第16話 わんわん事件後。



 わんわん事件から数時間。一度も夏希さんは部屋から出てきていない。その間に俺は、ぽちったカーテンを設置したり、お風呂に入ったりと、色々なことを済ませた。


 そして今は部屋でくつろいでいる途中。なのだが。


「大丈夫かなぁ、夏希さん」


 俺は先ほどの夏希さんの足取りが頭から離れないでいた。多分寝てたりするんだろうか。


 どうにも心配だ。俺はそのまま夏希さんの部屋に行っても良かったのだが、一度コーヒーを入れてから夏希さんの部屋へと向かった。


 コンコン。二回ノックしても返答は無い。もう一度コンコンと、ノックをするとやっと「はい……」という声が聞こえてきた。


「夏希さーん? 入ってもいいですかー?」


「……いい、よ」


 声がいつもと違ってとても暗い。やっぱり気にしているのかな。


「失礼します」


 そう言ってドアを開けると、かわいい人形があったり、部屋全体が白と淡いピンク系の色で統一された可愛らしい部屋だった。


 そしてドア横あるベットの上で、ブランケットに身を包んで体操座りをしている夏希さん。顔だけをひょっこりと出している。


 その顔は、ひどく落ち込んでいるように見えた。


「大丈夫ですか? コーヒー淹れてきたんですけど、どうです?」


「あ、ありがとう……」


 俺は出来るだけ辺り触りの無い笑みを浮かべ、夏希さんの元へ行き、コップを手渡す。


 マグカップを両手で大切そうに持ち、コーヒーをふぅ、ふぅ、と冷まし、口に——って、それだけじゃ絶対足りない。


「夏希さんちょっと!」


 俺は先ほどの二の舞にならないように、口に持っていこうとしている夏希さんの腕を掴み、とめる。


「え?」


「絶対それじゃまだ熱いです」


 夏希さんはまだ湯気が出るコーヒーを見つめ、ごめん、と力なく一言。


「どうしたんですか? 様子が変ですよ?」


「え、うん……」


「……もしかしてさっきのことですか?」


 夏希さんの体がビクリと震え、おびえる瞳で俺の目を捉える。


「……うん。あんな事しちゃったら嫌われちゃうかなって……。ごめん、ね」


「……はぁ、なんだ。あれのことだったんですね。僕は全く気にしてませんよ。それに、第一こんな事じゃ嫌いになんてなりませんよ」


 真っすぐ、誠意を込めて、夏希さんの綺麗なサファイヤブルーの瞳を捉える。底の見えないサファイヤブルーの瞳は、俺を引きずり込むようで。


「ほんと?」


「はい。本当です」


「じゃあもう一回ああいう事、やってもいい?」


「それはダメです」


「気にしてるじゃん」


「いや、それは……ま、まぁたまになら、本当にたまにならいいですよ」


「ほんと!!」


「……はい」


 やったー、なんてはち切れそうな笑みを浮かべながら、相変わらずブランケットに身を包みながらるんるんと言った様子で体を揺らしている。


 持っているコーヒーが今にも零れそうだ。


「夏希さん。コーヒー零れちゃいますよ」


「あ、ほんとだ。あぶないあぶない」


 横揺れを止め、ベットの上での体操座りをやめ、足を出しベットのふちに腰かける。


「ここ、おいで?」


 と、夏希さんは自分の横、ベッドのふちをぽんぽん、と軽く叩いて示す。


「いや、それはさすがに……」


 なんだか、ベットに二人で腰かけるのはダメな気がしたのだが、夏希さんの今にも泣きだしそうな顔に負けた。


「へへ、カップルみたいだね」


「カップルじゃないです」


「むー。気分だけでも味わわせてよ」


「何ですか気分って。絶対夏希さん恋愛上級者でしょ」


「何言ってるの? 私、これまで恋愛と言う恋愛したことないけど? 暗い暗い学生時代を過ごしたんだけど?」


「えぇ、絶対うそでしょ」


「本当本当。何なら私しょじ——何でもない。忘れて。なんでもない」


 考えるな。変なことを考えるな俺。


「あ、えっと、はひ」


 噛んだ。


「…………」


「…………」


 どちらも顔を見合わせない、気まずい空気が続く。それが数分、重くも、軽くも感じられる空気。


 そしてその空気は夏希さんがコーヒーを飲み終わると同時に終わりを告げた。そして、夏希さんがおずおずと口を開く。


「……新太君」


「どうしました……?」


「たまにはいいって、言ったよね?」


 夏希さんは飲み終わったマグカップを近くの机に少し腕を伸ばして置いて、こちらを向く。


 俺はもちろんそれを見つめ返すことなんてできない。


「ねぇ、新太君? 私、ちょっと心に傷を負ってるんだよねー……だから、『たまに』使っても、良い?」


 縋るように、俺のパジャマの腕の部分を掴み、少しづつ近づいてくる。


 良いわけないじゃないですかぁぁぁぁぁぁぁぁ!?!? 


 だけど、なんとも。いや、かなり言いずらい空気感。どうすれば。


「だめ、なの?」


 あぁもう。


 俺は飼い犬だ。夏希さんが飼い主の飼い犬なのだ。そう自分に言い聞かせる。そして、口を開く。


「いい、ですよ」


「ほんと! じゃあまずはそこに足を延ばして座って!」


「は、はぁ」


 俺は指示された通り、ベッドの真ん中あたりで足を延ばし座る。ベットから降りた夏希さんはふむふむ、と顎に手を当てながら俺を見ている。


「よし! じゃあそのまま目を瞑って!」


「わ、わかりました……」


 何が起きるのだろうと、恐怖にも、好奇心にも似た感情が胸を駆ける。そして、数秒。


「えいっ!」


 と、言う掛け声と共に重厚で非常に柔らかい物質が俺の顔の埋める。


「ぼぁっ!」


「目、開けていいよー」


 と言われ目を開けてもそこは真っ暗闇。ただただ柔らかい、と言う感触に支配されている。


 俺が抜け出そうと必死に頭を動かすと、んっ、だとか、あっ、なんていう声をいちいち漏らしてくる。それに、声が上から聞こえてくる気が……上?


 何処か引っかかるこの事象の謎を解く前に、俺はその真っ暗闇から抜け出す。


 そして上を見ると、夏希さんの綺麗な顔。えへへ、と至近距離で照れ臭そうに笑う。サファイヤブルーの瞳が俺を射抜く。


 夏希さんの顔に目を奪われていると、「とりゃっ」という夏希さんの声と共に俺の体はベットに倒される。もちろん抱きついている夏希さんもセットで。


「ふへへ、新太君、いい匂い」


 こっちのセリフだ。さっきから夏希さんの匂いが俺の鼻腔をくすぐり続けている。


「……ちょ、ちょっと、もういいでしょ夏希さん。そろそろ放してください」


「えー、もうちょっとだけー」


 と、言いながらもぞもぞ動き、俺の胸筋辺りにまで夏希さんの顔は下がる。


「はぁーーーーー。なんだか落ち着く……ねむっちゃいそう」


 パジャマに顔をすりすりしながら、夏希さんは言う。このまま眠られたら本当にまずい。


 俺はどうにかして夏希さんの拘束を解こうとするが、無理に引きはがすのもためらわれ、そうにもできない。


「…………すぴー。すぴー」


「ちょ、ちょっと!? 夏希さん!?」


 まさかとは思うが。


 まさか、こんな時に寝るとか、さすがにないですよね?


 どうにか夏希さんの顔を覗く。しっかりと瞳を閉じながら、かわいらしい寝息を立てている夏希さん。


 うそ、だろ。


「なつきさーん? もしもしー!?」


「……うにゃぁ……へへ」


 しっかり寝てる……。夏希さんを剥がそうにもホールドが強すぎて離れない。要するに詰んだ。


 どうしようもないと分かった俺は、肩の力抜き、夏希さんのベッドに沈んだ。どこもかしこも夏希さんの匂いがして落ち着かない。


 まぁ、しばらくすれば夏希さんの手の力も弱まるだろうし。その時に脱出すればいいか。


 そう俺は考え、しばらくぼーっとしていた。




 で、なんでいつの間にか朝を迎えているのでしょう。


 確か……夏希さんの匂いが心地良くなってきて、段々眠気が……うわぁ、睡魔に負けてんじゃん俺。


 胸元を見ると、最後の記憶までは確かにいた夏希さんの姿は無い。しかし、眠い眼を擦って周りを見ると確かにここは夏希さんの部屋。


 とりあえず、ここを出なければ。


 そう思い、ベッドから立ち上がり、ドアを開ける。すると、じゅーという音と共に香ばしい香りがした。


 その元は。


「あっ、あっ、おっ、おはよう! よ、よく眠れた!?」


 顔をありえないくらい真っ赤に染め上げながら、何事も無かったように俺に話かけてくる。なるほど。そういう感じで行くんですね。


「あ、はい。ぐっすりでした」


「そ、そっか! それよよひゃっ……よかった」


 えと、えっと……と、もじもじしながらとりあえず身支度でもしてくる? という夏希さんの言葉に従い、洗面台に向かった。

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