが成り行きで、仕方なく、こうなってしまった。それだけなのである。


 降魔士は、日夜妖異と戦い、人々の安寧を守ることが役目。そんな降魔士を志し、ここにいる降魔科生は自己研鑽に励んでいるのだろう。


 しかし、響はそうではない。


 響が降魔術を使う理由は、ひとえに己の身を守るため。


 降魔術の行使には資格がいる。資格がない者が使えば、それは重大な規律違反となり、重い罰則が課せられる。世の中には降魔術を不正利用した犯罪事件も少なからずあるため、その手の犯罪を防ぐことにも繋がるからだ。


 一ヶ月前まで、響は自身が降魔術を使う術者であることをひた隠して、必要なときに術を使っていた。


 無論、それを悪事に使おうだなどとは微塵も思っていなかった。妖異から己が身を守る、ただそれだけのために、響は降魔術を体得したのだ。


 それがひょんなことから生徒会に知られ、一時は降魔術の行使を禁じられた。そのあとに起こったある一件――嘉神学園百鬼夜行襲撃事件を通して、これまでどおり術を使いたければ普通科から降魔科に移籍いせきしろ、と生徒会長である玲子から言い渡されたのだ。


 こばめば身柄を拘束し然るべき機関へ送還そうかんする、と脅迫きょうはくめいたものを受け、響は否応なく転科することとなり、今に至っている。


 とはいえ、これは降魔科生であれば降魔術行使の許可が下りるので、降魔科にいる間はなんの問題もなく今後も今まで通りの生活が送れる、という意図からだった。


 響の〝事情〟を知り、実力を認めた玲子が、事実を捻じ曲げ正しさを横に置いた腐心ふしんの末の措置そちである。


 だが、響としては見逃してくれればそれでよかったのに、という気持ちしかない。


 響には降魔術が必要だ。己を狙ってくる妖異を退けるために。妖異に食われないために。


 降魔科生の誰とも、響が持つ事情は違う。


 響とて、自分がここにいるのは場違いだという自覚がある。できることなら普通科に戻りたい。そして、今まで通り誰とも関りを持つことなく、空気のように過ごしていきたいと思っている。


 しかし、それはできない。響はもう、以前のような生活には戻れないのだ。


 誰かを守るという高尚こうしょうな理由の降魔科生と、自分を守るという至極私情な理由の響では、まずもって目的が違うので相容れる要素がなかった。


 だから、〝仲良くやっていく〟だなんてことが、できるわけがない。


 別に周囲に認められなくてもいい。そんなことを望んでここにいるわけじゃない。


 ただ、自分の力で自身を守れさえすれば、それでいいのだ。


「はぁ……」


 トレーを返却し終えた響が自室に戻る道すがら、深々と嘆息たんそくする。すると、頭上の氷輪から文句が上がった。


「朝っぱらから重苦しいため息なぞくとは何事だ」

「いや……色々と本当に面倒だなって」


 食堂を出た先は階段裏になっている。響は正面に回り込み、段に足をかけた。


「汝が面倒がるなど、いつものことではないか」

「それはそうだけどー……」


 階段を上がりきると、そこには広い空間がある。正面突き当りは全面ガラス張りになっており、際のほうには椅子や机が置かれていた。これから学校のため今は誰もいないが、放課後や夕食後は寮生が集まって話に花を咲かせるいこいのスペースとなっている。


 両サイドには大きな扉があり、それぞれ男子棟と女子棟へと続く。セキュリティも万全で、扉に設置された認証システムによって登録された者しか入れない仕様になっている。


 女子棟へ足を向けつつ、響はふと視線を窓ガラスに向けた。


 時刻は、そろそろ八時になろうとしている。すっかり朝の時間帯であるというのに、窓から差し込む光はなく、浩々こうこうと室内を照らす電灯の明かりが、外の暗さをより顕著けんちょにさせていた。


 ガラス一面に付着した数多の水滴が自重でつぅっと滑り落ち、幾筋もの線を引いていく。


 ざぁざぁ、ぽたぽた、ぴちゃぴちゃと。


 降りしきる雨脚が立てる音、雨粒が屋根を叩く音、溜まった水が雨樋あまどいを流れていく音が、暗く物悲しい曲を奏でているようだった。


 今日も、雨が降っている。


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