第20話 私の王子様【飯島怜視点】


 天罰が下った。


 私はそう思った。最後の、小さな小さな悲鳴も日田にはくみ取られず、彼は出て行ってしまった。


 だけど、さっきも言ったがこれはきっと天罰なのだ。彼に、日田にまともに教育係としての働きをしてあげられなかった、冷たく当たりすぎてしまった私への天罰なのだ。


 目の前にいる種田とかいう男はさっきよりも陰湿さを増した笑みを浮かべている。きっと邪魔者が居なくなったから喜んでいるんだろう。


「さて、邪魔者もいなくなったし、二人っきりで話そうか……へへへ」


 自分から邪魔者って言ってるし。あぁ、本当になんで最後の最後でわざわざセクハラおやじひいちゃうかなぁ、はぁ。


「それよりも種田さん、話を進め——」


「ねぇ、さっきから言ってるけど、怜ちゃん、うちと取引したくないの? ねぇ」


「……申し訳ありません」


 落ち着け私。ここは私に任された重大な案件なのだ。こんなところで躓いている場合ではない。なんとかうまい具合に受け答えて元の話に戻らなければ。


「ところで、さっき言いそびれたけど、胸、ないよね。へへ。どれくらい? Aカップ? あって、Bくらいなのかなぁ?」


 にちゃにちゃと気持ちの悪い笑みを浮かべて、物色するように私の体の隅々に目を向けている。


「はは。秘密です」


「へぇー。じらすねぇ! 僕、そういうのも嫌いじゃないよ。へへ。でも、顔は良くても胸ないとやっぱりモテないとか、あるの?」


「さぁ、どうでしょうね……」


「その受け答え方からして、モテなかったんだねぇ? へへ。僕は貧乳も好きだから怜ちゃんのこといいと思うんだけど……どうかな?」


 モテなかったも何も、高校まで地味根暗女だったからわかんないわ。メイク始めたのだって大学からだし。


「はは、種田さんにはもっと良い人が居ますよ……」


「そんな謙遜しないでよぉー」


「いやいやそんな……」


「でも、やっぱり顔がいいから、彼氏の一人くらいできたことあるんでしょ?」


 好奇心と、下心が混ざった表情に、豚のような顔を歪めながら、聞いてくる。きつい。


「彼氏も……できたことはありません」


「へぇ、なら処女なんだ。やったことないんだねぇ……へぇー」


「そろそろ十分ですか? お互いのことを知れたと思いますし、これ以上行くとセクハラに——」


「どこが? それに、セクハラじゃなくって信頼関係を気づいているだけさ。何度も言ってるけど、信頼関係のできていない相手と僕は商談したくないんだよね」


「っっ」


 話を切り替えようとした途端これだ。突如として冷たい声色になる。


「まだまだ冷ちゃんのこと知り切れてないし。それに、怜ちゃん、僕のことまだ全然知らないでしょ? 一杯教えてあげるよぉ……へへ」


「どうも……」


 あぁ、もう限界かもしれない。できることなら今すぐ逃げ出したい。


 けれど、私が背負ったこの案件が、商談が、何とかその心を押さえつける。まだ、わからない。まだ。


「まぁ、いいや。お互い合意だし……僕と付き合わない……? へへ。お似合いなカップルになると思うんだぁ」


「…………」


「それに、体の相性もいいだろうしねぇ?」


 どういう思考回路になればそうなるんだろうか。


 それに懲りることなく、舐めまわすような視線を何度も何度も何度も私に向けてくる。きっと視線にも唾液があったら私はびちょびちょで、きっとその唾液はめちゃくちゃ臭い。


「ねぇ、怜ちゃん。僕と、付き合わない? へへ」


「……それはちょ——」


「——僕と付き合ってくれたら、僕とヤッてくれたら、商品を取り扱ってあげてもいいよ?」


「っっ……別の担当者をお願いします」


「ぷっ。名刺見なかった? この件の担当では僕が一番偉いんだよ?」


 記憶を手繰り寄せる。あぁ、気持ちの悪い顔にしか目が行っていなかったせいでよく見てなかったけど、確かにそうかもしれない。


 あぁー。なんでこんなに運もってないんだろうな、私。我ながらに同情しちゃう。なんだか、心の何かが崩れていくような気がしてくる。ダムが決壊してしまうようなそんな何かが。


 あー、なんか、目の前がぼやけてきた。自分の無力さ。運の無さ。その他諸々のすべてが憎く感じられる。


 物語だったらきっと、白馬にのった王子様とかもこういうタイミングで来るんだろうな。はは、私には100パーセントない話だけど。


 ぼやける視界で、目の前の大きくて黒い物が背を伸ばし、左へ出てこちらへ近づいてきている。顔は見えないけれど、ちゃんと見えていたら吐いて間違いなく吐いてしまっている。


 あぁ、もう、なんか、どうにでもなれ。


 私は目を瞑る。


 目を瞑ると同時にあふれ出した熱い何かが頬を伝う。


 そして、遠くから聞こえていたぶひぶひと鳴いているかのような荒い吐息がだんだんと近くなってきて。


 そして、寸でのところまで近づいて——ドカンッ、というドアが開く音と共にその吐息は離れた。


 …………誰?


「——大丈夫ですか飯島先輩」


 それは、その声は。


 私が逆恨みで冷たい態度を取ったりしているのに、真奈美さんに言われなければまともに教育係もしなかった私にも笑顔を浮かべる、初めてできた私の後輩。


「だ、誰だっ、て、お前か。ちっ。戻ってくるなっつったろ、せっかくいいところだったのによ」


「良いところ、ですか。へぇ。それよりも」


 こつ、こつっとその足取りは私の元へ近づいてきて。私が目を開けるとぼやけた視界の中に、確かに彼は、日田はいた。


「大丈夫ですか?」


 優しい声を掛けながら、ハンカチを私の目に一度くいっと押し当てて涙を拭きとってくれて。


 これどうぞ、と一言言ってハンカチを手に握らせてくれた。なぜだか、心の奥底から安心して、もっともっと涙が零れそうになったけど、ハンカチを目に押し当てて何とかそれをせき止める。


「ところで、種田さん。この問題に、どう決着つけるつもりで?」


「は? 何を言っている。問題なんて何もない。ただ商談をしていただけだろ。そしたらそこにいる女が突然泣いただけだ。何を勘違いしてる」


「ただ商談していただけ、それに勘違い、ですか。よくそんなこと言えますね」


 やっと、ハンカチを押さえなくてもいいようになって、ハンカチを取って目の前のやはりぼやける景色を見る。いつの間にか日田は元々座っていたソファの場所の前に来て、クッションとクッションの間を漁っている。


 あ、あったあった。と声を出して、何かを勢いよく引き抜く。


「えーと、ちゃんと撮れてますね。よしと」

 

 そう言うと、ぽぱんっ、と日田が持っている物から音が鳴った。


「そ、それは……」


「今までの一部始終、動画に撮ってますから。まぁ、動画、といっても挟んで隠していたので音声だけですけど、この様子だと……十分そうですね」


「お、お前!! い、いつそんなものを仕込んだ!? あぁ!?」


 怒号のような声を出す種田。だけど、それに怯むことなく日田は続ける。


「そりゃあ気づかないですよね。だって、飯島先輩に夢中になってましたし。だから、僕はメールを見るふりをしてビデオを起動させ、ポケットに入れるふりをしてクッションの間に入れたんですよ。確かに飯島先輩は美人です。でも、だからと言ってセクハラするのは違うんじゃないですか?」


「せっ、セクハラなんてしていないっっっ!!!!! そんなこと断じて!!」


「はぁ。そうですか。じゃあこの動画は何でしょうね」


 スマホをいじって音を先ほどまであったことを取った動画の一場面を流す。少々くぐもってはいたが、声の主がはっきりとわかるくらいにはしっかりと撮れていた。


「な、そ、そんな物でたらめだぁぁぁ!!!! 僕と怜ちゃんは相思相愛なんだよぉぉ!!」


 種田は狂ったように支離滅裂なことを突然叫びだし、涎を垂れ流している。


 まるで狂った獣のようだ。


「そうだ、そうだ怜ちゃん……うちで取り扱ってあげるよ? ひひ、嬉しいでしょ? ねぇ! ねぇ!!!」


「いいえ。あなたみたいな人が居る場所でわざわざ取り扱ってもらうほどうち椿堂の商品は腐っていないです。それと、この動画は然るべきところに出します。それじゃあいきましょう飯島先輩」


 彼は私の手を引いて、ゆっくりと立ち上がらせてくれる。大きくて、暖かくて、すこしごつごつとした手は、私を安心させてくれて。


 彼の顔を見る。いつものように、辺り触りのない笑みを浮かべいる。


 日田は私の肩に軽く手を乗せながら、一緒に出口へと向かう。しかし、種田はそこで止まることはなかった。


「……くそが……くそがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 狂気に満ちたにその声に私と日田は振り返る。とろい動きだけど、右手を大きく振りかぶって殴りかかってきている。


 私は、どうしてか、頼るように日田を見る。彼と目が合って、彼はやっぱり笑顔を浮かべていた。その笑顔を見ると、やっぱりどうしてか心の底から安心してしまう。


「ちょっと向こうへ行っててください」


 私をぽんっと押して、すこし距離を取らせると日田は種田の大きく振りかぶった手を器用に受け流し、その勢いを使って華麗な背負い投げを見せた。


 地面に叩きつけられた種田はぶひゃっ、と声をあげて、立ち上がらなくなる。


 背を押さえながらうめき声をあげている種田。


「行きましょう飯島先輩」


 目の前に転がる種田をガン無視して、日田が私に手をさし伸べる。


「……うん」


 私はその手に、その彼の手に手を伸ばして、彼と手をつなぐ。そして、部屋を出た。


 部屋を出てからも、彼に引っ張られる。そして、引っ張られながら、彼の背広を見ながら思った。


 あぁ、私の王子さまはきっとこの人なのだ、と。



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