もうひとつの盟約 ☆漆

 夜警開始から五日目の夜。


 深夜二十三時を回った香弥こうや市街地を、降魔士と降魔科生の混合班が哨戒しょうかいしていた。


 班員は毎回同じ顔触れ。つく降魔士も同じだ。


 陣形は前方にリーダーの降魔士と要一、後方をもうひとりの降魔士、そこに挟まる形で梨々花、ゆら、竜之介で横一列になり全方位を警戒しながら進んでいる。


 響はちらと上空を見やった。月明かりや星影は姿を隠され、厚い雲に覆われている。ぱた、と頬に小さな水の粒が落ちた。


 今晩はあいにくの雨模様。夜警は雨天決行のため、天候によって左右されない。幸いというべきか、ざんざん降りというほどの雨ではなく、少々ぱらつく程度。


 しかし、小雨といえど雨に打たれ続ければ服は濡れ、身体の体温は否応なく奪われていく。そのため全員上にレインコートを着こみ、フードを被って雨をしのいでいた。傘は戦闘の際、邪魔になるし危険なので使用不可となっている。


 レインコートの下にはブレザーを着ているため、少しだけ動きづらい。生徒会以外の降魔科生は普段夏服で半袖姿だが、この夜警の間はブレザーの着用が厳命されていた。


 ぽつぽつと降る雨が、視界で細く白い線を引いている。そんな小雨に混じって、時折白い物体が上空をよぎる。それも複数体。


 降魔士が放った式鬼しきだ。鳥型の式鬼が上空から様子を伺っているのである。何か異変があれば、降魔士に信号が送られるようになっている。


 各班のリーダーの降魔士同士で無線が繋げられ、逐次ちくじ状況報告をして情報を交換している。万が一、どこかの班が件の妖異と出くわした場合、それがすぐ他の班に連絡がいって合流する手筈てはずとなっていた。


 響は魔除け符を懐に忍ばせ、あまり意味はないことはわかりつつも気配を殺すようにしている。その頭上には隠形おんぎょうした氷輪ひのわも乗っかっていた。


《そろそろ現れてもおかしくはない頃合いだが、果たしてどうであろうな》


 氷輪が響の耳元でささやく。返事はできないため、響はうんざりしたように息をついた。


 そんなことは知らない。ていうか、出なくていいし。


 今夜で夜警が始まってから3回目の当番。響が輝血だとはなんとかバレていないが、妖異が現れる度に怯えることにいい加減疲れてきた。


 なんでもいいから、とにかくこの心臓に悪い状況が早く終わってほしい。魔除け符では心もとなさすぎる。


 響がこぼれ出そうになるため息をなんとか堪える中、二班は無駄な会話は一切せず、黙々と周囲を警戒しながら進む。


 そうして、時刻は二時を過ぎ、夜警時間も残すところ二時間を切った。


 ここまでくると、さすがに班員、特に一年生の集中力も切れかけてくる。それに、いつ出るかわからないという緊張感とわずかな恐怖心で精神の摩耗まもうが著しい。


 それに雨脚も強まったり弱まったりを繰り返しており、今は強くなっていた。雨具を着ていてもまったく濡れないわけではなく、すねより下はすでにぐしょ濡れである。それもストレスを与え、嫌気が差し始める。


 降魔士が時折叱咤しったの声を上げるが、班の空気は心なしかどんよりとしていた。


 そんな誰しもの気がわずかに緩み、心に隙間ができ始めた時だった。


 空気が一変したのは。



 キャララララララララララッッッ!



 突如として、街中におぞましい叫喚きょうかんが響き渡った。



   ▼    ▼



 今宵は、どういうわけかいつもより霊力の高い人間が多いようだ。


 ならば僥倖ぎょうこう。早く、その血肉を貪りたい。


 そして、この飢えを満たす――。


 そう思って翼を広げかけた刹那、かすかな匂いが鼻孔をくすぐった。


 いい匂いだ。なぜか気配は微弱だが、この自分を誤魔化すことなどできない。それほどの霊性。その他の人間とは比べ物にならない。


 知らず口端からよだれがしたたり落ち、喉が鳴った。


 なんと極上な。これだ、これを求めていた。


 今まではいくら食べても足りなかった。しかし、これならば、この果てのない飢えを満たしてくれるだろう。


 なぜそう思うのかはわからない。ただ直感がそう告げる。本能が求めている。それだけで十分だ。


 ああ、腹が減る。喉が渇く。


 早く。早く。早く。


 その血を、肉を、我がかてに――……。



   ▼    ▼



「な、なんだ……!?」


 あまりの凄まじい大音声に、班員はばっと身構え、気を張り巡らせて周囲を伺う。


「各班、今の聞こえたか!」


 周辺を警戒しながら、二班リーダーの降魔士が無線でやり取りをしている。


 無線からザザッというノイズ混じりに、複数の声が漏れ聞こえてきた。しかし、声質が荒いため、内容はよく聞き取れない。


「急いで確認を――」


 ふいに、風が吹いた。


 ただの風ではない。肌を舐めるかのようなその風は、不快感を覚えずにはいられない。嫌なものが乗っている。これは――瘴気しょうき


《上だ!》


 氷輪の張りつめた声が耳朶に突き刺さる。それと同時に、バサリと羽撃はばたく音が耳朶じだを打ち、頭上から大きな影が降り注いだ。


 同時に、強風が二班を煽る。みなが被っていたフードがぱさりと滑り落ちた。


「く……っ」


 降魔士が咄嗟に腕を掲げ、上空に向けて術を放つ。しかし、それは生じた鋭い風によっていとも容易く蹴散らされた。


 荒れ狂う風と雨に打たれる顔を腕でかばいながら、頭上を仰ぎ見た響は赤い双眸そうぼうと目が合った。


 どくんと心臓が跳ね上がり、すっと血の気が引いていく。


 今、はっきりと目が合った。頭上のそれは、如月響という存在を認識している。というよりも、響しか目に止まっていない。


 響は瞬時に悟った。今までの妖異と違い、魔除け符がまったく効いていない。


『――オ前カ』


 ふいに、声が耳朶に忍び込んできた。


「え――」

「如月!」

「ゆ、響……っ!」


 自分を呼ぶ声が、どういうわけか下のほうから聞こえる。


 気がついた時には、響の身体は天高く浮き上がり、空中へと投げ出されていた。


 響の眼前には、市街が広がっている。それなりに高い山の頂上、あるいはヘリコプターか何かにでも乗っていないと見れないような景色を、今自分は俯瞰ふかんしているのだ。


 なぜ?


 瞬きひとつほどの、ほんのわずかな間で目まぐるしく状況が変わり、理解が追いつかない。


 けれど、何が起こったのかすぐには理解できずとも、これから何が起こるのかは一瞬でわかった。


 落下だ。


「…………っ」


 響の喉が、ひゅっと引きった。






「そ、んな……」


 目の前で、響が竜巻に巻き上げられ、上空に飛ばされた。


 そのショックに、梨々花がその場にへたり込んだ。顔面は蒼白である。その横で竜之介も呆然と上空を見ている。


 先ほどまでの暴風は静まり、それを巻き起こした主の気配も消えた。おそらく、響を追って行ったのだと思われる。


 響が竜巻で飛ばされた時、爆風に気圧され、降魔士を含め誰ひとりとしてその場を動けなかった。


「……っ」


 要一は唇を噛み締め、グローブをはめた拳をぐっと握り込んだ。まさか、魔除け符を持っていた響が真っ先に狙われるとは。


 考え得る限り、最悪の事態だ。この場で響が輝血かがちであることを知っているのは要一だけ。自分がしっかりしていなければならなかったのに、なんという失態だ。


「くそっ、なんてことだ……!」


 舌打ちをしたリーダーの降魔士が、すぐさま無線で各班に状況を報告する。


「緊急伝令! 二班、降魔科生一年如月響が突如出現した妖異の攻撃により宙へ飛ばされた! 姿は確認できなかったが、おそらく〝羅刹らせつ〟と推定される!」


 班員の息を呑む音が聞こえたが、降魔士は伝達を続ける。


「〝羅刹〟はその後飛翔し、生徒を追った模様!」


 誰か式鬼からの目撃情報はないか! と怒鳴るように尋ねていた降魔士はふと上空を見上げ、眉をひそめた。


「……ん? なんだこの気配……」


 突然霊気がほとばしったのを微かにだが感じ取った。先ほどの妖異のものではない。妖気のような嫌な感じはせず、それとは比べ物にならないほどの、もっと神聖なオーラだ。


 同じくそれを感じ取った要一には、すぐに察しがついた。これは、あの式神の霊気だ。


 たぶんだが、響は大丈夫だろう。あの式神がどうにかするはずだ。


 ひとまずは安心する。しかし、だからとて状況が好転したわけではない。相手は上空に行ってしまった。自分たちには空を飛ぶすべがなく、簡単に助けに行くことができない。


「……なに!? それは本当か!」


 突如、リーダーが声を張り上げる。そして、二言三言無線でのやり取りを経て、降魔士は要一を見やった。


「不破くん、きみは私と来てくれ。それ以外の者は周辺の警戒を続行。あの瘴気に誘われて他の妖異が現れないとも限らない」

「了解!」


 リーダーはもうひとりの降魔士に班の指揮権を委ねると、標的が向かったと思われる方角に駆け出した。


 そのあとに続いて走りながら要一は、なんとか持ちこたえてくれ、と祈るのだった。






「う、うわぁああああああああっっっ!?」


 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ……っ!


 こんなとんでもない高さから地上に叩きつけられたら、間違いなく即死。四肢ししがバラバラになるどころか全身余すことなくミンチになる絶対。


 じたばたと手足を動かしたとて、なんの意味もなさない。このまま自由落下に身を任せることしかできないのだ。


 冷たい空気が頬を打ち、呼吸もままならない。息苦しさに顔を歪める響の耳朶に、羽撃きの音が突き刺さった。


 はっとそちらに目を向けると、視界に黒い影が入り込んだ。


 それに焦点を合わせた瞬間、本能で悟った。あれが〝羅刹〟だと。


 鋭利なくちばしのような先端が、響の喉笛めがけて迫りくる。響は声もなく息を呑んだ。


 地に足をつけて歩く人間には、空中で自由に動くすべはない。


 このままでは、あの妖異の餌食えじきとなる。


「……ひ」


 響はぎゅっと目をつむり、ありったけの声を張り上げた。


「氷輪――――――――!」


 瞬間、響の身体に衝撃が走る。


「――――……」


 なんだかふわふわとしたほの温かい感触が手に、顔に、触れている。


 目を開けて上半身を起こすと、響の眼前にきらきらと白銀にきらめく毛並みが広がっていた。すぐそばに長大な角が幾本も生えている。


 それは神聖な霊気をまとい、ダイヤモンド・ダストのような輝きを放っていた。


『――まったく、肝が冷えたぞ』


 聞き覚えのある声と、ちらとこちらに向いた見覚えのある顔。


 双眸の他に、額にもうひとつ目がある。耳の後ろにも、背と同様の角が生えていた。


「氷輪……」


 響は、真の姿へと変化した氷輪の背の上にいた。隠形を解き、悠然と空を翔けている。


「えっと、何がどうなって……?」

彼奴きゃつが竜巻を起こし、なんじのみを宙に飛ばしたのだ。その後、捕食するつもりであったのだろう』


 突然の竜巻にさすがの氷輪も反応が遅れ、一瞬響と離れてしまった。そうして、慌てて追いかけるために本性に戻り、妖異に襲われかけていた響をあわやのところですくい上げたのだ。


「た、助かった……」


 死ぬかと思った。冗談抜きで。


 肺が空になるほど息を吐き出した響に、鋭い声が投げかけられる。


安堵あんどするには早い。現状は何も変わっておらぬのだぞ』


 言われて、そうだと響は感覚を研ぎ澄ませる。禍々まがまがしい気配を近くに感じ、肌をピリピリと刺激する。


「魔除け、まったく効いてなかった……」

『あやつ、やはりそこらの妖異とは別格のようだな。降魔士の目を掻い潜って犯行を続けているだけのことはある』


 あれが現れた瞬間、氷輪も気づいていた。妖異は真っ先に響に目をつけ、周りにいた者には一瞥いちべつもくれていなかった。明らかに響だけを狙った行動である。


「じゃあ……バレてるってことか」


 響はほぞを噛んだ。やはり魔除け符ではこれが限度。隠形術をかけられてさえいれば、こんな事態になっていなかったかもしれないのに。


「だから夜警なんて嫌だったんだよ……」

『泣き言をほざく暇があるなら、次の手立てを考えよ』


 すかさず返された言葉には情が一切ない。その言い草にカチンときた響は、半ば当てつけるようにまぜ返した。


「そういう白澤様は、あいつが何かわかったわけぇ?」


 氷輪が悔しげに眉間にしわを寄せる。


『否……瘴気に包まれておるゆえ、判然とせぬ』


 姿を見れば一発でわかると高をくくっていたのだが、瘴気に覆い尽くされているせいで姿形がはっきりとわからないのだ。だから、氷輪はまだ正体を見破れずにいた。


『――寄コセ、ソノ血ヲ、肉ヲ』


 その時、背後の瘴気が膨れ上がったのを感じた。


「!」

『掴まっておれ!』


 響が半ばしがみつくようにして手近にあった角を掴むと同時に氷輪が急旋回すると、その脇を爆風が通り過ぎる。


 その風に煽られ、響たちは数メートル飛ばされた。


「は、速い……!」


 なんという速さだ。真横を車両が目にも止まらぬ速さで通って行ったかのような風圧があった。


 今の風で、全身に雨水がかかった。雨具はいつの間にか消えていた。おそらく、最初に宙へ飛ばされた時に脱げてしまったのだろう。もう全身がしっとりと濡れている。


『ぬう……、まるで風伯ふうはくのようだな』

「風伯?」

『風の神のことだ。……しかし、風伯相当となると、口惜しいが我では彼奴の速度には敵わぬぞ』


 氷輪が苦々しげに唸る。


『このままでは彼奴の手にかかるのも時間の問題。早急に手を打たねばならぬ』

「追いかけっこに飽きて途中で帰ってくれたりしないかなぁ……」

『またそのような悠長を……。彼奴は汝に牙をいておるのだぞ』

「くちばしあるやつに牙とかなくない?」

「……なに?」


 呆れた氷輪に、響はついいつもの癖で揚げ足をとってしまった。しかし響の言葉の一部を聞きとがめ、氷輪は瞠目どうもくする。


『くちばしだと? 汝にはそう見えたのか?』

「え? うん。あれ、氷輪には見えないの?」

『我には瘴気の塊としか……』


 そこまで言ってはたと気づいた。


 そうか。響の見鬼けんきの才は並外れている。ゆえに、瘴気の先にあるあやかしの姿までもが見えているのだろう。人の見鬼は、ときに神獣でさえも及ばない力を発揮することが稀にだがあるのだ。


 氷輪が真剣な口調で響に尋ねる。


『響、汝には彼奴がどのような姿に見えておるのだ。詳細に告げよ』

「え、んーと……」


 響は首を巡らせ、よく気を凝らして〝羅刹〟をじっと見る。


「なんか鳥みたいな頭してて、角がある。で、身体は……んー全体的に鹿っぽい感じ。豹みたいな斑点があって、脚が細長くて蹄あるし。……うへぇ、あの尻尾、もしかして蛇? あと、腰らへんに大きな翼が生えてる」


 鳥の頭に角。斑点――豹文ひょうもんのある鹿のような身体。蛇の尾と翼を持つ。


 そして、風を自在に操り、凄まじい速さで大空を翔ける――。


 氷輪の内にある知識庫の扉が開かれ、ひとつの答えを探り当てた。


『もしや、飛廉ひれんか!?』


 氷輪の目に驚愕が浮かぶ。


『馬鹿な……あり得ぬ。なぜ飛廉がこの日の本におるのだ』


 氷輪がひとり焦燥感を滲ませているが、響にはピンと来ていない。


「その飛廉って、なに?」

『飛廉は、我と同等の妖異の類だ』


 そして真実、飛廉は風伯である。風母ふうぼの下で修行し、風を自在に操るすべを会得した風の神。氷輪の見立てに狂いはなかった。


「しかし、奴は中国を根城としているはず。その飛廉がなぜここに……』


 いまだに信じがたいが、あの風の攻撃といい、響から聞いた容姿の特徴といい、間違えようもない。


〝羅刹〟と仮称されたあの妖異の正体は、飛廉だ。


「氷輪と同等って、神獣レベルってこと? あれが?」


 響はちらと背後の妖異を見る。


 どす黒い瘴気に包まれ、その中で唯一輝く一対の眼光は赤くギラギラとしている。どう見ても悪霊とか怨霊のようなその様は、同じく神獣に分類される氷輪とはまるで正反対の存在のように思えた。


『信じられぬ。よもや、一連の事件を彼奴が引き起こしていたとは……』


 飛廉は遥か昔に人間の王の配下となってからは、人のために尽くしていたはずだ。今や、かの国の人々からも厚く信仰されるほどの存在となっているというのに。


 その飛廉が、人間を襲い捕食している。


 それもこれも、あの瘴気がすべての元凶に違いない。飛廉は何者かからの呪詛じゅそを受け、体内を暴れまわるその呪詛に蝕まれているせいで、あのような行動に及んでいるのだ。


 一体何があったというのだろう。飛廉ほどの力を持つ妖が、そう簡単に呪詛を受けるとは思えないのだが。


『しかし、符が効かぬのも道理よな。かようなもの、あやつにとっては単なる紙切れも同然』


 たとえ隠形術であったとしても、神獣ほどの相手に目くらましの術が通用するわけがないのだ。


『あやつは隠形した我ですら、容易く感知するであろうよ』


 その時、唸りのような風音が頭上から聞こえた。


 いつの間にか響たちの上に回っていた飛廉が、羽撃かせた翼から竜巻を生み出し叩きつけてきた。


「オン・キリキリ・バザラ・ウン・ハッタ!」


 咄嗟に刀印を組んだ響が真言を放つ。迸った霊力が竜巻を迎え撃ち、激突した。


「うわっ!」


 術は竜巻を打ち消したが、その際に生じた尋常ではない衝撃波が周囲に放たれ、響と氷輪がその余波に煽られる。


 それをどうにか耐え、体勢を持ち直した氷輪は一気に上空へ駆け上がった。


 そうして飛廉と対峙し、大声を張り上げる。


『飛廉! 汝は飛廉であろう!』

『…………』


 瘴気に包まれた妖異の動きが止まる。それを見て、氷輪は続けた。


『我が名は白澤はくたく! 飛廉よ、何があった! 汝はなぜそのような状態に陥っておるのだ!』

『……セ』

『なに?』

『寄コセ……極上ノ血肉ヲ……!』


 呻くようにそう言ったあと、飛廉は耳をつんざくほどの咆哮を上げ、妖力を爆発させた。飛廉が起こした風が一直線にこちらに向かってくる。


 氷輪はそれを必死に掻い潜りながら、再び逃走を開始した。


『……やはり会話は成り立たぬか』


 飛廉は呪詛に呑まれ、完全に正気を失っている。予想はしていたが、これで話し合いが不可能であることが明確になった。


 それと同時に、氷輪の中でいくつか腑に落ちるものがあった。深晴みはるが呪詛返しを示唆したこと、騒動を巻き起こしている妖異が呪詛に苦しんでいること。


〝羅刹〟の正体が飛廉だとわかった今、すべてに合点がいった。


 やはり、そういうことなのだ。


 一度目を閉じた氷輪は、厳かな声音で響に声をかけた。


『響、あやつは呪詛を受けておる』

「は? うん、そうだけど……?」

『その呪詛を返せ。あやつ――飛廉を呪縛から解き放つのだ』






 二班の報告を受け、各班は騒然としていた。


 突然の事態に混乱が生じたがなんとか立て直し、各班の降魔士たちは連絡を取り合いながら、早急に妖異と響の行方を見つけるべく式鬼へ索敵を急がせている。


 あれだけの式鬼を飛ばしてあるにも関わらず、〝羅刹〟の出現にどれひとつとして反応がなかった。


 しかし、それもそのはず。標的が出現した付近を飛んでいた式鬼が軒並みやられたらしく、反応が消失していたのだ。あの爆風によって召喚核ごと破壊されてしまったようだった。


 そんな中、五班に配属されていた愛生もまた、索敵のために放っていた自身の式鬼からの連絡を待っていた。


「……!」


 しばらくして、式鬼から目標を捉えたことが伝えられ、愛生あきはぐっと拳を握った。


 よし。でかしたぞ、酉井とりい


 愛生は式鬼使いだ。それも『干支獣式鬼えとじゅうしき』という、オリジナルの式鬼を召喚して自在に操ることができる。


 干支獣式鬼は、愛生が独自に保有する十二支になぞらえた動物を模した十二種の式鬼で、半自立型のためある程度の自意識を持つ。完全な自我を持つ式神にほど近く、一般の汎用型とは一線を画す式鬼なのだ。


 それと、式鬼が見聞きした感覚を、召喚主と共有することができる。遠隔操作が可能で、思念を飛ばせばその通りに動く。


 汎用型の式鬼にはそこまでの性能はなく、予め組み込まれたプログラム通りにしか動けない。ここからでもすでに、獣式鬼の高性能さが窺い知れるだろう。


 式鬼を自在に操る術式は、式鬼操術しきそうじゅつとも呼ばれる。しかもこの術は、かなりの技術が求められる高難易度術式のひとつだ。


 降魔士は、自意識を持つ妖異を使役とした式神と、自意識を持たない無機物を使役とした式鬼という存在を使うことがある。


 式神は、自意識を持つ妖異を使役として従えるまでは大変だが、それ以降は術者の意図を汲んで動いてくれるので、使うこと自体はそう難しくはない。


 反面、式鬼は基本的に誰でも召喚できるものだが、自意識を持たない複数の式鬼を同時に操るということは、実は相当に難しいことであった。たとえそれが半自立型であっても、戦況を常に正確に把握し、それに合わせて逐一指示を下さねばならないので、操作には集中力と瞬時の判断力が必要とされている。ゆえに、式鬼使いには高等技術が求められるのだ。


 そんな式鬼操術の扱いに、愛生は非常に長けていた。だから彼女は、式鬼使いとして相当の実力を持ち、生徒会に在籍しているのだ。


 干支獣式鬼【とり】との視覚共有で愛生の視界に映ったのは、白い四足の生物と、その上に乗った人間。そしてどす黒い瘴気に身を包んだ妖異と思しき姿。


 白い生物は、きっと響の式神である白澤に違いない。とすれば、その上に乗った人間は響であろう。響たちがその妖異から逃走しているのが見て取れた。


 ひとまず響の無事を確認してほっと息を吐いた愛生は、所属する班のリーダーたる降魔士に報告する。


「如月の発見、および無事を確認」

「本当か!」

「しかし、例の妖異に追われている模様。方角は――」


 愛生が式鬼を通じて確認できたことを次々に報告すると、降魔士がすぐに各班に伝令を送る。その隙に、愛生はこっそりと次の行動に移った。


「……子本ねもと


 誰にも聞こえないよう口中で呟くと、肩口に白い鼠が出現する。干支獣式鬼【】である。


「会長のとこに行って状況を伝えてくれ」


 そう命令すると、鼠は愛生の身体を駆け下り、目にも止まらぬ速さで暗闇に紛れて行った。


 ――酉井、お前もすぐ一班に向かえ!


 獣式鬼【酉】にも遠隔で指示を飛ばす。式鬼が命令に従って動き始めたのが伝わってくる。


 これは愛生の独断行動であって、降魔士の指示もなしに勝手にやっていいことではない。


 しかし、たとえ命令違反だったとしても、なさねばならない。真実を知る生徒会には、その義務がある。


「……約束したからな」


 生徒会は響をサポートすると。輝血である響を引っ張り出した手前、生徒会は責任を持たなければならない。


 そうして愛生は指示を受け、索敵を継続しながら降魔士とともに標的のもとに向けて走り出した。






「…………は?」


 氷輪から受けた思わぬ言葉に、響はぽかんと口を開けた。


『あやつは元々、好んで人間に害をなすような妖ではないのだ。人を食らうことも、本来であれば絶対にするはずがない』


 それに、と氷輪は続けた。


『飛廉ほどの妖が、そう易々と呪詛にかかるとは思えぬ。何があったのか問いたださねば。そのためには、まずはやつを鎮める必要がある』

「いやいやいやいや、え、マジで言ってる?」

『汝はなんのために呪詛返しの法をさらったのか、よもや忘れたわけではあるまいな。今ここでやらずして、いつやるというのだ』

「いやなんのためって、先生からの挑戦的なアレでしょ……?」


 戸惑い気味な響に、氷輪は若干苛立たしげに嘆息した。


『まだわからぬか。汝の師は、これを予期していたのだ。汝に呪詛返しの法について尋ねたのも、すべてはこのためよ』

「……え?」


 虚を突かれ、響が絶句する。


「え、嘘……え?」


 混乱する響の気持ちはわからないでもないが、今はそんなことにかかずらっている時間は残念ながらない。


『あれは見たところ、古式呪術の禁術に相違ない。ゆえに降魔科生は無論、降魔士でさえ呪詛返しなぞできぬであろう。なれば、汝しかおるまい』


 氷輪が厳かに続ける。


『我には知識はあれども、それを実行するすべは持たぬ。風伯相手にこれ以上逃げおおせることも、ましてや戦意を削ぐことも我にはできぬのだ』


 白澤である氷輪は、闘う力を持たない。その代わり、氷輪の放つオーラには妖異を退かせる力が備わっている。氷輪がまとうのは妖気ではなく霊気。人間の持つ霊力とは性質が異なるため、妖異はその霊気を嫌がるのだ。


 白澤が魔除けの象徴として崇められることがあるのは、そういった能力を持つがゆえのことだった。


 とはいえ、これは本性を現したときにのみ有効になる力だ。常時の霊気を極限まで抑え込んでいる状態の姿では発揮されない。だから、響は普段の外出時でも隠形しているのである。


 それに、魔除けの力はすべての妖異に適用されるわけではない。白澤と同等レベルの力を持つ神獣や大妖には効果がないのだ。


 それ以外でできることと言えば、己の霊気を爆発させて相手を吹き飛ばすといった程度。力の弱い雑魚妖異であればそれで消し飛ぶこともあるが、本来殺傷能力は皆無に等しい。


 白澤は、この世の森羅万象に通ずる膨大な知識を持つ、人でいう生き字引のような存在だ。しかし裏を返せば、それだけの妖異なのである。


 傲岸不遜で尊大な性格をしている氷輪だが、自分がどういった存在なのかを誤ることなく把握している。己を卑下することがないのは当然だが、自信の持つ能力についての過剰評価もしない。


 氷輪はもう一度、同じ言葉を紡ぐ。


『響よ、飛廉の呪詛を返すのだ』

「…………」


 響は渋面で黙り込んだ。


 自分が信じていた呪詛返しの復習の目的は見当違いで、しかも、この一件は師である深晴がすでに見透かしていたのだという。つまりこれは、師の意志にほかならない。深晴は飛廉の呪詛を返せと、言っているのだ。


 しかし、それがなかったにしても、相手が自分に狙いを定めている以上、どちらにせよ対峙しなければならないだろう。


 なら、自分のなすべきことはひとつ。


 自分の身を自分で守る。


 そのために、調伏ちょうぶくができないのであれば、相手にかかっている呪いを解くしかないだろう。


「ああもう、なんでこんな面倒なことばっかり……」


 ついてない、本当に。


 一度息を吐き出した響は、すっと神経を研ぎ澄ませた。響の気配が変わったことを感じ取った氷輪は、ちらと背の上に目線をやった。


『やる気になったか』

「ないよ。……でも、やるしかないじゃんもう」


 憤然と言った響には、氷輪が顔を戻したあと、にやりと口端を吊り上げたことなど知る由もなかった。


 そこに、何度目かの風の攻撃が繰り出された。その攻撃を避けながら、氷輪は思考を巡らせる。


 飛廉にかかった呪詛を返せと響には言ったものの、そう簡単にできることではないだろう。


 なにしろ相手は風を自在に操り、猛烈な速さで飛ぶことができる。隙を作るか、あるいは相当弱らせでもしないと、解呪および呪詛返しは思うようにいかないと思われる。


 これは思った以上に厄介なことになりそうだ。


 今回は氷輪の意志でもある。だから、知恵を貸して作戦を練りたいところではあるのだが、状況がそれを許してくれない。


 なぜなら飛廉が放った無数の風の刃が、氷輪たちに降り注いできたからだ。


 かまいたちだ。あんなものを食らえば、なます切りになってしまう。


「くそ!」


 響が護符を放つ。護符は響を乗せた氷輪の周りをぐるりと囲むように浮かび、障壁を築いた。


 不可視の壁に、風の刃が次々と激突する。これで凌ぎ切れれば――。


「……!」


 しかし、ややおいて障壁に亀裂が生じ始めた。相手の攻撃に、響の術が圧し負けているのだ。


 響は息を呑んだ。まずい。このままでは破られる。


 急いで響が次の術を放つより前に。


 障壁がパリンと音を立てて砕け散った。


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