第32話 社員旅行への布石



 いつもの社内。常にざわざわと音が立っている椿堂株式会社。少し騒がしくも感じるこの音は、常に業績を上げ続けている証拠でもあった。


 そんな会社の営業部。いつものデスクで俺は慣れた手つきで仕事をこなしていた。しかし、俺のタイピングが初心者に見えてしまうほどの速さで入力をしている隣の上司。


 飯島先輩だ。ちなみに左隣の奈那子さんはすでに弁当を机の上に出していて、右手には箸、左手にはTwitterのタイムラインを開いているスマホを持ち、昼食を取っている。


 飯島先輩の修羅モード。毎度のことだが、この修羅モードの飯島先輩に話しかけるのには度胸がいる。すこしタイピングの手が止まったことを確認し、話しかけた。


「飯島先輩、昼休憩入らせていただきますね」


「ん? もうそんな時間か。てか、もういちいち言わなくていいって。なんか、いちいち言われると嫌な上司みたい」


「最初の頃は割とそんな感じだったじゃないですか?」


「むぅ、やめてよ。それ、軽い黒歴史」


「ははっ、すいません」


 膨れる飯島先輩を前に、漏れてしまう笑みを手で隠し席を立つ。


「あ、今日も社長室?」


「はい。毎度のごとく呼び出しを食らってます」


「そう。行ってらっしゃい」


「はい!」


 先輩は数か月前では考えられない柔らかな笑みを浮かべ、軽く手を振ってくれた。


 俺は慣れた視線を背負いながら、いつも通り部屋をノックし、返事を待ち部屋へと入る。


 今日はいつもと違って最初から来客者用の背丈の低いソファに座り、お弁当を二つ並べている。


「いらっしゃい日田君。今日はどうだった?」


「いつも通りですよ」


「そう、ならよかった」


 辺り触りの無い会話を交わし、俺は夏希さんの隣に座り込む。そして、いつも通り一緒に手を合わせ、弁当を食べる。


 ホテルの一件はもうすでに無かったようなことになっていて、あの日からそれまでと変わらない日常が続いている。


 若干互いに距離が近づいた気もするが。


「そういえば社長」


「にゃに?」


「すいません話しかけるタイミングが悪かったです」


 ご飯を口いっぱいに詰めている時にタイミング悪く話しかけてしまった。夏希さんがご飯を飲み込み、ペットボトルのお茶を流し込み終わるまで待つ。


 そして、ひょいっとこっちを向いた夏希さん。言動はやはり冷徹だが、最近社長モードでも行動は夏希さんを隠しきれていない。


「で、どうしたの?」


「あぁ、社長、この部屋に居るときだけはいつもの夏希さんに戻ってもいいんじゃないですか?」


「なっ、何よいつもの夏希さんって! わ、私は社長よっ!」


 身振り手振りを大きくしながら、必死に社長の権威やらなんやらを誇ろうとしているが、一度家に帰れば子猫のように甘えたがりな夏希さんを知っているから最近はなんともない。


「まぁまぁ、そんなに力まず。僕と居るときだけはリラックスしときましょ?」


「な、な、なによそのえっちな謳い文句みたいなの!! いきなり何なの『新太君』!?」


 箸を追ってしまいそうな勢いで机に叩きつけ、声を荒らげる。やっぱり怖さは無い。


「そうそうその感じですよ夏希さん。もっともっとリラックス」


「もうっ!! いい! 出なさい!!!!」


 そう言って背中を押され、社長室のドアの前まで押しやられる。俺は観念して社長室のドアに手を掛けようとしたとき、「あ」と声を漏らした夏希さんが言った。


「そう言えば、今日大事なメールを会社全体に送るから、メールボックスちゃんと確認しててね」


「わかりました」


 俺がそう言うと、すごい力で背中を押され社長室から追い出された。あと少しだけ残ったご飯、食べきりたかった。



「うぅ、ふぅー」


 それまでの疲労を取るために背を伸ばす。背骨がぽきぽきとなって心地よい。


 ふと、周りを見渡すと隣どなりで顔を合わせながらしゃべっている姿がちらほら見えだす。もしかして、夏希さんがさっき言っていたメールの件だろうか。


 俺はパソコンのメールフォルダを確認するが、社長からのメッセージは一件もない。隣の飯島先輩を見ると、何かのメッセージを開いていたので見せてもらうことにした。


「……社員旅行……?」


「ん。てか、なんでこっち見てるの? 日田のメールにも来てるんじゃない?」


 そう言われ、俺もメールを確認するが、やはりメッセージは来ていない。


「……来てないんですけど……」


「……もしかして、日田には送られて、ない?」


「……え?」


 何故、なんて疑問はすぐに消えた。なぜならこの会社の社員さんの99パーセントは女性。というか、男性社員は俺だけだ。


 そんな会社の旅行に男性の俺が帯同するのはきっとだめだ、と言う判断なのだろう。


 賢明だとは思うけれど、悲しい。ふと、横を見ると、飯島先輩の慈しむような視線。もっと悲しくなるからやめてほしいです。


「こんなことあるんですね……」


「まぁ、うん。仕方ないよ……も、もしあれだったら……」


 急にもじもじと手と腰を動かし始める飯島先輩。どうしたのかと顔を覗き込むと——


「ねぇ、日田。私、社員旅行キャンセルするから、この機会でも使って私と二人で旅行なんて……どう?」


「えっ、え? ……あっ」


 俺の手をぎゅっと握りながら、目を潤わせ、心を射抜かれそうな目線で俺の事を見てくる。


 最近、地味にこういったことが多くて困る。それに、飯島先輩が俺の事を好きだ、と言う事を知っているから尚、質が悪い。


「そ、そのー……」


 どもりながらも、目を逸らし何とか声を出す。そして、握られた手に汗が滲んできた頃。


「え。日田だけ行かないなんて聞いてないよ? 多分、それミス」


 唐突に、いや、多分俺と飯島先輩がそう感じただけで、他の人にとっては別に普通に話しかけたのだろうが、びっくりした。


 後ろを見ると、奈那子さんよりは少し小さいが、かなり大きな胸の前で腕を組む真奈美さん。


「そ、そうなんですか?」


 何とか、飯島先輩から握られた手を外して、真奈美さんの方へと向く。


「だって、私が手配したから。多分、送り忘れだ。ごめんね新太君」


「い、いえいえ」


「…………」


 妙な威圧感と、悔しげな声が隣から聞こえてきたので、隣を見ると、飯島先輩がパソコンに向き直りながら頬をぷくりと膨らませていた。


 その理由は……考えるまでもなかった。

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