第22話 事が済んだら合鍵を



 僅かに胸元の濡れたシャツが乾いた頃、会社に到着した。ぎゅっと握られていたせいで出来た皺はまだ残っていたが、少し伸ばせばそこまで目立たなくなった。


 俺と飯島先輩は車を降り、エレベーターを昇り、そして椿堂があるフロアへと到着する。社内に入り、営業部へ行くと、飯島先輩の異変に気付いた冴木先輩と真奈美さんがすぐさま俺を問いただしてきたが、俺がさっきまであっていたことを話した。


 飯島先輩はとりあえず早退することになり、冴木先輩もそれに付き合う形で早退した。二人の仲の良さを改めて感じる。


 その後、俺は証拠動画を持ち、真奈美さんと共に社長室に向かい、今に至る。


「——そう、そんなことがあったのね。何はともあれ、ありがとうね日田君。それとごめんなさい。初めての営業なのに」


「い、いえ。社長のせいでもないので謝らないでください。それよりも飯島先輩の心のケアをお願いします」


「えぇ、もちろんよ。それじゃあ私は今からこの件についていろいろとやらなきゃいけないことがあるから、これで一旦解散よ」


「わかりました社長」


「あ、それと——」


 夏希さんは突然俺との距離をぐっと近づける。飯島先輩とはまた違うさわやかな香りがした。


「これ、どうぞ。今日は一人で先に帰ってて」


 夏希さんは俺の手を両手で握り、俺の手のひらに何かを入れながら耳元で囁くようにしてそう言った。後ろに下がる夏希さんを見ながら、改めて自分の手のひらを手のひらを見ると、立派な鍵が入っていた。


「それ、うちの合鍵だから。なくさないように」


「っっ……はい」


 証拠の動画をラインで夏希さんに送り、俺は社長室を出た。営業部に戻ると真奈美さんが俺のことを心配して早めに帰ったら? と言ってくれたが、定時までは何か仕事します、と伝えた。


 俺は疲れを落とす様に椅子を腰かける。ふと、視線を感じ、横を見るとばっちりと奈那子さんと目が合う。奈那子さんは、顔を徐々に紅潮させ、はぁはぁと湿り気の混じった吐息を吐きながら言った。


「……お手柄でしたね……記念に暗いところ——」


「遠慮しておきます」


「…………」


 奈那子さんは数秒真顔でこちらを見た後、何事も無かったかのようにパソコンに向かいタイピングを始めた。



 ※


「ただいまーって、言うの初めてな気がするな……」


 オートロックを背に、衝撃の事実をかみしめる。初日は他人の感じがしたし、三日目は密着で忘れてたし。というか、今更ながらにやばいよなぁ。色々。


 靴を脱ぎ、スーツを脱ぎ、いつもと比べて早めのお風呂に入る。夏希さんが居る時が特段うるさいというわけではないのだが、生活音が完全に聞こえないというのもなんだか落ち着かない。


 いつもよりも早めにお風呂から上がり、髪を乾かして部屋に戻ろうとしていたのだが——。


 なぜだろう。こういういつもと違う時には、いつもと違う視点にでもなるのだろうか。


 明らかに女ものの、夏希さんのであろうパンツがある……。結構際どい、世間一般的にはいわゆるTバックと分類されるそのパンツ。


「なんでこんな……」


 と、言いながら無意識的にパンツに伸ばそうとしていたその手を止める。


「な、なにをしようとしていたっ、お、俺の手っ!?!?」


 俺は拾おうなんて一ミリも思っていない……本当にだ。きっとこれは深層心理なのだ。


「いや、だからと言ってとっちゃダメだろ俺。何やってんだ。さすがに手に取るのはだめだろぉ……」


 そういう問題ではない。多分。


 それに今日は色々あったんだ。ふざけるのも大概にしろよ俺。本当に。


 匂いとかだけでも……いや、いや、いやぁ……。


 ……深層心理だからしょうがない。きっと。これは誰も抗えないよ。うん。


 俺はさすがに触りはしない。さすがに触りはしないけれど、そっと、静かに、風を切るように顔を近づける。腰を屈めて、手を床について——


「なんで腕立て伏せしようとしてるの新太君?」


「ひぎゃふぎゃっ!?!?!?!?」


 俺は後ろから脅かされた猫のように飛び跳ねながら、目の前のドアを開けて立っている夏希さんに怪しまれないようにピシりと立つ。


「え、ど、どうしたの……そんなに驚いて?」


「イ、イエ、キュウニハイッテキタカラデス、ハイ」


「あっ、そっか! そうだよね……ごめんね! すぐ出る!」


 そう言って勢いよく夏希さんはドアを閉める。本当に俺が裸にだったらどうする気だったんだ全く! 


 とか言いながら実は全然余裕ないですはい。もう一回お風呂入りたいぐらいに冷汗かいてます。


 とりあえず、このTちゃんは…………俺が保管しとこうかな。うん。夏希さんも知られたくないこともあるだろうし、それならいっそ無くしたと思ってもらおう。


 そう決意した俺はなんのためらいもなくTちゃんを拾う。別に何かに使おうとかそんなよこしまなことなんか考えて——


「あ! そう言えば夜ご飯はぎゅうど…………それ、私の……だよね?」


「…………い、いえ?」


「え? じゃ、じゃあ、それ、新太君が履くの……?」


「…………す、すいません……落ちてたので…………多分夏希さんのです」


「っっっっ!!!!!! ぎゅ、牛丼机に置いてるから勝手にたべてぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!」


 夏希さんは目にもとまらぬ速さでTちゃんを奪い去り、再びドアを勢いよく閉めた。


 取り残された俺。ぼーっと、虚無に似たものを抱えながら、しばらく突っ立っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る