第19話 去る男
飯島先輩は受付嬢といくつか言葉を交わし、少し戸惑いの表情を見せた後、結局名札を二つ渡され、その一つを俺に渡してきた。
「どうしたんですか?飯島先輩」
「担当者が変わるみたい。体調不良だとか。まぁ、そういうこともあるわよね」
飯島先輩は腕時計を確認した後、それじゃあ行きましょう、と俺に声を掛けた。そして一緒にエレベーターに乗り込む。
「あなたは何もしなくていいから。どんな流れか、だとか、まぁ、適当に学びなさい。それと相手様に粗相がないように。いい?」
「はい。もちろんです。今日はたくさん学ばせていただきます」
タイミングをうかがったようにエレベーターが飯島先輩が押した階に到着する。飯島先輩は行くわよ、と言って進んでゆく。
しばらく進むと、『応接室』と銘打った小さな看板のある部屋の前に着く。飯島先輩はふぅ、と深呼吸をして、ドアをノックする。
コンコン。その子気味よい響きに続いて、飯島先輩の可憐な声が廊下に響く。
「椿堂株式会社の飯島です」
「あぁ、どうぞ入って」
中から少し年を取った男の人の声がする。
「失礼します」
先輩は俺に一度目配せをして、再びドアに振り向き部屋へと入ってゆく。部屋の中には、頭の頂点がすこし、というか、かなりハゲかけてきている中年のおじさんが居た。
額には汗が滲んでいて、清潔感と言う言葉とは少し縁がなさそうだ。
「初めまして、わたくし、椿堂株式会社の飯島です。それと、後ろのは日田、と言います。よろしくお願いします」
飯島先輩は名刺を取り出し、近づき歩いてくる中年の男性に名刺を差し出す。俺もすこし後ろから名刺を差し出す。が。
「あぁ。どうも。僕はフロム百貨店の
「はい。先ほど受付嬢の方から聞きました」
「そうですか。それじゃあ名刺、いただきます」
種田、と名乗った男は飯島先輩の名刺をまず受け取ろうとしたのだが。
「っっ!?」
飯島先輩の手を両手で包み込むように掴み、先輩の手に鼻息が届くほどの距離まで顔を近づけた。舐めまわす様に名刺を見た後、わざとらしく顔をあげる。
「あぁ、申し訳ない。最近、どうにも目が悪くてねぇ。ははっ。あ、それと男の方の名刺はいらないから」
と、俺の方を一度も見ることなくそう告げた。先輩は眉をひそめ、ちらりと俺を見る。
まぁ、こういう時もあるのだろう。きっと。俺は飯島先輩に大丈夫ですよ、という意味も込めて笑みを浮かべる。僅かな不信感を持ちながら。
「じゃあ、飯島さん、これどうぞ」
種田さんは懐から自分の名刺を取り出し、飯島先輩に渡す。やはり俺には見向きもしなかった。早速トラウマになりそう。
「ど、どうも……」
「それじゃあ、良ければそこに腰を掛けてください」
「わかりました」
飯島先輩は言われるがままに、黒革の上質そうなソファに腰かける。俺も飯島先輩についていき、その隣に座る。
種田さんは背丈の低いガラスの机を挟んだ向かいにある、俺と先輩が座っているソファと同じものに座りこむ。やっと目を合わせたと思えば、まるで邪魔者を見るような目で俺のことを見ながら。
お前に視線を向ける時間すら惜しいという様に、にこやかな笑みを張り付け飯島先輩の方を見る。
「いやぁ、急に担当が変わってしまい申し訳ないです飯島さん。いや、怜さん」
「い、いえ、とんでもないです。それと、怜、さん?」
「あぁ、ほら! 距離感は大事ではないですか。ははっ!」
「はぁ」
種田さんはてかる額をスーツの裾で拭い、機嫌のよさそうに笑う。それに対し、飯島先輩は引きつる口角を何とか苦笑いにまでもっていっている。俺はもちろん何をするわけでもなく、最低限好感得られるようにささやかな笑みを浮かべている。
最初以外、種田さんは一度も俺を視界に入れていないようだが。
「それにしても、さっきから怜ちゃんからはいい匂いがしますよねぇ! なにか香水でも使っているんですか?」
へへ、となんとも表現に困る笑みを浮かべながら飯島先輩に問う。
「……その質問はあまり関係ないようにも思えるのですけど……?」
「いいじゃないですか。信頼関係も大事ですよ? それに僕、堅苦しいのはきらいなんでね、へへ」
「それでも——」
「聞かせてくださいよ。それとも、僕との信頼関係を築きたくない、と言う事はうちに商品を置きたくない、という事なんですか?」
種田さんは途端に甘ったるくて気持ちの悪い笑みを消し、真顔でそう言った。
「っっ……ボディミストを……使ってます」
「そうなんですか! だからそんなに良い匂い何ですか! はぁ」
「ど……どうも。それでは、そろそろ本件に——」
「あ、そういえば怜ちゃん、知ってる? 実は怜ちゃん、うちの男性陣で話題になってるんだよね。すごく美人だって。僕もそう思ってたんだぁ……」
「……どうも」
種田さんは舐めまわすような目で、じっとりと飯島先輩を見つめている。ついには飯島先輩は苦笑いすら浮かべることをやめ、と言うよりかは忘れていた。しかし、そんな飯島先輩を気にすることなく種田さんは続ける。
「怜ちゃん、結構モテてるんでしょ?」
「い、いえ。それに今は仕事が大変ですし、やりがいを感じているので恋人を作る暇はないですね」
「へぇ、そうなんだ。僕、自分で言うのもあれなんだけど、意外とモテるんだよねぇ……へへ」
「はぁ……」
「でも、怜ちゃん胸は——」
「すいません。ちょっと、尿意とメールが。トイレを借りてもいいですか?」
俺は話を遮るように立ち上がり、笑顔を崩さず種田さんに聞いた。失礼は承知だが、スマホを開き、ゴホンと咳ばらいをしてスマホを入れる。
飯島先輩は驚いたような表情を浮かべている。飯島先輩には申し訳ないが、このままここにいるわけにもいかない。
「ちっ。失礼な奴め。出て、右にすこし進む」
もうすでに俺への悪態を隠そうとしていない。俺は胸からあふれ出そうになるものを、社会経験だ、と心に言い聞かせてなんとか笑顔を保つ。
「どうも。それでは、すこし失礼します」
「終わるまでかえって来なくていいぞ」
「ははっ、ご冗談を」
そう言いながら、俺は飯島先輩の後ろを通ると、一瞬目が合った飯島先輩に「まって」と小さく声を掛けられたが、知らないふりをして部屋を出た。
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