陥穽篇
1.陰陽師の弟子
陰陽師の弟子 ☆壱
薄暗い。
周囲にあるものが判然としなくなってきている。もう少し経てば辺りを暗闇が
ガサガサガサガサッ。
草の根をかき分けるような音がし、直後に
「――もーしつっこいなぁ」
うんざりしたようにぼやくと、別の声がした。
「不用意に
「わざと解いたんじゃないし。解けちゃったんだし」
むっとしたような声で返しながらも、一切気を抜かない。
息をひそめて慎重に辺りを窺っていると、ふいに背筋に冷たい何かが滑り落ちた。
「……っと!」
瞬時に飛び
「ほう、よく避けたな」
「茶化してないで、ちょっとは手伝ってくんない?」
「なぜ?」
「いやなぜって、
「そうだったか?」
「………………」
言い返しかけたが、そんな気力がない上に今はそんなことをしている場合ではない。先ほどよぎっていった影が目の前で、毛を逆立てながら唸っている。
人工の明かりが何ひとつない林の中、辺りはどんどん暗くなっていっているが、暗くても昼のように見渡せる
改めて目前のそれを見る。
見てくれはトカゲのよう。しかし、毛が生えており、大型犬ほどの大きさで、肉を軽くさばけそうなほどの鋭利な爪を持っている。真っ赤な目を
そして、なによりそれが
明らかにこの世の生き物ではない。
「来るぞ」
飛びかかってきたトカゲもどきを、すんでのところで屈んで回避する。
バキバキバキッ! と背後から何かが破壊されるような音が、耳に飛び込んできた。
そちらへ視線を向けると、さっきまで自分が立っていた場所の真後ろにあった木が折れていた。
「――わぁ」
人間であればチェーンソーでもないと切り倒せないような木を、あの小さな
「気を抜くでない。次にああなるのは
その言い草に、
「うるさいな、だったら
「人を頼るな」
「や、あんた人じゃないから」
『グルォオ――――――――!』
そんな緊張感に欠ける会話の間に割って入るように、叫び声が耳をつんざいた。
「そら、先方はお待ちかねだ。早々に
「なんで上からなんだよ……」
ぶつぶつと文句を言いつつも、響は軽く深呼吸をして集中力を高める。それから、右手の人差し指と中指を立てて、刀に見立てた
それと同時に、トカゲもどきが月光に牙を光らせ、襲いかかってきた。鋭利な爪が響めがけて伸びてくる。
早い――だが。
「
こちらの方が
響は唱えながら、一言ごとに刀印を横に五回、縦に四回と交互に素早く動かし、
「
すると、響の眼前まで迫ったトカゲもどきが、響が織り成した不可視の
もんどりうって転がったトカゲもどきに狙いを澄まし、
「ノウマク・サマンダ・バザラダン・カン!」
刀印を標的に向けながら、鋭く言い放つ。
その瞬間、態勢を立て直して、今まさに再び襲いかからんとしていたトカゲもどきの動きがピタリと止まった。まるでなにかに絡みつけられ、
トカゲもどきは必死にその
「やればできるではないか」
「氷輪が手伝ってくれてれば、もっと早くにできたんだけどねー」
「人のせいにするでないわ」
「だから、あんた人違うって」
再び
『ガルルルルルルッ……』
トカゲもどきが、恨みつらみのこもったような目でこちらを凝視していた。
『キ、サマ……ッ』
トカゲもどきが言葉を発すると、氷輪が尻尾を一振りする。
「ほう、こやつ人語を解せるのか」
『コノ術……
「違うけど?」
『ナンダト……!?』
あっさり答えると、たどたどしく聞き取りづらい声に驚きが滲む。響は妖異から少し距離をとり、制服のスラックスのポケットから細長い紙切れ――
『降魔士デナイノナラ……何者ダ!』
「何者って言われてもなー……」
妖異の問いに、響はううんとしばし考える。
「なんだろ……降魔、の術を使う者? とか?」
『……ッ、フザケタ、コトヲ……!』
響の曖昧な言葉に、血走った眼で妖異が叫ぶ。
だってそうとしか答えられないし、と本人としては至って真面目に答えたつもりだったのだが、お気に召さなかったようだ。
『貴様ヲ……』
ふいに妖異がにたりと
『貴様ヲ食ライ、更ナル力ヲ……ッ』
響は露骨に顔をしかめ、うんざりしたように嘆息する。
またそれか。
「響、もうよかろう」
「わかってるってーの」
気だるげに答え、響は妖異をひたと見据えた。
「悪いけど、食われてやるつもりなんてないから」
そうして降魔の術を使う者は目を閉じ、指に挟んだ符に霊力を込める。
「オン・マカラギャ・バザロシュニシャ・バザラ・サトバ・ジャク・ウン・バン・コク!」
詠唱し、気合いもろとも一気に符を放った。
投げた符は直線を描いて飛び、トカゲもどきの額に張りつく。すると、そこから
『ギャァア――――――――――!』
思わず耳を塞ぎたくなるほどのすさまじい
キーンと耳鳴りが木霊し、響は思わず耳をおさえた。すごい声だ。普通のトカゲはそんな声を出しはしない。たぶん。
やがて苦しそうに身をよじっていたトカゲもどきの
「ふう……」
響は額に
「ようやく終わったか」
息を吐いていると、足元から声が聞こえてきた。
「まあ、まずまずといったところだな」
「なぁにを偉そうに。結局氷輪はなんもしなかったじゃん」
「ふん、あの程度の雑魚の一匹や二匹で我の助けがいるようでは、この先が思いやられ……」
「あーはいはいもういいでーす」
持ち上げたものを前にかざして、しげしげと眺める。
それは、
大きさは小型犬ほどで、金色の大きな目に明るい灰色のふさふさとした毛並み。額ひとつと胴体の左右に三つずつ、短めの横線のような不思議な赤い文様がある。
この生き物も、先ほどのトカゲもどきも、人々から恐れられる人外の
手足をぶらーんとさせているそれは目をしばたたかせると、
「なんだ、我の美しさに
「…………」
響は無言で手を離した。べしゃっと何かが潰れるような音が聞こえたような気がしたが、気にしない。
こんなふざけた生き物が実はかの有名な
「……なーんーじぃぃぃぃ」
この世の不思議について響が思考を巡らせていると、地の底から這うようなおどろおどろしい声が足元から聞こえてきた。
視線を下げると、据わった目でこちらを
「存在自体をなかったことにするな!」
何も言っていないが視線でわかったのか、狛犬もどき――氷輪が吠える。
「響よ、この偉大なる我に対して、よくもこのような無礼極まりない振る舞いができるな。汝のような人間は初めてだぞ」
「はいはい、それは身に余る光栄でーす」
「
がおうと吠える声を気にもせず、響はぐるぐる肩を回す。
「我を一体なんと心得る! 常ならば、汝ごとき人間
「はいはい」
星がチカチカと瞬き始めた上空をちらと見やり、なおもぎゃんぎゃんと言い募っている氷輪を
響は学生の身。それも高校生だ。明日も普通に授業があり、いつまでもこんなところにいるわけにはいかない。早急に帰らねば。
それに、日が沈んだ林の中というのは存外怖い。ましてやこの時間は、『
「あーあ、もうこんな時間だ……。早く帰らないと夕飯抜きになっちゃう」
指定鞄を拾い上げた響は、適当にパタパタと土埃を払い落として左肩にかけた。
すると、文句に疲れて諦めた氷輪が跳躍し、響の鞄の上に収まった。ここが氷輪の普段からの定位置である。
氷輪は妖異なのでたいした重さを感じない。これが一番楽な形なのだ。
「ところで響よ。どうするのだ?」
左脇から氷輪が首を巡らせて
「どうするって、何が?」
「この
言われて響が周囲を見渡すと、木が何本も折れたり土が
あのトカゲもどきが暴れまわった
…………。
「よし、帰るか」
「見なかったことにするつもりか」
「仕方ない。こっちにできるのは妖異を
「ほう。して、本音は?」
「色々めんどくさい」
出た、響の
予想通りの言葉に氷輪は嘆息した。この人間はなにかと面倒がる節があるのだ。
「まぁ、あとは任せよ」
「誰に」
「なんとかしてくれそうな人……とか?」
「えらく適当だな」
「ま、なんとかなるって」
「汝な……」
「さ、帰ろ帰ろ。もうお腹減りすぎて死にそー」
まだ何か言いたげな式神から意識を
そういった人外の異形の総称として『妖異』と呼ばれるそれらは、人に
そんな世の中で、その悪しきものたちを退け、調伏することを
降魔士の
今から約百五十年前の明治初期、政府の改革によって数多くの陰陽師が所属していた機関『
陰陽寮が解体されたことに伴い、陰陽師という職業も自然消滅していったが、それまで陰陽師が一手に担っていた占術系統と妖異調伏系統が分離し、それぞれが個別の専門職となった。
その中で、妖異退治を務める役職は名を改め、今現在も活躍している。
高い霊力を持ち、常人の目には映らない妖異や霊気を
それが、降魔士という存在なのだった。
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