第30話 二人の溝


「ねぇ」


「ひっ!?」


 まるで数十年にも及ぶ怨念を持った幽霊のような声を出し、ドアの横で腕を組みながら立っている夏希さん。


 いつものくりっとした瞳も、今回ばかりは冷酷な社長モードの時を超えるくらいの冷たさになっている。


「なんで朝に帰ってきたの? 私、メッセージ送ったけど? 何度も何度も何度も送ったけど……?」


「ホテ……近くに友人が居たので、そいつと飲んでそいつの家に泊まってました」


 飯島先輩とホテルに泊まった、という事を言うのはなんだかもやっとした気持ちになって言い切れなかった。


「ふぅん。女の子とホテルに行ってなんかないよね? 営業部のだれかと、ホテルに行ったりしてないよね?」


「っっ!? い、行ってませんよ?」


「そっか……そーなんだ」


 なぜか確信がかった瞳を俺に向けて、しばらくするとぷいっ、と顔を逸らした。


「何はともあれ、連絡無しで朝帰ってくるのは、同居人としても、社長としても目を逸らせないよ」


「本当にすいません……」


「…………うん」


 物憂げな表情で腕組みを解く夏希さん。なぜだかやっぱり夏希さんのそのな姿を見ると胸にもやがかかって、どうしようにも胸がきゅっと締められる。


「じゃあ、私は部屋に戻ってる。ごめんけど、今日はご飯作る気になれないや。自分で何か買って食べてね、それじゃ」


 そう言って夏希さんは部屋に戻る。いつものダル着の裾をいつになく強く握りしめながら。



【三雲夏希視点】


 私は新太君の言葉を待たずに部屋に戻った。何かを言い淀んでいるような気がしたけど、今だけは彼の言葉は聞きたくなかった。


 部屋に入って、ドアを閉める。ドアを閉めると完全に私だけの空間になった。


 いつも見てる部屋の内装。別に変わった様子はないけれど、どうにも目の前がぼやけている。


 そして、段々と目頭が熱くなってきて、瞬きすると頬に水が流れた。


 拭っても、拭っても、何度拭っても、あふれ出てくる。


 どうにか止めようとして、枕に顔を押し付けたけれどやっぱり止まらなくて枕カバーが濡れるばかり。


 だけど、涙と共にあふれ出てくる嗚咽は枕のおかげで無い物になってくれている。


「はぁ……あぁぁ……うぅ……」


 ほんの少しだけ収まったから、枕から顔を離すと、朝まで起きていたせいで出来たクマを隠すメイクと、涙が枕カバーにしみ込んでいるのが見えた。


 それを見てまた溢れそうになってくるのを、今度はティッシュで受け止める。ついでにずびずびになった鼻もかんだ。


 どうして新太君は嘘をついたんだろう。


 契約している探偵から随時連絡は来ていた。怜ちゃんの車に乗って居酒屋に行ったことも、そのあと二人だけ抜け出してホテルに入って行った事も。


 そしてそれから朝まで一度も出なかった事。


 全て私は知っている。ホテルの中でしたことも、大体予想が付く。というか、一つしかないのでは?


 確かに私が悪い。なんとも言えないこの関係をずるずると続けてしまった私が。


 そりゃ、仮にも女の子と一つ屋根の下での生活。しかも私はいつもいつもちょっかいを掛けて。溜まるものもあっただろう。


 真奈美が居るからきっと大丈夫だろうと高を括った私の失敗だ。いくら真奈美が私と新太君の関係を知っている唯一の部下だったとしても、お酒が入っていれば判断力も鈍る。


 それに新太君を送るという名目で抜け出せることだって怜ちゃんにはできる。


 どんどんどんどんあふれ出てくる後悔。どうして参加しなかったのだろうか。どうして新太君を迎えに行かなかったのだろうか。どうして怜ちゃんが新太君に惹かれていることはわかっていたのにさっさと行動しなかったのだろうか。


 バレることに、新太君に距離を取られることに恐れて、いつまで経っても気持ちを伝えられないどころか、ただ同居しているだけで恋愛感情は無い、なんて言ってしまったし。


 どれもこれも全部私のせい。そんなことはわかっているわかり切っている。


 だけど、今溢れんばかりに流れ出てくる涙はどうしようにもない。


 再び嗚咽と涙を隠すために枕に顔をうずくめた。枕はいつの間にかびしょびしょで気持ちが悪かったけれど、今顔をあげてしまったらきっと声が隣の部屋にいる新太君に聞かれてしまう。


 だからじっと我慢して、我慢して。


 少しずつ、落ち着いてきて。


 だけどまた新太君がここを出て行ってしまったら、なんてことを考えてしまって涙が出る。きっと明日、私の目はありえないくらいに腫れている。


 強がるためのメイクも、今までやってきたことが無駄だったことへの虚無感とが、ごちゃまぜになって私の胸で渦巻く。


 どうにもやる気が出てこなくて、このまま死んだら地縛霊になってしまう自信がある。


 目は痛いけど、息はしずらいけど、少しづつ少しづつ眠くなってきた。


 元より暗い場所から、どん底に落ちていくような浮遊感を感じる。そこまで悪くない。


 そして私の意識が飛びかけたその時——


 コンコン。


 部屋をノックする音が聞こえた。


 聞き間違えかもしれない。そう思って枕に顔を付けたまま耳を傾ける。すると再び、コンコン、と音が聞こえた。


 私は枕から顔をあげ、ドアを見つめる。別にドアの外にいる人をじらしているわけではない。だけど、三回くらいはノックしてくれないと出る気にならない。


 コンコンッ。


 私の考えをくみ取ったかのようにもう一度ノック。私はちゃんと声が出るか不安の残る喉を使って声を出す。


「……なに?」


 良かった。声、ちゃんと出てくれた。


「急にすいません、部屋に入ってもいいですか?」


「だめ。何かあるなら扉越しで」


 そしたらこの家を出るって言われても、見られないから思う存分に泣ける。


「いや、これは直接伝えたいので、どうにかお願いできませんか?」


 珍しくしつこい。そこまでして誠意を魅せなくてもいいのに。その誠意は私を傷つけるだけなのに。


 でも、やっぱり私は新太君には存外弱い。


「……できるだけ早く終わらせてね。早く終わらせてくれるなら、いいよ」


 私は布団をかぶり、枕で目から下をガードする。さながらホラー映画を見ているみたいだ。


 失礼します、と一声置いてガチャリ、とドアノブが音を出す。そして、ワンテンポ置いてドアが開く。


 部屋に入ってきた彼は、何かを決断したような、そんな表情をしていた。

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