もうひとつの盟約 ☆玖

 こんなことは、もうしたくない。


 約束を、したのだ。


 とても、とても、大事な、大切な、約束だ。


 決して違えないと。決して忘れまいと。心に刻み込んだ。


 それなのに。


 ―――食らえ……人を食らえ……


 ああ、汚されていく。けがされていく。


 何よりもかけがえのない記憶が、侵されていく。


 ―――食らえ……人を食らえ……


 おぞましい声がすべてを飲み込んでいく。


 やめろ。やめろ。やめろ。


 もう、思い出せない。顔も、声も――言葉も。


 やめてくれ。奪わないでくれ。それは自分にとって命と同じくらい大切な――。




 ――ああ、腹が減る。喉が渇く。


 頼むから、誰か。




 助けて、くれ――――……。



   ▼    ▼



 激痛で、はっと意識が覚醒した。


 左腕が痛い。いや、痛いどころではない。何かものすごい力が腕を圧迫している。このままでは折れてしまいそうだ。


「い……っ」


 堪えきれないうめきが口から漏れ出る。


 背中には固い感触。視界を瘴気しょうきの塊が埋め尽くしている。そこでゆらは、自分が地面に大の字になり飛廉ひれんに下敷きにされているということを把握した。どうやら数秒ほど意識を飛ばしていたらしい。


 激痛にさいなまれる響の左の二の腕が、先が鋭く尖ったくちばしに挟み込まれている。飛廉の口の端から溢れ出た唾液が、制服の袖を濡らしていく。


 反射的に回避行動をとったおかげで急所は外れたようだが、それでも窮地であるという事実に変わりはない。このままでは腕が食いちぎられてしまう。


「かっ、は……!?」


 ふいに右腹、肋骨ろっこつのあたりに何かが重くのしかかった。見やれば、飛廉の片脚がそこを踏みつけている。肺が圧迫され、呼吸がままならない。


 くちばしがギリギリと腕に食い込んでいき、体重を乗せられて肋骨がミシミシと音を立てている。全身を襲う痛苦に、堪らず声にならない悲鳴が口をついて出た。


 振り払おうともがくが、この体格差の上に圧倒的な膂力を持つ人外が相手だ。脆弱な人間が勝てる要素などどこにもなく、身じろぎひとつかなわない。


 呻きながら、響は必死に頭を左側へ向けた。爛々と怪しく光らせる眼に射抜かれたとき、響の脳裏に先ほど視た光景が蘇る。


 響が視たのは、飛廉の心の内。飛廉に触れたせいだろう。飛廉の持つ記憶が、流れ込んできたのだ。


 呪詛じゅそに侵され、とてつもない飢餓感に支配されながらも、飛廉の中にはまだ正気が残っていた。


 この妖異は呪縛から逃れたがっている。こんなことはしたくないと、助けてくれと――心が悲鳴を上げている。


 先日見た夢や霊視の比ではないほどの慟哭どうこくが、響には痛いほど伝わってきた。


 呪詛に、苦しむ。


 それは、響自身にも身に覚えがあることだ。輝血かがちという、望んでもいないのに膨大な霊力が与えられ、そのせいで妖異から常にこの身を狙われるさわり。


 これはもはや、血に刻まれた呪いだ。逃れたくても逃れられず、生涯背負っていかねばならない残酷で無慈悲なろくでもない呪い。


 ずっと苦しんでいる。この呪いのせいで、これまで散々な目にあってきた。生きることを諦めかけたときだってある。


 呪いは、苦しい。


 わかるよ――だから。


 解き放つことができる呪詛ならば。それなら、解いてあげたい。


 だって。


 呪いなんて、かかってないほうがいいに決まってるんだから。


 ぼうっ、と。心に火が灯る。


「ひ……れ……」


 声を絞り出して懸命に右腕を伸ばすと、その指先に飛廉のくちばしが触れた。


 なんだか胸が熱い。何かが、どこかから湧き出てくる。


 このかわいそうな妖異を、救わないと。


 とめどなく溢れるその想いが、本来響が知るはずのない言葉を紡がせた。


「……――――さい」


 瞬間、飛廉の動きがぴたりと止まった。


 赤い双眸が見開かれ、激しく揺らめく。響の腕を食いちぎらんと力がこもったくちばしが、わずかに緩んだ。


「藍焔――業火流ごうかりゅう!」


 そこに、横合いからあおい炎が叩きつけられた。


 不意をつかれた飛廉が吹き飛ばされ、響の上からどく。圧迫から解放され、急激に入った酸素により喉がひゅっと鳴り、堪えきれず咳き込む。


「響!」


 そこに玲子が駆け寄ってきた。


「響、無事!?」


 響をゆっくりと抱き起した玲子の表情に普段の凛々しさはなく、今にも泣きだしそうに歪められている。


「な、んとか……」


 右手で左腕を抑え、玲子の手を借りて起き上がる。


 襲い来る激痛に表情が歪む。顔中に脂汗を浮かべ、荒くなっている息を静めようと努めつつ、泥まみれの身体の状態を確かめる。


 まずは腕。ズキズキと疼痛が走っている。信じたくはないが、折れているかもしれない。


 それに、あれほどの力で圧縮されていたせいで血流が止まっていたのか、手の先が痺れて感覚がない。挟まれていた部分は確実に内出血し、ひどいあざができているであろうことは見なくてもわかる。


 そして肋骨。先ほどなんだか嫌な音を聞いた。こちらもきっと何本か折れている。


 それでもこの程度で済んだのは、この制服のおかげも少しはあるのだろうか。でなければ、腕はすでに食いちぎられ、肺が潰れていた可能性が高い。


 荒くなった呼吸を整えつつ、痛みを受け流しながら響は視線を上げた。


 吹き飛ばされた飛廉はすでに体勢を整えながらも、とても苦しそうにしていた。少なくとも、響にはそう見えた。


 それは、今の玲子の攻撃によるものではないだろう。響が放った言葉で残っていた正気がわずかに引きずり出され、呪詛と葛藤しているのかもしれない。


 なんだろう、この感じ。身体全体にじんわりと熱が行き渡っていく。どこからか溢れてくるこの力が、今自分がなすべきことを教えてくれる。


「会長さん」


 静かに紡がれた言葉に、玲子の目が響に向く。


「飛廉に攻撃を叩き込んで隙を作りましょう――それで、呪詛を返す」


 いつになくきっぱりとした、真剣な声音と表情。揺るぎない強い意志を感じて息を呑んだ玲子だが、何も言わずにただ頷いた。


 そこに飛廉が生み出した風が襲いかかる。


 響が護符を放って障壁を作り、それをなんとか防ぐ。


「会長さん!」


 響が叫ぶと、それに呼応して玲子が術を発動する。


「藍焔――灼渦あらたうず!」


 召喚された五つの藍焔の柱が、飛翔しかけた飛廉を取り囲む。檻のように形成された炎の柱に身動きを封じられ、そこから抜け出さんと飛廉が妖力をぶつけている。


 そうはさせまいと、響は右手で作った手刀を顔の前に立てて唱える。


「オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン!」


 手刀を解き、懐から霊符を引き抜いた。


「慈愛深き光明よ、導となりて我が道を照らし出せ! 急々如律令きゅうきゅうじょりつりょう!」


 裂帛れっぱくの気合もろとも霊符を投げ放つ。飛廉に貼りついた霊符はカッと光を放ち、光の柱を生み出し巨体を覆う。


 怒涛の術の連鎖に、さしもの飛廉も相応のダメージを受けたようだ。苦悶の雄叫びを上げ、身体をのけぞらせる。


 その時、響の目が捉えた。


「……っ、あれか!」


 飛廉の内側、喉元付近。そこに、より強い邪念を放つものがある。あれが神獣を苦しめる呪詛の根源に違いない。


 すっと短く息を吸った響は、右手で刀印を結んで額に置いた。


八剣やつるぎや、波奈はなの刃のこの剣、向かう悪魔を薙祓なぎはらうなり!」


 響の全身から凄絶な霊力が迸る。次いで、刀印を目の前にかざした。


てんげんみょうぎょうじんぺんつうりき――」


 一言唱えるごとに刀印を縦横交互に動かし、四縦五横しじゅうごおうの九字を切っていく。


しょう!」


 そして、完成した四縦五横の右上から左下に向かって、刀印を袈裟懸けさがけに振り下ろした。


 飛廉が絶叫を上げる。長い首を振り回し、苦悶を逃がすように身をよじらせた。


 憎悪に満ちた赤い眼が響を射抜き、翼をはためかせる。生じた風の激流が響へと押し寄せた。


業火流ごうかりゅう!」


 玲子が放った藍い火炎放射が、風の奔流とぶつかり押し返す。


炎蛇えんだ召喚!」


 次いで放たれた炎蛇が飛廉に絡みつき、動きを封じる。


 身をよじってなんとか逃れようとするも、響の術が利いていて思うように力が出ないのか手こずっている。


 その隙に、響は空中に〝鬼〟の字を書き、一心に唱え始める。


「ねたしとは、何をいうらんもとよりや、ままならぬこそ浮世なり、けれ……っ」


 左腕に激痛が走り、息が詰まりそうになる。痛い。腕はもちろんだが、全身が倦怠感に覆われ、ともすれば苦悶の声が滲み出そうだった。


 けれど、それを懸命に堪える。どんなにつらくても苦しくても、ここでやめるわけにはいかないのだ。


 もしここで術が途切れてしまえば、呪詛は飛廉だけでなく響にも影響を及ぼす。一度始めてしまった呪詛返しに、失敗は許されない。


「いかにし……、……っ」


 その時、必死に抗っていた飛廉が烈風を巻き起こした。風の奔流が荒れ狂い、周辺へ波動となって行き渡る。


 妖力の乗った狂風が叩きつけられ、響は吹き飛ばされかける。


 まずい、このままだと術が途切れて……っ!


 前傾姿勢をとり、なんとか足を踏ん張って堪えようとするが、地面がぬかるんでいるせいで上手く踏ん張りが利かない。かかとで地面に線を引きながらずりずりと後退していってしまう。


 凄まじい風圧が顔面にも襲い来る。呼吸が上手くできない。気道を確保すべく顔を覆おうにも、右手は印を組んでおり、左腕は思うように動かせないため身動きが取れずにいた。


 これでは呪文を紡ぎ続けることもままならない。四肢がバラバラになりそうな衝撃が身体に走る。


 必死に抗っていたが、ついにぬかるみに足が取られてしまった。大きくバランスを崩し、身体が飛ばされそうになった──その瞬間、ふいに響の腰あたりに力が加わった。


「藍焔――陽炎疆かげろうきょう


 肩越しに腕が伸びる。すると、藍いベールが響を囲むようにして生じた。


 途端に、先ほどまで叩きつけていた風の感覚が弱まり、一気に呼吸がしやすくなった。目の前でゆらゆらと揺れている薄いベール。少し頼りなさそうに見えるこれは、どうやら結界の一種のようだ。


 視線を巡らせれば、すぐそばに玲子の顔があった。吹き飛ばされそうになった響を玲子が支え、この膜を張ったのだろう。


 間近にある端正な顔にはいくつも傷が刻まれており、傷口から血が滲んでいる。それでも玲子は一切表情を崩さず、真剣な眼差しを響に注ぎ、声は漏らさず口だけを動かした。


 大丈夫、私が支えているから。


 別段読唇どくしんが得意というわけではないが、なんとなくそうとわかった。声を出さなかったのは、響の術の邪魔をしないようにという配慮だろう。


 玲子が触れているところから、温かいものが伝わってくる。それがどこか心地よく、身体が弛緩するのがわかった。


 響は微かに顎を引くと、玲子に重心を預けながら、飛廉へと向き直った。


 飛廉を覆う瘴気が、煤煙すすけむりのごとくゆらゆらと天へ立ち上り始めている。それを目で追った時、初めて空が白み始めていることに気づいた。


 夜明けが、すぐそこまで迫っている。


 響は全神経を集中させ、改めて呪文の続きを紡ぎ出す。


「いかにして、のろいやるとも焼鎌やきがまの、敏鎌とがまをもちて打ち祓わん」


 とうとう飛廉がその場に崩れ落ち、血反吐を吐きそうな勢いで絶叫しながら地面をのたうち回る。響が放つ術の神聖な霊力と、身の内に巣食う呪詛がせめぎ合っていることによって痛苦が生じているのだ。


 どれほど苦しかったことだろう。どれほどつらかったことだろう。


 響は知っている。最初こそ、理性が鎌首をもたげていたが、守らねばならない約束に反することを呪詛によって繰り返していくうちにいつしか心が壊れ、最終的にはそれすらも手放してしまったことを。


 でも、それも終わりだ。


 もう苦しまなくていい。返してやるから、全部。


 響を支えながら、玲子が固唾を呑んでその光景を見守る。なんという力なのか。こんなにも満身創痍なのに。とんでもない精神力だ。


 自分より背の低い後輩を見下ろしていた玲子は、ふと妙な違和感を覚えた。なんだか、響から別のオーラが混じっている気がするのだ。


 神経を研ぎ澄ませて凝視する。すると、響の身体に、かすかに別人の影を感じた。


 誰かが、重なっている……?


 目を瞬かせると、その影は消えた。気のせいか。


 不思議に思うが、そんなことに構っていられない。今自分がやるべきことは、必死に唱え続ける響を支えることだ。……もう、自分にはそれしかできないのだから。


「……怨敵おんてきの、呪詛のろいのいきを祓うなり。うけとりたまえ、今日の聞神ききがみ


 飛廉が首をのけぞらせて硬直した。痙攣を起こしたかのように全身が小刻みに震えだす。


 さぁ、仕上げだ。


 異国の神獣を、呪詛から解き放つ。


 飛廉、返ってこい!


 全霊を込めて、響は最後の文言を一息で唱え抜く。


「音もなく、姿も見えぬ呪詛神のろいがみ、こころばかりに負うて帰れよ。いかにして、呪詛のろい来るとも道返ちがえしの関守すべて、防ぎかえさん!」


 瞬間、天を仰いでいた飛廉の口から、何かが飛び出た。


 禍々しいオーラをまとったそれは、間違いなく飛廉を蝕んだ呪詛の根源だろう。


 そうして呪詛の根源は、遥か彼方へと飛んで行った。――まるで、これから向かうところでもあるかのように。


 飛廉の身体を覆っていた瘴気が、すうっと消えていく。響は瞳を風伯へ打ち据えた。


「目を覚ませ、飛廉! ――人を守りなさい!」


〝もう一度〟強く、強く、言霊を放つと、飛廉の眼がかっと見開かれた。翼がばさりと音を立てて大きく開き、旋風を巻き起こす。






 ――飛廉


 声が、聞こえる。


 ――飛廉、人を守りなさい


 ああ、ああ……。


 忘れまいと思っていた温かい声が蘇り、心に沁み渡る。


 柔和な面差し。強い意志のこもった輝く眼差し。すべてを導く、太陽のような姿。


 今までもやがかかったように判然としなかったものが、今ははっきりとわかる。


 すべて、すべて思い出した。


 大切な人との、大切な約束。




 ようやく、取り戻せた――。






 辺りを清涼な空気の流れが優しく撫でる。そこに、今までの冷たく尖った狂風の面影はない。


 呪縛から解放された飛廉が起こした風は、とても心地よいものだった。


 張り詰めていた緊張が解かれ、一気に力が抜けた響は、ふと背後のぬくもりと柔らかさに気づく。そこで、玲子に重心を預けていたことを思い出した。


 慌てて自立しようと身体を離したが、思ったように力が入らずふらりとよろめいてしまう。そこを再び玲子に支えられた。


「無理しないで。私はほとんど無傷のようなものだから、遠慮しなくても大丈夫よ」

「え、や、でも……」


 居心地が悪いわけではないが、なんだか落ち着かないというか、少しこそばゆいというか、なんというか。


 なんとも形容しがたい思いが胸中でせめぎ合うも、離してくれそうになかったので、響は諦めて玲子の言葉に甘えることにした。


 そうして、飛廉を改めて見やる。


頭に生えた角、くちばし、蹄、そして蛇のような尾は黒曜石のような艶のある黒色をしている。それ以外の体毛は限りなく金に近い、獅子のような黄褐色だ。大きく広げた翼の内側は白い。


 瘴気が抜け落ちた飛廉は、本来の姿を取り戻していた。


『――ほう、呪詛は無事返せたようだな』


 そこに見計らったかのようなタイミングで、妖異を追い払いに行っていた氷輪ひのわが飛来した。


なんじにしては、よくやったほうではないか?』

「なんでそんな上からなんですかね……」


 口をへの字に曲げる響を見て、小さく笑った氷輪はするりと視線を別のところに移した。


『飛廉よ、ようやく目醒めたか』


 厳かな声音に、それまで彫像のように動かなかった飛廉が反応し、緩慢な動作で首を巡らせ、氷輪へと焦点を据えた。


『そなたは……』

白澤はくたく。知らぬ、とは言わせぬぞ』

『白、澤……。そうか、そなたが』


 そう言って、飛廉は氷輪に身体ごと向き直った。


『こうしてお目にかかるのは初めてだな。そなたのことは話に聞き及んでいる――我が君から』


 氷輪はふんと鼻を鳴らした。


『あの男も酔狂なものだ。汝ような妖を配下に置くとは』

『ふ、手厳しいことを言う』


 飛廉は困ったようにまなじりを下げる。


『白澤殿。そなたは私が出会うより前に、我が君に力添えをしたと聞いている。随分と世話になった、と』

『ほう。では、汝があの男に敗北をきっしたのも、元を辿れば我が原因であるということも知っておるわけか』


 皮肉げに口端を吊り上げる氷輪に動じることなく、飛廉は素直に首肯した。


『ああ。……だが、恨み言を吐くつもりはない。むしろ、感謝している。おかげで私はあのお方とともにあることができたのだからな』


 放たれた言葉は、とても柔らかいものだった。それを聞いて、氷輪は再びふんと鼻を鳴らす。


『思い出話に花を咲かせるのはここまでだ』


 氷輪の表情が真剣さを帯び、空気ががらりと変わった。


『飛廉、ひとつ確認だ。汝に、記憶はあるのか』


 途端に、飛廉の瞼が大きく震えた。


『……ああ、ある。すべて、覚えている』


 そうして、飛廉の表情が苦悶に染まる。


『ああ……私は、なんということを……』

懺悔ざんげはあとだ。まずは何があったのかを申せ』

「……あのー、もしもし、氷輪さーん?」


 その時、響が口を挟んだ。緊張感に欠ける語調に氷輪が眉をひそめて、そちらを一瞥する。


『なんだ』

「今の、何語?」

『……なんだと?』


 意味を掴みあぐねて、氷輪が怪訝そうに眉根を寄せる。


 玲子が顎に手を当てて呟いた。


「発音的に中国語、だと思うけれど。英語ならまだしも、中国語はさすがに意味までは……」

「あー、そういや飛廉って中国出身でしたっけ」


 玲子と響の会話を聞いて、氷輪はようやく合点がいった。


 そうか、二人には異国の言葉がわからないのだ。白澤たる氷輪は、この世にあるすべての言語が解せる。ゆえに、飛廉との会話にもまったく違和感を持たなかった。


『……ふむ、仕方あるまい』


 氷輪は飛廉に向き直った。


『飛廉よ、我の額の瞳をしばし見ておれ。瞬きせず、目も逸らすでないぞ』

『……? 心得た』


 不思議に思いつつも飛廉は頷き、言われたとおりに氷輪の額の眼をじっと見つめた。それを、響と玲子の二人も不思議そうに見守っている。


 ふいに氷輪の第三の眼がカッと光る。瞬間、飛廉の脳に衝撃が走った。


『……な、何が起こったのだ?』


 目を瞬かせる異国の妖異に対し、その変化に気づいたのは人間たちだった。


「あれ? 今度は日本語だ」

「え、ええ。でも、一体どうして……」


 不思議がる二人の人間に、白澤はさらりと言ってのけた。


『我の持つ知識をこやつに送り込んだ。今回は一国の言語だがな』

「へぇ、氷輪、そんなことできるんだ、すっごー」


 響が素直に感嘆すると、氷輪はふふんと胸を張る。


『我は知識の宝庫たる白澤ぞ。この程度造作もないわ』

「あ、じゃあ、氷輪に教科書丸暗記させてそれをこっちに移してもらえば、勉強しなくてもテスト満点取れるってこと? いーじゃん、わたしにもそれやってよ」

『我の力はそのようなことのためにあるのではないわ愚か者!』


 響の言葉に、氷輪がくわりと牙を剥く。


「ちぇっ、これで面倒なテスト勉強しなくて済むと思ったのに」

「如月さん……」


 傍らで玲子が呆れている。氷輪は嘆息し、響に半眼を送った。


『この力は、そう易々と扱える代物ではない。人間相手に膨大な量の知識を一気に流し込めば、脳に相当な負荷がかかるであろう』


 そうなれば、どうなるか。


『間違いなく、人の脳はその負荷に耐え切れず焼き切れる。ものを覚えるどころか、自分が誰であるのかすらもわからぬようになるぞ。まぁ、試みたことがないゆえ、どうなるかはこの白澤にもわからぬがな』

「…………」

『ゆえに、我は汝らにではなく、飛廉にこの国の言語を解せるようにしたのだ』


 ひとつの言語にどれほどの情報量が存在するのかは推して知るべしである。人外であるとともに、高知能を備え持つ飛廉にだからこそできたことなのだ。


「……お気遣い、ドーモ」


 頬に冷たい汗を流す響に、氷輪は怪訝そうな顔をした。


『そもそも汝は、飛廉の記憶を読み取っておったではないか。では汝は、如何様にしてそれをやってのけたというのだ』

「……あれー? 言われてみれば?」


 響は小首を傾げ、考え込む。


「それはあれ、なんていうか、感情が流れ込んできただけっていうか。言葉じゃなくて、想いだったから、わかった……とか?」


 なんとも曖昧な言葉だ。氷輪の怪しむような目元の険がさらに深まる。


 そんな光景を、戸惑いがちに飛廉が見ている。それに気づいた氷輪はようやく本題に戻った。


『まぁそれはよい。では、飛廉よ。話してもらおうか』


 飛廉は沈鬱な表情で頷くと、経緯を話し出した。


 住処としている霊峰にいたところ、突然異界のような空間に閉じ込められたこと。


 身動きを封じられた上に、体内に何かを流し込まれたこと。


 そのせいか、それから猛烈な飢餓感に襲われたこと。


 気づいたら、この日本にいたこと。


 そうして、この地で飛廉は――。


『……何度も、何度も脳内に繰り返し木霊していた。人間を食らえ、と』


 その言葉に支配され、異国の各地を襲い、罪のない数多の人間を食い殺してしまった。


 飛廉は目を伏せ、喉から絞り出すような声を上げる。


『約定を、たがえてしまった……。私は、本当になんということを……!』


 それは懺悔だ。悔いても悔いても、拭い去ることのできない懺悔。


 ――飛廉。人を守りなさい


 それは、あの琢鹿たくろくの地での戦いのあと、人間の王の配下となってから言われた言葉だ。


 かつては黄帝こうていと対峙し、黄帝軍の人間を数えきれないほど殺戮した。黄帝の策略にまんまとやられ敗北を喫し、飛廉がついていた陣営の大将たる魔神蚩尤しゆうが処刑された時、飛廉もまた死を覚悟した。


 しかし、黄帝はそれを許し、あまつさえ家臣として配下に置いたのだ。


 それから黄帝と時を過ごすうちに、もう絶対に人間を殺めまいと思うようになった。黄帝が愛する人間を自分も守ろうと、胸に誓ったはずだった。


 それなのに。


 身が引きちぎれんばかりの責苦が飛廉を苛む。


 手にかけたのが異国の民とはいえ、人間は人間。敬愛する主君と、そして自分自身に誓ったことを破ってしまった。


 どれだけ後悔しても、過去が変わることはない。もう何もかも、取り返しがつかないのだ。


 打ちのめされている飛廉に、氷輪が淡々と言う。


『汝をそうさせたのは呪詛だろう』

『だとしても……! 私があんなものに引っかからなければ! 振り切れてさえいれば! これは己の力不足が招いた結果にほかならない。すべて私の弱さが原因だ!』


 吐き出すような激情をはらんだ言葉には、己に対しての怒りが滲んでいる。この飛廉は人外の存在とは思えないほど、随分と生真面目な性分のようだ。


『して、汝に呪詛を仕掛けた術者は見なかったのか』


 氷輪の問いに、飛廉がふるふると首を振る。


『視覚も封じられていたらしく、姿を見ることすら叶わなかった』


 それがどれほど口惜しいことか。自分にこんなことをさせた術者を見つけ出し、その喉笛を掻き切ってやりたい思いでいっぱいだ。


 憤怒に燃える飛廉を見て、氷輪は首を振った。


『それは心配せずともよかろう。かの術者は必ずや報いを受ける』


 飛廉の体内から飛び出た、呪詛の根源であろうあの塊は、呪詛をかけた術者の元に戻った。


 今度は術者自身を、呪うために。


 呪詛返しの本質は、呪いを受けた対象の解呪と同時に、呪った本人にその呪詛を送り返すというものだ。


 その送り返された呪詛は元の倍ほどの力を伴って、最初にしかけた術者自身を呪う。


 それは、想像を絶する痛苦となるはずだ。


 飛廉にかけられた呪詛は相当なものだった。だからおそらく、否、間違いなく返った呪詛は――術者を呪い殺す。


 飛廉に呪詛をしかけた者が誰なのかは知らない。その理由もわからない。


 これらはおそらく、未来永劫明かされることはない。


『そう、か……』


 それが自分でできなかったことに若干の悔しさを覚えるものの、憎き術者が息絶えるという事実にはいくらか気が晴れた。


 では、これから自分がなさなければならないことは――。


『……それしかあるまい』


 そっと呟いた飛廉は、ふいに氷輪から視線を外すと、響と玲子のほうに歩み寄った。


 二人を正面から見下ろした飛廉は、響に焦点を据えておもむろに口を開いた。


『若き人間の術者よ、そなたの名を聞かせてはもらえないだろうか』

「え、わたし?」


 響が驚いて目を瞬かせると首肯が返ってきたので、戸惑いがちに答える。


「如月、響……だけど」

『如月響。そなたの声、たしかに響いた。我が身を蝕んだ呪詛から解き放ってくれたこと、心から礼を言う』

「は、はぁ、どうも……?」


 なんと返せばいいものやら、と響が気の抜けた反応をする。響の有様を改めて見た飛廉は眉尻を下げた。


『……すまなかったな、その腕。それから腹のほうも』

「え、ああ……」


 そういえば、怪我してたんだった。でもどうしてだろう、先ほどよりも痛みが弱まっている気がする。


 不思議そうにしている響に、飛廉は眉根を下げた。


『そなたをそのようにしておいてなんだが、私にはそれを治すすべがない。どうか、許してほしい』


 頭を下げた飛廉は、次いで玲子に視線を移した。玲子は少し驚いたものの、それをおくびに出さず毅然とその視線を見返す。


『そなたの名も、教えてもらいたい』

「幸徳井玲子と申します」


 玲子は神獣相手だからかやはり礼儀正しく、敬意の姿勢を崩さない。


 飛廉は深く頷いた。


『幸徳井玲子。そなたの術も見事であった。我が風とあれほどまでに張り合うとは、正直かなり驚いている。類まれなる才を感じた』

「光栄に存じます」


 玲子が軽く頭を下げる。そうして、飛廉は二人を順繰りに見た。


『双方とも、将来有望な術者となることは間違いない。道士どうし……とは、この国では呼ばないのか。ふむ、なんと言うのだ?』


 飛廉の疑問に、氷輪が答える。


『妖異調伏を生業とする者のことであれば、降魔士と呼ぶ』

『なるほど、降魔士か。では、そなたらはこの先きっと、素晴らしい降魔士になるだろう』

「……や、わたしはならないけど」


 響がぼそっと呟いたが、誰の耳にも届かなかった。


『そなたらから受けた恩はこの身に刻み込んだ。風伯の名にかけて、一生忘れはしない』


 そう言って、飛廉はゆっくりと瞼を閉じた。


『さて、もう思い残すことは何もない。――私を裁いてくれ』


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